第38話 その1時間が胸を締め付けて
教室へ走っている途中、購買の前を通る。だが、そこに購買のGさんの姿はなかった。
もう遅いし、さすがに閉店してるんだな。
そう思いながら通り過ぎようとしたとき、購買の中から低い呻き声が聞こえた。
「ううう………おお………」
俺は立ち止まり、少し戻って購買の中を覗く。
……中ではGさんが苦しそうに床に倒れていた。
「だ、大丈夫ですかっ!?」
俺は慌てて購買の中に入り、Gさんの元に駆け寄った。
「お、おぉ坊主……。こ、腰を、やっちまってな」
Gさんが倒れている近くには大きめの段ボールが潰れており、中からペットボトルのドリンクが何本も飛び出している。
「これ、運ぼうとしてたんですか?」
「ああ。……だが、ワシも歳だな。持ち上げた瞬間、腰の方が耐えきれなかったみたいでな。こうやって無様にぶっ倒れちまったってわけよ……ハハ」
Gさんは冷や汗を滴しながら笑っている。……明らかに強がりだ。本当は痛くて動けないんだろう。
「救急車、呼びましょうか?」
「いや、大丈夫だ。もう何度か腰はやってきてるからな。救急車を呼んでも仕方ないのは分かってる……いつつ……」
「そう、ですか」
「だが悪い、坊主。保健室まででいいから、肩を貸してくれたら助かる……」
「それぐらい……もちろんですよ」
宇月さん……本当にごめん。
このままGさんを放っておくことはできない。
俺は彼の腰を支えながら身体を起こすと、ゆっくり立ち上がらせ、自分の肩に腕を回すように促した。
「ゆっくりでいいですからね」
「あぁ、本当にすまんな」
一歩ずつ、Gさんの速さに合わせてトボトボと歩き出す。
「いつつつ…………坊主、そういやスパークリングそば茶の味はどうだったんだ?」
「えぇ……今そんなこと聞くんですか」
「言っただろ?ワシも気になってるって」
「そうですね……あれは是非、Gさんにも飲んで欲しいですよ」
「それはどっちの意味だろうな……ハハハハ……っ痛たたた」
「もう、気をつけてくださいよ。笑ったら腰に響くんですから」
「すまんすまん」
Gさんは生まれたての小鹿のようにおぼつかない足元だったが、普段の明るい様子だったので、相当な重傷というわけではないのだろう。ひとまず安心だ。
「……にしても、坊主が来てくれて助かった」
「偶然通りかかって良かったです。見えない所から呻き声が聞こえてきてびっくりしましたけどね」
「ワシの魂の叫びだな」
「なんかカッコいい感じで言ってますけど、まあまあ情けない声でしたよ」
「ハハハ………いつつっ」
「ほらまた……」
「すまんすまん。……まぁワシも、そろそろ引退を考えないといけない頃かもな」
「……え?購買やめちゃうんですか?」
「そうだな……坊主がワシの後を継いでくれるなら、潔く身を引くことができるんだが……」
おぉ、唐突に内定をいただけた。
……だけどできれば勧誘は遠慮願いたい。毎日あのコーヒー牛乳戦争の前線に立つなんて無理だ。
「じゃあ、俺にそんな気はないので、しばらくGさんが続投ですね」
「おいおい、嘘でも少しは考える素振りを見せるところだぞ」
「あははは。……でも、みんなGさんがいる購買が好きですから。もちろん俺も。だから、生涯現役でお願いしますよ」
「フッ。そんなこと言われたらなぁ。やるしかないじゃないか」
俺達は時間をかけて、やっとの事で保健室にたどり着いた。
Gさんをベッドに寝かすと、そこからは保険の先生が看てくれることになり……。「Gさんまたやったの?」と、呆れられていたが、横になったことで痛みが和らいだのか、彼はまたハハハと笑いながら安心そうな顔をしていた。
「後は少し休めば動けるようになってくるし、ここには腰のサポーターもあるから大丈夫よ」
「そうですか、よかった」
「すまんかったな坊主。この借りは今度コーヒー牛乳で返させてくれ」
「おっ、ありがとうございます。スパークリングそば茶じゃなくてよかったです」
「……ん?なんだ、結局、不味かったんじゃないか」
「あ」
2人でハハハと笑い合う。
笑いながら、ふと窓の方が目に入る。……もう外は真っ暗になっていた。
「じゃ、じゃあ先生、Gさんの事よろしくお願いします」
「えぇ、助かったわ。気を付けて帰るのよ」
保健室を出る時、部屋にあった掛け時計を確認した。
19時過ぎ……。
俺は走って教室に向かう。
既に部活すら終わっている時間。校舎の中に生徒の影はほとんどない。
完全にやってしまった……。
ここまで遅くなるなんて。宇月さんはこんな時間まで待ってくれているだろうか。
両足は酷使したせいで言うことを聞かなくなっていた。
それでも今は、1秒でも速く教室へ……。
走りながら薄くなった酸素の中、最後に見た宇月さんの顔が浮かぶ。
約束したあの時……"教室で待ってる" と言った時、彼女は微笑みながらも少し寂しそうな顔をしていた。
本当は何か良くない話をされるんじゃないかと思って、教室に行くのが少しだけ怖かった。何かが終わってしまうんじゃないか……と。
でもこれから彼女から聞くことになるのが、良い話なのか、良くない話なのか……。そんなのどうだっていい。
俺はこれまで通り、普通に話せる関係に戻りたい。
宇月さんが何を思っているかは分からないけど、まだ待っていてくれたら。
俺はこの気持ちを素直に伝えよう。
ひどく息を乱しながら、自分の教室の前にたどり着く。
……そして、ひと呼吸置いて小さな覚悟を決めた後、俺は教室のドアを開いた。
─────────そこには誰もいなかった。
外よりも暗く静かな教室には、小さく雨の音だけが聞こえていた。




