倉井柚葉
倉井柚葉として生きることに、もう疲れてしまった。
ならいっそのこと、今世の私は捨ててしまおう。
前世の記憶が蘇るきっかけは、特にこれといった大きな出来事はなかった。
ただ、学校の屋上から飛び降りようとしただけ。
私が死ぬ前に、と無慈悲な神様が最初で最後の贈り物をくれたのだろう。
記憶が蘇ったあとは、オト・ヴァーゴとして織姫を探した。
倉井柚葉は死んだ。
今の私は『オト・ヴァーゴ』だ。
織姫からの愛を受けていた『オト・ヴァーゴ』。
必要とした愛も貰えなかった倉井柚葉はもういらない。
自殺をしようとした私に目覚めた力と蘇った記憶は、『私』を殺した。
「ただいま」
「おかえりなさいあなた!柚葉、もうかけ算が出来たのよ!」
「すごいなぁ柚葉」
仕事から帰ってきた父は、いつも疲れた顔をしていたけれど、私をその光の無い瞳に映すとびっきりの笑顔を幼い私に向けてくれた。
その笑顔を見た瞬間、感じていた寂しい気持ちが全て吹き飛んだ。
花になったんだ。今までしてきた努力は、全部無駄じゃなかったんだ。ちゃんと、花を咲かした。
私の頭を撫でる父と、嬉しそうな母。
両親は共働きで家にいることが少なく、三歳年上の姉は毎日どこか遊びに出かけ、夕方まで家はいつも私一人だけだった。
(私がもっと頑張って勉強をしたら、お姉ちゃんも一緒に家にいてくれるかな)
きっといてくれるだろうと、そう信じて疑わなかった。
そして小学三年生になった頃。
私の努力はたった一言で無駄なものとなった。
先生に頼み込んで一時間だけ補習を受けさせてもらったある日のこと。
クラブ活動で上級生と同じ下校時間になり、多少の周囲の視線を感じながら帰宅路を歩いていた。
家に一歩近づく度、心臓がドキドキとうるさかった。
(今日はお姉ちゃん、いるかな)
あぁ、でもいたら何で遅かったか聞かれるかな。
補習を受けていたって言ったらどんな顔をするだろう。
もしかしたら、本当にわずかな可能性だけど。
(これからは一緒に帰ろうって言ってくれたりして)
あり得ないとはわかっている。けれど、心のどこかでそうあって欲しいと秘かに願っていた。
ずっと、クラスメイトが話す姉妹像に憧れていた。
一緒にショッピングに行ったり、髪を結んでもらったり、もしかしたら恋愛の話だって出来るかもなんて夢ばかり見ていた。
(…本当に、バカだわ)
「私の妹だよ」と紹介してもらえるようなかわいい妹になりたかった。
帰宅路を歩いていると、近くから子供の騒ぎ声が聞こえてきた。
その中の一つに聞き覚えがあった。
(お姉ちゃん?)
さきほどまでずっと、その人のことばかり考えていた。
無意識に駆け足になる。
ワクワクとした感情を抑えることが出来ない。
この時間に帰っている私を見てどんな顔をするかな?怒る?それとも心配してくれる?
どちらでもいい。
私に興味を持って欲しい。
声の場所は、家から五分ほど歩いてすぐの空き地だった。
姉と姉の友だちだと思える三人は同じベンチに座り、こちらに背を向けていた。
(後ろから驚かしてみようかな)
姉が私に興味を示してくれるのなら何でもいい。
足音を立てないよう慎重に姉の元へゆっくりと向かう。
「それにしても」と残り八歩ほどのところで姉の友だちが話し出した。
「紅葉の妹ちゃん、ずっと家に放ったらかしで大丈夫なの?」
ドキリと心臓が跳ねた。動かしていた足もピクリと止まる。
姉は何て答えるのだろう。
その答えが気になって仕方がない。
「あいつはどうでもいいよ。怪我してても火傷してようと私には全く関係ない。あ、でも親には隠してもらうよ。私が家にいないってことばれちゃうじゃん」
「本当に柚葉ちゃんの姉かよ」と言っている姉の友だちの声は、もう耳に入ってこない。
(…どうでもいい?)
