始まる前に終わった恋のはなし
最初の問題は、最後に解いてね
この問題解けるかな?
空の青。
縁側の赤茶。
朝の焼き立てパン。
おじいちゃんの花札。
臨海学校で拾った桜貝。
炬燵に入って食べるアイス。
追記:お母さんが買ってきたお土産、冷蔵庫にあるから食べても良いよ(ショートケーキ)
どこまで行くんだ。もうちょっとー。
間延びした声が木立の間を行ったり来たりする。
夜明け前の山は標高にも依るだろうけども、結構寒い場合が多い。まだ日も登らない内から叩き起こされて、噛み殺しきれなかった欠伸をひとつ落としながら、直人は美帆の背中を追った。
「危ないからもう帰ろうぜ」
「ヤダ」
頬を膨らませ、美帆は頑固に首を振った。
普段なら首根っこ引っ掴んで引きずり帰るところだけれど、直人はぐ、と言葉を飲み込んだ。直人が強く言えない理由がある。それは、
「なおちゃんがなぞなぞ解けなかった罰ゲームだもの」
そう、直人が美帆から出されたなぞなぞが解けなかったからである。
二人の間では当初空前のなぞなぞブームが来ていて、今でも一日一問、交代で問題を出し合っては解いているのだ。パンはパンでも食べられないパンは?から始まり、秋、春、夏、冬の順で四季が来るのは?なんてちょっと難しいものまで多様に。時々とんでもない長文が来ることもあるので、要注意なのだ。解けなかったら罰ゲーム。でこぴん、しっぺ、洗濯ばさみ付け、おやつの譲渡。
ずんずんと進む美帆の背中を見つめて、よっぽど前回与えられた罰ゲームを根に持っているらしい、と直人は溜息を吐いた。ちなみに顔にらくがきをした。頬にうずまきと下マツゲ、顎ヒゲと額に肉とも書いた。書いてるうちに楽しくなっていたのだった。正気に戻った頃にはやり過ぎだったと自覚したので、彼女のこの暴挙に苦言を呈すのはフェアではない。でもやっぱり寒いから帰りたい。あと眠いし。ちなみに、解けなかった問題が書かれた紙は正解が未だに解らないことがなんだか悔しいのでズボンのポケットに畳んで入れている。隙を見て答えを聞き出す所存だ。
「あ」
「‥‥なんだよ」
ぴたっ、と突然その背中が止まったから、直人は彼女のすぐ後ろで止まった。美帆はじっと東の空を見つめ、ぽつりとつぶやく。
「間に合わなかった」
東の空は随分と青が薄くなり、山の端は金色に縁取られていた。名残惜しそうに上へ向かう山道を見つめる彼女を見てすぐに、直人はぴんと来て聞いた。
「‥まさかだけど、頂上で朝日を見たいがために連れ出したとか?」
「そのまさかだけど」
沈黙。
はーっ、とそれはそれは大きな溜息を吐くと、美帆は不満そうに口を尖らせた。
「元々は、なおちゃんが言い出したんじゃない」
「いつ?」
「前にここに来た時、今度は頂上で見よう、って」
「それ、まさか園の遠足のときの事を言ってるのか」
「良い思い出だよね」
「そう言うのはお前くらいだ。僕はあの後の拳骨が痛すぎたから全部忘れることにしたぞ」
忘れもしない幼稚園の遠足、集団から逸れ遭難した直人と美帆は、無駄に広い山の中を延々と彷徨い歩き、昇る日を呆然と眺めたのだった。尚、勿論大人たちの方は大騒ぎとなり、捜索隊が組まれ一晩中探し回っていたらしい。明るくなってようやく見つけて貰えた二人は順に怒られ、美帆のじいさんにこさえられた頭頂部のたんこぶをしばらく擦ることになった。
思い出したくもない思い出だけれど、確かにそんな言葉を美帆に言った気がする。
「やっぱり、忘れてるよね。私も忘れてたもん」
「で、唐突に思い出して僕を連れ出したって寸法か」
「うん」
ニッコリと浮かべる笑顔に悪びれる様子は一切ない。彼女にとっては意趣返しと約束を守ったのを同時に熟せてご満悦だろうが、直人にとってはこの馬鹿早い時間に叩き起こしてそれか、といった具合だ。
