プールサイドの凶星
『星花女子プロジェクト』第三弾キャラ・水垂志緒子先生誕生日記念短編になります。
並の胸の持ち主に並ほどない胸の持ち主の苦痛などわかるまい。それと同じで、恋愛をしたことのないものに失恋したものの痛みなど理解できまい。
そういう意味では、私はあまり友人に恵まれずにいた。いや、私に彼女らを誹謗する権利はないだろう。
高等部に上がったとはいえ、恋愛にうつつを抜かす女子は少ない。それが中高一貫の女子校であればなおさらだ。私の恋愛は、ひとたび一人反省会をおこなえば、ずいぶんと急ぎすぎたように思えてならない。
『彼女』は中等部の桜花寮に入ってから、私と最も好意的な時間を共有したものだが、何でも受け入れてくれると決めつけてしまったのは、私の完全な思い上がりだろう。ルームメイトの彼女は恋愛についてまだ真剣に考えられる少女ではなかったのだ。ましてや同性どうしの恋愛なんて、慮外の果てにあったに違いない。いつも優しく親身に接してくれるものだから、私はつい勘違いをし、平坦といわれる表情の下で慕情の煙を焚き続けていたのであった。
ルームメイトの困り果てた反応によって私の妄執は鎮火されたものの、いまだに火種がくすぶり続けているのがわかる。早く振り払って、いつものルームメイトどうしの関係に戻らないと彼女にいらぬ気を遣わせ続けることになってしまう。
私は気晴らしにと思い、プールバッグを肩にかけながら星花女子学園の体育館に向かった。地下が屋内用プールになっており、水泳部の面々が一年中練習に励んでいる。いちおう部員以外の生徒も使用していいことになっているが、空っ風が吹きすさぶ一月にわざわざ入りたがる酔狂者は私ひとりで十分だろう。
もの悲しい音を立てながらひとり階段を降りるあいだ、私は考えてしまう。私も結局、恋愛の何たるかを理解してなかったのだろうか。そもそも相手の事情もわからずに自分の思いを押しつけたわけだから恋愛以前の問題である。
私のやきもきが白い吐息となって冬の空気と混じり合う。本日の水泳部の練習は終わっているはずだが、誰もいない脱衣所には暖房がついたままだ。それでも着替えるには肌寒さを痛感せずにはいられず、スクール水着に着替え、髪の毛をスイミングキャップの中に押し込んでしまうと、それがよりいっそう顕著だ。繰り返し言うが、並の胸の持ち主に並ほどない胸の持ち主の苦痛などわかるまい。
それでも泳ぐことは嫌いではなかった。私は水泳部ではなかったが、精神の負債を抱えてしまったときは気晴らしによく泳いだものだ。夏が過ぎてからはすっかりご無沙汰であったが。
脱衣所に先客がいた。いや、まだ残っている人がいたと言うべきだろう。畳まれていたものは明らかに女子高生のそれではなかった。
(水垂先生、まだ残っているのか……)
中等部の数学教師である水垂志緒子先生は水泳部の顧問でもあるのだ。部活が終わった後に残っていても不思議ではないが、正直、私はこの先生にあまり好感を持っていない。教え方は周りの評判どおりと思うのだが、表情はいっつもしまりがないし、言葉尻は子どもっぽく間延びしていて精神にくるのである。『頭にいくべき栄養が胸にいっている』の俗説が頭をよぎるのは、間違いなく私の僻みによるものだが……。
プールサイドにおもむくと、涼しげな水音が広い空間を打ちつけていた。志緒子先生は二五メートルコースの半ばほどを美しい形のクロールで泳いでおり、シンプルな競泳用水着で、艶やかな黒のショートカットにはスイミングキャップを着けていない。
志緒子先生の泳ぎっぷりを過去に見たことがあるが、あの恵体でよくあのスピードが出るなと感心したものだ。これなら教師を辞めてもインストラクターでも食べていけそうに思えたが、彼女が少年少女の水泳を受け持つことを想像すると、やはりむいていないような気がする。少年は志緒子先生に舞い上がり、少女は志緒子先生が舞い上がるのが目に見えている。
