罪と罰の箱庭
この小説は桜ノ夜月さんの、『言えなかった告白企画』に参加させていただいています。
ふわり、と。甘い花の香りのする風が少女の頬を撫でた。
一面ガラス張りの小さな部屋には、美しい花々が咲き乱れ、透明な陽光が優しく、眩く降り注ぐ。
カチコチと時を刻む音と、小鳥のさえずり。どこからかせせらぎさえ聞こえてくる。柔らかな旋律に乗って、鮮やかな蝶が舞う。
美しく穏やかな箱庭の中心で、金属が軋むような音がした。
精緻な彫刻が施され、造花で飾られた優美なそれは、車椅子だった。
キィ、と音を立て、少しだけ進む。車椅子にもたれて、少女が一人ぼんやりと虚空を見つめている。
薄茶色のふわふわした髪が折れそうに華奢な肢体を包み、流れている。色素の薄い瞳、薔薇色の頬、つやつやのさくらんぼのような唇。小さな顔には生気がなく、人形のようだ。
と、その時、誰かが走ってくるのが聞こえた。
少女の瞳が揺れた。哀しみと喜びがごちゃ混ぜになったような表情になり、それらは結局、何もなかったかのように霧散した。
軽いノック音。少し間を置いて扉が開き、レースのカーテンが左右に割れる。
「おはよう、彩綾。昨夜はよく眠れたか?」
涼しげな声に、彩綾と呼ばれた少女は唇をほころばせた。顔を上げると、背の高い青年が慈愛に満ちた眼差しで彩綾を見つめている。
「はい。おかげで起きるのが遅くなってしまいました。申し訳ありません」
「気にするな。今日は学校も休みだから、俺も問題ない」
切れ長の双眸をそっと細め、青年は静かに微笑む。
優しく、大人びた微笑。鼓動が速くなるのと同時にちくりと痛んだ。
「涼君こそ、ちゃんと寝てますか?疲れているように見えます」
涼君、と。彼を呼ぶだけで声が震えてしまう。彩綾はいつまでも臆病なままだ。
「もちろん寝ている。体調を崩しては元も子もないからな。……さて、今日は何をしようか。彩綾のリクエストがあれば、何でも答えよう」
涼が膝を地面につき、彩綾に目線を合わせて問いかける。まるで従者のように。
本当は、彼にこんなことをしてもらう権利はないのに。その優しさに、癒えない傷につけこんで。
(わたしは、最低です。地獄が本当にあるなら、間違いなく堕ちるでしょう……ね……)
それでも。
自分の醜さをわかっていながら、罪悪感で窒息しそうになりながら、それでも。
「じゃあ、いつものリクエストです。涼くんの時間を、わたしにください」
「……喜んで」
もうわたしには、貴方しかいません。
彩綾が涼の屋敷で生活するようになったのは一年前。
同じ高校の同じクラス。けれど、涼は彩綾のことなど知らなかっただろう。
名家の御曹司であるというだけで注目を浴びるのに、学級委員を務め、尚且つ文武両道。少々生真面目すぎるが、礼儀正しく優しい、憧れの的だった。
対して、彩綾は貧乏人だった。
父は別の人と再婚し、母もずいぶん前に金をあらかた持って行方を眩ませた。月に一度、父だった人から送られる養育費だけが命綱のみじめな人生。
仕方ないのだ。これは彩綾の運命であり、誰を責めることもできない。とっくに諦めていた。
だから、涼のこともただ憧れて、遠くから眺めているだけでよかったのだ。そのはずだった。
あの日までは。
その日は、雨が降っていた。
銀色の針が曇天から降り注ぎ、押し包むように惨めな彩綾を嘲笑う。ふらつく足が水たまりに踏み込み、ぱしゃんと跳ねた。
(はやく、はやく、かえらない、と)
ぼやける意識を無理に引き止める。帰らないと、いけないのだ。
さざ波を描く髪も制服もまとわりつく。ボロボロのローファーは水浸しで、手足の痣が痛々しく浮かび上がっている。
傘はなかった。
正確には隠されたのだ。捨てられたのかも、壊されたのかもわからないけれど。
血の気の失せた唇を噛み締め、どうにか前に進む。だが、足が思うように動かない。
(寒い)
傷だらけの腕で自分の身体を抱く。意味なんてない。どうしようもない虚しさが増しただけ。
くすくすと笑う声が聞こえた。何か言っている気もする。雨?人の声?
