第五話
証拠があるわけではない、けれど全てに説明がつく。
盲目的とも思えるジュリエッタのリカルドへの愛。
愚かとしか思えないジュリエッタに対するリカルドの態度と、セーラへの溺愛。
そして天使のように愛らしいと評判だったセーラの不可解な行動。
限りなく黒に近いグレーとはこういうことだ。そして検査の結果、リカルドの体から薬の成分が見つかったことでセーラの犯行と断定された。
薬を使いリカルドを操ったセーラは、今度はリカルドを使ってジュリエッタに薬を盛った。そして彼女の思考が鈍ったところでリカルドに攻撃させ、精神的に弱った彼女もまた言いなりにさせようとしたのだ。
目的はリカルドの愛か、伯爵家を乗っ取ろうと画策したのか。それとも金も権力も持たない子爵家の子供として、優雅に振る舞うジュリエッタをうらやましいと思っていたからか。最初、セーラは瞳を潤ませて否定していたけれど、次々に証拠が出てきて無駄と悟ったのか、最後は愛らしいと評判の顔を歪ませて笑った。
「ジュリエッタは恵まれているの。健康な体に、夜明けの海の色をした美しい瞳。伯爵家という身分に、リカルドまで。生まれたときから全てを持っているのよ。それを当たり前のように振る舞って……見せつけられるこちらが被害者だわ!」
やはり嫉妬か。
部屋の隅で仲間の騎士による聴取の内容を聞くアルセニオはセーラの濁った緑の目を射殺しそうな眼差しで睨みつけた。
あの顔は自分が悪くないと思っている罪人の顔で、アルセニオが最も嫌う表情だ。
リカルドはジュリエッタよりもこんな醜い娘を選んだというのか、信じられない。
「つまりジュリエッタ嬢の命を奪うほどに憎かったということか?」
「それは違うわ、だってあの薬は毒ではないのよ? 今まで食べていたけれど普通に生きているじゃない。ちょっと困らせてやろうと思っただけなのに、死んだことまで私のせいにされるのは迷惑だわ」
救いようのない言い訳を口にしながら、他人事のような態度を取るセーラに仲間の騎士は深く息を吐いた。
「君は医者じゃない。それなのに与え続けても命に関わることはないとどうして断言できる?」
「それは……」
「体質によっては毒に変異する可能性だってあるじゃないか。どうしてそう考えなかった?」
騎士に諭されて、ようやくセーラは自分がやらかした事の大きさを自覚したらしい。ただ最後まで謝罪の言葉を口にすることはなかったけれど。
こうしてセーラの罪が確定したころ、リカルドはアルセニオの手で捕縛され牢に放り込まれていた。激しく鉄格子を揺らしながらリカルドはアルセニオに食ってかかる。
「何も悪いことをしていないのに、なぜ私がこんな扱いを受けるんだ!」
「決まっているだろう。セーラが作った薬入りの菓子をジュリエッタに渡したからだ」
「薬入りなんて知らなかった! それに渡したのはセーラがそう望んだからで」
「そのことにどうして疑問を持たない?」
「……え?」
「なんでリカルドを奪った憎いセーラの作ったものをジュリエッタが食べなくてはいけない?」
「だってジュリエッタの友人はセーラだけで、友人である彼女の作ったものだから……」
「友人がセーラ以外にいないのは、おまえがそう仕向けたからだ。ジュリエッタが孤立するように理由をつけて友人を作らないよう言い含めていた。言い訳する暇があるなら、彼女に何を言い、何をやったのか自分の言動を思い出してみろ」
「違う、あれは全部ジュリエッタを守るためのもので悪意なんてなかった!」
するといきなりアルセニオがリカルドの襟首を掴んだ。そして怒りの形相を浮かべて吐き捨てる。
「悪意の有無なんて関係ない。おまえが渡した菓子のせいでジュリエッタは死んだ」
「……!」
「彼女は最後までおまえとセーラを信じて疑わなかった。だから菓子を食べたんだ」
そしてアルセニオはバラっと床に写真を撒いた。それはジュリエッタが用意した証拠の一部で、リカルドが家には内緒でセーラと旅行に行ったときのものだ。