直人はこういうときの彼女の屈託のない笑顔を悪魔の形相と呼んでいる。直人以外のひとにとっては人畜無害なそれだけど、直人を降参させるには十分な表情なのだ。
そうこうしている内に、山の縁が染まっている程度だった金色は広がり、白に近い金色の太陽が姿を見せ始めた。
「‥‥結局、頂上じゃないから約束を守ったことには、ならないかなぁ」
今から走っても、頂上へ辿り着くことは不可能だろう。ちょっぴり寂しさが滲む声音はびっくりするほど小さかったので、直人はさてどうするかと首の後ろをぽりぽり掻いた。
「あー‥‥、ええと」
「まぁ、最終目的は達成してるから、良いよね!」
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥」
「なおちゃん、どうかした?」
「別に‥‥‥‥」
勝手に復活するのかよ。
斯くして、陽が完全に山から離れて見上げるくらいの場所に収まった頃、美帆はやっと満足したのか、帰ろっかと直人に笑いかけた。直人は項垂れるように頷いて、腰を上げて体に付いた落ち葉と土を払った。今のうちにこっそり戻って何事もなかった風を装わなければ、また怒られるに違いない。幸い今は夏場なので、陽が昇ったと言ってもまだ五時手前だろうさっさと戻れば間に合うはずだ。ほら、と座ったままの美帆に手を差し伸べる。罰ゲームのラクガキの跡はなく、いつもの、美帆。
ふと違和感を覚えてぴたりと止まる。
くらりと揺れる眩む視界、ちかちかと、何処かの景色が映り込む。
かちり、と頭の中でピースが埋まった音がした。
動悸が激しくなる、目の焦点が合わなくなって、差し出した手がひどく遠い。なんで、どうして忘れていたのだろう。
美帆は直人の様子を見て、そっとその差し出された手に自らの手を乗せた。乗せて、その手は意図も容易くすり抜けた。精巧な3D映像のように、真夏の陽炎のように。彼女は笑って、それから言った。
「約束、破りたくなかったから」
だから今だけ、今だけ、こうしてここにいさせてもらったの。
「ふふ、でもなおちゃんが、私が死んじゃったからってふさぎ込むくらい落ち込むなんて。意外、って言ったら失礼かな」
罰ゲームのとき、彼女はまだ七分丈の服を着ていた。もうすぐ梅雨明けで、じめっとした暑さが目立つ六月の事だった。あの後盛大に喧嘩になったけれど結局すぐに仲直りして、それから美帆に問題を出されたのだ。
夏を見る前に、美帆は交通事故で死んだ。
直人が、問題の答えを間違えた日の翌日の事だった。
「‥‥‥‥美帆」
まともに動かない口をどうにかこうにか働かせて、彼女の名前を呼ぶ。すると、美帆はとてもとてもうれしそうに笑った。
「なぁに、なおちゃん」
とてもはかない笑みだった。
黄金の日差しが美帆を照らして、その姿が少しづつ、透明になって行く。向こう側の景色が見え始めて、彼女を構成する全てが、解けていく。消えて行く少女を前に、ようやく直人は一歩踏み出した。
踏み出して、口を開いて、それを他ならぬ少女本人に止められた。しぃ、と昔に美帆のじいさんの叱責から逃れて隠れたときのように、声を潜めて、呼吸を惜しんで。
その先を言ってはいけない、と。
「あの問題、解かなくても、もういいよ」
美帆は笑んだ。泣いてるみたいな笑顔だった。
もう彼女の姿は輪郭しか残っていなかったけれど、それでも直人は手を伸ばした。確かに触れたと思えたのは一瞬、次の瞬間には、長い事隣に在った少女の姿は消えていた。跡には、眩しい日照りが、少女の残滓のようにそこに残るのみ。
自分の両掌を見つめて、握り込んで、それからポケットから紙を取り出した。問題をもう一度読んで、それからその場にしゃがみ込んだ。
とても簡単なことだったのに、どうして気づかなかったのだろう。それは。
冒頭の問題の題『わたしの大切なもの』
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