第四話
『ダーリオの縁談が整った。ようやく肩の荷が下りたよ』
父が安堵した表情でつぶやいた日のことをジュリエッタは思い出した。あとで家令に理由を聞くと祖父の代に侯爵家が伯爵家へ支援した額を、伯爵家から侯爵家に支援した額が完全に上回ったらしい。金額だけなら借りは返したことになる。でも生前に祖父達が外で盛んに話すから、互いの家を助けるために行われた貸し借りの話は誰もが知っていた。父は侯爵家が持ち直したわけではないのに援助を打ち切れば他家から謗りを受けそうで思い悩んでいたそうだ。祖父達はとても仲が良かったらしいけれど、いくら仲良しだからって子や孫に因果を残してはダメよね。
そして援助の必要がなくなればジョルダン侯爵家とわざわざ縁組をする理由はなくなる。特にリカルドが原因で婚約を破棄したとなれば、当然、父はジョルダン侯爵家との縁組を避けるだろう。それでも今回ジュリエッタが婚約破棄ではなく婚約者の変更を望んだのはなぜか?
「私がリッツォーレ伯爵家を継ぐのは決定事項です。妹には、すでに他家の嫡子である婚約者がおりますから。そのうえで私に歳の近い次男以降の婚約者候補となると、ぐっと数が減ります」
「性格などに問題はなく、且つ能力のある人間ほど先に婚約が決まるからな」
「そのとおりです。それを踏まえて現状を鑑みると、無難に社交をこなしつつ伯爵家を差配できる器量のある品行方正な人物は残念ながら他家にはおりませんでした」
もちろん婚約者のいない次男三男もいるにはいるが、皆、大なり小なり問題を抱えている。難があるとわかっているのに彼らを選ぶわけにはいかなかった。それでも父は多少難ありでもしょうがないというかもしれないが……それはジュリエッタが許せない。
「こちらに非がないのに、どうして我慢せねばならないのですか!」
「まあ、そうだよな」
「ところが奇跡的に残っていた素晴らしい人物がいました。アルセニオ様とセスト様です!」
貴族の婚約は政略の意味合いが大きい。ジョルダン侯爵家の資金繰りが厳しく、嫁いでも旨みが少ないと思われていたのが彼らに婚約者がいない理由の一つだった。
「……セストもか?」
「素直でかわいらしい良い子じゃないですか。優しく聡明だと使用人にも評判がいいと聞いていますよ?」
セストはジュリエッタのことをお義姉さまと呼んで懐いてくれていた。歳は二つ下だが離れ過ぎているわけでもないし、彼が選んでくれるのならばかまわないと思っている。するとアルセニオは眉根を寄せた。
「ジュリエッタはセストがいいのか?」
「どっちがいいというよりも、私を選んでくださるならお二人のどちらでもかまいません」
「逆に聞きたいが、俺ではダメなのか?」
どこか祈るようなアルセニオの眼差しにジュリエッタはグッと言葉に詰まった。ダメというよりも、想像がつかないだけだ。だって生まれたときからリカルドが婚約者だったのだもの。まさか彼以外と婚約することになるなんて思いもしなかったから。
「たしかに俺は兄やセストのように文官向きではないから書類仕事は苦労をかけるかもしれない」
「そちらは大丈夫ですよ。当主の仕事は私が補佐することも可能です」
「見た目もどちらかといえば無骨だし、見えていないだけで肌にはいくつも傷がある」
「武官ですもの、たくましい体躯をされているのは当然です。体の傷は一生懸命務めている証ですわ」
あら、なんで私が擁護しているのかしら? 思い当たることがあってジュリエッタは頬を赤らめた。たぶん彼のことを嫌いではないからだろう。射抜くような鋭い眼差しをしているから女性に怖がられることが多いけれど、ジュリエッタにだけはいついかなるときも甘く優しい。
「最初は頼りなく思えるかもしれない。でもいつか必ずジュリエッタに追いつけるよう努力する。そして外敵や害獣は自ら剣を取り、領地と領民を守ることを誓おう。……もちろんジュリエッタ、君もだ」
ジュリエッタの顔に微笑みが浮かぶ。アルセニオ様こそ変わっていない。できないことは、できないと答えるところ。でもできるようになるまで辛抱強く努力する人でもある。
彼となら、たとえ情熱的に愛し愛される関係にはなれなくても、尊敬して支え合うような関係にはなれるかもしれない。
「これでも足りない?」
「いいえ、十分ですわ」
「ならば俺にしておけ」
真っ直ぐな気質も、裏でジュリエッタにだけ見せる甘さも。好奇心旺盛なところを受け止めてくれる器の大きさも好ましい。意識せずに、するりと言葉が口をついて出た。
「――――はい」
