第一話
「あら、あの方また来られたのね」
墓地を掃除するフォルテューナの視線の先に白いバラが揺れている。先月から始まって、そこから何度目か。フォルテューナが気がつかないうちに、決まって三本の白いバラが供えられていた。花言葉は、愛している。
それほどに愛情深い人なのか。たった一度、すれ違ったときに見かけたきりだったが、喪服をまとった女性の寂しげな眼差しはよく覚えている。なんとなく興味を引かれて墓に近づいてみると、墓標は朽ちかけており、ずいぶん古い時代のもののようだ。それでもかろうじて記された名前と追悼文が読める。
オリヴィエラ、ここに眠る。隣に続けて亡くなった日付とともに、享年が記されていた。二十一歳なんてまだ若いのに……そしてそのままの流れで追悼文を読んだ。
数多の人々を魅了して絡めとる、蜘蛛のような人――――。
「ちょっと、何よこの追悼文。死者を愚弄するような言葉じゃない!」
フォルテューナは憤りを覚えた。蜘蛛が苦手だから余計に不快と思うのかもしれないが、わざわざ人を蜘蛛にたとえる時点で悪意しかないだろう。安らかな眠りを妨げる行為であり、死者へ贈る言葉としては不適切と思える。これを指示した人間は、悪意が巡り巡って自分に返ってくることを知らないのだろうか?
それにしても……あの女性はこの墓の主とどんな関係なのだろう。もしかしてご親族かしら? 彼女が捧げたと思われる三本の白いバラが儚く揺れる。
彼女の捧げる愛は、このオリヴィエラ嬢に対するものなのか?
もしそうだとして、どうして今ごろになって献花が始まったのか。
「フォルテューナ、いつもお掃除ありがとう」
「あ、カメリア様。そうだ、カメリア様はこの墓標のことをご存知ですか?」
「ずいぶんと古いものね、さすがにこの年代のものはちょっと記憶にはないわ。それにここは弔う遺族のいない孤独な魂が眠る区画だもの。故人につながる詳しい情報が残されていないの」
カメリア様は墓標を覗きこんで、ゆるく首を振った。孤児であったり、生前になんらかの事情があって親族と縁を切った人。ここはそういう孤独な魂を集めた場所なのだという。
「当時は友人や知り合いが生前の交流に感謝して墓標を贈ることもあったそうだから、そのうちの一つでしょう」
「それにしては、おだやかではないですね」
カメリア様に追悼文のことを伝えると、ほんの少しだけ眉根を寄せた。
「そうね、でも人にはさまざまな事情があるから。この言い回しが良くないものとは一概に言い切れないわ」
いつもと変わらないおだやかな口調にフォルテューナはハッとした。いけない、冷静でいようと思っているのについ独りよがりな考えに偏って。昔から治らない悪い癖だなと苦笑いが浮かぶ。カメリアは周囲を見回してひっそりと微笑んだ。
「今は寂れてしまったけれど、ここは昔、わりと名の通った教会だったの。人の入れ替わりも激しかったし、さまざまな考え方の管理者がいたから、このあたりの経緯は忙しさに紛れて失われてしまったのかもしれないわね」
「そうしたら聞いてみましょうか?」
フォルテューナの指先に白いバラが揺れている。カメリア様は目を丸くした。
「まあ、ご親族かしら? そういえば先々週も白い花が捧げられていたわね」
「一度だけ、白いバラを持った若い女性の姿をお見かけしたのです。黒い喪服を着ていました。もしかする何か事情をご存知かもしれません」
「たしかに何かありそうね。差し支えなければお墓の場所も含めて対応が必要か聞いてみましょう」
「わかりました。次回、お見かけしたら声をかけてみますね!」
――――そして数日経った、風の強い日のこと。
「失礼いたします」
驚いて振り向いた拍子に彼女が被った黒い帽子のレースが跳ねた。紺色のローブを注意深くさばいてフォルテューナは深々と淑女の礼をとる。視界の端に風に煽られて白いバラが揺れていた。
「故人との語らいを邪魔して申し訳ありません。私はこの教会でお掃除などの雑事を手伝っておりますフォルテューナと申します。普段はあちらの魔道具店で働いている者です」
指し示す先にはとんがり帽子のような店の屋根が見える。風が強く吹いて風見鶏がキイと鳴いた。
「こちらのお墓のことで少しだけご相談したいことがございます。もし差し支えなければ、少々、お時間をいただきたく存じます」
