心配性の姫君は、美貌の婚約者に「白い結婚」をもちかける
夜の庭園に、爽やかな風が吹き抜けていく。
グレースは、真っ白なベンチに腰かけて、ほっと息を吐き出した。
月明かりは明るく夜闇を照らし、辺りにはほのかな秋薔薇の香りが漂っている。まだ夜会の最中だから、人気はない。ここにいるのは自分と婚約者のディランだけだ。
「お疲れさま。大変だったね」
ディランはそういたわりの言葉とともに、顔をしかめて続けた。
「夜会で婚約破棄をいい渡すなんて、礼儀知らずにもほどがある」
そうね、とだけ頷いて、グレースはぼんやりと薄闇の中の秋薔薇へ目をやった。
今夜の夜会は、王都の貴族学院の卒業祝いを兼ねたものだった。いや、正確には、卒業式後の打ち上げとでもいうべきか。貴族学院は男子生徒と女子生徒で学び舎が分かれており、男女ともに一堂に会するのはこの夜だけだ。
グレースが知る限りでも、すでに婚約者のいる女生徒はドレス選びに余念がなく、未だ婚約者が決まらない女生徒はそれに輪をかけた意気込みで今夜を迎えていた。
それなのに、突然の修羅場だ。祝いの場が台無しだ。グレースは婚約破棄を巡って言い争う二人のどちらとも直接の面識はなかったけれど、その場を仕切り、事態を収めなくてはならなかった。
なぜならグレースはこの場で最高位である第二王女。そして“心配性のグレース”だ。修羅場を前に優雅に微笑んで、高みの見学を決め込むという肝の太さは、あいにくと持ち合わせていなかった。
どうにか事態を丸く収めてから、休息を求めて大広間を後にした。
そして今、ディランと二人きりでベンチに腰かけて、夜の庭園を眺めている。
「ほかに愛する人ができたから婚約を解消したいというのなら、まず両家で話し合いの場を持つべきだよ。謝罪や賠償も含めてね。まあ、どちらもしたくなかったから、相手に非があると喚きたてたのだろうけど」
冷ややかにいうディランの言葉はもっともだった。
貴族の結婚は家同士の契約に等しい。一方的に契約の解除を望むのなら、それ相応の代償を支払う必要がある。
しかし、中には、代償をもってしても解くことが難しい契約もある。自分たちのように。
その場合はどうしたらいいのだろう? グレースはずっと繰り返していた問いかけに対して、解決策を口にする時期をうかがっていた。
そして今、この人気のない夜の庭は、絶好の機会であるように思われた。
「ねえ、ディラン。わたしたちが結婚したら……」
「僕は君一筋だ。君を大切にすると誓うよ」
「白い結婚というのもいいと思うの」
「なんで?」
ディランは思わず素で返していた。この美しい姫君は、今度はいったいなにをいい出したのだろうと考えながら。白い結婚。意味がわからないわけではないけれど、わかりたくはない。
社交界では完璧な貴公子などともてはやされようとも、この身体は18歳の若い男だ。愛しい女性を前に指一本触れず、欲望のかけらも見せずにいることは、今の自分にとってさえなかなかに困難なことだった。
「突然どうしたんだい、グレース。なにか心配事があるのかい? 僕は何か、君を傷つけるような真似をしてしまったんだろうか?」
「いいえ。あなたはいつだって優しくて、思いやり深くて、誠実だわ。わたしたちの間には、深い信頼と友愛があると思うの。ただ、わたしもわかっているのよ。あなたがわたしに、女性としての魅力を感じていないということは」
「僕たちの間に海よりも深い誤解があることがわかったよ。ええと、やはり僕は、君を不安にさせてしまったんだね。君に愛を伝える言葉が足りなかったんだ」
「いえ、どちらかというと、多すぎたわね……」
グレースは懐かしむように、遠い夜空を見上げて呟いた。
※
グレースが初めてディランに出会ったのは、お互いに八歳のときだった。
同年代の子供たちとの顔合わせのためにと、母親に連れて行かれたお茶会に、ディランがいたのだ。
八歳にしてすでに周囲の人々の目を奪うほど、光り輝く美しい少年だったディランは、わき目も降らずにこちらへやってきて、自分の前にひざまずいていった。
「愛しています。ひとめぼれです。どうかぼくと結婚してください、グレース殿下」
辺りがしんと静まり返る中、最も青ざめた顔をしていたのは、ディランの母である公爵夫人よりも、グレースの母である王妃だったろう。
なぜなら王妃は知っていた。グレースは少し、いやかなり、神経質で繊細だということを。
幼い娘は、物心ついた頃から、あらゆることを心配した。
庭の花が枯れただけで青ざめて立ちすくみ、王宮のどこかから不審な物音がするといって歩き回ったのはまだいいほうだ。侍女が結婚すると聞けば、金目当ての男に騙されているかもしれないなどといい出して身辺調査を命じ、護衛の騎士に新顔を見つけたら、祖父母の話からさせて素性を確かめた。一番ひどかったのは、父王が咳き込んだだけで「どく!?」といい出して王宮中を混乱の渦に巻き込んだことだろう。
あのときばかりは、娘を溺愛する父王も、さすがに表情を改めてグレースにいい聞かせたものだ。
「お前の心配は、空から星が降ってくるのではないかと案じるようなものだ。しかし、落ち着いて考えてみなさい。夜空に輝く星々が、突然地上へ降り注ぐことなど、あると思うかね?」
グレースは、しばし考えこんだ末に答えた。
「星がふってくることはないと思います。でも、矢がふってくることならあるかもしれません」
……そんな娘である。突然、初対面の少年に求婚されたら「お母様、この子はわたしを騙そうとしています!」と叫び出すくらいのことはしかねない。王妃はとっさにグレースの口に手を押し当てて塞ぐことさえ考えた。
しかし、グレースは、彼女にしては非常に珍しいことに、なんの憂いも持たない顔で頷いた。
「ありがとう。うれしいです。あなたのお名前は?」
そうやって、ディランとグレースの婚約は成立した。
グレースにしてみれば、ディランのプロポーズを受けたことに、たいした理由はなかった。
ただ、見たこともないほど綺麗な少年が、力のこもった瞳でこちらを見て結婚してほしいといったのだ。気圧されるようにして、つい頷いてしまった。その程度の心持ちだった。
両親に先行きを案じられるほどの心配性でも、グレースはしょせん八歳の子供だった。
八歳の女の子にとって、恋は砂糖菓子のように甘いものだけれど、菓子以上の価値はない。グレースは無邪気にディランと交流を重ね、親しくなっていった。それは恋とも愛とも遠い、幼友達のような関係だった。
グレースは素直にディランを好きだと思っていた。
※
胸に疑惑が芽吹いたのは、十歳の頃だった。
鏡に映る自分の顔を見て、つくづく思ってしまったのだ。
(この平凡な容姿に、一目惚れなんてするものかしら?)