安堵したように息を吐いて、アルセニオはジュリエッタの手首に口づけた。手首は求婚の意味を持ち、女性側は口づけを許すことが男性の求婚を受け入れた証となる。そう思うと急に気恥ずかしくなってジュリエッタは下を向いた。
そういえばリカルドからはこういう扱いをされたことがなかったわね。リカルドが私との婚約を義務だと思っていた証拠だ。義務なのだから愛されなくて当然だったのに、愛を乞う私はさぞかし滑稽だったでしょうね。でも、もういいの。あなたには何も求めないわ。
愛は捨てたから安心してちょうだい。
望みどおりに解放してあげるからセーラと幸せになればいいわ。
「俺から父に婚約者の変更を申し入れるよ。この証拠と、君がされたことを伝えたらが間違いなく受け入れるだろう」
「お願いします」
「……ただセストは別の意味で抵抗するかもな。頑固だから骨が折れそうだ」
「どうしてですか?」
「あいつは昔からジュリエッタ派だからだよ」
「派閥があるのですか?」
「君には関係のない話だ。そこはうまくやるから安心してほしい」
ちょっと言っている意味がわからない。首をかしげるともう一度、手首に口づけが落ちた。
「俺にはジュリエッタが求婚に応じてくれたという強力な切り札があるからね」
じわりと頬が赤くなった。いけない、うれしくても腑抜けちゃダメよ。このあとまだやらなければいけないことがある。幸せを確たるものにするために必要な布石が。
「ひとつお願いがあります。婚約者の変更手続き自体は進めてかまいませんが、リカルドには変更したことを内緒にしておいてくださいませんか?」
「どうして?」
「意趣返しというか、最後のお別れを言うくらいは許されるかなと」
「そうだな、リカルドは自分の愚かさを思い知るべきだ」
リカルドは勘違いしていたようだが婚約の主導権はリッツォーレ伯爵家を継ぐジュリエッタにある。自分の立場が危うくなるとわかっているだろうにセーラへの溺愛を隠すでもなく堂々と披露していたのは、ジュリエッタを言いなりにして安心しきっていたから。
こんなふうに自分から婚約破棄の理由を明示するなんて破滅願望があるか、愚かと呼ぶ以外にないだろう。
「伯爵家への根回しは私にお任せください。リカルドは最低限の義務しか果たしていないのですから」
最低限の義務を果たしているという父の言葉は褒め言葉なんかではない。当主となるべき教育も最近は滞りがちで修了には程遠く、補佐をさせるためにジュリエッタへ当主教育を施したのはこれが理由だった。
ただ、こうして婚約者を変更することを考えれば、むしろ好都合だ。
もしかすると……父も万事に中途半端なリカルドを不安に思っていたのかもしれない。それならすんなりと受け入れてくれそうだ。
ここまで話したところで、ジュリエッタは深々と頭を下げた。
「私が不甲斐ないばかりにここまで問題をこじれさせてしまいました。申し訳ありません」
「それは違う。あいつが悪いし、自業自得だ」
ジュリエッタは暗い顔で深々とため息をついた。
そう、昔はあんな人ではなかったのに。優しくて、ジュリエッタを誰よりも大切にしてくれて、心通わせた時期もあった。取り巻く環境で人とはこんなにも変わってしまうものなのか。
手を伸ばし、頬に触れ、ジュリエッタの顔を上げさせて。アルセニオは小さく首をかしげる。
「最後にひとつだけ確認させてほしい」
「はい、なんでしょう?」
「君はもう、リカルドを愛していないのか?」
アルセニオの懸念ももっともだと思えた。
どれだけ誹られようともリカルドを追い求めていた愚かなジュリエッタ。あの情熱が本当に消えたかと不安になるだろう。
確かめるようにジュリエッタは胸に手を当てる。リカルドを失うとわかっているのに、悲しみどころか痛みさえ感じない。あるのはリカルドとセーラによって付けられた大小さまざまな傷と、怒りだけだ。
間違いなく彼への愛は失われた、しかも永遠に。
「愛していません。正直なところ今の彼が気持ち悪いのです」
ジュリエッタは冷めた声でそう答えた。
蔑むほど嫌いならジュリエッタとの婚約を解消してセーラと婚約を結び直せばいいのに。リカルドを理解できない存在へと作り変えたのはセーラだ。そして変わることを選んだのはリカルド自身。もうジュリエッタにできることは何もなかった。
「ならば遠慮はいらないな」
手を引かれ、お互いの顔に距離が近づいたと思うと目尻に口づけが落ちた。短く切った彼の髪が頬に触れて心拍数が上がる。日に焼けた肌も真剣な色を浮かべる黒い瞳も、ジュリエッタが手を伸ばせば容易に届く距離にあった。近すぎる距離と注がれる視線があまりにも熱くて、どうにも目が離せない。
