6話 手のかかる妻
軍務大臣の書類仕事を嫌みを言うオーレリアに代わってもらい、ついでに休暇願を提出して、ウィリアムは大急ぎでヴァレンタイン侯爵家の馬車へ乗り込んだ。
車内にはオルトンが既に控えていて、方々かけずり回って汗を掻いたウィリアムにレモン水とタオルを差し出す。それらを受け取り、ウィリアムは一息ついた。
「それで、ロザリンドの様子はどうだ? やはり、精神的に追い詰めてしまったか……」
10日もロザリンドを個人的な理由で放っておくなんて、夫失格だ。ウィリアムは後悔の渦に呑まれていた。そんなウィリアムを見て、オルトンはくいっと眼鏡のフレームを上げた。
「夫としての不甲斐なさを自覚してもらえたようで、何よりでございます。時は一刻を争います。馬車を最高速度で運転いたしますので……」
「それでは間に合わん! オルトン、馬を一頭借りるぞ!」
「構いません。馬車の後ろに旦那様の愛馬をつけていますので……旦那様、奥様をどうか……お願いいたします!」
「任せろ、オルトン!」
ウィリアムは馬車から飛び出すとそのまま愛馬に跨がり、駆けだした。戦場でもその健脚を誇った愛馬は、ウィリアムに応えるように凄まじい速度を出していく。この分だと、あと半刻ほどで屋敷に到着するだろう。
(待っていろ、ロザリンド!)
何故、馬車の後ろに自分の愛馬がついていたのか、少々疑問に残るが、それを考えている暇はない。今は一刻も早く、苦しむ妻の元へ急がなくてはならないのだから。
♢
屋敷に到着すると、すぐに愛馬を馬丁に預け、ロザリンドの部屋へと急ぐ。ロザリンドの部屋は亡き兄が昔使っていた部屋を改修したもので、いつかウィリアムに嫁いでくる女性のために、オルトンたちが少しずつ用意していったものだった。
本体ならば、ロザリンドの部屋と扉一つで繋がっている隣の部屋がウィリアムの部屋になるはずだが、彼女を不安にさせたくないと思い、部屋を移していない。
「ロザリンドの容体はどうだ?」
つかつかと軍靴を慣らしながら、忙しない動作で上着を脱ぎ、それを従者に渡す。従者は小走りでウィリアムと併走し、受け取った上着を畳みながらロザリンドの容体を述べていく。
「奥様は、貧血、軽い栄養失調と脱水症状、それから―――」
(まだあるのか!?)
もしかしたらロザリンドは、重い病気に罹っているのかもしれない。
ウィリアムはぐっと唇を噛みしめた。
「いぎゃぁぁああああ!」
ロザリンドの部屋の近くまで行くと、叫び声が聞こえた。何事かと思い、ウィリアムはロザリンドの部屋のドアを開け放つ。
「ロザリンド、大丈夫か!?」
部屋の中央に置かれたベッドには、うつぶせで悶えるロザリンドと、彼女にのしかかっている侍女――シンシアの姿がある。
(いったい、どういう状況なんだ……!?)
「……うう、もっと優しくして。痛い」
「辛抱してください、奥様。マッサージをすると、翌日の痛みが軽減されます……って、だ、旦那様ではありませんか!?」
シンシアは飛び跳ねるようにロザリンドから退き、スカートを整えて壁に張り付くように控えた。
「まあ、旦那様。えっと……10日ぶりですね。お仕事お疲れ様です」
訝しむウィリアムだが、上半身を起こしたロザリンドの気の抜けた声で我に返った。ベッドに駆け寄り、サイドボードの脇に置いてある椅子に腰を下ろした。ロザリンドとは、手が触れあえる距離にある。
「ロザリンド、調子はどうだ?」
「元気ですよ。ただ、ちょっと失敗してしまって、3日間研究に没頭してしまったのです。水分や保存食、栄養剤を摂取していれば倒れることは無かったのですけれど」
「研究に没頭……?」
まさか、3日間休まず研究をしていたというのか。なんという集中力だ。
「はい。剣術は1日休めば、腕を取り戻すのに3日かかると聞いたことがあります。研究も同じです。一週間も研究できなかったのです。わたしが寝食を忘れて研究に没頭してしまうのも、仕方の無いことです」
「剣術と同じではないし、仕方の無いことではないぞ!? ロザリンドの病状はどうなっている? 医者の見立ては?」
ウィリアムがシンシアを見る。侍女は困った顔をして「奥様が診断いたしました」と言った。ロザリンドは軽く手を上げてシンシアに同意する。
「わたしが自己診断しました。持病の貧血、軽い栄養失調と脱水症状、睡眠不足、疲労過多による筋肉痛ですね。旦那様を煩わせるような症状ではございません。本当は今すぐ研究に戻りたいのですけど、頭を打ったので、念のため、しばらく安静にするつもりです」
「……ロザリンド、研究は禁止だ」
この娘の研究に対する情熱は危険だとウィリアムは判断した。このままでは過労死してしまうだろう。しかし、こちらの懸念などまるで理解していないロザリンドは、この世の終わりだと言わんばかりに落ち込んでいる。そしてぐっと拳を握りしめ、ウィリアムを見上げた。
「そんな、ご無体な! 旦那様の鬼畜ぅ! わたしから研究を取り上げるだなんて、死ねとおっしゃるの!?」
(極論すぎだろう!)
