8話 琥珀色の真実
回復薬が出来上がった後、ロザリンドとウィリアムは休憩室に居た。
ここには簡易キッチンとテーブルセットが置いてある。休憩室と言いながら、ベッドがないのはご愛敬。仮眠をする暇があるなら研究をする。それがロザリンドだ。
「旦那様、コーヒーを飲む?」
「ロザリンドが入れるのか?」
ウィリアムが瞠目する。
貴族は料理をしないのが普通だ。だから、ロザリンドがコーヒーを入れようとしていることに驚いているのだろう。ここで軽蔑の眼差しを向けないところに、ウィリアムの優しさが表れている。
「はい。旦那様も、手伝ってくれる?」
ロザリンドは言い終わった後、しまったと後悔した。
いくらウィリアムでも、コーヒーを入れるのは貴族の矜持が許さないのではないか。そう思うと、手が震えた。
(旦那様だけには……嫌われたくない)
同居人としてと思うが、何やらロザリンドの心はスッキリしない。もやもやとした気持ちに疑問符を浮かべていると、ウィリアムがロザリンドの頭をぽんぽんと撫でた。その手付きは優しく、ロザリンドの心を溶かすように甘い。
「とても興味がある。是非、やらせてくれ」
「……はい。旦那様、コーヒー豆を引いてくれる? 結構、力仕事なの」
胸のざわつきを隠すように、ロザリンドはウィリアムにコーヒーミルを指さす。そして、棚からヴァレンタイン侯爵家御用達の焙煎コーヒー豆を取り出し、コーヒーミルに計量スプーンを使って二人分入れた。
「旦那様、ハンドルを回して。ゆっくりね。その方が均一に豆が引けるから」
ウィリアムは丁重にハンドルを引く。外見からは想像できない、繊細な仕事ぶりだ。
「……中々の力仕事だな。ロザリンドの力ではかなり大変なのではないか?」
「うん。だから、豆を引くのは大嫌い。5回ハンドル回すと腕がもげそうになる」
「……君は、もう少し体力を付けなさい」
ウィリアムのお小言を聞き流しながら、ロザリンドはコーヒーを入れるため、コーヒーサイフォンを取り出し、テーブルの上に置いた。
スタンドにフラスコを設置し、水を入れ、アルコールランプで加熱する。
「ロザリンド、コーヒー豆を引き終わったぞ」
「わーあ! さすが旦那様。わたしの20倍速い」
ロザリンドが素直に褒めると、ウィリアムは深く溜息を吐いた。
体力のなさは、諦めて欲しいと思う。どう足掻いても、ウィリアムのような筋骨隆々にロザリンドはなれないのだから。
ウィリアムの引いた豆を、ろ過布を敷いた円柱型のロートに入れる。すると、ちょうどフラスコの水が沸騰した。
「こうして見ると、実験しているように思えるな」
「ふふっ、そうだね。でも面白いのはこれから」
フラスコの上に逆さにしたロートをセットすると、ぐんぐん湯を吸い上げていく。そしてロートの中はブクブクと茶色の泡がたち、かさを増していった。
初めてこの瞬間を見たときは感動したものだ。そして飲んだコーヒーの苦さに悶絶したこともよく覚えている。
(……ファリスめ)
弱冠8歳の無知な少女にブラックコーヒーを飲ませた師匠を、ロザリンドは今でも根に持っている。
「本当にコーヒーを入れるのが好きなんだな」
「え?」
「にやけているぞ。自覚がないのか?」
咄嗟に両頬に手を当てると、確かに口角が上がっているように感じる。
