第二話
夜の標本師の家は、森の最奥にあった。
家というより、巨大な倉庫だ。壁という壁を棚が埋め尽くし、そこに数えきれないほどの標本瓶が並んでいる。
青、赤、金、銀、黒。
美しいものもあれば、見るだけで胸がざわつくものもある。それらは天井から下がる明かりに照らされて、宝石のように鈍い光を放った。
瓶には一つずつ、手書きの標本ラベルがついている。
少女は興味津々という顔で、ノクスの手元をのぞき込んだ。
「意外と細かい作業ね」
「ラベルの裏に採取した場所と時間。表には素材の名前を書いておく。瓶は棚に採取した品目で分けて置いた。細かく分類しなければ、すべてを正しく管理するのはむずかしい」
ノクスは慎重な手つきで棚に瓶を並べながら、答えた。
一つ、また一つ。棚に瓶が増えていく。
ささやくような少女の声が並んだラベルを読みあげる。
「採取日、一月二十一日。海岸で採取、人魚の最後の歌声」
四月六日、死の森南側カシの木の根から採取、月明かりが生んだ黄金虫。
五月二十七日、名を失った神の嘆き花。
五月三十日、読まれなかった恋文。
読み上げないだけで瓶はまだまだたくさんある。
少女は目を丸くした。
「これが全部魔法薬の素材になるの?」
「全部ではない。だが必要なときに、必ずあるようにしておかないと。魔法薬は人の命が関わることもあるからな」
ノクスは分厚い台帳に棚の番号と商品名、経過を細かく残しておいた。
これは仲買人が来て、聞かれたときに入手経路を詳しく説明するためだ。
静かに瓶へと手を伸ばした少女を、ノクスは横目でにらんだ。
「こら、触るんじゃない」
「失礼ね。そんなホイホイ簡単には触らないわよ」
「触りそうだから言っている」
決めつけたようなノクスの口調に少女は頬を膨らませる。
不満そうな顔で、ふいっと横を向いた。
「三日前、亡霊のため息が入った瓶を開けただろう」
軽くにらまれて、心当たりしかない少女は横を向いたまま視線を泳がせる。
手がすべって、思いのほかあっさり瓶のコルクが抜けた。それだけなのに、少女の背後からぞくぞくするような亡霊のため息が聞こえたという記憶はまだ新しい。
「しょうがないじゃない。あれはちょっとした事故よ」
「おかげで昼間なのに、家中からすすり泣きが聞こえた」
「あら、にぎやかでよかったじゃない」
「逆だ。うるさくて眠れなかった」
少女がここに住み着いて、三ヶ月が過ぎていた。
けれど少女は相変わらず名無しのままだった。
「言ったでしょう、名前を捨ててきたの。お願い、私に名前をつけて」
少女に何度も頼まれたけれどノクスは断った。
「それはできない」
「どうして?」
「おまえは俺の所有物じゃない。だから俺が勝手につけるものではない」
「じゃあ拾ってよ」
「生きているものは拾わない。それは仕事の範囲を超えている」
「でも私をここに連れてきたでしょう」
「帰る家がないと言った。足に怪我をしていたから。理由はそれだけだ」
ノクスと少女は、そんなやり取りを何度も繰り返している。
元気になればさっさと家を出ていくものと思っていたのに、少女はなぜかずっと居座ったままだった。
夜になり、ノクスは仕事に向かう準備を始めた。
クローゼットから出した黒いコートを羽織り、山高帽子をかぶる。隣には、自分と同じような白いシャツとズボンを身につけた少女が順番を待っている。
ノクスはとまどう顔で首をかしげた。
「おまえはこの家で待っていていいんだぞ。出かけるにしても、俺と同じ格好をする必要はない」
「一緒に行くわ。それに夜の標本師はこれが正装なのでしょう。だったら失礼のないようにしないと」
顔を上げて、しっかりとした声で受け答えをする。
自信に満ちた少女の姿は三ヶ月前とは別人のようだった。ノクスは思わず感心したように唸った。
「風呂の沸かし方もわからないし、服の着替えも苦手だったのに。子供は一気に大人になるものだな!」
初日に連れ帰って、風呂を沸かして入れたまではよかった。