彩綾は朦朧とするあまり、音まで判別がつかなくなっていた。先ほど、階段から突き落とされて頭を打ったせいかもしれない。
(でも、大丈夫)
彩綾は大丈夫。生きているし、養育費もまだもらえているし、どうにか歩けてもいる。だから大丈夫、大丈夫なのだ。大丈夫ダイジョウブだいじょうぶ。
大丈夫じゃないとダメだから、だいじょうぶなのだ。
「そ、う……大丈夫。わたしは、へい、き」
「そんなはずないだろうっ」
突然、聞こえるはずのない声がはっきりと聞こえた。遠い遠い、憧れの人の声が。
彩綾は焦点の合わない目を必死に向けた。
輪郭も背景もぼやける。けれど、確かに、
「りょ……う、くん?」
涼が驚いたように目を見開いた。慌てて彩綾に傘を差しかけ、
「俺を知って……いや、今はそんなことを言っている場合ではない。君はうちの学校の生徒だな?何があった?」
涼が彩綾の顔を覗き込むようにして尋ねる。
残念だ。せっかく涼の声をこれほど近くで聞けるのに、何を言っているのか理解できない。目が、霞む。
涼の顔がどんどん青ざめていく。何かを必死に訴えているようだが、彩綾にはわからない。
(ごめんなさい。本当にごめんなさい)
もう喉も言うことをきかないので、心の中で謝り続ける。精一杯の気力を振り絞って、唇をつり上げた。
すると、とうとう涼の顔から血の気が失せ紙のように白くなった。
「……して、……が?……このままでは……。待っててくれ、すぐに戻る」
何かを早口で言うと、涼は雨の中に飛びこんだ。
青から黄へ、そして赤に変わった光の目の前に。
水飛沫が上がり、空から降ってくる針と混じりあい、混乱する世界をいくつかの悲鳴が貫く。スラリとした涼の身体を押し潰そうと、車が突進してくる。ライトに目が眩んだ。
(ダメ)
ダメ。この人はダメ。
(死ぬなら、わたしじゃなきゃ)
地面を叩き揺らす雨の音。車の轟音。甲高い金属音。再び上がる誰かの悲鳴。
涼の顔が歪む。何かを叫びながら、彩綾に向かって手を伸ばす。
時間にしてみれば、きっとほんの一瞬だった。
彩綾が間に合ったのは神様のおかげだろう。それとも、やはり死神に愛されすぎたか。
どちらでもいい。
「涼君、わたしね……」
蚊の鳴くような囁きがかき消える。
最後まで告げることなく、彩綾の身体は光のない宙を舞った。
「すまない……。許してくれとは言わない……だが、謝らせて……ほしい……」
彩綾は虚ろな目で、苦渋に満ちた涼の顔を見上げていた。
空っぽの顔。力なくだらりとした四肢。血の気のない青白い肌。
まるで壊れた人形のような彩綾に、涼は謝り続けて、一体何日目だろうか。
「俺のことなど見たくもないだろう……。全ては俺の責任だ。けれど、どうか償わせてくれ。一生をかけて……」
何かを言いかけ、結局口を閉じてしまった。
(違う。涼君、違うんです。涼君は悪くないの。一つも悪くない)
心の中では答えられる。けれど、声には出せない。
出してはいけない。
涼は心底自分を責めていた。彩綾が涼を庇って車に轢かれたこと。そして、彩綾に対するクラスのいじめに委員長なのに気付けなかったこと。
涼は何一つ悪くない。それどころか、手術から入院まで全て用意してくれた。
もし涼がいなければ彩綾はこの世にはいない。全身を強打し、骨や内臓もやられていたが、どうにか手術で持ち直した。
上半身は。
涼が泣きそうな目で、毛布に隠された彩綾の足を見下ろす。もう二度と動かなくなった足を。
「俺のせいで……足が……」
低く掠れた声で呟き、涼は固く目を閉じる。苦しそうに、辛そうに。
(もし、もしわたしが、涼君にお願いしたら、涼君は救われますか)
涼は繰り返し言った。自分に何かさせてほしいと。償わせてほしい、と。
