閑話 守護天使と運命の乙女
リゲル目線です。
名がない――――文字に起こすと、まるでたいしたことはないように思える。病でもなく、呪いでもない。ただほんの少しだけ、不自由さを感じさせるような言葉の響き。
ただ名がないだけ。誰もがそう言うのだ。だから決して不幸ではないのだと。
だが病のように癒えることもなく、呪いのように解呪されることもない。人と混じって生きることは難しく、誰かに頼られても、誰かに頼ることは難しい。個人の意思として誰かに伝えることが難しいからだ。じっと孤独に耐え、自分と向き合う時間だけが増えていく。それでも命が奪われるわけじゃない。
守護天使は洗礼を受けるために用意した名が弾かれてしまうことでわかるという。神に奏上するため、真名を記した紙が真っ白になることで弾かれたとわかるらしい。以降死ぬまで文章に記すこともできなければ、名を呼ぶこともできない。等しく皆が名を持つ人の世では、いないものとしてしか扱えない者。それがセアモンテの守護天使という存在だ。
生まれながら名がないために、王子としてだけでなく、平民として人と混じって暮らすことも難しい。個人として識別されるものがないから。
彼もそうだった――――リゲルという名を得るまでは。
フォルテューナの店を出たリゲルはガーゴイルの噴水の脇を通り過ぎる。相変わらず薄気味悪い顔だ。ただ、いつもと違ってどういうわけか石像と視線が合う気がする。まるでこちらを見定めるような、試されているかのような視線を感じた。
わかっている、大丈夫だ。
どんな結果になってもフォルテューナの選択を尊重する。恋人にはなれなくても、友人くらいにはなれるだろう。それすらも断られたら……今はまだ、その先のことは考えたくない。リゲルは熱を逃すように深く息を吐いた。
運命の乙女は神のものである王子を人たらしめる、神が与えた唯一の慈悲。
果てしない闇を照らす一筋の光明だ。
なんでも知っていそうなフォルテューナだけれど、代々の王家が運命の乙女を切望し、懸命に探していたことは知らないだろう。そして長い歴史の中、運命の乙女と出会うことのできた王子はリゲルの他にたった一人しかいないという事実もまた、彼女は知らない。
幼いころからリゲルは異質だった。同年代の子供と知り合っても、名がないためにどうしても一定以上は親しくなれない。いてもいなくても同じこと。同年代の子供に囲まれていながら、結局最後は一人取り残されてしまう。それでも不幸ではないと教えられてきた。たとえ輪から外れて、誰一人として彼がいないことに気づいてくれなかったとしても、死ぬわけではないのだと。
たしかに不幸ではなかった。家族から愛されていることはわかっていたから。
王子としてふさわしい教養も兄達と同じように授けてもらったし、両親は分け隔てなく育ててくれたと思う。やはり不幸ではない。腫れ物に触るような家族の態度と、なぜか自分だけは誰からも名を呼ばれないという事実を違和感として感じていただけだった。
やがて文字が読めるようになると、リゲルは慣例に従い王家に残る秘匿文書を読んだ。そして思い知らされたのだ。過去、どれだけの王子が名無しのまま亡くなったのかということを。きっと自分もそういう運命をたどるのだとリゲルは早々にあきらめた。
あきらめたほうが楽だったから。だって名はなくとも生きていける。
『そうね、仮に名前をつけていいかしら?』
だからフォルテューナが自分に名をつけようとしたときも止めなかった。人を変え、あらゆる手を尽くして何十回と試した。それでも名は弾かれるのだから無駄だろうとあきらめていたからだ。ああ、また弾かれる。そのはずなのに。
『リゲルにしましょう。狩人座の左足、青白き星の名よ』
軽やかな声が名を紡いだ――――嘘だ。いや、これは幻聴か。
『じゃあ、リゲルね。私のことはフォルテューナと呼んでちょうだい』
幻聴なんかではない。生まれてはじめて名を呼ばれた。そしてフォルテューナが名を呼んだとき、リゲルはようやく気がついた。たしかに不幸ではなかった。だが決して満たされていたわけではなかったのだと。
私だけの幸運、私の運命の乙女。そう思った瞬間に、驚くほど呆気なくリゲルは恋に落ちた。
まるで宿命のように、出会ってしまえば守護天使は運命の乙女から逃れられない。囚われているのに幸せしか感じないのだから相当だろう。
怪我を負った日もそうだ。王に命じられ、単独で内通者が潜り込ませた三名の暗殺者を追っていた最中のこと。入り乱れる嵐の只中に、突然、見ず知らずの子供が迷い込んできたのだ。暗殺者の振るった刃がすぐ近くに迫っているにも関わらず、恐怖で身動きの取れない迷子を助けるには自分の体を盾にするしかなかった。
守護天使の加護なのか、元々リゲルは怪我を負うことが少ない。人並外れた身体能力と、肉体の治癒力。多少怪我をしても傷跡は残ることもなく、あっさりと治ることのほうが多かった。だが不死身ではない。
『バカなヤツだ、こんな平民の子供一人のために毒の塗られた刃を受けるとはな!』