水を滴らせ、体に大きな布をぐるっと巻いた状態で「服の着方がわからない」と言ってノクスの前に現れたときは仰天した。少女の髪を拭き、足の傷の手当てをして。シャツとズボンを身につけた少女を寝床に放り込んだときには完全に日が昇っていた。
丸一日眠って次の日の朝に目覚めたので、少女に食事をとらせて風呂に入りたいなら沸かして入っていいと伝えたら、今度は使い方がわからないと。
まったく無知ではないけれど、少女は日常生活の細々としたことにできないことが多かった。
少女の柔らかな頬がぷっくりとふくれた。
「だからって子供扱いしないでよ!」
「俺からすれば、十分に子供だ」
不本意という顔で眉を寄せた少女はクローゼットをのぞき込んだ。
「それにしても不思議なクローゼットね。シャツにズボン、コートも。引き出しに下着まであったときは驚いたわ。色と形は全部一緒なのに、サイズだけは違う服が、こんな豊富に揃っているなんてね!」
少女の言うとおりだった。横に長い大きなクローゼットにはサイズ違いの同じデザインの服がびっしりと詰まっていたのだ。
ノクスと少女は倍ぐらい身長が違うのに、このクローゼットには少女でも何とか着ることのできるサイズの服があった。
だからいきなり少女が家にやってきても、着る服には困らずに済んでいたのだ。
「このクローゼットは魔道具なのかもしれない。居住者の体に合わせた大きさの服が現れるとか。もしくは過去にいた夜の標本師に、おまえと体のサイズが近い人間がいた……俺は魔法には詳しくないからよくわからないが」
すると、少女は目を丸くする。
「夜の標本師はノクスだけではないの?」
「わからない」
ノクスは首を振った。
山高帽子をかぶり、鏡に映る自分の姿を確認する。
「俺はかつてすべてを失い、絶望して、死の森に来た。歩き続けて、ここにたどり着いたとき、テーブルの上に残された日記を読んだんだ。筆跡が違うから、おそらく何代にも渡って受け継がれた夜の標本師の記録だろう。それを読み、必要な知識を身につけて。夜の標本師になろうと決めた」
「そう。ノクスは元から標本師ではなかったのね」
「これは想像だが……生きる望みを失った人間だけがこの家にたどり着く。すべてを失った人間だけが夜の標本師になれるのかもしれない」
少女は黙った。考え込むように、闇の奥を見つめて。
山高帽子をかぶった横顔が、妙に大人びて見えた。
鞄を手に、ノクスは首をかしげる。
「一緒に行くのか」
「行く」
短く答えて、少女は自らの手で扉を開けた。
ーーーー
カラン、カラン。
軽快なドアベルの音にノクスは現実に引き戻される。
気づけば外は闇に包まれて、夜の気配しかしなかった。
申し訳ないという顔をしてフォルテューナは眉を下げる。
「ごめんなさい。いつもなら閉店している時間なので、店舗の入口から同居人が戻ってきておりますの」
「こちらこそ、すまない。こんな遅くまですっかり話し込んでしまった」
同居人の姿が見えないのは気を使ったからか。
そう解釈してノクスは山高帽子を胸に当て謝罪すると、鞄を手に取った。
フォルテューナは首をかしげる。
「これから死の森に戻るのですか?」
「いや、今日は近くに宿をとっている。明日、また伺ってもいいだろうか?」
「承知しました。お待ちしておりますね」
品よく笑って、フォルテューナは首を垂れた。
ノクスは帽子を胸に当てたまま、口角を上げる。
「同居人にお伝え願いたい。『お手柔らかに頼みます』と」
「えっ、どういうことでしょう?」
「先ほどから身じろぎするたびに、物騒な気配をぶつけられている」
「まあ、なんて失礼を!」
「かまわない。こんな時間に訪問するほうが非常識だった。人付き合いを断つと、つい常識というものを忘れてしまう」
薄く笑って帽子をかぶると、ノクスは静かに扉を開けた。
大きな背中が闇に呑まれて消えていく。
見送って、フォルテューナは扉を閉めた。