「死!? そんなつもりは無い。では、一日3時間だけだ」
「3時間!? 少なすぎです! 20時間は欲しいです!」
「4時間しか寝られないではないか! 駄目だ。……では、4時間でどうだ?」
「最低でも16時間は欲しいです!」
(過労死したいのか、この娘は! 遠回しの自殺だぞ!)
「大の大人でもそんなに働かないぞ! それではロザリンドは身体を壊すだろう。5時間。これ以上は譲歩しない。今回のことでロザリンドが体調管理が出来ないのが分かった。君の健康のためにも、生活習慣を改めさせてもらう。拒否はさせないぞ。そうだな、合わせて……ダンスのレッスンを入れよう。体力がつく」
「そ、そんなぁ……お飾りの妻なのに……」
耳のたれたウサギのように落ち込むロザリンド。その姿は弱々しく、庇護欲を誘う。だがウィリアムは心を鬼にして、彼女を甘やかすことを止めた。お飾りの妻などにして置いたら、ロザリンドはウィリアムの見ていないところで過労死……というか、研究死してしまうだろう。
「ロザリンド、私は君を妻として扱うと決めた。だから私たちは愛がなくとも家族だ。君が死ぬのを見たくは無い」
「……分かりました。旦那様がそう言うのなら……」
渋々といった様子だが、ロザリンドは納得した。ウィリアムは嘆息しつつ、10日ぶりにロザリンドの顔をまじまじと見た。血色は悪く、前に見たときよりも痩せている。身体は華奢で、ウィリアムが少しでも力を入れたら折れてしまいそうだ。
「……痩せたな」
ウィリアムは強い力で壊してしまわないように、そっとロザリンドの顔に両手を添えた。
「……熱いです、旦那様」
不服だとばかりに口を尖らせるロザリンド。その様子に、少しずつだが彼女が心を開いてくれているように思う。
「睡眠と食事は取ったのか?」
「睡眠はそれなりに。食事は……」
ロザリンドは気まずそうにウィリアムの手を引き離そうとした。何か隠していると野生の勘で察知したウィリアムを援護するように、シンシアが告げ口をした。
「奥様はスープしか口にしていません。旦那様から奥様にキチンと食事を取るように言ってください」
「それは本当かロザリンド……?」
「う……だって、食事するの面倒だから……」
「旦那様がいらっしゃらない間のお食事も、奥様はあまり召し上がりませんでした」
シンシアの告げ口は止まらない。
「シンシア。何か食べるものを持ってきてくれ」
「かしこまりました」
シンシアが部屋を出て行くのを見送り、二人っきりになった室内でロザリンドに向き合う。
「ロザリンド。たくさん食べろとは言わない。だが、最低限の食事は取りなさい」
思わずウィリアムは厳しい口調で言ってしまった。ロザリンドは俯きながら小さく呟く。
「……でも、ここ4年ほど、一人で食べる食事は味がしないのです」
「……分かった。なるべく私は家に帰ってくる。その時に一緒に食事を取ろう」
ロザリンドは、孤独で心に大きな傷を負った娘なのだろう。それなのに、彼女を放置してしまった自分に憤りを感じる。そして、彼女の血の繋がった家族にも。
(これ以上ロザリンドが悲しい思いをしないように、セルザード伯爵家を調べるか)
ウィリアムは堅く決意した。
「お待たせしました、旦那様。すりおろしたリンゴです」
ロザリンドの身体に負担をかけないようにという配慮なのだろう。ウィリアムはシンシアから器を受け取り微笑んだ。一瞬だけシンシアの顔が強ばったが、気のせいだと思いたい。
「ありがとう、下がっていいぞ」
シンシアは「では、何かありましたらお呼びください」と言って部屋から出て行った。ウィリアムはすりおろしたリンゴの入った器をスプーンでかき混ぜる。そしてロザリンドに手渡そうとすると、彼女がウィリアムのシャツを掴み、くいくいっとか弱い力で引っ張った。