「夜明けの海の色をしたこの瞳が欲しかった。見つめられるだけで俺は幸せだ」
「っ、そんなこと言われたのははじめてだわ」
「あいつはバカだ。生まれた瞬間から類稀なる幸運をその手に掴んでいたというのに自分から手放すなんて」
アルセニオの呆れと憐憫を含んだ台詞は褒め言葉の裏返し。そのことに気がついたジュリエッタは頬を赤らめる。
私、今とても幸せだわ。
アルセニオは柔らかく揺れるジュリエッタの髪に口づけを落とした。
「この甘い香りのするミルクティーみたいな色の髪も好きだ。無邪気に笑う顔も、芯の強いところも少しも変わっていなくてうれしい。俺の愛したジュリエッタそのままだ」
「……褒め過ぎよ」
「俺が婚約者になったら遠慮はしないと決めていた。何度でもいうけれど、俺の知るジュリエッタは、いつでもどんなときでもかわいいよ」
どうしよう、今、猛烈に口説かれている気がする。ジュリエッタは息も絶え絶えに甘く注がれる賛辞を受け入れることしかできなかった。
「今すぐ好きになってくれとは言わない。でも気持ちが追いついたら、俺と結婚してほしい」
そんなに時間はかからないと思うけれどね。
からかうように笑うアルセニオの顔は、ジュリエッタの見たことがない大人の男性のものだ。
ジュリエッタの心にはまだアルセニオへの想いが芽吹いたばかり。
けれど、今はこの想いがどう育つのか見てみたい。添えられた手のひらに頬を寄せながら、ジュリエッタはそっと瞳を閉じる。
――――
こうしてジュリエッタの思惑どおりに、婚約者はリカルドからアルセニオに変更された。最難関と思われた父も察するものがあったようで、たいした説得もいらなかった。
ジュリエッタが幸せになれるなら、それでいい。
しみじみとした父の言葉に子供みたいに泣いたことは父と母とジュリエッタだけの秘密だ。
そこから両家の当主が変更届に署名して、一ヶ月後のこと。
無事に届出が受理されて婚約者の変更が国によって認められた。思っていたよりも早くてジュリエッタは驚いたが、どうやら裏でアルセニオが暗躍したらしい。さすが王族の覚えめでたい第一騎士団に所属するだけある。それはリカルドにはない強みで、今後、ジュリエッタの助けにもなるだろう。
そして承認されたあとに婚約者の務めである定例のお茶会が開かれた。ジュリエッタの希望により、相手はまだリカルドのままだ。
なお、アルセニオと約束したとおり婚約者の変更を伝える時期はジュリエッタに一任されている。
「セーラが熱を出したそうだ。私がそばにいないと不安で眠れないらしい」
「あら大変ですわね、お大事にとお伝えくださいまし」
本当に相変わらずだこと。今までとは違う冷めた気持ちでジュリエッタはリカルドを送り出した。理由が前回と同じという時点で、さらに扱いが雑になってきたことを感じる。おそらくリカルドもセーラも油断しきっているのだろう。
「これは手土産だ、いつも変わり映えのない花で申し訳ない」
「いいえ、きれいね。気を使ってくれてありがとう」
「それから、いつものようにセーラ手作りのお菓子だよ。お詫びの気持ちを込めたそうで君に食べてほしいと預かってきた」
「ありがとう、でもこのために無理はしないでと伝えてちょうだい」
こうして毎回、手土産である花の他にセーラは手作りのお菓子をリカルド経由で渡してくる。しかも包んでいる量は少ない。おそらく私にだけ食べさせるためだろう。こんなことに時間を使うくらいなら安静にしていればいいのに。
「あれ、ジュリエッタ。なんか変わった?」
「いいえ、特に何も変わったことはありませんが」
よく気がついたものだ。セーラ以外に興味はないはずなのに。慎重に言葉を選んで表情を一段暗く落とすと満足そうな顔でリカルドは口角を上げた。
「そうそう、私はおとなしくて従順な君が好きなんだ。かつてのようなお転婆はいけないよ? 気の強い君は私の妻に相応しくない」
「……」
「ん、なんだい?」
「なんでもありません。それよりもお時間はいいのですか?」
ジュリエッタは、かつてのように従順な振りをして微笑んだ。
「ああ、そうだった。この埋め合わせはするから!」
「どうか気になさらないで」
笑顔のまま、馬車へ足早に走る背中に声をかけた。昔は大きくて頼もしいと思っていた背中が今は色褪せて見える。
ジュリエッタは皮肉げに口元を歪める。
安心してちょうだい、埋め合わせなんて期待していないから。
リカルドはこれがジュリエッタと会う最後の機会になるとは思ってもいないのだろう。自分が蒔いた種、ある意味では最高の意趣返しではないかしら?