ディランは会うたびに自分のことを『可愛い』『綺麗だ』と褒めてくれる。愛していると囁いてくれる。だけど、それを単純に喜べた頃は過ぎ去ってしまい、今ではしみじみ思ってしまうのだ。
(無理があるわ、ディラン。この顔に一目惚れは、無理がある)
なにせディランときたら、本人が奇跡のような美しさなのだ。
逆ならまだしも、彼が自分に一目惚れというのは、説得力に乏しい。
それは、あの場にいた大人たちにはとうにわかっていたことだろう。それでも両親がこの婚約を大喜びで決めたのは、王家にとっては旨味のある話だからだ。
グレースは六人きょうだいの真ん中だ。三人の兄姉と、二人の弟妹がいる。順当にいけば、姉と同じように、他国の王族と婚約を結ぶはずだったろう。
しかし、グレースの右手には“聖痕”があった。
かつてこの地を覆っていた闇を退け、多くの人々に奇跡を与えたといわれる聖女、彼女の手に刻まれていたといわれる紋様と同じ形のあざを、グレースは生まれつき有していた。
残念ながら、グレースに聖なる力なんてものはない。
伝説によると聖女は、周囲の人々に多くの奇跡を授けたのだという。聖女の奇跡によって、ある者は災いを退ける武器を、ある者は世界の果てまで見通すほどの眼を、ある者はこの世の真理を読み解くほどの頭脳を、それぞれ目覚めさせたといわれている。
しかしグレースは、本人も周囲も普通の人間のままだった。
両親に奇跡を与えられないかと頑張って手をかざしてみたこともあったけれど、そもそもこの手の普通の皮膚のどこからそんな奇跡が吹き出してくるのか? という疑問に心を奪われて終わった。グレースは聖女と同じ紋様を持っているだけの、平凡な少女だった。
しかし、彼女を利用したい人間からすると、無力なほうが扱いやすいという思惑があったのだろう。特に聖女を崇める神殿は、王女の身柄を聖なる場へ ─── つまりは自分たちの手元へ ─── 移すように再三働きかけてきた。聖痕と血筋だけを持つ無力な娘は、彼らの欲するところだったのだ。
父王の末の弟である叔父もまた、困りきった顔をしつつもグレースを神殿へ誘った。
彼は、先王の時代に起こった王位争いを厭い、神殿へ籍を移して聖職者となっていた。グレースの父親は、この末弟をとても可愛がっていたし、叔父もまた兄を深く慕っていた。常に聖教服を纏っている彼は、清廉な人格者として評判で、周りからの信頼も厚かった。
しかし、聖職者としては、神殿の意向も無視できなかったのだろう。
叔父が王家と神殿の板挟みになっていることは、誰の目にも明らかだった。
王は娘を神殿へくれてやるつもりはなかった。
また、その特殊性から、他国へ嫁がせるという選択肢もなかった。
グレースの結婚相手は、国内の有力な貴族に絞られた。さらには、神殿と距離が近くない、むしろ神殿の干渉を退けられる家の者である必要があった。もっといえば、幼い頃から聖痕のせいで周囲に騒がれたためか、度を越した心配性になってしまった娘が、心穏やかに過ごせる相手であることが望ましかった。
ディランの求婚は、王家のその欲張りな条件を完璧に満たすものだった。
( ─── でも、ディランにとってはどうなの?)
グレースは自分の立場を知っていた。両親がこの婚約に諸手を挙げて賛成した理由もわかっていた。公爵家もまた、王家の望みを叶えることで、有利な立場を得たのかもしれない。
(だけど、ディランの気持ちは……?)