「……」
「もちろんご都合が悪ければお断りいただいても、日を改めてでも差し支えありません」
少々強引かなと思いつつも、最後にしっかりと首を垂れた。
醸し出す高貴な雰囲気や服装から、本来なら平民のフォルテューナが気軽に声をかけていい相手ではないのだろう。だが、死者の名誉のためならば声をかけるくらいは許されるのではないか。そしてその判断は間違っていなかったらしい。こちらを振り向いた彼女は、柔らかく微笑んだ。
「私でよろしければ伺いましょう」
「ではこちらへ」
ちょうどカメリア様が外出中だったので、教会にある応接室を使わせてもらった。口はつけないだろうと思いつつ、紅茶を入れて向かい合わせに座る。
「それでどのようなご用件なの?」
「用件は先ほどの墓標のことです。追悼文に不適切な文言が含まれているようにお見受けしました。何か言い伝えなど、事情をご存知でしょうか?」
すると相手は言葉を失い目を丸くする。
「あの追悼文を読んだの? 古語だから読める人間は限られるのに」
「はい、読んだうえでのご提案です。故人の安らかな眠りを妨げるようであれば、石工に頼んで削ることもできます。それを判断するために、ご存じのことがあれば事情をお伺いしたいのです」
「……そう、アレを削ることもできるのね」
不思議だ。ベールがあるので表情は伺えないけれど、とまどっている空気を感じる。まるで不適切な呼び方が当たり前だと思っているような態度だ。教養も地位も持ち合わせていそうなのに、どうして許すのだろう。
「そうね、それだけ時代が過ぎ去ったという証かしら?」
「えっと、それはどういう意味でしょう?」
「あ、ごめんなさいね。いろいろ思うところがあるものだから、訳のわからないことを呟いてしまって」
どことなく寂しそうな表情を浮かべた彼女は紅茶に手を伸ばした。え、毒味もせずに飲んでいいの⁉︎ 驚いて固まったフォルテューナを置き去りにして、優雅な仕草で茶器を扱うとためらうことなく紅茶を飲み込んだ。
「削るまえに、ひとつ話しておきたいことがあるのだけれどいいかしら?」
「はい、もちろんです」
「これは、昔話なの。空想かもしれないわ、それでも聞いてくださる?」
「もちろんです!」
相変わらずベール越しで表情は伺えないけれど、口調は真剣そのものだ。フォルテューナはくっきりと口角を上げた。ああ、美しい物語の始まる気配がするわ。瞳を輝かせたフォルテューナに、女性はクスッと笑う。
「これは、とある国の蜘蛛と呼ばれた女性の話なの」
――――
昔々、偉大なる魔法という力が色濃く残る時代のこと。とある国に蜘蛛と呼ばれる女性達がいた。彼女達は魔法を練り込んだ糸を紡ぎ、それを織って布や服を仕立てるのが仕事だった。一種の専門家のようなもので、適性のある人間は生まれたときから身分に関係なく召集され、王家の庇護を受けながら集団で暮らしていた。
彼女達は直々に王から呼び出されて、それぞれの特性に合わせた仕事が割り振られる。その中に治癒と回復に秀でた能力を持つ蜘蛛がいた。
彼女は歴代の蜘蛛の中でも特に力が強く、その資質と力を欲した王家は蜘蛛に縁談を持ちかけた。その相手は建国以来、王家に仕える公爵家の人間で王太子付きの文官。仕事の関係で蜘蛛は彼と接する機会があり、物腰の柔らかな人物で優しい人だと慕っていた。だから縁談の話を蜘蛛は喜んで応諾したのだ。蜘蛛は彼を心の底から愛していたから、蜘蛛はとても幸せだった。見目麗しく、すばらしい男性と結婚できるのだと甘い未来に胸を弾ませて。
ところが相手はそう思わなかったらしい。盛大な結婚式が終わったあと、蜘蛛は棘のある声でこう告げられた。
「私には心に決めた人がいる。三年経ったら離縁するから、そのつもりで」
つまり、白い結婚。王家が縁談を勧めたのはゆくゆくは彼女の血を王家に取り込むためだ。そんなわがままが許されるわけがない。
「三年ののちに離縁するなんて、王にどう言い訳されるのですか?」
「大丈夫だ、そこは任せてほしい」
そして旦那様は背を向けて、二人の寝室をつなぐ扉に鍵をかけた。鍵のかかる音が、より深く蜘蛛の心を傷つける。情けない……発情した獣のように寝込みを襲うとでも思われたのだろうか。
「っ、ふざけないで」