「さようなら。セーラと末長くお幸せに!」
十分聞こえる距離で声をかけたはずなのに、色褪せた背中は振り返ることもない。結局最後までジュリエッタの声は届かなかった。
「でも、もういいわ。どちらにせよ、会うのはこれが最後だもの」
「……あいつ、俺のジュリになんてことを」
「アルセニオ様、きちんとお別れが言いたいという私のわがままを叶えてくださってありがとうございます」
少し離れた場所からアルセニオが険しい表情で姿を現した。心配性な彼はお茶会を陰ながら見守っていてくれたのだ。
今にも怒りを爆発させそうなのをなだめて、こちらは仕事に戻る背中を晴れ晴れとした表情で見送った。
そして、その日の夜。部屋で一人きりになったジュリエッタは、セーラからもらったお菓子の包みを破いた。中身は定番のクッキーらしい。そのうち一枚を指先で摘み、室内灯に照らす。彼女はこんな小さな一枚が破滅の一歩になると考えたことはあるのだろうか?
『婚約者やご友人からの差し入れの食べ物は口になさいませんように』
フォルテューナに言われたときはよくわからなかったけれど、思考の曇りが晴れた今ならなんとなく予想がつく。ジュリエッタは包みから数枚を取り出して紙に包み焼却炉に捨てると、残りの菓子を机の上に飲みかけの紅茶とともに並べた。そして肌身離さず持ち歩いていた薬瓶を握りしめる。
『この薬瓶は魔道具です。中身が空になると同時に術が発動し、指定された場所へ転移します。転移先は店のテーブルの上、そしてそれが私への合図です。その先は毒の説明書に添え書きした計画のとおり、手配は私が引き受けましょう』
覚えるまで何度も読み返した説明書を蝋燭の火で焼いた。
あとはフォルテューナを信じるしかない。
大きく息を吸って――――ジュリエッタは一気に毒を飲み干した。
そして、数時間後。ジュリエッタの遺体を発見したのは侍女のリリスだ。夕食のときに、主人であるジュリエッタを呼びにいくのは彼女の仕事だから。いつもの時間にノックをするも、返答はない。
「ジュリエッタ様?」
いぶかしく思った彼女が扉を開けたとき、悲鳴とともに断罪劇の幕は上がった。リリスの悲鳴に両親が駆けつけ、医師が呼ばれる。そのときは、たしかにジュリエッタの呼吸は完全に止まっていた。両親が呼んだことで婚約者のアルセニオが知るところとなり、そこからは怒涛のように事態は動くことになる。
机の上には飲みかけの紅茶と共に手作りと思われるクッキーが残されていた。明らかに食べている途中で倒れたと思われる状況だ。そこで毒が疑われて、紅茶とクッキーが検査に回される。まず紅茶から異物は見つからなかった。リリスが用意したとされる茶葉や湯からも毒は検出されていない。そしてクッキーからも毒は検出されなかったが……検査の過程で別の成分が含まれていることがわかった。
クッキーには鎮静剤が混入されていたのだ。医療用に使われるもので患者の精神を落ち着かせて安眠を促し、日中心穏やかに過ごさせるもの。当然ジュリエッタがこのような薬を服用することはなかったし、室内の捜索もされたが薬につながるものは一切出てこない。ただし、たった一人だけジュリエッタの周囲でこの薬を医師から処方されている人間がいた。
セーラ・ハディントン。ハディントン子爵家の娘で、ジュリエッタの幼馴染み。
使用人の証言から、彼女が手作りしたクッキーをリカルドがお茶会でジュリエッタに手渡すのが恒例になっていたというのがわかった。となると、この薬を入れたのはセーラしかいない。
そしてこの鎮静剤にはもう一つ、医師にはよく知られた副作用があった。健康な人間が長期に渡って服用すると、徐々に思考が鈍くなるというものだ。そして思考が鈍ったところで精神面に負荷をかけられると、無力感に囚われ、相手の言いなりになってしまうらしい。捜査の過程ではこの副作用があることをセーラが知っていたかどうか明確にわからなかった。
ただ、もし知っていたとしたら……?