「この写真は……どこから」
「ジュリエッタが集めた証拠の一部だ」
「そんな、ならジュリエッタは……!」
「彼女よりもセーラを愛していると思っただろうな。それでもクッキーを口にした彼女の気持ちが想像つくか?」
「……」
「よかったじゃないか、ジュリエッタがいなくなればこの写真のように遠慮なくセーラだけを愛することができる」
「愛していただなんて、そんなつもりはないっ!」
「こんな写真を見せられて誰が信用する?」
ばら撒かれた写真の中で、リカルドとセーラは手を繋ぎ仲睦まじく過ごしていた。そしてこの日の夜、旅先で二人は結ばれたのだ。最高に幸せだった時間……だがそれは本当にリカルドが望んだ幸せだっただろうか? 頭がぼんやりして、どうしてそうなったのか思い出せない。
「ちがう、私はジュリエッタを愛していた!」
「そうか、それは初耳だな。ジュリエッタに自分は資金援助と引き換えの人質だと言ったそうじゃないか」
「っ、それは違う。セーラに言わされていただけで……」
青ざめたリカルドの視界が揺れている。彼もまた自分の言動が心と乖離していることに気づきはじめていた。だが、もう遅い。アルセニオは胸ぐらを掴んだ手を離した。派手な音を立ててリカルドの体が床に落ちる。
「疎ましく思うのならどうしてジュリエッタを手放してくれなかった。もっと早く手放してくれていたら、彼女を失わなくて済んだかもしれないのに」
一瞬目を見開いて、次の瞬間リカルドは狂ったように笑い出した。
「ははははははっ、そんなことするわけないじゃないか」
「どうして?」
「兄上に奪われるとわかっているのに、誰が手放すか」
「っ、おまえ! ふざけるな!」
「ふざけているのは兄上のほうだよ。生まれたときからジュリエッタは私のものと決まっている」
誰にも邪魔はさせない。
最後に背筋を凍りつかせる凄惨な笑みを浮かべてリカルドは背を向けた。
――――
そして一夜明けて早朝、ジュリエッタの遺体は教会に運ばれた。運ばれた先はスウォル通り、突き当たった道沿いにある由緒正しき教会。その礼拝室で棺に納められた状態の彼女は横たわっている。清らかな百合の花に包まれてジュリエッタは生きているかのように幸せそうな顔で微笑んでいた。鼓動を止めた美しい娘の姿を家族は涙を流しながら見守ることしかできない。
「こんなことになるなら、もっと早くリカルドとの婚約を解消してやるべきだった」
「あなた……」
「我慢強いはずのこの子が、たった一度だけこぼしたんだ。リカルドとの婚約を解消したいと申し出たらどうするか、と。この子なりにリカルドの行動には不信感を抱いていたのだろうな」
父親の心底悔いたような言葉が響く。
「表の顔に騙されて私がリカルドの本性に気がつかなかったばかりに……情緒が不安定になっているだけだと、流してしまった。自分の叫びが届かないことで絶望しただろう。今はただ、後悔しかないよ」
悔いる父親の隣に花を抱えたアルセニオが並んだ。彼女のように清廉な百合の花。それを彼女の傍らに供えた。ああどうして、こんなことに。アルセニオはジュリエッタの顔を覗き込んだ。瞳は固く閉じられていて、瞼は微動だにしなかった。
「夜明けの海の色をした君の瞳が見たい。お願いだから、目を開けて?」
婚約者として過ごしたのはとても短い時間だった。それなのに彼女との思い出はこんなにもアルセニオの胸の奥深いところまで侵食している。
「幸せな記憶だけを残して置き去りにするなんて酷いじゃないか」
震える声で囁くけれど答えはない。アルセニオの視界が滲んで、ジュリエッタの頬に彼の涙がこぼれ落ちた。
――――そのときだった。
清廉な光の筋が薔薇窓から差し込んだ。真っ直ぐに伸びた光の筋は幾重にも重なって、まるで天から伸びる階段のようにも見えた。白い光は揺らぐこともなく、ただ静かに彼女の頭上へと降り注いでいる。神がかった美しい光景に全員が言葉を失った。やがて誰かの震える声が沈黙を破った。
「まさかあれは……天国への、階段?」