その時からひそかに抱いていた夢があった。いや、夢というよりは欲望。泥にまみれた最低な願い。そんなものを、この誠実で潔白な青年に背負わせていいはずがない。
だがもう、押さえておくには膨らみ過ぎたのだ。
彩綾は涼をじっと見上げ、ここ数か月間で初めて、口を開いた。
「りょ……くん」
涼がハッと目を開ける。心底驚いたように目を見開いたまま、体を震わせた。
そんな彼に、彩綾は最低な願いを吐き出す。
「涼君、わたし、とっても貧乏なんです。足も動かなくなっちゃったので、働く場所も限られてしまいました。学校にももう、怖くて行けません」
涼の顔が見る見るうちに歪んでゆく。品よく整った顔が青ざめるのを見て、罪悪感に襲われながら、更に彼の傷を抉る。抉って、抉って、抉って。
「怖いんです。世界のすべてが怖くて怖くて仕方ないんです。わたしに味方はいません。みんなが、こわい」
抉ったその心の内に、彩綾は逃げ込んだ。
「だから、助けてください」
涼がピタリと動きを止めた。一度大きく息を吐き、うつむく。
嫌われただろうか。愛想を尽かしたのかもしれない。
やがて、涼はゆっくり顔を上げて、
「……ありがとう」
安堵に満ちた笑顔で囁いた。
そうして、床に跪き彩綾の手を取る。
「俺の一生をかけて償おう。君の言うことを、俺だけは何でも聞いてやる。もう、君が傷つかなくていいように」
それが命を助けてもらったことへの感謝の証だと言って、もう一度微笑む。
(言って、しまいました)
これでもう、涼を縛ったも同然だ。誰よりも誠実で心優しい涼は、言葉通り一生をかけて償ってくれるだろう。贖罪の、ために。
彩綾はズルをしてしまった。ただ一つ、大事に抱えて守っていた恋心まで穢してしまった。もう二度と、涼に告げることはできない。
好きだと言えば、きっと涼は叶えてくれるだろうけれど。
(告白はしない……。私の心の中に、留めておきます)
それが、最後の意地。轢かれる間際に口にして、けれど伝えられなかった言葉。
一筋だけ零れた涙は、きっと、一生告げることのない告白のカケラだ。
甘い花の香りと穏やかな日差しに包まれ、今日も彩綾の日常はただただ優しい。
大事な人の人生を棒に振り、自分の想いも黒く染めた上での、箱庭の幸福。それでもいい。失いたくなど、ない。
涼がゆっくりと車椅子を押す。流れる景色を眺めながら、彩綾はふと囁いた。
「そういえば涼君、最近、すごく変なんです」
「変?具合が悪いのか?」
「いいえ、そういうわけじゃなくて……」
微かに言いよどみ、思い切って口を開く。
「足に違和感があるんです。それに、夢でよく歩いていて……おかしいですよね。もう一生歩けるはずがないのに」
苦笑いを浮かべて振り返り、息を飲んだ。
涼が真っ青な顔で凍り付いていた。切れ長の目を見開き、唇を戦慄かせ、信じられないという風に。
「……涼君?」
彩綾が不安げに顔を曇らせると、涼はぎこちなく微笑んで首を横に振った。
「何でもないよ。ただ、申し訳なくて、な……」
「そんなことないです!わたしは……」
涼君と一緒にいられて幸せです。大好きです。
そう言えたら、よかったのに。
「わたしは、大丈夫、ですから」
にっこり笑って囁くと、涼の手が彩綾の髪にそっと触れた。壊れ物のように丁寧に梳く。
「彩綾、一つ聞いてもいいだろうか」
「何ですか?」
「もし、……もしも、リハビリ次第でもう一度歩けるようになるとしたら、彩綾はどうする?」
彩綾はこてんと首を傾げた。
もう一度歩ける。それは喜ぶべきことだ。
(でも、そうしたら涼君と一緒にいられなくなる……)
それだけは嫌だった。涼が、彩綾の世界のすべてだから。
捨てられるくらいなら、死んだ方がマシだ。
「治したくないです」
消え入りそうな声で呟くと、髪を梳く手が止まった。