涙を流し、傷ついた心を抱えながら、それでも惚れた弱みから蜘蛛は精一杯尽くした。皮肉なことに、結婚という契約を結んだことで旦那様との魔力の繋がりができた彼女の紡ぐ糸はよりしなやかで強靭になり、恩恵として浄化の能力まで授かったのだ。周囲が歓喜する姿に蜘蛛はとまどった。こうなると国はこの類稀なる能力を手放さないだろう。すんなりと離縁なんてできるわけがない。しかも、このころになるとどういうわけか旦那様の表情が柔らかくなり、優しく労わるような言葉をかけてくれるようになったのだ。
「大丈夫か? 疲れたような顔をしているが」
「ええ、仕事が忙しいせいでしょう。大丈夫です」
「君が支えてくれるおかげで私の私生活も充実している。それに君の紡ぐ糸は素材として高値で取引されるようになったから国だけでなく公爵家の資産も潤った。君を妻にできた私は幸せ者だ」
――――感謝している。この言葉を聞いてようやく認めてくださったのだと思った蜘蛛はうれしくなって泣き出した。なんで泣くのだと、触れる旦那様の手つきが優しくて、それもまた蜘蛛の涙を誘った。
ところが夫の思い人が誰かわかった途端、蜘蛛は絶望した。蜘蛛を厭う公爵家の侍女が面白おかしく話しているのを聞いてしまったのだ。
相手は王女殿下だった。しかも三年経って蜘蛛との間に子供ができなかったら旦那様が離縁して、代わりに王女殿下が降嫁することまで決まっているらしい。そして離縁した後、蜘蛛には新たな結婚相手をあてがう予定があることまで知ってしまった。子供ができないことを理由に離縁された身ならば、相手の選り好みできないだろう。侍女の噂にのぼる相手は私生活に問題のある陰湿で粗暴な男性ばかりだった。
白い結婚なのだもの、子供ができるわけがないじゃない!
多少関係は改善していても、扉の鍵がかかったままだった。こういうときに傷つくのはいつも女性だ。それを知る蜘蛛はなんとか状況を変えたくて、苦しむ胸の内を直接彼に訴えた。
「旦那様、このまま白い結婚を継続してよろしいのですか? あと半年も経てば、私は離縁されてしまいます」
「……」
「やはり私は旦那様のお役に立てておりませんか?」
夕食後に時間をもらって真剣な顔でそう訴えれば、それまで柔らかだった旦那様の顔が固くなった。難しい表情を浮かべて考え込んでいた彼は、そのまま表情を変えずに立ち上がった。
「今の私にはこれ以上何も言えない」
「そんな……! 妻にできて幸せだとそうおっしゃってくださったではないですか!」
どうしてそんな冷たいことを言うの、あんなに喜んでくれたじゃない! 蜘蛛は、はらはらと涙をこぼした。胸の奥が痛むのは、それでもまだ愛しているから。
「私はずっとあなたを愛しているのです」
「!」
「あなた以外を望んだことなど一度もありません。それでも選んでくださらないのですか!」
愛されること、それ以外のものを望んだことはないのに。ただそれだけのためにあなたに嫁いできた。揺らぐことのない蜘蛛の強い視線を受け止めた旦那様は、ここにきてはじめてうろたえた。青ざめた顔で視線を逸らす。
「……とにかく今は一人にしてほしい」
動揺した様子で音を立てて扉を閉め、旦那様は部屋を出て行った。これは明確な拒絶だと蜘蛛は判断した。もしかしたら愛してもらえるかもしれないなんて思い上がりも甚だしい。悲しみに打ちひしがれ部屋を出た蜘蛛を、呆れと嘲笑の入り混じった醜い薄笑いを浮かべて侍女達が取り囲んだ。
「自分から抱いてほしいと強請るなんて、はしたない蜘蛛ですこと!」
「蜘蛛は恐ろしい生き物らしいですわよ? 添い遂げた殿方を頭から食べてしまう種類もいるとか!」
「だから旦那様は拒絶なさったのね、さすが賢明でいらっしゃるわ!」
ケラケラと品のない笑い声を立てて、侍女の一人が蜘蛛の耳元で囁いた。
「どこの生まれともわからない蜘蛛なんて旦那様には不要よ。旦那様の奥方には王女様こそふさわしい」
「三年と待たずに離婚してもらえばいいわ。大丈夫、次の嫁ぎ先には困らないわよ? 出自のわからない蜘蛛にはもったいないほどすばらしい嫁ぎ先を王女様が見つけてくださるから。むしろ感謝すべきだわ!」
毒のように注がれた言葉は蜘蛛の体内を巡る。そして唐突に気がついた。
……どうして彼女達が閉め切った部屋でのやりとりを知っているの?
