山神さま
ソメイヨシノ、ナンキンハゼ、ハナミズキ、ニシキギ、マンサク、カツラ、ドウダンツツジ。
夏を過ぎて、紅葉した葉が山を色彩豊かに彩っていく。
シュウカイドウ、リンドウ、ツユクサ、アザミ、ロウバイ、ヤマギク。
夏の熱気が欠片も残らぬ涼風が、落ち着いた色合いの草花を揺らす。
ツルウメモドキ、カラタチ、ヤマボウシ、ヤマブドウ、サネカズラ、フユイチゴ、ムクノキ、アケビ。
夏の暑さを受けて甘く熟した実は山の動物たちの腹を満たし、来たる厳しい冬の蓄えとなる。
積み重なった落ち葉を動物たちが踏みしめる度に音を立てて砕ける。
小さな赤い実、たわわな青い実、熟れた黒い実を啄む鳥たちの歌声が色彩豊かな山にこだまする。
落ちた木の実を小さな動物がせっせっと集めて巣へと運んでいく。
鳥の声、獣の気配、流れる水の音。
生命に満ちた山の気配を感じて仰げば、高い木々のその向こうに薄い雲をたなびかせた青い空が広がっていた。
赤色、黄色、黄土色、緑色。
ビュウと吹いた風が木々の枝を揺らし、ハラハラと色鮮やかな葉が舞い散る。
舞う葉は綺麗なのに、地面に落ちた葉は土と混じって汚く見えた。
枯れた落ち葉をザクリと踏み締めて、奏多は慎重に山の中を歩いた。
擦りむいた膝小僧や腕がヒリヒリとして痛かったが、頑張って足を動かす。
その懸命な様子に、奏多の左手を繋いでいた老婆は空いた手でその頭を優しく撫でた。
「坊はすごいな。いてぇの我慢できる、強い子だぁ」
老婆の優しい声に奏多は「だってもうすぐお兄ちゃんだからな!」とニカリと笑った。
「そうか。そうか。兄ちゃんなら強くならねばの」
褒められたのが嬉しくて、握った手に力を込めてさっきよりも足早に山道を下ってけば、老婆は慌てたように追いながら「速い速い」と笑った。
老婆は物知りだった。
腹が減ったと言えば甘い木の実を取ってくれ、喉が渇いたと言えば小さな川まで連れて行ってくれた。
木の実は甘く熟していて瑞々しかったし、川の水はとても冷たくて美味しかった。
そうやって歩いていると、不意に老婆が立ち止まった。
見上げると優しく笑った老婆が繋いだ手を離し、奏多の両肩を後ろからギュッと掴んだ。
顔の横から皺だらけの細い指が奏多の前をまっすぐに指差す。
奏多の前にだけ木がなく、陽の光が落ち葉の道を明るく照らしている。
「ええか。こん道をまっすぐお行き。この先に坊のおっかぁがいる。振り返っちゃなんねーぞ。いいな、まぁすぐ、おっかぁのとこにお行きな」
大切な事を教えるような老婆の重い言葉を聞いて奏多は緊張しながらしっかりと頷いた。
「ええ子だ」と頭を撫でられ、とん、と背中を押された。
導かれる様に前へ前へと歩き出す。振り返りたい衝動に駆られる度にグッと唇を噛み締めて足を動かす。その度に老婆の「ええ子だ」という柔らかな声が聞こえた気がした。
あの日は雪が降っていた。
灰の空から落ちてくる小さな雪が息子の頭や肩に積もっていく。
大きな背に背負われ、人一人を背負ってもよろけもしない体に、大きくなったと純粋に感動した。
吐いた白い息がまるで雲のように空気に漂う。その合間に小さな声が吐き出される。
「すまねぇ。すまねぇ」
もう骨と皮しかない手を動かし、息子の頭の雪を払ってよしよしと撫でてやる。
「なんも、なんも。来ると言うたは儂じゃ。なーんも、気にすっことなか」
それでも息子は謝るのだ。
「すまねぇ、おっかぁ、すまねぇ」
その度に努めて明るく「なんも、なんも」と応えるのだ。
気にすることはない。老いた者が先に逝くのは物の道理。
日照りが続き、米も野菜も出来が悪かった。近隣の村も似たようなもので、皆が食うに困っていた。寝たきりの老人に食わせる食べ物さえ惜しいのも仕方ない。
孫がひもじいと泣く度に、嫁から苛立ちをぶつけられる度に、息子の背が小さく丸くなる度に申し訳なさが込み上げていた。
そうして自分から言い出せば、息子は涙を流しながら黙って頭を下げた。
大きな木の根元に下ろしてもらう。
身につけた蓑はもう要らぬと言ったが、息子は泣きながら首を振った。
最後まで泣きながら「すまねぇ」と謝る姿に笑って頭を撫でてやる。
もう子どももいる男が泣くもんでねぇ。
「振り返っちゃなんねぇぞ。真っ直ぐに帰るんだで。ええな」
無言で首を縦に振る姿に、悪戯を叱られた幼かった頃を思い出した。
ええ子だ。
寒さに凍ることのない涙を流す息子の背中をそっと押す。
もう何も背負っていないのに、よたよたと歩く息子の背中をじっと見ていた。言われた通りに振り返らず帰って行った事を心の中で褒めると、座り込んだまま目を閉じた。
あぁ、冷てぇな。
冬の山は陽が落ちるのも早い。
薄暗い山の景色を掠れた目で見ていると、うっすらと積もった雪を踏みしめて黒々とした大きな熊が現れた。
白い息を吐きながらこちらをじっと見ている。
悪いなぁ。こんな骨と皮だけの婆では食い甲斐もなかろう。
それでも腹の足しにはなるだろか。
熊がのそりと近づいてくるのが分かったが、老婆は穏やかに微笑んで目を閉じた。
獣臭さが近付いてくる。痛みは少ないといいと願いながら、ふぅと息を吐いた。
痛みは無かった。
何かに包まれるような感じがした。まるで幼い自分を抱きしめてくれた母のようだった。
あぁ、あったけぇな。
その山には山神様が現れるという。
道に迷った者に帰り道を示してくれるその姿は鳥だったり、鹿だったりと定まってはいない。
だが、出会えば必ず家に帰れる。
登山中に親とはぐれて遭難した子どもが、2日後に麓の近くで発見された。
擦り傷以外に怪我はなく、母親目掛けて駆けてくるほど元気だった。
はぐれてからの様子を聞けば、子どもは「おばあちゃんが手を引いてくれた」と答えた。
子どもが話す特徴をもった老女の登山履歴は無く、薄い着物に蓑を身に纏っていたという老婆に該当する人物もいなかった。
ただ、おばあちゃんが歌っていたという歌を聞いた町の年寄りが、それは古くからこの土地で歌われる子守唄だと教えてくれた。
町の年寄りたちは「山神様だ」と密やかに囁き、山に向かって手を合わせた。
*おわり*
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