「逝くな、ジュリエッタ! 逝かないでくれ!」
ハッと我に返ったアルセニオはジュリエッタの体に縋りついた。聖典に記されているように、天の御使が清らかなまま死した乙女を迎えに来たのだと思ったからだ。
アルセニオは行かせまいとするようにジュリエッタの体を強くつかむ。すると、どういうわけか先ほどよりも体が温かく感じたのだ。驚いた拍子に、彼女の体が大きく揺れる。
「……、……ん」
すると視線の先でジュリエッタの瞼がふるりと震えた。
一瞬ののちに、大きく胸が上下する。固まる人々の前でアルセニオは強くジュリエッタの体を揺さぶった。
「ジュリエッタ、ジュリエッタ!」
声に導かれて、ゆっくりとジュリエッタの瞼が開く。まさに夜明けのときのように色を取り戻した瞳が、何度も瞬いてようやく焦点が合った。
そして次の瞬間、口元が動いて柔らかく微笑んだのだ。
動き出したジュリエッタに驚愕した誰かの声が沈黙を破った。
「嘘だろう……こんなことが!」
一度死んだはずの人間が生き返った。そんな奇跡が現実に起こるとは。百合の花に囲まれたたま、起き上がったジュリエッタは微笑んでいる。彼女の静謐な美しさに魅了され、まるで夢のような出来事に参列者は皆、言葉を失った。
「奇跡だ、奇跡が起きたぞ!」
「私のジュリ、ああよかった!」
父親と、アルセニオの声をきっかけとして。それまでのしめやかな空気は一変、興奮と熱狂に包まれた。完全に覚醒したジュリエッタは状況についていけなくて目を丸くする。
「どうしたの、みんな揃って」
「覚えていないのか? 君は一度死んだんだぞ⁉︎」
「あら、アルセニオ様。どうしてこんなところに、お仕事は……って、きゃあ!」
アルセニオの手でジュリエッタは棺から抱き上げられた。振り落とされないように彼女は真っ赤な顔でアルセニオの首に縋りつく。するとアルセニオはジュリエッタの首元に顔を埋めて、絞り出すような声を上げた。
「よかった、ジュリエッタが戻ってきてくれて……また手に届かない場所へ行ってしまうと思ったから」
「アルセニオ様……驚かせて申し訳ありません」
ジュリエッタは泣きそうな顔で微笑んだ。
夢なんかじゃない、やはり彼女は生きている。
アルセニオはジュリエッタを近くの椅子に下ろし、腰を屈めて視線を合わせた。
「君に何が起きたか、どこまで覚えている?」
「あまりよく覚えていません。ただ……」
「ただ?」
「夢みたいな美しい場所で、見たことのないくらい美しい人に会ったの。その方はこうおっしゃったわ。『あなたを真実に愛する人が棺のそばで待っている。もう一度、彼とともに生きる機会を与えましょう』、と」
「それって……」
「きっと天の御使様でしょう。そして愛する人とは、たぶんアルセニオ様のことだと思います。あなたの愛が私を生き返らせてくれました」
「ああ、ジュリエッタ!」
アルセニオはジュリエッタをきつく抱きしめた。そして頬に、額にと次々と口づけの祝福を降らせる。驚いて固まったジュリエッタは抗議するようにアルセニオの胸元を強く叩いた。
「ア、アルセニオ様! 皆が見ています!」
「ああ、すまない。ついうれしくなってしまって」
「……アルセニオ。喜んでいるのはわかるが、まずは医師の診断と治療が先だ。娘を返してもらおうか」
「あ、申し訳ありません!」
「お父様、それ以上は怒らないであげて? 悪気はないのよ」
うろたえるアルセニオの様子がかわいらしくて、ジュリエッタはクスッと笑った。そしてそのまま甘えるような顔でアルセニオの瞳を覗き込んだ。
「まだ足元がおぼつかないの。このまま運んでいただいてもいいかしら?」
「もちろん、私のジュリ」
さあ、帰ろう。抱き上げられた格好でジュリエッタは運ばれていく。彼らの背後には興奮冷めやらぬ参列者が続く。彼らは愛の力によって生き返った娘の話を喧伝するだろう。神の認めた運命の恋人同士だとして熱く語り、アルセニオとジュリエッタは聴衆の羨望を浴びるかもしれない。