彼の優しい瞳に、嘘があるとは思いたくない。愛しています、と告げてくる声のまっすぐさを、疑いたくはない。彼の真心を、何一つ疑いたくなどないのだ。
(いいえ、本当は信じているの。ディランはわたしのことが好きだって、馬鹿みたいに信じ切っているのよ。……でも、信じたいだけなのかもしれないとも、思うの……)
※
五歳年上の姉が隣国へ嫁いでいったのは、グレースが12歳のときだった。
嫁入りの準備に王宮中が追われている中、とうの本人は勢いよくグレースの私室へ飛び込んできて、人払いをしたうえでいった。
「いいこと、グレース。大人になるまでは、キス以上は許しては駄目よ。ディランに『僕たちはもう大人だよ』な~んて甘い声で囁かれても絶対に駄目。結婚するまでは身体を許すんじゃないわよ。もしものときに泣く羽目になるのはお前なのだから」
「お姉様、そんな事態は起こり得ませんので、支度に戻ってください。皆、お姉様を探していますよ」
「あぁ、心配だわ。ディランがお前にべた惚れなのはわかっているけれど、肝心のお前が自覚が薄いんだもの。いいこと、グレース。自分のことを冴えない娘だなどと思うのはやめなさい。わたくしもお前も十分に美人よ! ディランと比べるのもやめなさい。あれはなんというか……、人知を超えた神の御業による顔よ」
姉は断言した。
グレースとこの姉は、きょうだいの中でもよく似ていると評判だった。だからこそ姉は、人一倍、グレースを磨きたてることに執念を燃やしていた。
「わたくしたちは人間としては十分に美人なの! それともお前、このわたくしが華のない女だと思う!?」
とんでもないと首を振る。実際、第一王女である彼女は、誇りと自信に満ち溢れていて、容姿よりも何よりも、内側からあふれ出る活力のようなものがあった。
「そうでしょう。わたくしは素晴らしいし、お前も素晴らしいわ。ディランは平静を装っているけれど、内心ではお前に触れたくてたまらないはずよ。でも、許してはいけません!」
キス以上は駄目、キス以上は許さないわよ! と叫ぶ姉は、彼女を探していた侍女たちに見つかって、まるで逃亡犯のように連行されていった。
静けさの戻った私室で、グレースはこっそりとため息をついた。
(本当に、何もないのに)
キス以上どころか、手をつないだことさえないのが現実だ。
愛の言葉はある。でもディランは、自分の前ではどんな欲望も見せたことがない。
この頃にはグレースは、ディランだけでなく、公爵家の考えにも疑問を感じていた。
自分たちの婚約は公爵家にとっても利益のあるものだと、以前は考えていた。ディランからの愛の言葉を信じるかどうかは別として、彼の求婚は公爵家の意思によるものだろうと推測していた。
なぜならディランは、出会った頃から非常に聡明な少年だったからだ。
同い年の子供たちに比べて、信じられないほどに落ち着いていて、知識が豊富で、適切な判断力を有していた。
彼が賢い少年であることは、周りの大人たちにも知られていたが、実際は彼らが知るよりもずっと先見の明があるのだと、グレースは知っていた。知っているのはグレースだけだった。ディラン本人が、その真の聡明さを婚約者以外には明かしたがらなかったからだ。
彼はいつも「二十過ぎればただの人というだろう? 期待の目が失望に変わるのが怖いんだ。僕は臆病者だからね」と困ったように微笑んで、グレースに秘密を守ることを望んできた。その瞳は臆病者どころか、盤上の戦を睨みつける軍師のようだった。冷静で、冷徹だった。幼い少年には不釣り合いなほどに。
その彼が、突然燃えるような恋に落ちて、相手の身分も忘れて求婚してしまった……と信じるよりは、彼の父親である公爵家当主の命令だったと考えるほうが妥当だったろう。
彼の母親である公爵夫人は、あのお茶会で明らかに動揺していた。公爵は夫人に話をせず、息子にだけ命じたのかもしれない。ディランのあの明晰さを思えば、あり得ない話ではない。
そう、思っていたのだけれども。
最近、長兄である王太子の授業に混ざって帝王学を受けてみたり、次兄とともに剣の訓練を受けてみたり、妹とともにせっせとお茶会へ参加したりしていたグレースは、その考えを改めつつあった。
お茶会はともかく、帝王学だの剣の訓練だのは王女に課された義務ではなかったけれど、グレースは己の心配性を克服したいといって、あちらこちらの授業に積極的に参加していた。
この世に生を受けて12年。グレースは一つの真理に到達していたのだ。
すなわち ─── どうしても心配が消えないなら、努力によって不安の芽を除草するべしと。
些細な物音に怯えてしまうなら、たとえ暗殺者が襲ってきても返り討ちにできる実力を身につけたらいい。父王が咳き込んだだけで不安になるなら、王宮全体の警備について自分の頭に叩き込めばいい。空から矢が降ってきてしまうかもしれないと思うのなら、幅広い人脈を築いて、いち早く敵の動きを察知できる情報網を作ったらいい。それらが完璧にはできなくとも、そうあろうと努力している間は不安を忘れられる。グレースは熱心に動き回った。
両親は、右手に重い荷を抱えて生まれた娘のことを不憫に思っていたのだろう。グレースが心配を打ち消したいのだといって頼むと、たいがいの望みは叶えられた。
もっとも、長兄などはげんなりした顔で「なぜ妹と一緒に帝王学を学ばなくてはいけないんだ……、教師どもはお前のほうが勉強熱心だなどと嫌味をいってくる始末……、お前は俺を倒して玉座を得るための下準備でもしているのか……?」としばしば嘆いていたけれど、グレースは気にしなかった。国全体の動きを学ぶことができる場所は、兄の隣しかなかったからだ。嬉々として教本を広げる小さなグレースに、大柄な長兄はめそめそしていた。
そうやって多くを学び、さまざまな人から話を聞くうちに、グレースは一つの疑問を抱いていた。
(わたしとディランの婚約は、公爵家にとって何の利があったの?)