「治ったら、ここから出なきゃいけないでしょう?外の世界は怖いです。ここに……いたい……」
一番の理由は、涼と一緒にいたいからなのだけど。
涼の手が髪から離れる。まるで捨てられたような気持になり、心細さから振り返ると、涼の手には手折られたピンクの薔薇があった。
涼は器用な手つきで棘を取り、無駄な葉を落として、そっと彩綾に差し出す。
「いいよ。ずっとここにいていい。ここは彩綾の世界だから、誰もお前を傷つけないから、安心していい。傷つけるものは俺が取り払うから」
涼がどこか哀しげな瞳で、小さく笑う。真っ直ぐ澄んでいた切れ長の瞳が、暗く澱み始めたのはいつからだろうか。
涼を穢したのは彩綾だ。涼から自由と幸福を奪ったのも、彩綾だ。
それなのに、涼の言葉が嬉しくてたまらない。罪悪感から出た言葉だとしても。
(好きです。大好きです。……好きになって、ごめんなさい)
彩綾は懺悔するように目を閉じ、涼が手折った薔薇に口づけを落とした。
「ごめん……っ……ごめん、彩綾……」
喉から悲痛な声が漏れる。歯を食いしばり、唇を血が出るほど噛み締め、何度も壁を殴りつける。何度も、何度も。拳が真っ赤にはれ上がってもやめることはない。
彩綾を閉じ込めているガラス張りの部屋を出た涼は、自室に戻り、慟哭していた。
「俺が……俺さえ……いなければ」
近くにあった椅子を蹴り飛ばす。鈍い痛みが走るがどうでもよかった。彩綾の痛みに比べたら感覚とすら呼べない。
涼は壁にぶつかるようにして寄りかかると、そのままズルズルと座り込んだ。
(本当は、治るのに)
彩綾の足が二度と動かないなんて、嘘だ。
手術直後は治る見込みは全くなかったが、最近の検査で、治る可能性が出てきたのだ。
もちろん、絶対治るという保証はないし、厳しいリハビリになるだろう。それでも、歩けるようになるかもしれない。
それなのに、涼はずっと言い出せなかった。
何故か?そんなの簡単だ。
涼は彩綾に恋をしていた。臆病で一途なあの少女を、手放したくなかった。
恋情?庇護欲?罪悪感?優越感?独占欲?
どれかか、すべてなのか、どれでもないのか。何か月も自分に問い続けてきたが、未だ答えは出ていない。
彩綾の無条件の好意と身寄りのなさに付け込んで、自由を奪い続けている。
あの雨の日まで、涼は彩綾を知らなかった。クラスの名簿では認識していたものの、あまりにおとなしい彼女に気づいていなかったというのが本音だ。
だから、どうして彩綾がこんなにも涼を想ってくれるのかわからない。涼を庇って轢かれた理由も、直前に言いかけた言葉も。
尋ねる勇気はなかった。聞いたら、いなくなってしまうような気がして。
「……何が償う、だ……」
何て身勝手な人間なのだろう、自分は。
この想いを告げる資格はない。伝えられるほど綺麗な感情でもない。
けれど、飛び立っていかないように羽を切り、籠に閉じ込めている、なんて。
もしこの世に神様がいるなら、自分を罰してほしい。今すぐ地獄に叩き落して、本当の意味で罪を償わせてほしい。火炙りでも針の山でも、いくらでも受けるだろう。
このままだと、彩綾を縛りつけてしまいそうで、自分が恐ろしい。
真実を隠したまま、足を奪い、考えることを放棄させ、最後には彼女のすべてを取り上げるかもしれない。
だから早く、一刻も早く天罰を。彩綾が逃げられるうちに、どうか。
ああ、でも、もしかしたら。涼の唇に、乾いた笑みが浮かぶ。
「これが……罰なのかもな……」
愛する少女の最も近くにいながら、抱きしめることもかなわず、罪悪感と自己嫌悪に苛まれ続ける。
きっとそれが、涼への罰。そして代償。
それならせめて、彩綾には隠し通そう。涼がどれほど歪んでいても、それを悟られないように、あの狭い世界の中だけでも幸せに。
それが、涼にできる唯一の贖罪で、救いなのだから。