それこそがジュリエッタの狙いで、リカルドとセーラに対する復讐でもあった。賑やかに立ち去っていく彼らの後ろ姿を修道女が困った顔で見送っている。
「あらあら、こんな賑やかなお葬式ははじめてよ」
「本当ですね!」
「まあフォルテューナ、どこにいたの? 急にいなくなるから心配したわ」
「ちょっとばかり光源の調節を」
「昼間なのに光が必要なの? あなたったら、ときどきよくわからないことを言うわよね」
「気にしたら負けですよ、カメリア様。さて葬儀屋さんに百合の花と空の棺を引き取ってもらわないと」
「葬儀屋さんも大変ね。死者が不在の棺桶なんてはじめてじゃないかしら?」
「でしょうねー、でもそれが神の御心です」
――――神の光とは、天と地を繋ぐ階である。
大真面目な顔で聖典の一節を唱えると、フォルテューナは右手で脚立を抱えた。
そして左手には愛用の雑巾を握りしめる。
「まあ脚立なんて持って、どこへいく気?」
「礼拝堂の片付けが終わるまで薔薇窓を掃除してきます!」
「いつもながらに唐突ね。止めても無駄だとわかっているけれど……落ちないように気をつけて」
「はい!」
カメリア様はおっとりとした人だからフォルテューナのやんちゃを疑問も持たずに許してくれる。フォルテューナは薔薇窓に脚立を立てかけて磨き始め……そのついでに設置しておいた魔道具を回収した。
「この魔道具は特定の対象に光を当てるという限られた機能しかないし、光の強さと差し込むタイミングは手動で調整が必要だから微妙に手が掛かるのよね。縁があって手に入れたけれど、使いどころがなくて困っていたの。それがまさかこんなところで、こんな使い方ができるとは思わなかったわ!」
フォルテューナがしたことはこの魔道具をジュリエッタに向けて照射すること、そして彼女の葬儀をこの教会で執り行うように誘導することだ。あとは全てジュリエッタの運と演技力によって起きた奇跡。
「バレる危険の伴う仕掛けで見事に奇跡を起こしたジュリエッタは間違いなく強運の持ち主だわ!」
そして運を失った人間の末路は想像以上に残酷なものとなる。特にジュリエッタが天の計らいによって奇跡的に息を吹き返したと思われたことで、彼らへの罰はより重いものへと変更されたそうだ。
まずセーラ・ハディントン。セーラはリカルドに薬を盛り、ジュリエッタを害した犯人として捕えられた。徹底的に検査をした結果、幼少期は虚弱体質だったものの、現在はすこぶる健康体だとわかったので牢獄に収監されることが決まったという。ジュリエッタが息を吹き返したことで死罪は免れたけれど、犯行の動機や内容が悪質ということもあり、二度と外には出られないとのことだった。
そしてセーラの実家であるハディントン子爵家にはリッツォーレ伯爵家が多額の賠償金を請求した。調査の過程で判明したことだが、ハディントン子爵家はセーラをリカルドの愛人にするつもりだったらしい。だから婚約者がいることを知りながら夜会でエスコートをさせたり、関係を深めることを許していたのだ。
アルセニオ経由でこれを聞いた父は激怒し、ジュリエッタが受けた精神的苦痛や機会損失の賠償も上乗せしたために、ジュリエッタの想像を軽く上回るすごい金額になっている。そんなこんなで膨れ上がった賠償金を子爵家には支払う余裕はなく、結果的に爵位を売って工面することになった。
最後に、リカルドの処遇について。
カフェでジュリエッタと紅茶を飲みながらフォルテューナは皮肉げに口元を歪める。
「領地に幽閉されることになったのですって?」
「そう、完全に狂ってしまったのよ」
リカルドは、この期に及んでもまだジュリエッタが自分の婚約者だと言い張っているらしい。どれだけ家族が違うと諭しても理解できないそうだ。薬の影響か、それとも受け入れがたい現実に心が理解することを拒んでいるのか。そう考えると、彼もある意味では被害者だった。紅茶を満たしたカップを握りしめて、ジュリエッタは深いため息をつく。