もとより公爵家は、国内の貴族たちの中でも一、二を争う名門だ。その権威、財力、豊かな領地に資源、どれをとっても最高峰だ。これ以上、上を目指すなら王位しかない。
ディランには三つ年上の姉がいる。自分たちが婚約する前なら、彼女を王太子の婚約者に推すことは難しくなかったはずだ。
(だけど、第二王女という札を獲ってしまった以上、王太子は狙えない。貴族たちの勢力図を鑑みて、お父様は公爵家以外から次期王妃を選ぶだろう。 ─── あえてそうしたと見るべきかしら? 公爵家がこれ以上力を持つことを危惧する声もある。お父様と公爵はあまり仲が良くないとも聞くわ。争いを避けるために、あえて“特殊な第二王女”を先に抑えた)
うーんとグレースは考え込む。その考えもあまりしっくりは来なかった。王妃に推す気がないと示すだけなら、ディランの姉に先に婚約者を見つけてしまえば済む話だ。
右手の聖痕を眺めながら、思考を巡らせる。
(わたしを妻に迎えた男性は、神殿と対立することが決定しているようなもの。自分でいうのもなんだけど、とんだ火種だわ。公爵家はどうして、わたしを早々に抑えようとしたの?)
聖痕を持つ王女の身柄を、神殿は今も求めている。
公爵家なら確かに、神殿を敵に回しても揺るがないだろうけれど、それは何か、彼らにとって益のある話なのだろうか。
判断がつかずに、グレースはため息をついた。
※
長年の謎が解けたのは、ディランの14歳の誕生日だった。
公爵家で行われた盛大な誕生日パーティーの後に、二人きりで庭を眺めていたときだ。
相変わらず手をつなぐことさえなかったけれど、それでもグレースはディランに恋をしていたし、信頼もしていた。
だから、彼にだけこっそりと打ち明けた。
「ディラン、わたしね、これといった理由があるわけでもないし、理由もなく嫌うなんて酷いと自分でも思うのだけど、……昔からどうしても、叔父様が苦手なの」
聖職者の叔父。先代王妃に生き写しと評判の儚げな美貌に、争いごとを厭う穏やかな人格者。ときに陰湿な噂が飛び交うお茶会でさえ彼の悪評は聞いたことはなく、父王も末弟の彼にはなにかと目をかけて可愛がっている。
だけど、自分は昔から彼が苦手だった。こちらを見つめる穏やかな瞳が恐ろしかった。王家と神殿の板挟みになってお気の毒だと誰もがいう、その優しげな微笑がおぞましかった。
誰にもいったことのない秘密だ。だってこれは“心配性のグレース”の中でもひときわ酷い言いがかりだろうから。
ディランの反応を見るのが怖くて顔を上げられずにいると、緊迫した声が耳元で囁いた。
「一緒に来てくれ、グレース」
ディランは、返事を待たずにグレースの手を引いて歩き出した。戸惑いながらも、グレースはどきどきしてしまった。ディランにこんなに強く手を握りしめられるなんて、生まれて初めてのことだった。
たどり着いた先は書斎だった。室内にはすでに公爵がいて、突然やって来た自分たちを、怪訝な目で見下ろした。
ディランは「そこにいてください、父上」というと、それ以上は父親には目もくれずに、グレースを椅子に座らせた。そして、彼は自分の前にひざまずいた。
こちらを見上げるディランの顔は、ひどくこわばっていた。
「驚かせてしまうと思うけれど、どうか最後まで聞いてほしい。僕は……、いや、僕たちは、君の叔父上の叛意を疑っている。 ─── いいや、正直にいおう。疑っているんじゃない。確信している」
夕暮れ時、黄昏色の陽射しが差し込む室内で、ディランの瞳は燃えるように赤かった。そこには激しい意志と、底知れない怒りがあった。
「あの男は、公爵家に反逆罪をなすりつけて君の父上と争わせ、共倒れさせたのちに、自分が玉座をかすめ取るつもりでいるんだ。神殿の上層部は、すでにあの男の手中にあると見ていい」
目を見開いたグレースに、ディランは苦しげな顔で続けた。
「確たる証拠はまだつかめていない。何年も調べているけれど、あの男は病的なほどに用心深くて……、だから、信じてほしいとはいえない。ただ、あの男が苦手だというなら、そのままでいてほしいんだ。君はいつも努力で克服しようとするけど、今回だけは頼むよ。どうかあの男に近づかないでくれ」
「信じるわ」
思わずというように、声は転がり出た。
「あなたのいうことを信じる、ディラン。全面的に信じるわ。だからどうか、わたしも一緒に戦わせてちょうだい」
「グレース……!」
ディランが、感極まったように瞳を潤ませる。
それでも彼の手は離れたまま、もうグレースに触れることも、抱きしめることもないけれど、今はそのことを思い悩むことはなかった。
なぜならグレースは、ディランの告発を聞いたとき、雷に打たれたような心地だったからだ。
( ─── そうだったの。ああ、何もかも、そういうことだったのね……!)
どうりで、公爵家が第二王女を抑えるはずだ。
大事な次期当主に、唐突な求婚をさせるはずだ。
聖痕を持つグレースは、聖職者である叔父とその背後にある神殿への最大の接点だ。
神殿を探ろうにも、今まで彼らと距離を置いていた公爵家では限界がある。だからこそグレースという札を獲ったのだ。未だに神殿が欲しがる自分は、接触を持つための最大の口実になるから。
それだけではない。おそらく叔父も神殿も、内乱を起こす前には自分の身柄を確保しておきたいと考えているのだろう。
実際にグレースが何の奇跡も起こせなくとも、人々は聖女の伝説を信じている。
父王は娘を愛しているが、それでも内乱となれば、容赦なくその聖痕の威光を使うだろう。叔父にとってそれは避けたい展開なのだ。
なにより、叔父が王位を望むなら、王太子はもちろんのこと、その弟妹たちとて目障りなはずだ。特に、聖痕持ちの王女は念入り排除する必要がある。
しかし、聖女の伝説が深く浸透しているこの国で、聖痕持ちの自分に危害を加えることは難しい。下手な真似をしたら、人々の敵意がどこへ向かうかわからない。なら、どうする?