答えはただひとつ。旦那様がしゃべったからだ。蜘蛛を疎ましく思う彼が愚痴をこぼし、それを彼女達が聞いたから。なんてこと、羞恥でカッと顔が赤くなる。そして蜘蛛は逃げるように部屋まで走り出した。相変わらず品のない侍女達の嘲笑う声を聞きながら。
蜘蛛は部屋に閉じこもると内側から鍵をかけた。隣にいるはずの旦那様の部屋からは気配がしない。おそらく出かけたのだろう。……きっともう愛想を尽かされちゃったわね。お飾りのはずの妻が自分を愛してほしいなんてわがままを言ったら誰だって嫌になるもの。
蜘蛛は部屋をぐるりと見回した。蜘蛛の紡いだ糸のもたらす利益で公爵家は潤っているはずなのに、蜘蛛の部屋に贅沢品は一切なかった。あるのは固いベッドに、粗末な机と椅子だけだ。それでも文句ひとつ言わなかったのは、愛していたから。視線が横にずれて発注書と魔法を練り込むための糸に釘付けとなる。最近は需要が高まったために発注量も注文数も以前とは比べ物にならないくらいに増えていた。
「仕事、しないと」
愛する人のために糸を紡ぐ。それが蜘蛛の仕事だから。そこから蜘蛛はただ糸を紡いだ。寝食を忘れ、ただひたすら一日中魔力を操り糸を紡いだ。こんな無理をして続くわけがない。魔力を使い果たし、命を削ってまでただ仕事を片付けていく。誰にも邪魔されず糸を紡ぐために、蜘蛛の部屋は紡いだ糸でびっしりと覆われていた。
この糸は結界。蜘蛛が許可しなければ誰も通さないし、扉を開くことさえできない。これも結婚によって新たに得た力だ。旦那様が浄化のほかに蜘蛛に授けてくれたもうひとつの恩恵だった。扉の外から激しく叩く音や、誰かの涙ながらに懇願する声が聞こえたけれど蜘蛛は固く閉じた扉を自ら開くことはなかった。
蜘蛛の仕事は愛する人のために糸を紡ぐことだから。
これは国に納めるもの、この束は友好の証として隣国に寄贈されるもの、これは魔物の討伐に向かう兵士達を穢れから身を守るための衣服を縫うもの。一年はかかるかと思われた糸を全て紡ぎ終わったのは一週間後のことだった。蜘蛛は知っていた、もうほんのわずかしか寿命は残されていないことを。だから残された命を削って最後に旦那様への贈り物を編んだ。旦那様のためにだけ使う時間はとてもおだやかで、幸せだった。
仕上げに編み上げた贈り物を糸で括った。旦那様以外の誰にも奪われないように、確実に彼の手で開封されるように。これは蜘蛛に新たな力を授けてくれた旦那様へのお礼だ。そして彼に宛てて最後の手紙を書いた。
あなただけを愛した証拠として蜘蛛の命を捧げます。
蜘蛛はしっかりと手紙を糸に括りつけた。汚れないように、この思いが旦那様に伝わるようにと願って。蜘蛛は贈り物を机の上に置いてベットに横たわった。相変わらず扉の外が騒がしい。扉や窓を固く封じている糸は、蜘蛛の命が尽きると同時に解除されるから心配いらないのに。
だから最後くらい静かに逝かせてよ。もう枯れ果てたと思っていたのに蜘蛛の頬を涙が伝う。
……泣き虫だな、君は。
呆れた顔で涙を拭う指先の感触が好きだった。旦那様は唯一、涙を拭うときだけ蜘蛛に触れてくれる。だから余計に涙が止まらなくなって、それを見てまた呆れたように笑うのよ。あの手は蜘蛛のものだと思っていたのに。あの優しさは嘘だった。でも、もういいの。残された人達で幸せになればいいわ。
ああ眠い、ようやくゆっくりと休める。
力を使い果たした蜘蛛は眠るように闇へと沈んだ。
原題は『愛と巡礼者』でした。白い結婚からの離婚で華麗にざまあのつもりが気がついたらちょっと違う雰囲気のお話になってしまったので、タイトルも変えています。