「旦那様、食べさせてください」
「……仕方ないな。今日だけだぞ」
ロザリンドの小さな口にリンゴを乗せた銀のスプーンを運ぶ。彼女はそれを口に含むと、美味しそうに頬を緩ませる。そしてペロリと薔薇色の舌で唇を舐めた。
「……おいしい。こんなおいしい食事、本当に久しぶり……ねえ、旦那様。もっと、ちょうだい?」
「……君は小悪魔の素質があるぞ」
気が緩んでいるのか、ロザリンドは丁寧な口調を取り払う。なんだか気まぐれな猫に餌付けしているようで、こそばゆい気持ちになる。ロザリンドは実は恐ろしい娘なのかもしれない。
そしてあっという間に器の中のリンゴは空になった。
「もっと食べるか?」
「いえ、もうお腹いっぱいです」
「本当に小食だな」
「そうですか?」
何か面白くない。そう感じたウィリアムはしばし考え、やがて結論に達した。
「……それが本来の口調ではないのだろう。人前でなければ、先ほどのような砕けた口調でいい」
「貴族らしくないですが……本当にいいのですか?」
「構わない」
不安そうな顔をするロザリンドを安心させるように微笑んだ。だがそれが、先ほどシンシアを怖がらせた笑みと同じだということに今更気づき、ウィリアムは焦り出す。
しかし、ロザリンドはそんなウィリアムの内心などつゆ知らず、無邪気に笑った。
「……分かった。ありがとう、旦那様!」
(ああ、やはり、ロザリンドには笑顔が似合うな)
そう思うと自然にロザリンドの眼鏡へとウィリアムの手は伸びていた。ロザリンドの瞳を、彼女の本当の素顔が見たい。そんな欲求がむくむくと湧いてくる。
しかし、貧弱な筋力しか持たないであろうロザリンドとは思えないほど俊敏な動作で、ウィリアムを躱した。
「な、何をするの!」
「いや、眼鏡をしていては眠りにくいと思ってな」
咄嗟に出た言い訳にしては上手いものだったが、ロザリンドは頑なに首を横に振った。
「旦那様が傷を見せないように眼帯をしているように、わたしも他人に見せたくないから眼鏡をしているの! それはそれは醜いんだよ。だから、わたしは絶対に人前で眼鏡を外さない」
「……そうか。分かった」
どれほど深い傷があろうと、ウィリアムのことを怖がらないロザリンドを醜いとは思わない。しかし、女性とは時に繊細だ。これ以上迫って嫌われたらかなわないので、ウィリアムは潔く引いた。
「それはそうと、わたし、旦那様のためにプレゼントを作ったの」
そう言ってロザリンドはベッド脇のキャビネットから2つの瓶を取り出した。一つは大きな透明なガラス瓶で、中は緑色だ。もう一つは手のひらサイズの小さなもので、瓶の色が茶色で中までは見通せない。
「これは傷薬。旦那様の職業は生傷が絶えないでしょう? わたし特製の傷薬はよく効くんだから」
それはありがたい。軍務大臣は書類仕事があるとはいえ、訓練も毎日のように行う。だから怪我をすることも多々ある。しかし、忙しいウィリアムは医務室に行くのを嫌い、放置しがちだった。これさえあれば、一人でも手当できるだろう。
「そうか、ありがとう。こっちの茶色の瓶も傷薬か?」
「うん。でも茶色い方は軟膏タイプで、粘膜に使えるの。鎮痛作用もあるし……旦那様がどちらなのか分からないけれど……使って?」
(とても嫌な予感がする)
「ロザリンド……粘膜とはどこの……」
「え? それはもちろん、こう――」
「それ以上言うな!」
ウィリアムはロザリンドの口を無理矢理押さえつけた。
(まだ、男色家の疑いは晴れていなかったのか! 何故、誰も当主の誤解を晴らそうと動いてくれない!)
ウィリアムはロザリンドから手を離し、自分は男色家ではなく、戦場で出会った少女が好きで今でも忘れられない、と彼女へ懇切丁寧に説明するのだった―――――