─── 答えは一つ。偽者だったということにしてしまえばいい。
聖女を騙る魔女だったと、そんな噂を触れ回ったなら、グレースの首を落とすことも容易いはずだ。
ただし、その前には現王家が力を失っている必要がある。王家の後ろ盾がある限り、グレースに手出しはできない。グレースを殺すとしたら、一番最後だ。
グレースの順番は、一番最後。
現王家が滅ぶまで、グレースは神殿に閉じ込めておく。それがおそらく、叔父たちの計画だ。
(叔父様としては、王家と公爵家には共倒れしてもらわなくては困る。だからわたしの身を神殿へ移そうとして ─── その前に公爵家が動いた)
グレースは、深く息を吐き出した。
目の前に立ちこめていた深い霧が、すっかりと晴れた心地だった。
視界は澄み渡り、世界は晴れ渡り、意志は鋼のようにそこにあった。
迷いが消えたなら、グレースの行動は早い。
「それで、今後の作戦は? わたしはどうしたらいいかしら? わたしにしかできないことといえば、やっぱり叔父様との距離を縮めて信頼を得ることね?」
「僕の話を聞いてた、グレース!?」
ディランが悲鳴じみた声を上げるのに、グレースは深々と頷いた。
「ええ、わたしも協力するわ。一緒に叔父様の悪事を暴きましょうね」
「ちがうよ!? あの男に近づかないで欲しいっていったんだよ、僕は!!」
※
『病的なほどに用心深い』というディランの評は正しく、叔父の尻尾を掴めないまま二年が経った。
その頃には、ディランは焦りを滲ませるようになってきていた。「このままではまずい」というのが、当時の彼の口癖だった。
だから、16歳になったグレースは、一つの決断を下した。
「ねえ、ディラン。わたし、決めたわ」
向かいに座るディランは、眼に見えてホッとした顔になった。彼は今まで何度も、グレースに遠い国への留学を勧めていた。名目は何でもよかったのだろう。とにかくグレースを逃がそうとしていたのだ。
「ありがとう、グレース。遠い異国での暮らしなんて、不安でたまらないだろうけれど、必ず迎えに行くから。すべてが終わったら、真っ先に君を迎えに行くよ」
「ええ、そのときは神殿に迎えに来てね」
ディランは耳を疑う顔になった。
グレースは表情を変えずに紅茶を飲んだ。
公爵家の書斎で、当主もまた気まずそうにティーカップを口へ運んだ。
「なにをいってるんだ、グレース……」
「神殿に潜入するの。わたしが神殿で暮らすことに、叔父様は諸手を上げて歓迎するでしょう。彼らの懐に入って、証拠を探すわ」
「駄目に決まっているだろう! なぜ……っ、どうしてそんなことを!? この国に留まることすら危ういのに、神殿になんて行かせられるものか!」
「ディラン、あなたが心配してくれていることはわかっているわ。ありがたいとも思う。でも、最優先事項はわたしの身の安全じゃないわ。この国の安全よ。叔父様が隣国と接触しているという疑惑も出ているのに、これ以上手をこまねいてはいられないでしょう?」
「だからって、君が行くことはない!」
「わたしにしかできないわ。あなたにだってわかっているはず」
そこでグレースは言葉を切って、まっすぐにディランを見つめた。
未だに恋人のように手をつないだこともない婚約者。エスコートは完璧だけれど、こちらを見る眼に浮かぶのは恋情ではなく、ゆるぎない意志と、その奥に隠された底知れない怒りだけ。
それでもよかった。それでもグレースは彼を愛していた。愛さずにいられる理由なんて一つもなかった。だからこそ、今ここで彼の不興を買ってでも、グレースは進むと決めたのだ。
国を、民を、そしてひいては愛する人を守るために、命を賭けると決めた。
公爵には、事前に話を通しておいた。彼はグレースを見つめて、ため息混じりにいった。
『ディランは納得しないでしょうな』
『そこは公爵の手腕を信じますわ』
どうか上手く説得してほしいという願いを込めて見つめると、怜悧な面差しの公爵は、どこか皮肉気に唇を上げていった。
『殿下の誤解を一つ解いておきましょう。殿下との婚約は、私が命じたものではございません。あれは、息子の独断ですよ』
そんなはずがない。グレースは怪訝な眼で公爵を見返した。彼の意図が読めなかった。
けれど、公爵はそれ以上語ることはなく、ただ『ディランも苦労するな』と独り言のように呟いただけだった。
そのディランは、今、凄まじい形相でこちらを睨みつけていた。
グレースは、こんなときだというのに胸が高鳴るのを感じたが、やがてこれは恐怖を覚えているだけだと悟った。
確かにディランはいつも怒りを隠し持っていたが、自分にぶつけてきたことはなかった。ぶつけられると、これほど動悸がするものなのか。ディランは意外と怖いところがあると、グレースは彼の新たな一面を発見していた。
こちらの息が詰まってしまいそうなほど長い沈黙の末に、ディランは低い低い声で「わかった」といった。
「どうせ君は、僕がなにをいっても聞きやしないんだ。最悪だ。僕は、君が生きていてくれるならそれだけでいいと、そう思って戦ってきたのに、君はそれじゃ駄目だというんだろう。わかったよ」
唸るような声で、刺すような眼差しで、ディランは続けた。
「神殿でもどこでも、好きなところへ行けばいい。君がどこへ行こうと、僕は全面的にサポートする。だけど覚えておいてくれ、グレース。君の命は僕の命だ。君が生きていることが、僕の生きる理由だ。君に万が一のことがあったら、僕は、君を傷つけた連中と刺し違えて死ぬ。絶対に報復して絶対に死ぬ。 ─── だからどうか、自分の身を守ってくれ。頼むよ、グレース」
ディランの声は震えていた。
グレースは、ためらいながらも、テーブルの上に置かれた彼の手に、そっと、自分の手を重ねた。びくりと震えた彼に、やっぱり触れるべきじゃなかったと後悔しながらも、力強くいった。
「慎重に動くわ。約束する」
※
ディランとグレース、それに公爵家が、長く続いた水面下での戦いを制したのは、それから一年半後のことだった。
諸々の陰謀を明るみに出され、追い詰められた叔父は、人が変わったような形相で叫んだ。
「この程度のことで、私が敗れるものか ─── !」