「あれでは表に出せないわ。何を吹聴するかわからないし」
「それで幽閉なのね。ジュリエッタはそれでいいの?」
「ええ、二度と会わないで済むならなんでもいいわ」
「それもそうね。だってジュリエッタは運命の恋人を手に入れたのだから!」
フォルテューナがからかうとジュリエッタの頬が赤くなる。
今やジュリエッタとアルセニオは神が認めた運命の恋人同士だ。アルセニオにこれでもかと溺愛されて、夜明けの海の色を湛えた瞳は自信に満ちあふれ、輝くばかりに美しい。かつての自信なさそうな態度とは大違いだ。
「ねえ、ジュリエッタ。あなたは愛を失った。でもその代わりに望むものを手に入れたかしら?」
「ええもちろん、全部取り戻したわ」
後継としての権利、女性としての名誉、さらには愛まで。侯爵家との関係も変わり、義務のような資金援助が行われることは二度とないだろう。
ジュリエッタは幸せそうに微笑んだ。
「ようやく取り戻したのだもの。大切なものを失わないように努力するわ」
「そうすべきよ。だからもうわたしの店に来てはダメだからね」
「わかったわ、でもたまにはお店の外でお茶をしたいの。それもダメかしら?」
「ふふ、それなら大歓迎よ! だって縁があってお友達になれたのだもの」
ジュリエッタはうれしそうに笑った。フォルテューナは彼女に優美な花柄の封筒を手渡す。
「連絡したいことがあるときは、この封筒に手紙を入れてね。安全確実に私の手元へと届くから」
「もしかしてこれも魔道具?」
「そう、転送される仕組みは薬瓶と同じよ。私からの返信もこの封筒に届くわ」
「素敵、二人だけの秘密ね!」
ジュリエッタは瞳を輝かせた。フォルテューナは、ふふっと笑う。子供のような顔、彼女は好奇心旺盛なところがすごくかわいい。
「あら、大変。時間切れだわ!」
「え?」
「ジュリエッタ!」
フォルテューナの声に被せるようにして、男性の声がした。
声のするほうへ視線を向けたジュリエッタの顔が一際輝く。離れたところからでも、ジュリエッタには一目で相手が誰かわかった。
「アルセニオ様!」
「ごめん、待たせたね?」
「いいえ、ちょうどお友達とお茶をしていたのよ……って、あら?」
ジュリエッタが振り向いたとき、そこにはもうフォルテューナの姿はなかった。ケーキはきっちりと食べ切っているし、伝票の隣に自分の食べた分の代金が置いてある。けれど、いつかと同じように彼女の姿だけが煙のように消え失せていた。
察したらしいアルセニオは眉を下げた。
「気を利かせて帰ったのか。申し訳ないことをしたな」
「大丈夫、気にしていないと思うわ。だって彼女は森の妖精みたいに気まぐれなの」
「どこで会ったの?」
「ふふ、これ以上は内緒よ」
「なんか寂しいな、ジュリエッタのことはできるだけ知っておきたいのに」
「だって素敵な女性なのだもの、会ってアルセニオ様が彼女を好きになったら嫌だわ」
婚約者のかわいらしい嫉妬を蕩けるような顔で笑ったアルセニオは赤く色づいたジュリエッタの頬に口づけを落とした。
それを木陰で見守っていたフォルテューナは口元を押さえて顔色を悪くする。
「甘くて吐きそう。これは盛大にあてられたわね。ええそう、これ以上邪魔したら私は地獄に落ちること確定だわ!」
冗談じゃない、恋路の邪魔になる前にフォルテューナは退散することにした。
店への帰り道。黒い喪服を着た女性とすれ違う。足取りから教会の墓地に向かうところらしい。寂しげな眼差しが印象的で、どことなく張り詰めた空気を持つ女性だ。
道を求めてさまよう巡礼者みたいだわ。
うつむきがちに歩く彼女は腕に真っ白なバラの束を抱えていた。まだ若いのに、誰か大事な方を亡くされたのかしら? なんとなく気になって背中を見送っていると、聞きなれたドアベルの音がする。
あらいけない、お客様がお待ちだわ!
「ようこそ、フォルテューナの魔道具店へ!」
ジュリエッタのお話はここまでです。もしかすると一番残酷なお話だったかもしれません。




