アクアフォビア
「ねぇ、健太が夏休みなんだから海に行こうって…………中学生の頃のあなたが海で撮った写真、アルバムの中から見つけたみたいで……」
そう言った妻の里奈の顔は母親の顔だ。さっきまでは妖しい女の顔をしていたのに。
俺から降りた里奈。そしていつものように濡れたタオルで俺の身体の一部を拭いていた。妖しい笑みを浮かべ、それを見つめながら、ゆっくりと。それは初めて里奈を抱いたときーーー俺が24歳で里奈が22歳のときからそうだった。その様子から里奈が何人の男を知っているのか気にはなったが、里奈と長く付き合うつもりも無かった俺は、聞きもしなかった。だが俺は里奈に夢中になり、半年後には結婚した。7年前のことだ。それから里奈に聞けたのは、陰毛が無いことについてだけだ。里奈は恥ずかしそうに言った。生えなくて凄く恥ずかしくて、男の人とそういう関係にはなれなかった、と。
髪の毛を染める事を嫌う里奈は、今では逆に目立つくらいの真っ黒なストレートヘヤーを肩まで伸ばし、そして色が白くて股間に陰りの無い身体は匂い立つほどに綺麗で、健太を産み、母乳で育てた以降も変わらない。そんな里奈がーーーまだ何も身に着けていない裸の里奈が母親の顔をして言ったのだ。一人息子の健太が海に行きたがっていると。俺は一気に不機嫌になった。
「………ムリだ」
そう言った俺の顔を黙って真っすぐに見つめる里奈。一重だが大きな目で睫毛が少なく、眉毛も薄く、唇だけが男をそそる程にポッテリとしている。この唇を見る度に俺は、無意味な嫉妬に苦しめられる。ーーー男を何人知っているのだ………
ベットから降りた里奈が俺を見下ろしながら喋っていた。
「ーーーー試してみようよ、もう大丈夫かもしれないし…………結婚してからおかしな夢だって見てないって言ってたでしょ? それにーーーーー」
一人息子の健太はスイミングスクールに通っていて、里奈の話だとコーチが驚くほどに上達が早いという。間違いなく俺に似た。そんな健太が海に行きたがったいるのだと里奈は盛んに喋っている。
「ーーーー泳ぐのが怖い?? 琢磨およげるじゃん。何キロだって平気で泳げるって自慢してたでしょ。それがどうして?」
そう言ったのは、高校生の頃、付き合っていた薫子だ。
薫子が言ったように、俺は泳ぎが得意だった。競泳のように速さを競ったとしても、そこら辺の奴には負けない自信はあったが、俺が得意とするのは遠泳だった。誰に教わった訳でもなく最初っから出来たのだ。そして後々に自分の泳ぎが理にかなってると知った。
重要なのは呼吸のリズムを一定に保ち、水を利用し、無駄な力を使わずに泳ぐこと。そして長い距離を泳ぐにはペース管理も大事だが、それ以上にメンタル管理が重要だ。それらが最初っから出来たのだ。
技術面であれば、手だけで泳ぐのではなく身体を左右に回転させること。水中で息を吐く際は全部を吐かない。そして吸う際は右からでも左からでも吸うこと。メンタル面であれば、これは俺の場合なのだが「自俺はイルカだ」と考えながら泳ぐ。イルカは俺たち人間と同じ哺乳類なのに魚類なんかより圧倒的に速く泳ぎ、そして必死さがない。難なく、楽しんで泳いでいる、と、ガキの頃に水族館で見た「イルカショー」でそう感じた俺は、きっと自分にもできるはずだと勝手に思い、淡水の湖で試してみたら出来た。手漕ぎのボートに乗っていた両親などは、最初は「凄い、凄い」と喜んでいたが、何時までも何処までも泳ぎを止めない俺に呆れ、しまいには怒りだした。おまけに遊泳禁止だったらしく、両親が管理者にこっぴどく叱られていたのを覚えている。あれは確か小3の夏休みだった。
中学生の頃、ある会社の社長をやってた叔父。当時は羽振りが良く、小樽にモーターボートを持っていて、それに乗せてもらい、遥か遠くに岸が見えるところで泳いだことがある。夏で暑かったこともあってウエットスーツ無しだったが、海はウソのように身体が浮き、そして水面が上下するのが面白かった。海水浴場ではなく深い海で泳いだのはその時だけだが、中学生の俺はいつまでも泳ぎーーーもちろん遊泳が認められたエリアではなく、他には誰も泳いでいる人などいなかったが、恐怖など感じなかった。