途端に引き寄せる腕が、フォルテューナを温かい胸の内に包み込んだ。
「ちょっと。お客様に殺気をぶつけるなんて立派な営業妨害よ」
一気に砕けた口調に変わる。
見上げる姿勢で、フォルテューナは包み込む腕を軽く叩いた。
「ちょっと、リゲル。聞いている⁉︎」
「本人も言っていたじゃないか。夜遅くに訪問するなんて非常識だと。だったら殺気をぶつけられても文句は言わせない」
「いや、さすがに殺気はダメでしょう。あなたの場合、影の仕事をしているから、迫力が桁違いなのよ。自重しなさい!」
「フォルテューナ、あなたもだ。閉店間際に男性客を招き入れるなんて不用心が過ぎる。いくら魔法で防御していても、警戒心が低くては意味がない」
「でも相手の方は夜の標本師よ?」
振り向いたフォルテューナは思わずキョトンとした顔をする。
「夜の標本師は葬送者なのよ。あの山高帽子と黒いコートがその証拠。残された魂を拾い上げる者で、他人の痛みを誰よりも知る人が他人に危害を加えるわけがないわ」
「標本師だろうが男だ」
リゲルは明らかに不機嫌という顔をする。
フォルテューナと視線を合わせて、真剣な顔をした。
「遅くなって家に帰ってきたら、見知らぬ男と婚約者が一緒にいる姿を見せられるのは嫌だ。仕事を妨げる気はないが心配になるし、不安にもなる」
ハッとした顔で、フォルテューナは視線を下げた。
「ごめんなさい。それが気遣いだし、愛情というものよね」
「謝らなくていい。フォルテューナにはまだ教える余地があることを理解した」
抱き寄せたフォルテューナの髪に口づけが落ちる。
「それよりも『同居人』なんて言い方、他人行儀じゃないか。婚約者だと言えば相手だって訪問を遠慮するだろうに」
「それは……」
困った顔でフォルテューナは視線を泳がせる。
珍しく口ごもると頬を赤くして、両手で顔をおおった。
「言おうと思うのに照れてしまうのよ。なんでかしらね?」
指の隙間から、自信なさそうな声がもれ聞こえる。
リゲルはフォルテューナを腕に閉じ込めたまま、一瞬言葉を失った。やがてじわじわと口元がゆるんで、ついには小さな笑い声を立てる。
「いい傾向だ。ちゃんと私のことを意識しているじゃないか」
「いまさら変よね。胸の奥がむずがゆい感じなの」
「忘れないで。芽生えたその感覚はとても大事だ」
口角を上げたリゲルはテーブルの上に荷物を置くと、フォルテューナの身体を両手で抱き上げる。目を丸くしてフォルテューナはリゲルの首に腕を回した。
「ちょっと、いきなり何を。あぶないじゃないの!」
「フォルテューナに一から愛とは何かを教えていくことは、存外楽しいものだな」
抱き上げたまま、無造作に置かれた床の上の荷物や陳列棚を器用に避けて、リゲルは安定した足取りで階段の下までたどり着く。思わぬ展開に思考停止していたフォルテューナは、ハッと我に返った。
「なんて身体能力……違う、そこじゃないわ!」
「フォルテューナ。婚約した特権とは何か知っている?」
「し、知らないわ。何よ?」
「婚約者を甘やかすことだ」
「へ?」
いつも以上にゆっくりと時間をかけて、リゲルは着実に階段を登っていく。
微笑みにどこか危険な香りを漂わせながら二人の部屋を目指す足取りに、一切ためらいはない。
真っ赤な顔をしたフォルテューナは、あわててリゲルの胸元を軽く叩いた。
「落ち着きなさい。何をする気よ」
「次回は私のことを迷わず婚約者だと答えられるように。おまじないだ」
「ちょっと、いきなり襲うのはダメだって教えたでしょう!」
「婚約者を甘やかしたい気分なんだ。ダメか?」
「……本当に、それだけ?」
「もちろん。フォルテューナがそれ以上を望むなら、話は別だが」
「もう! そういうところがずるいのよ!」
さすが本業は王家の影だ、安全確実に部屋まで運ばれてしまった。
ただ、今夜ばかりは逃げ出す理由が見つからない。
言葉を失ったフォルテューナの背後で静かに扉が閉まった。