儚げと評された美貌は醜悪に歪み、神殿の奥深くへと逃げ込んだ。
それをディランと騎士たちが追い、グレースもまた後に続いた。暗い地下道に、松明の灯りが列をなす。両側から挟み撃ちにされ、ついに逃げ場を失った叔父は、気の触れたような笑い声をあげていった。
「呪ってやる。お前たち皆、呪ってやるぞ。恐れるがいい、天に弓引く愚か者どもめ。私が人生を費やした計画は、神のご意志であったのだぞ!」
長年聖職者として務めあげてきた男が、髪を振り乱してそう叫ぶ姿には、異様な迫力があった。騎士たちは、思わずという風に足を止めた。
そこに抑揚のない声を返したのは、ディランだった。
「安心しろ。たとえそれが神のご意志で、お前を殺した瞬間に雷が落ちるとしても、僕は必ずお前を殺す。何があろうと手を緩めずに殺す。僕の人生は、お前を殺すこの瞬間のためにあった。お前を殺して死ぬなら本望だ」
淡々と告げるディランの声が、地下道に響く。
あまりの言葉に、わずかな困惑が満ちる。グレースはとっさに、松明を持って彼の傍へ行った。
そして、叔父と騎士たちの前で、高々と右手を掲げてみせた。
「いいえ、叔父様。あなたの悪しき企みは、天の意に反するもの。この聖痕がそう告げています。神はお嘆きになっている。聖女の証として与えたものが、あやうく悪しき者たちに利用されるところであったと悲しまれておいでです」
「ははっ、笑わせてくれるな、可愛い姪よ。お前はただの小娘、聖女と似たあざを持つだけの無力な偶像だ。神の言葉など聞けるはずがない。ちがうというなら、今ここで奇跡を起こして見せるがいい!」
「神はお嘆きになっています。 ─── そして今、神はわたしに命じました。天の恵みとして与えたものであったが、争いを生むならばいっそ灰に返せと」
グレースは、ひと息おいて、静かに告げた。
「 ─── わたしは、神のご意志に従いましょう」
そして、松明の火を、右手の甲へ押し当てた。
上がった悲鳴は、自分のものではなかった。松明を叩き落としたのは、自分の腕ではなかった。すべて隣に立つ婚約者のものだった。
グレースは、愛する彼の絶叫を隣に、凄まじい苦痛をかみ殺して告げた。
「さあ、これが神のご意志です。皆も見るがいい。これこそが神の嘆き。叔父様、あなたの悪心が聖痕すら灰に変えてしまった。この罪は、地獄に落ちてもなお許されない!」
騎士たちが、今度こそ大罪人へ殺到する。
一方で、何があっても殺すとまで告げたディランは、グレースの身体を抱きかかえて、地上への道を必死に走っていた。自分で歩けるというグレースの言葉を無視してひた走った。一刻も早く医者に見せる、ただそれだけを望んで。
※
あれから半年が経った。
グレースの火傷は、重傷だという医師の見立てに反して、奇跡的な回復を遂げた。
奇跡という言葉が実際に自分の身に起こるのは初めてだと、グレースは笑った。もしかしたらこれが最初で最後の聖女の奇跡なのかもしれないと、冗談めかしていうと、ディランはひときわ苦々しい顔になってしまった。
今でも多少の引きつれは残っているものの、日常生活に支障はない。
父王は、末弟の本心を見抜けなかったこと、謀略に気づくどころか可愛がる一方だったため、知らぬうちに公爵家を追い詰めていたことを、当主に詫びた。それから次期当主に礼をいい、ようやく神殿から帰ってきた娘を抱きしめた。
グレースはしばらくの静養を言い渡されて、結局はほとんど学院生活というものを過ごさないまま卒業した。今夜のパーティーも、ディランのパートナーとして顔を出しただけだった。
ディランと自分は、二十歳になったら結婚する予定だ。
しかし、叔父の一件もあって、周囲からは深い絆で結ばれた相思相愛の恋人たちだと思われているため、挙式を早めてはどうかという話も、両親たちの間では密かに持たれていたらしい。
どうも彼らの心配は、危機を乗り越えた若い恋人たちが、情熱のままに行動してしまうことにあったようで、式より先にグレースのお腹が大きくなる事態は避けたいと考えていたそうだ。
あとからその話を聞いたグレースは、未だに必要時以外で手を握られたこともない我が身を思って、少しばかり儚い眼になってしまった。おまけに、その打診を断ったのがディランだと聞けばなおさらだ。
『傍にいながら、僕は、殿下をお守りすることができませんでした。このようなふがいない身で、殿下を妻としてお迎えすることはできません。残りの二年で、僕は自分を鍛え直したく思います』
そう断ったディランに、両親はなんと真面目な青年かと感心したそうだが、グレースは剣呑な眼差しになった。
(叔父様の陰謀は打ち砕いたのだし、わたしたちは婚約者よね)
ならばそう、ディランだって、少しくらい恋愛について考えてみてくれてもいいんじゃないだろうか。
もしかしたら彼は、もう割り切っているのかもしれない。
これだけの騒ぎの後だ。最初の目的がどうであれ、今さらこの婚約は解消できない。話し合いや賠償でどうにかなるものではない。『聖痕持ち王女に求める役割は終わったから、婚約も終了しましょう』というわけにはいかないのだ。
幸い、お互いに友情は抱いている。愛情もある。ただ、ディランの場合、自分のことを女性として魅力的に思えないというだけなのだろう。
( ─── だとしても、まずは努力よ。最大の心配事がなくなったのだもの。今度はこちらへ全力を尽くせばいいのだわ)
そうグレースは奮起した。そして頑張った。
今までのお茶会などで耳にした情報をもとに、あの手この手でディランに迫った。
彼はまめまめしく見舞いに訪れてくれたので、そのたびにグレースは、自分から手を握ってみたり、事故を装って抱きついてみたり、開き直って堂々と彼を抱きしめてみたりもした。
一向にディランが動じないので、最終手段とばかりに、彼の腕をとって自分の胸に押し当てることすらした。
しかしディランは何も変わらなかった。お茶会で聞いた話では、このような振る舞いをすると、こちらの胸に釘付けになるというのに、ディランは眼をそらして距離をとるだけだった。
(これでは、わたしはただの痴女だわ……! 飢えたケダモノのような真似を、わたしがディランにしている……!)