高校生になってから付き合い始めた薫子は泳ぎが苦手だというから、何度か一緒にプールに行ったこともあり、そこで息の吸い方や吐き方、そして無駄のない泳ぎを教えた。そんな俺が怖いと言い出したのだ。あれは高2の夏だ。薫子の部屋でセックスをした後にわずかな時間眠ってしまい、夢を見て飛び起きた俺がそう言った。薫子は隣の俺が眠っていたとは気づかず、急に上半身を起こした俺に驚き、そして、怖いという俺の言葉を、ふざけているのだと思い笑いかけたが、俺の様子を見るうちにその笑顔が固まった。
「怖いってナニが怖いの? ………どういうこと? ちゃんと言って!!」
「…………ダメだ…………怖くて泳げない………変な夢を見た」
「夢? ………いま見たっていうの? なに言ってんのさ、5分も経ってないでしょ、セックスしてから。………それに泳ぐのが怖いって、琢磨およげるじゃん。何キロだって平気で泳げるって自慢してたでしょ。それがどうして? ………………その夢、どんな夢だったの?」
俺はプールで泳いでいた。だがそれが夢だと心のどこかで解っていた。
息を吸うたびに声が聞こえたーーー室内に反響した声ーーー聞き取れはしない大勢の騒めいた声ーーー甲高い声、きっと子供がふざけているのだろう。それを諫めているのか大人の声も混じる。
もう何度もターンした。ゆっくりと、ゆっくりと、腕で水を押しやり、身体をローリングさせ、それに合わせたキック。俺はイルカ。何時までも何処までも水と一体になって進む。だがこれは夢、夢なんだ。
またハーフラインを越えた。あと少しでゴールだ。もうこれで切り上げようか。だがゴールに手が触れる前に頭を下げ、水中で前転をして壁を蹴った。水の中でーーー水面に浮かばずにイルカのように進むーーードルフィンキックが俺は無性に好きだ。これをやりたくてターンを繰り返す。膝を大きくは曲げない。身体をうねらせるという意識は捨てる。足の甲をイルカの尾のように使い、水の中で水を切って進む。どこまで行く? どこまで沈んでいられる? ハーフラインを越えた。まだいける。息は残ってる。だけどペースが崩れた。少し無理をしすぎたか………だかこれは夢。
右から息を吸った。そして直ぐに左からも吸った。ペースを戻せるか? 大丈夫、俺はイルカだ。手で壁に触り、身体を横に回転させてから壁を蹴った。直ぐに水面に浮かび、ふた掻き目で息を吸った。ーーーおかしい、声がしなかった。次に息を吸った時にはコースロープが無かった。泳ぎを止めて立ち上がろうとしたが、プ-ルの底に描かれているコースのセンターラインが無いのに気が付いた。変だ。壁まで泳ごう。でも夢だ。これは夢なんだ。
ゆっくりと右から息を吸った。プールの周りには誰も居ない。直ぐに左から息を吸ったが、同じだ。どうなってる? 立ち上がろうとしたが、底が見えない。深い、どこまでも深い。ここはいったいどこだ? 俺はどこを泳いでる? 落ち着け、慌てるな。俺は何キロ、いや何十キロだって泳げる。………ん? アレはなんだ? 遥か深いところで何かが浮遊していた。それがだんだんと大きくなってくる。こっちに近づいてるのか? 白いなにかだ…………ヒト? バカな、人のはずがない。だがそれは更に近づいてきて明らかにヒトだと解る姿を現した。
俺は泳ぐ速度を上げた。まだ体力は十分に残ってる。水の抵抗をさほど感じずに腕が動く。息を吸うペースも元に戻ってる。振り切れるはず。浮いて来るヤツーーーだんだんと大きく見えてくるヤツの姿が足先から後ろにいき、見えなくなった。それでも俺は更に速度を上げる。
底が見えた。プールの底だ。センターラインだってちゃんとある。俺はどうしちゃってたんだ? 泳ぎながら笑った。バカな自分を笑った。ハーフラインを越え、ふた掻きすると薄っすらと壁が見えた。もう上がろう。速度を落とすと、足先の方から、ヌウッ、と現れた。底をゆるゆると泳いでる真っ白なヤツ。
「そこで目が覚めた………」
「ねぇ…………子供の頃に溺れかけた?」