(……これだから嫌だ。どうしたって、忘れさせてくれないんだから)
「ロザリンドは、コーヒーの入れ方を誰に習ったのだ?」
「……師匠に」
「ああ、ファリス教授か」
「ファリスのこと……知っているの?」
「知っているのは名前だけだ。実際にはお会いしたことは無い。ファリス教授は先の戦争で活躍なされたから、平民ではあるが有名だ。今も生きていれば、女王陛下より叙爵されていただろう」
それはない。だって、ファリスは爵位なんて欠片も望んでいなかった。そして自ら望んで戦地で命を落としたような人だ。でも彼よりも尊敬できる人をロザリンドは知らない。
「……そうだね。ファリスは本当にすごい人だった」
「先ほどから気になっていたのだが、ロザリンドは師のことを呼び捨てなのか?」
「まあ、ファリスとは15歳しか離れていないし。師匠とは言っても、『俺の研究成果は渡さないからな!』とか言って、わたしに薬学の基礎しか教えなかったような人だから……師匠って感じがしない」
ファリスは、今思い出しても本当にどうしようもない人だった。師弟関係というよりは競争相手だ。即効性を重視するロザリンドと違い、ファリスは飲みやすさを追求した薬作りを至上としていた。いつも口げんかばかりしていたし、ごく稀に意気投合して一緒に薬を作り過ごしていたのだ。……戦争が始まるまでは。
「ファリス教授は、そんなに若かったのか……!」
「教授って肩書きがつくと、結構年齢がいっているように思えるよね」
実際のファリスは、最年少で教授の地位へと上り詰めた天才だ。
「ロザリンドはファリス教授と……いや、何でも無い」
「? あ、フラスコの水、無くなった」
ロザリンドはアルコールランプの火を消すと、ロートの中を細い木べらでかき混ぜた。そしてコーヒーは砂時計のようにフラスコの中へと落ちていく。
そして完全にコーヒーがフラスコに移動したことを確認すると、ロザリンドは棚からコーヒーカップを取り出した。
「旦那様、コーヒーにお砂糖は入れる?」
「いや、必要ない」
狼侯爵にブラックコーヒーとは、似合いすぎではないだろうか。内心で笑いつつ、ロザリンドはコーヒーカップをテーブルに置いた。
ウィリアムがコーヒーを注いでくれているようなので、ロザリンドはブランデーケーキの準備をする。とは言っても、適当にカットして皿に盛るだけだ。さほど時間はかからなかった。
「ロザリンドはコーヒーに砂糖は入れないのか?」
「徹夜するのにたくさんコーヒー飲んでいたら、いつの間にかブラックコーヒーが好きになったの。昔は噴き出していたのに、慣れってすごいよね」
「ロザリンド。身体のためにコーヒーは一日三杯までだ」
「えー」
ロザリンドは口を尖らせたが、ウィリアムは妥協しないようだった。ロザリンドの健康に関することになると、ウィリアムは途端に頑固になるのだ。一ヶ月弱という短い結婚生活の中ではあるが、ロザリンドは嫌と言うほど理解していた。
(まあ、いいか)
今は徹夜をする環境ではないから、ロザリンドもコーヒーの眠気覚まし効果に期待しなくてもいいのだ。それに何故か、研究時間を減らしてもそれほど効率は落ちなかった。生活を管理していくれる人たちがいるからだろうか?