その言葉がずっと頭のなかで何度も繰り返している。
これは悪い夢だ。
絶対にそうだ。
分かっているのに、足が草で縛られたように動けない。
(お願いだから、夢なら今すぐ目覚めて)
こんな悪い夢を見せるなんて、神様もよっぽど悪趣味だ。
顔に嫌な汗をかいていると、ふいに姉が後ろを振り返った。
その表情はまるで目障りなものでも見ているかのうで。
ゴクンと唾を飲み込んだ。
怖い、怖い、怖い。
この表情は、嫌というほど何度も見てきた。そしてそれは、いつも私だけに向けられる。
姉が私に本物の笑顔を見せてくれることは、人生で一度もなかった。
だから、ずっと勉強を頑張ってきたのだ。
いつか、私の努力を認めてくれて、私といっぱいおしゃべりしてくれると信じて。
父が私に見せてくれた笑顔と同じく嘘じゃない純粋な笑顔を。
「気持ち悪い」
それももう、叶うことはないけれど。
「倉井柚葉さん、全国模試一位おめでとう」
全校集会を開くほど大袈裟なことでもないだろう。
全校生徒が「すごい」とか「やっぱ倉井さんは違うな」なんて褒め言葉をくれるけれど、私が欲しかった人から貰えなければ意味がない。
「ありがとうございます」なんて思ってもいないことを告げる。もう慣れてしまった作り物の笑顔を貼りつけ、回れ右をする。
すると教師から拍手が始まり、次第には生徒まで伝播した。
(でも、ほら)
一人だけ、私の姉はどうでも良さそうな顔で指遊びをしていた。
(私を見てよ)
先生だって見てるんだから、指じゃなく私を見てよ。
自分の妹の晴れ舞台だ。なのにどうして、私を見てくれないの。
無性に泣きたくなってしまい、我慢できず壇上の上で涙を溢してしまった。
体育館を包み込んでいた拍手はピタリと誰が合図したわけでもないのに止まり、教師は慌てた形相で駆け寄ってきた。
ぼんやりと視界が涙で見えなくなり、これ以上醜態を晒すわけにもいかず俯く。
姉がどんな表情で私を見ているかなんて、もう分からない。
きっとまだ指遊びをしているのだろう。
(もう、限界だ)
保健室に運ばれたあと、白い天井を泣き疲れた頭で眺めていた。
(紅葉お姉ちゃんには、もう何をしても伝わらないんだ)
先生はさっき全校集会に戻ると私に伝えると、保健室を出ていった。つまり、今この部屋にいるのは私一人だけだ。
どれだけ努力をして結果が出ても、それは私が望んだ結末じゃない。
これから何を目標に生きたらいいのだろう。
どんなに凄い目標を達成しても、私の願いは叶わないと自嘲する。
それなら、生きていることに何の意味があるのだろう。
もう今の私に生きる意味も価値もない。
世間様は私を凄い人だと言うだろう。
何が凄いのだ。
認めて欲しい人に認められない人間の何が、凄いというのだ。
幼い頃からの夢を、十五歳になった今も諦めきれず叶えられていないというのに。
パティシエや俳優などとは違う。
たった一人の笑顔で叶う夢。
「…疲れた」
全校集会のおかげで誰にも気付かれず屋上まで来れた。
フェンスに手を着き、何のためらいもなく身を乗り出す。
自殺をする前に相談だなんて言うけれど、本当に出来る人なんているのかな。
何かあったけど、誰にも相談できない。心配をかけるわけにはいかない。人間関係を崩したくない。いつか、こんな気持ちなくなる。
ずっと苦しんで抱えてきた悩みが、一瞬で綺麗さっぱり解決するわけでもない。
(何よりも)
悩みの原因にもしも、その話が知られでもしたら?
考えるだけでも死にたくなってくる。
いや、殺されるかもしれない。
「ありがとう、紅葉お姉ちゃん」
私の生きる希望。
フェンスから手を離そうとした瞬間。
『柚葉』
幼い頃、まだ姉が私を見ていたときの優しい声と笑顔が脳裏で鮮明に再生された。
(やっぱり私は、まだ死ぬ訳にはいかない)
もう一度姉に見て欲しいから。笑って欲しいから。
屋上から出ようと固いドアを開けようとしたとき。
『オト・ヴァーゴ・スピリット・オープン』
どこからでもない私自身から声が聴こえ、体が淡いピンクの光に包まれた。
「…なにこれ」
顔の前で腕をクロスする。
『目覚めなさい、若きガーディアン。そして私に体を譲渡するのよ』
「…嫌だ」
断ると、急に体が重たくなった。
地面に膝を着いてしまい、完全にひれ伏さないよう手を地面に着きながら支える。
誰かも分からない人の誘いになんてのらない。
私はもう、決めたんだから。
『あなたは必要とされているわ』
その言葉にさきほど決めたはずの心が揺れる。
『この力を手に入れるとあなたは、みんなに愛される』
(『みんな』なんて不特定多数から貰う愛なんて愛じゃない)
『あの紅葉お姉さんにもね』
その言葉にカッと頭に血が昇った。
「人の心に土足で踏み込まないで!」
誰かも分からない行き先のない場所に言葉を放つ。
『…手強い女ね。しょうがないわ、見せてあげるわよ。私とシータ、マコの三人で綴った思い出を』
『ヴァーゴ・レコレクション』
誰かがそう言った瞬間、体は空から何かが落ちてきた重みに耐えられず床にひれ伏せた。
「これが、地球人の体」
『返せ、私の体。紅葉お姉ちゃんに』
「安心しなさい。あなたの未練は完全に消してあげるから」
『…何を言っているの』
「あなたはもう死んだのよ。倉井柚葉さん?」