薫子がそう言ったが、そんな記憶はない。薫子は素っ裸のままで机の上においてあるパソコンを操作し始め、何かを調べている。
「水恐怖症………アクアフォビアって言うみたい。原因に観察学習っていうのもあって……誰かの恐怖体験を聞いたとか……映画のジョーズを観てから怖くなったとか………あれ、1970年代の映画でさ~、エクソシストってあるじゃん。あれ観て、ベットで寝られなくなったって女の人いるって聞いた事ある。最近、登場人物が溺れ死ぬ映画やドラマ観た?」
「いや…………ないと思う」
「あれ? ………海恐怖症ってのもある。水恐怖症とは別みたい………ちょっと風呂場に行こ!!」
薫子は俺の腕を掴むと、1階の風呂場へと連れていった。薫子の家は今日は誰もいない。それで二人ともが裸のままで階段を下りた。風呂はさっき二人で入ってからまだ湯を抜いてない。その浴槽の縁に座った薫子。
「入れるよね? さっき一緒に入ったし………酷い症状の人はシャワーや雨に濡れてもダメみたいだけど、琢磨……大丈夫だよね? ………入って!」
言われるままに浴槽内に立った俺は、腰を落として湯に浸かった。
「どう? なんともない? 動悸とか、吐き気や目まい、息苦しさとかない? ………ちょっと~、ソコばっかり見ないで!! こっちは真剣なんだからね!!」
そう言って足を組んだ薫子が睨んでいるが、不思議とさっき感じた震えるような恐怖はきれいさっぱり無くなっていた。
「水じゃなくて海なのかな~………明日でもプールに行ってみようよ」
目を瞑ると意識がすーーっと落ちていくような不思議で、そして嫌な感じがした。プールで泳いでいる時の光景が頭に浮かんだ。ーーーープールの底に、足先の方に、何かが、ある。
「うわあああああああああああああああああああああああ…………」
叫び声を上げながら湯船の縁を掴み、立ち上がろうとした。だが上手く縁を掴めずに横向きに頭が湯に沈み、激しく湯を飲んだ。そして溺れたように手足をバタつかせ、ようやっと立ち上がったが、満足に息が出来ない。苦しい……、縁に手をついて身体を屈め、僅かしか吸う事ができない空気を、何度も何度も喉を鳴らしながら吸い、少しずつ落ち着いてきた。誰かの手がそんな俺の背をさすっていたが、その手が震えている。涙で滲んだ視界に裸の下半身が見えた。そうだ、薫子と二人で風呂場にいたんだ。
「琢磨……………どうしちゃったの………」
分からない。自分でも分からない。説明のしようがないが、なにかが見えた。それがナニを意味するのか分からないが、確かに見えた。アレはなんなんだ? 以前、あんなモノを俺は見たのか? 違う、違うはずだ。見てない。あんなの………あんなの………泳いでる自分の下を、プールの底を……
「うわああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
俺は再び叫び声を上げていた。
アレが再び頭に浮かんだ。アレはなんだ? 現実なのか? 過去に見たのか? わからない…………ダメだ、意識を向けたらダメだ。考えるな、考えるな。別のなにかに集中しろ。目の前には洗い場に腰を落として目をまん丸にした薫子の顔。
「琢磨……………あっ……………」
俺は湯船から飛び出し、薫子の両脚を開かせ、顔を埋めた。
「だっ、だめぇ………ここじゃ背中が痛い………それにゴム……」
それからだった。俺が泳げなくなったのは。そしてあの夢は、忘れたころに、年に何回か、夢だと心のどこかで解りながら見た。
俺は高校を卒業と同時に薫子とは別れ、大学に行き、何人かの女と付き合い身体の関係を持ったが、海とか湖、そしてプールに行きはしなかった。その間も、忘れた頃にあの夢を見た。そしてその夢の中で泳ぐ俺のずっと深い所からナニかが上がって来て目が覚めた、だが里奈と付き合い結婚してからはあの夢を見てはいない。そして里奈には全てを話した。泳ぎが好きで得意だったのが、あの夢を見てからダメになったと。
「ねぇ、琢磨さんの奥さんってどんな人? 写真ぐらい持ってんでしょ?」
そう言ったのは、ホテルのベットで仰向けに寝たまま、ティッシュで股間を拭っている落合レイだ。