(でも……あの研究だけは進まない。あと一歩なのに……)
苦々しく思いながら黙考していると、急にウィリアムがロザリンドの額を突っついた。
「ロザリンド、眉間に皺が寄っているぞ。随分と深いようだ。私以上かもな」
「……旦那様以上なんて、人間では不可能」
「何を悩んでいるのか知らないが、これでも食べろ。うまいぞ」
そう言って、ウィリアムがロザリンドの口にブランデーケーキを無理矢理入れた。
仄かに香るチェリーブランデーの風味が口いっぱいに広がる。熟成されたスポンジは、しっとりとしていて他のケーキとは違った舌触りだ。
「おいしい!」
「そうか」
ウィリアムはコーヒーを美味しそうに飲みながら、微笑んだ。
ロザリンドは一つ、また一つとブランデーケーキを手に取って食べた。
ウィリアムと食事をするようになってからというもの、美味しい食べ物に出会ってばかりで幸せな気分になる。つい最近まで、一人の食事で味を感じることが出来なかったのが嘘のようだ。
「少し食べ過ぎなんじゃないか……?」
「そ、んにゃこと、ない! もっとぉ……もっ、と、ちょう……らい」
自分の声はこんなに滑舌の悪いものだっただろうか。考えようとするが、どうにも頭が働かない。ぐにゃぐにゃと思考が纏まらず、顔と身体が火が付いたように熱くなっていく。
目の前が二重三重にぶれて見える。そしてブランデーケーキに手を伸ばしたところで、ガクンッと体勢が崩れた。そしてロザリンドは顔をテーブルに打ち付けてしまう。
「ぶぅっ!」
「ロザリンド! 大丈夫か!?」
ウィリアムがロザリンドの名を呼ぶ声がする。しかし、ロザリンドの朦朧とする意識は、夢幻的な世界へと旅だって行った――――
♢
ゴンッと酷い音を立てながら、ロザリンドが頭をテーブルに打ち付けた。慌てて彼女に駆け寄るが、動きを静止している。
(やはり、ブランデーケーキの食べ過ぎか! ロザリンドは本当に……側で見ていないと不安になる娘だ)
ロザリンドの身体を起こし、軽く抱き上げた。ロザリンドの身体は羽のように軽すぎる。もう少し食事の量を増やすようにオルトンと相談しよう。
「う……にゃ……もっ、と」
「まだ食べる気か! ……まったく、いつもこれぐらい食欲があればいいものを」
ウィリアムは椅子に座り、バタバタと手を振り乱し暴れるロザリンドを膝の上に乗せた。そして片手で彼女の腕を押さえつける。たったそれだけで、ロザリンドは身動き一つ取れなくなってしまった。あまりにか弱すぎる。
幼い子供のように体温が高いロザリンドの身体は、心地よい熱を持っている。そして華奢だが、柔らかな体つきが、ロザリンドが女性であることを、嫌でもウィリアムに感じさせた。
「……こんな状態で眼鏡をしていては危険だな」
現にテーブルに顔を打ち付けていたと言い訳をしつつ、ウィリアムはロザリンドの眼鏡に手をかける。素面の時は猫が威嚇するように拒否していたロザリンドだったが、今回はウィリアムのなすがままだ。
(意識がないときに確認した方がいいからな)
ロザリンドは醜さを隠すために眼鏡をしていると言っていた。彼女がどのような姿だろうとウィリアムは気にしないが、妻の素顔ぐらい知っておきたい。
それに調べたところ、ロザリンドはセルザード伯爵家で幼い頃に継母に殺されかけた事実が分かった。
もしかすると、その時の傷が残っているのかもしれない。もうこれ以上、ロザリンドに孤独は背負わせたくは無い。自分は夫として、新しい家族として彼女を支えたいのだ。
「……これは」
眼鏡を外したロザリンドを見て、ウィリアムは驚愕した。
彼女の目に傷痕は一つもなく、金色の長い睫毛に縁取られた目は静かに閉じられている。顔のパーツは人形のように完璧な位置に配置されていて、隠しきれない秀麗さを放っている。
頬は薄紅色に染まり、時折小さく漏れる吐息がロザリンドが生きた人間であることをウィリアムに教えてくれた。
(誰か……とても大事な人に似ている気がする)
奇天烈な眼鏡をかけていたおかげで、ロザリンドの顔立ちに皆、目が行かなかったのだろう。眼鏡を取り払ってしまえば、目を閉じていても分かる。
ロザリンドは美しい。
万人がそう応えるだろう。嫌悪するような容姿ではない。それならば、何故ロザリンドは顔を隠していたのだろうか。
「ん……だん、なさま?」
そっと、ロザリンドの瞼が開かれる。現れたのは、宝石のように美しい琥珀の瞳。それはウィリアムが恋い焦がれ、しかし諦めた聖女と同じものだった。否、瞳だけではない。髪色は違うが、顔立ちも聖女と同一のものだ。
(今まで……どうして気づかなかったのだろうか……!)
「い……て、くれ……あり、が……と」
ロザリンドははにかむように笑い、また目を閉じてしまった。
「……ロザリンド。君が……あの時の聖女だったのか……?」
ウィリアムの疑問の答えを知っているであろう少女は、腕の中で安らかに寝息を立てていた。