夜の街を行く
夜の街が月を連れて僕の足を前へと運んだ。夜と月と僕は互いにヤマアラシのジレンマを抱かないように一定の距離を保ちながらも、それぞれ同じ場所に向かっているようだった。彼らと僕は基本的によく似ていた。寡黙であること、孤独であること、内省的であることの3点において。その友好関係に僕は居心地の良さを感じていた。一方、街は、とりわけ夜の街の性質は夜や月や僕のそれと180度異なっていた。五月蝿く、野蛮で、恣意的だった。しかし、街は時に僕に力を与えてくれるのだからその存在は決して憎めない。人は自分と違うものに惹かれる、というのは皆が押し並べて思うことである。僕も大体の人間と似た感じ方をするようだ。とにかく、僕は夜の街を歩いていた。
時計を見る。午前一時十三分。僕が深夜にこうした状況にあるのは他でもない。最終電車を乗り過ごしたからだ。或いはもう一人の自分がそうさせたのかもしれない。彼女のアパートに帰る頃には、月も夜も各々家路に就くだろう。ゴキブリのように群がるタクシーの一つでも拾ってやろうかと思ったりもした。が、困ったことに僕の財布には小銭が数枚、申し訳なさそうに顔を覗かせているだけだった。これでは24時間営業の外食チェーンに世話になることもままならない。彼女はもう眠っているだろうか。彼女のことを考えると不意に脳がフリーズする。〈今夜は遅くなる〉とメッセージを入れておくことで思考停止問題を頭の隅に追いやった。そして再び、僕は夜の街を行く。
僕は歩くことが嫌いではない。そうすることで余計なことを考えなくて済むからだ。ウォーカーズ・ハイを利用して邪念を殺すことを目論む。しかしながら、時折視界に散らつく黒々とした影が僕を混乱の淵に誘った。その正体は何てことはない、僕の伸びきった前髪だった。最後に切ったのはいつだったろう。そんなことはもはや遠い過去の出来事のように思える。近頃、色々なことを忘れやすくなってしまった。丁度近視が進行していくように。生まれてこの方、四半世紀。まさか老化が始まってしまったのかと疑ったが、生きている限りそれは当たり前のことだった。この髪が伸びるのと同じスピードで俺は毎日死に近付いていくのだ、と僕は思った。それに抗うようにしてこうして歩いたり、歌詞を書いたりしているのだ。それでいい。死は放っておいても勝手にやって来る。僕は僕で気が向いたら髪を切るし、疲れたら立ち止まる。そんな風に日々を過ごせたらラッキーだろう。
「本当にそれだけでいいの」エリカは言う。構わない。これは僕の人生で、それは誰にも邪魔することは出来ない。彼女からメッセージが入る。午前二時二十七分。〈気を付けて帰ってきてね〉一体何に気を付ければいいのだろう。僕には分からなかった。