さすがにしょんぼりとしたグレースは、見舞いに来た長兄に『友人の話』と偽って相談を持ち掛けた。ディランとグレースが熱愛の仲だと信じ切っている長兄は、疑うことなく、グレースの“友人”に気の毒そうな顔をした。
「それは、残念だが、その婚約者はお前の友人のことを、女として見れないのだろうな」
「女として見れない」
思わずおうむ返しに呟いたグレースに、長兄は訳知り顔で頷いた。
「そうだ。どれほど人間としては尊敬できる、あるいは信頼できる相手でも、女として見れんということはある。グレース、お前が思っているよりも、男心というのは繊細なものなんだぞ」
だからこれ以上ディランに心配をかけるのはやめなさい、という続く言葉は、グレースの耳に届いていなかった。
女性として魅力的に見えない以前に、まず恋愛対象として見られていない。そう考えると、何もかもが腑に落ちてしまい、ついにグレースも、諦めるしかなかったのだ。
※
「わたし、あなたに無理を強いたくないのよ、ディラン。王家だってあなたには大きな恩がある。わたしたちの間に子供ができないなら、あなたがほかの女性との間に作った子を後継者にするといっても、反対はしないはずよ」
「ほかの女性ってなに!? 僕が浮気していると思ってるの、グレース!?」
「いいえ、浮気を勧めているだけよ」
「余計に悪いよ!!」
秋薔薇の香る夜の庭園で、ディランは悲鳴じみた声を上げると、ついには両手で顔を覆ってしまった。
「ちがうんだよ、グレース。何もかも誤解だ。僕が君を女性として見ていないだとか、魅力的に思っていないだとか、誤解なんだ。僕は本当は、いつだって君に触れたくてたまらない。だけど、必死に我慢しているんだよ」
「……信じられないわ。だって、両家の親も公認の仲よ? 結婚式を早めようという話さえ出ていたのに、手をつなぐことすら我慢する理由があるの?」
「だって……、それは……っ」
ディランは息も絶え絶えといった様子で、呻くようにいった。
「君が若すぎるから……っ!」
「同い年よ、ディラン。わたしもあなたも18歳。その言い訳には無理があるわ」
「そうだけど……っ、でもやっぱり若すぎるんだ。せめて君が20歳を無事に乗り越えてからじゃないと僕は……! それに僕、君より22歳は……っ」
そこでディランは、ハッとしたように口を閉じた。
喋りすぎたと彼が思っていることは、グレースの目にも明らかだった。
(君より22歳は、なに? 18歳のわたしが若すぎるということは……、もしかして、年上がいい? 君より22歳は年上の女性が良いといいたかったの、ディラン!?)
グレースは、人生で二度目の、雷が落ちたような衝撃を受けた。
視界をふさいでいた深い霧が晴れていく。思考は澄み渡り、真実を眼の前に提示してくれた。
(ああ、そういうことだったのね。ディラン、あなたはかなりの年上が好み。そう、そうなのね、あなたは俗にいうところの『熟女好き』だったのね ─── !)
どうりで、親愛はあっても恋情はないわけだ。彼の瞳がいつまで経っても固い意志を宿したままで、熱っぽく揺らぐことがないわけだ。
彼の恋愛対象は、40歳の成熟した女性だったのだ!
(これは……、ディランがいい出せなかったのも、仕方ないわ……)
なまじ桁外れな美貌の持ち主であるために、熟女好きなどという噂が立ったら、社交界ではさぞ面白おかしく語られてしまうことだろう。いや、噂にならなくとも、口にはしづらいことだろう。
これはいわば、ディランの性癖なのだ。
でも、と、グレースは顔を上げた。
(それなら、わたしが40歳になったら、可能性はあるということだわ!)