私は何となく立ち尽くして先生の泳ぎっぷりを眺めていた。大して待つこともなく先生はプールの端まで泳ぎ着き、梯子に手をかけた。大きな水音とともに肢体が外気にさらされる。
「…………っ」
瞬間、私は息の詰まる思いをした。血流が必要以上に駆けめぐっており、身体をほのかに熱くさせているのがはっきりとわかった。
私が見たのは志緒子先生の横姿だった。だが、私が見たのは明らかに私の知っている志緒子先生ではなかった。
みずみずしい柔肌は競泳用水着とともに水気を受けて照り輝き、素材を力強く押し出すバストとヒップは、嫉妬にかられるより先に形づくられた流線美で見るものを圧倒させた。質量は豊かであるのに、動作はむしろ軽やかで、自然なようすで濡れた髪をかき上げる仕草も洗練された美しさがあった。
そして、ややうつむき気味な志緒子先生の横顔は。
私にはそのときの先生の顔を正確に表現することができなかった。ただ、いつもの気の抜けたようすはなりをひそめており、思わず息を呑むような静けさに満ちていた。表情に退廃さは見られないはずなのに、近寄りがたい空気が張りつめ、濡れて乱れた黒髪が普段とは違う一面を作るのに一役買っていたようであった。
常にそのような表情をしていれば私の持つ印象も変わっていただろうに、そう思っていたとき、先生が私の姿に気づいた。こっちを向いて愛嬌のある瞳をしばたたかせる。
「…………ほえ?」
なんともふぬけた声が、私の細い身体の呪縛を解いたようだ。いつもの志緒子先生の顔になぜか安堵してしまった私に、先生は喜色を顔面に照りつけながら歩み寄ってきた。
「おーおー、久しぶりのおきゃくさーん。よかったらせんせーといっしょに泳がない?」
至近距離に先生がいる。このとき、初めての感覚が私の中で駆け足していた。
あの時の先生を見なければこうはならなかったのか。だが現実、あの姿によって、私の中で志緒子先生という存在が違う意味で変わりつつあろうとしていた。先生の顔が、先生の身体が、私の近くにあるというだけで、私は今の自分がどんな醜態をさらしているか焦ってしまう。
私はせいぜい普通の口調を装って先生の誘いをはねのけた。
「いえ……。私はひとりで泳ぎたいので」
「あーらら。じゃあせんせーは今からあなたの泳ぎっぷりをチェックさせてもらおうかしらー」
「なっ、どうして……」
「ふふーん、これもせんせーの大事なお仕事なのです。教え子がプールでおぼれたとなれば一大事なわけだもんねー」
なるほど、確かにまっとうな理由だ。だが、それなら別の先生を呼んでくれとわがままを言いたくもなってしまう。コンディションを期待するつもりなら明らかに不適格な人材だ。
「あーっ、そうだった」
「どうしました、いきなり」
「わたしが帽子かぶってなかったことは黙っててくれるー? ばれたら部員たちに示しがつかないもん~」
「はあ……別にいいですが」
他にもいろいろ思うことはあったが、それらをすべて呑み込んでしまうと、私は志緒子先生の朗らかすぎる声援を受けるかたちでゆらめく水面に勢いよく飛び込んだ。
先生にまじまじと見られている以上、形式ばった泳ぎ方しかできなかったが、できるものなら果てるまでもがいていたかった。頭にうろつき回る小さな虫を追い払うかのような心地で。
今の私は泳ぎながら何かに縛られていた。流星を見た確率でとらえてしまったレアシーンがこの先、私のことをとらえ続けるというのだろうか。珍しいものが常に当事者に都合のいいものをもたらすとは限らないというわけだ。それどころか最悪『凶星』になりえる存在に化けるのではなかろうか。まあ、私は高等部に上がったから、以後プールに向かわない限り、中等部の凶星とは滅多に会うことはないだろうが、そう思うと、なぜだが謎の罪悪感に包まれてしまう。
プールや海で溺れたことのなかった私は、またしても「足を取られる」の意味を痛感してしまうのか。