それを思い知らせるように傷口は毒を孕み膿んで熱を持った。嘲るような暗殺者の声が聞こえたけれど、この子だって自分が守るべきセアモンテの民だ。三人の意識を子供から引き剥がすため、より深く傷ついたふりをしながらリゲルは王都の外れを目指した。このとき追う側が追われる立場に変わったのだ。
暗殺者達が仲間を呼び寄せてじわじわとリゲルを追い詰める。リゲルを追うことで拠点を突き止め占拠しようとする意図が透けて見えた。そうはさせない。そのためにはより遠くまで逃げなくては。徐々に傷の痛みと毒で足取りが危うくなりながらも、王都の外れを目指していく。
すまない、フォルテューナ。帰ると約束したくせに守れないかもしれない。
このまま逃げ続ければ、間違いなく自分は死ぬ。そう覚悟したときに浮かんだのは、やはりフォルテューナの顔だった。救ってほしいという願いはなく、気づけば無意識のうちにフォルテューナの店へたどりついていた。
『ただいまじゃないわよ、もう!』
夢うつつにフォルテューナの呆れたような声が聞こえた気がして。気がついたときには見慣れない天井を見上げていた。
ここまでくると野生の帰巣本能と一緒だな……不本意だけれど、リゲルはフォルテューナが自分を野生のネズミと呼ぶ気持ちが理解できてしまった。そして当たり前のようにリゲルを救い、侵入者を警戒するようにソファで眠る彼女の無防備な寝顔を見て、彼女のそばにいようと決めた。
『本当にいいのか。王子には戻れなくとも、貴族位くらいは授けてやれる』
『そのために平民である彼女を切り捨てなくてはならないのでしたら身分は不要です』
自分をフォルテューナが救ってくれたように、今度はリゲルがフォルテューナを守る。人生に関わるような選択は守護天使の意思が尊重されるから、根回しさえすれば、あっさりと両親の許可が出た。あとは次代の王である腹黒い長兄と心配性の次兄が厄介だけれど、名のないリゲルの苦悩を知る彼らは決して彼女のそばにいることを反対しないだろう。
「ようやく伸ばした手が届いたんだ、私だけの幸運に」
猫のように丸くなったフォルテューナをベットに運ぶため抱きしめたとき、ようやく満たされたような気がした。彼女は魂の片割れ、終わりの見えない闇の奥で、もがいていたリゲルの手が幸運をつかんだのだ。手放そうなんて思うわけがない。
たとえ二人の間に愛がなかったとしても、リゲルは愛のために彼女を切り捨てるような真似をするつもりはなかった。
運命の乙女と出会い、真名を得たたった一人の王子。彼はさまざまな困難に打ち勝って地位を取り戻し、愛した女性と死ぬまで幸せに暮らしたとされている。まさにハッピーエンド。
だがその裏で運命の乙女であるフォルテューナが愛を失い、バットエンドを迎えていたことは記録に記されていなかった。運命の乙女の犠牲があって守護天使は幸せを享受できる。真実を王家にとって都合が悪いからと隠したのかもしれない。
「それでも……本当に王子は幸せになれたのかな」
フォルテューナは幸せになったと信じているようだけれど、それはあくまでも聞いた話だ。出会ったばかりのリゲルにこれほど根深い執着を植え付けた運命の乙女を簡単に忘れることができるのだろうか。
それに王家は許したとしても、セアモンテを守護する神は決して許さないだろう。
リゲルは天を仰いだ。フォルテューナの魔法を疑うわけではないけれど、人の世に想定外はつきもの。もし彼が失った愛を取り戻したとき、そばに彼女がいないと知って正気でいられるのだろうか。記録には王家にとって都合のいいことしか残されていないようだからわからないけれど、少なくとも自分には無理だ。
出会ったからこそ理解できる。運命の乙女に執着するのは守護天使のほうだ。
だから彼女に愛はないと告げられてもリゲルの気持ちが揺らぐことはなかった。リゲルはその愛ではないものに救われたから。そして大切に思うだけ彼女のことが心配にもなる。今のフォルテューナは愛を失った代わりに、危険を承知で人に尽くすようなところがあった。愛を忘れたせいで加減がわからなくなっているのかもしれない。人のために尽くすことは悪いことではないのだけれど、人を介して愛を集めるフォルテューナのやり方はリスクが高かった。悪意はなくても他人の口を介することで悪い方向に噂がひとり歩きをすることもある。それがあらぬ疑いを招き、興味本位から標的にされることだってあり得るのだから。
だから、そうなる前に。己が力を使ってフォルテューナにとって害となるものは阻止か、排除を。そして彼女に危害が及ばないよう手を尽くす。それが愛の代わりにリゲルが彼女に捧げるものだ。
「フォルテューナには重いとか笑われそうだけど」
呆れたように笑う顔を思い出してリゲルは小さく吹き出した。おせっかいで、お人好し。人のことは言えないよな。意識していないところも危なっかしくて心配だ。
「もうバットエンドにはさせない」
今まで使えなかった手も、真名を得たリゲルなら使える。フォルテューナには決して向けることのない凍てつく色を瞳に浮かべて、リゲルは闇へと溶けていく。