同じ会社に勤める26歳のレイとセックスをしたのはこれが2度目だ。課の飲み会でレイの方から誘ってきた。琢磨さんとセックスしたい、と耳元で露骨に誘ってきた女。
結婚後も妻とは違う女を何度か抱いたことはある。新鮮な感じがして、それだけで抱いた。だがその度に、里奈とのセックスはこんなもんじゃない、と感じてしまい、同じ女を再び抱いたことは無かった。だがレイは毎日のように顔を合わせる同僚で、廊下ですれ違う時など俺の股間を触ってくる。そして自分がフラれることなどあり得ないと思っているのだろう。確かに可愛い顔をしているが、俺のそっけない素振りに気づくことも出来ない、要は、ニブい女だ。もういい。俺はお前のことなど何とも思ってない。誘って来たから抱いた。それだけだ。今だって俺は達してない。そんなことさえお前は気づかない、ただのヤリまん女だ。それを言うと、ナニを言われたのか理解できないような顔をしたが、
「ばっ、ばかじゃないの!! 今の台詞………こっちの台詞だ!! ………あはははは……あんたみたいなヤツ、暇つぶしに相手しただけ!!」
俺はプールで泳いでいた。夢だ。これは夢だ。またあの夢の中にいる。
そこはプールだった。俺は何度もターンを繰り返し、その度にドルフィンキックしている。呼吸が乱れた。無理をし過ぎた。それでも泳ぎ続ける。俺はイルカだから。壁に触って横向きに回転してターンした。ふた掻き目で息を吸った。……おかしい、プールサイドの声がしなかった。次に息を吸った時にはコースロープが無かった。泳ぎを止めて立ち上がろうとしたが、プ-ルの底に描かれているコースのセンターラインが無い。変だ。壁まで泳ごう。ああ、これは夢だ。あの夢だ。
底が見えた。プールの底だ。センターラインだってちゃんとある。俺はどうしちゃってたんだ? 泳ぎながら笑った。バカな自分を笑った。ハーフラインを越え、ふた掻きすると薄っすらと壁が見えた。もう上がろう。速度を落とすと、足先の方から、ヌウッ、と現れた。底をゆるゆると泳いでる真っ白なヤツ。
そいつが見えた。
髪の毛がない、眉もない、丸い目をした白いヤツが、ぬるりと追いつてきて、今は俺の真下にいる。上を向いて泳いでる。それも腕を動かさずに、身体をうねらせるだけで俺に追いついて来た。
水着を着ていない。胸が大きく真っ白い肌をした裸の女。そいつが俺を見て笑った。まん丸い目のままで口を開けて笑った。
体毛が無い。その女の股から視線を外せない。縦に割れた長い窪み。
女がなにかを言った。聞き取れない。だが女の口が、た・く・ま、とゆっくりと動いた。まん丸い目をした女。まぶたが無いのが分った。……こいつ、どこかで見た。知ってる女だ。
女が腕を伸ばした。その腕が俺の身体に絡みつき、引きづり込まれた。……うわあああああああああああああああああああああああああ…………
自分の叫び声で目が覚めた。自分がどこにいるのか解らず、自宅のベットで寝ていたのだと解るのに暫くかかった。
あの夢だ。何年間も見なかったあの夢を再び見た。だが今度は現れたヤツの全てが見えた。瞼が無く、体毛が一切ない裸の女だった。そいつは俺の名前を呼んだ。そして夢の中の俺はそいつを見たことのある女、知っている女だと気づいた。誰だ? いったい……
「ふふふ……」
含み笑いの声。その声の方を見ると、隣に寝ている里奈だ。暗くて顔がよく見えない。気のせいか。
「ふふふ……」
「なっ……なに? なにがおかしい?」
今が何時なのかも分からない。真っ暗な闇の中で隣に寝ている里奈が明らかに笑っている。
「……………逃げられないんだよ」
うわあああああああああああああああああああああああああああああああああああ……
「……………凄くうなされてたけど、どうしたの? ………怖い夢でも見た?」
………え? 今のも夢?
立ち上がってベットの脇にあるスタンドの電気を点けた里奈。
ぼんやりと照らされた里奈の裸体。それはまるで水の底にゆらゆらと泳ぐ女のようだ。そして下から照らされた里奈の顔を見て、俺はわかった。