どうあがいても女性として見られないと肩を落としていた頃よりは、はるかに希望がある。時間さえ経てばいいのだ。自分だってあと22年経ったら、ディランに熱っぽい瞳で愛を乞われるかもしれない。素晴らしい。夜なのに朝日が昇ったような心地だ。
グレースはただちに大きな猫を被って、しおらしい口調でいった。
「わかったわ、ディラン。変なことをいい出してごめんなさい。わたし、また、心配のしすぎだったみたい」
「そ、そうかい……? わかってくれたのかい? そうなら嬉しいけど、君のことだからまた何か無茶なことを考えていないかい……?」
とんでもないと、グレースはかぶりを振った。
内心では『20年待たなくても、化粧でどうにか熟女らしく見せられないかしら』と企みながらも。
※
グレースを王宮まで送り届けた後、帰りの馬車の中でひとり、ディランは深いため息をついた。
いくら彼女の誤解が衝撃的だったとはいえ、思わず秘密を漏らしそうになるなんて、とんだ失態だ。彼女には何一つ気づかれてはいけないというのに。
幸い、彼女の記憶が戻る様子はない。八歳の頃から傍で注意深く見守ってきたけれど、彼女のあの過度な心配性は、記憶の残り香のようなものだ。記憶そのものは依然として失われたまま、彼女が真実にたどり着くことはないだろうと思われた。
それでも、今後も注意は必要だ。
グレースは何も知らなくていいのだから。
それはもはや、どこにもない世界の話。
絶望の意志によって流れが変革される前にあった大きな河。
……かつて、あるところに、愚かな男がいた。
愚かな男は、学院を卒業すると、見識を広めるためといって隣国へ留学した。
愛する人を神殿に残したまま、二年で帰りますと告げて、彼女の傍を離れた。
しかし二年近くが経った頃には、隣国まで不穏な噂が聞こえてきた。
公爵家が叛逆を企んだ、かの国は内乱になるだろうと。
男は慌てて帰国しようとした。だが遅かった。
隣国の兵たちに囲まれ、男は深手を負いながらも逃亡した。
傷は重く、追っ手は絶えなかった。
国境を越えるためだけに一年を費やした。
国内へ入れば、王が死んだと聞こえた。
王妃も死んだ。
王太子も死んだ。
第二王子も、第三王女も命を落とした。
公爵家もまた、刺し違えるように、分家に至るまで誰もかれもが息絶えた。
内乱で国は荒れ、多くの亡骸が埋葬もできずに道端に転がっていた。
それでも男は、動かなくなった片足の代わりに剣をつきたて、必死に歩いた。男には約束した相手がいた。彼女だけはまだ何の噂も聞こえてこなかった。ああ、そうだろう。第二王女といえども、彼女の手には聖痕があり、彼女の身柄は神殿にある。たやすく手出しはできない。神殿は彼女を守るはずだ。
それだけを信じて、男は前へ進んだ。身分は明かせず、頼れる者はなく、わずかな路銀を握りしめ、飢えと痛みに苦しみながら、それでも懸命に歩き続けた。
けれど、国内へ入って半年が過ぎた頃だ。魔女が処刑されたという知らせが国内を巡った。魔女とはかつての第二王女、自らを聖女だと偽り、父王すら欺いて聖痕を偽造した恐ろしい女 ─── 。
(嘘だ。嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だうそだうそだうそだうそだうそだ)
それから、王都までどうやってたどり着いたのか。男の記憶ですらあいまいだ。
ひたすらに歩いていく男の耳を、いくつかの噂がかすめていった。
新王が立った。王家の唯一の生き残り、先王の末の弟だ。争いを厭って神殿に身を置き、長年聖職者として務めあげていた彼こそが、魔女の正体を見破った。聖痕が偽物であるとわかったのは、彼こそが真実、神の声を聞く者であるからだ。新しき王は、神の加護を受けし者。
慈悲深い新王は、魔女に己の罪を認めて償うように説得したが、魔女は偽りをわめきたてるばかり。ついにはギロチンで首を落とされた。しかし魔女は恐ろしい呪いを残していった。魔女のせいで王都は燃えたまま、修復することが叶わずに、新王は王都を移した。
男が、かつて王都と呼ばれた地にたどり着いたとき、そこは焼け落ちていた。
人の気配は薄く、昼だというのに静かなものだった。
男は、剣を杖代わりに歩いた。
再会を約束した相手は、そこにいた。
新王が呪いを恐れたのも無理はない。聖女の首は、処刑から半年が経ってもなお、生前と同じ美しさを保っていた。腐ることも傷むこともなく、獣や虫に食われることもなく、これこそ神の意志だと告げるかのように、ただ美しい生首が、かつての処刑場に転がっていた。
男は、傷んだ喉からかすれた叫びを上げて、もはやろくに動かない足をがむしゃらに進めた。途中で足をもつらせ、無様に転がり、それでもはいつくばって彼女のもとへ行った。
そして、彼女の美しい首を、しっかり抱きしめて、囁いた。
「待たせて、ごめんね、グレース」
愚かな男は、守れなかった最愛の人を抱きしめて、獣のような咆哮を上げた。それが、男の限界だった。男は、ディランは、グレースの首を抱きしめたまま、その場に倒れ込み、そして ─── 。
伝説によると聖女は、周囲の人々に多くの奇跡を授けたといわれている。聖女の奇跡によって、ある者は災いを退ける武器を、ある者は世界の果てまで見通すほどの眼を、ある者はこの世の真理を読み解くほどの頭脳を、それぞれ目覚めさせたといわれている。
その意味を、それが真実どのような奇跡による結果なのかを、ディランは身をもって知ることになった。
馬車の中で、ディランは深く息を吐き出した。
このことは誰にも話していない。父親だけは、何かあると察しているだろうが、まさかかつて自分が謀略の末に殺された未来があるとは思うまい。
( ─── これは、君が知る必要のないことだ)
もう終わったことだ。かつては存在し、けれど消え去った未来。
苦しみと痛み、喪失と絶望の記憶など、グレースは思い出さなくていい。
(この秘密は、僕が墓までもっていく)
だからどうか、君は何も知らないままでいて。
(君が元気でいてくれたら、僕はそれだけで十分なんだ)
その未来を得るためだけに、ディランは絶望に剣を突き立てた。
悪夢を踏みにじり、憎悪を鋼に変え、”本来の歴史”を怒りの炎で燃やし尽くし、今日を得た。
望むものはただ一つ ─── グレースが笑っていられる未来。
それだけだ。
このあとグレースが張り切った熟女メイクで迫ってくることを、ディランはまだ知らない。