38話 初恋はコーヒーよりも苦い
本日4話目
フランレシア王宮内にある王太子執務室は、未だかつてないほどに冷ややかな空気に包まれていた。
部屋の主であるジェイラスは微笑を湛えつつも目の奥は冷たい。それに追随するように、王太子補佐官のオーレリアは美しい尊顔を怒りで歪ませ、椅子に縛り付けられている狼侯爵ことウィリアムを冷たく見下ろしていた。
「わたくし、前に言いましたよね? ロザリンド様を手放してはなりませんよ、と」
「それなら今すぐロザリンドを迎えに行くから、この拘束を解いて――」
「黙りなさい! この駄犬が!」
「駄犬!?」
オーレリアはバシンッと手に持った乗馬用の鞭をしならせた。
「無能なクズ虫と言った方が良かったかしら。いえ、それは虫に失礼よね。虫は飢饉時には貴重な栄養源となるもの。……迎えに行くとは行っても、どうせロザリンド様の足取りが分からないのでしょう?」
「まあまあ、オーレリア。ウィリアムだって、好きでロザリンド嬢に家を出て行かれた訳じゃないよ。ヴァレンタイン侯爵家の当主として事情を把握しなくてはならなかったし、相手が悪かったんだ。だって、あのシャーリーだよ?」
ジェイラスはそう言うと、口を塞がれ、縄で縛られて床に転がったシャーリーに微笑んだ。
「美形中毒の盛った雌犬の間違いではなくて?」
「それは言い得て妙だね。さすがはオーレリアだ! 冷たい眼差しも口調もすべてが愛しいよ、僕と結婚してくれ!」
ジェイラスは手慣れた動作で懐から美しい翠玉の指輪を取り出し、オーレリアへ跪く。
オーレリアはそれを一瞥することもなく、ウィリアムから目を離さない。
「嫌。それで駄犬侯爵。本当に隠し子がいたりはしませんわよね?」
「誤解だ! シャーリーと私はそんな関係には一度たりともならなかった。それはお前たちがよく知っているだろう」
「ええ、そうですわね。シャーリーはヴァレンタイン侯爵家当主と婚約者――ウィリアムの兄の婚約者でしたから」
そう、シャーリーはウィリアムの兄、前ヴァレンタイン侯爵家当主の婚約者だった。そのため、ウィリアムが幼い時から、シャーリーとは顔見知りだったのだ。
「シャーリーは年上の美形にしか興味ないもんね。まあ、大変残念なことに、ウィリアムはそんなシャーリーが初恋な訳だけど」
「うっ」
確かにシャーリーはウィリアムの初恋だった。
しかし同時に、女性が計算高く綺麗なだけの存在ではないと教えてくれた人でもある。
「だからといって、ロザリンド様を傷つけていい口実にはなりませんわ」
「うぐぐっ」
「今頃、ロザリンド嬢はウィリアムのことなんて忘れているかもしれないけどね」
「ぐはっ」
ウィリアムはふたりの精神攻撃に耐えきれず、椅子ごと床に倒れてしまう。
しかし、それを鬼畜な幼馴染は助けてくないことも知っていたため、そのままウィリアムはジェイラスへ問いかけた。
「……どういうことだ? ロザリンドの居場所を知っているのか?」
「今し方、エレアノーラ学院に講師として戻ったよ」
「何故だ! 私は許可していない!」
ウィリアムはロザリンドの妻だ。一言、報告があってもいいだろう。
(……もしかして、私のことなどロザリンドは忘れてしまうのではないか……!?)
それに場所がエレアノーラ学院だというのが不穏だ。
ロザリンドが研究狂いなのは、出会ってから幾度もなく見せつけられてきた。嬉々とした表情で研究に没頭する彼女が目に浮かぶようで、ウィリアムは身震いする。
「まあ、母上の命令だしね。たぶん、母上としてもロザリンド嬢が学院からいなくなって退屈していたんじゃないかな。あそこは母上の娯楽のために作られた箱庭だから」
「娯楽……?」
「そうそう。最高峰の天才たちが解き明かし、生み出した成果を自分が最初に見たいがために作ったのだと、昔言っていた」
「……女王陛下ならやりかねん……」
ウィリアムの脳裏には、破天荒で革新的な女王が毒々しい笑みを浮かべていた。
「それだけが理由でロザリンド様を学院に戻したのではないでしょう? 最近、女王陛下は秘密裏にベルニーニ神国と接触しているようですし」
「……ベルニーニ神国か」
かの国とフランレシアが戦火を交えてから、まだ十年も経っていない。
人々の中には、まだあの凄惨な戦争の記憶が深く心に刻まれているだろう。
「やっぱり母上はすごいよね。つい最近まで戦争をした敵国と、もう利益的な関係を結ぼうとしているんだから。僕なんて、この間暗殺されかけたから、当分あの国とは関わりたくないよ! あはは!」
思い出されるのは、数ヶ月前のスペンサー公爵家で起こった王太子暗殺未遂事件だ。
ジェイラスを庇い、オーレリアは死灰毒に冒された。
あの場にロザリンドがいなければ、彼女は死んでいただろう。
そのことに対して、ジェイラスは今でも苦々しく思っているのだ。
「私が守るから安心しろ」
次こそは、ロザリンドもオーレリアもジェイラスも、誰も傷つけさせはしないとウィリアムは心に誓う。
「……床に這いつくばって言われても、説得力はないですわ」
オーレリアは呆れた顔でそう言うと、漸くウィリアムの縄を解いた。
ウィリアムは間接を伸ばすと、いつも通りにジェイラスの後ろに控える。
「ジェイラス殿下の前に刺客が現れるよりも先に、奴らを潰してやりますわ。だから駄犬の出る幕はなくてよ」
「僕は頼もしい幼馴染がいて幸せ者だねぇ。……そうは思わないかい、シャーリー?」
「ふんがっ! ふがふががっ!」
シャーリーは床に芋虫のように這う。
そして涙目で必死に何かを訴えるが、オーレリアの冷笑一つで無視されてしまった。
「言語化できないのなら、口を開かないでくれます?」
「……お前たち、仮にも子どもの前で何をやっているのだ……」
ウィリアムが指を差した先には、ビロードのソファーの上でケーキを食べるルカだった。
彼は母親が拘束されているというのに気にするそぶりも見せず、ケーキに夢中だ。
「ん? おいしーよー!」
「素直な子は人類の宝ですわ」
オーレリアは一転、聖母のように慈悲深い笑みを浮かべた。
「……どうしてルカには優しくできるのに、シャーリーには冷たいんだ……」
「まあ! ウィリアム、ロザリンド様がいながら、この考えなしの美形中毒を庇うのですか!」
「今回ばかりは僕もオーレリアを止めないよ。だって、僕たちはウィリアムを泣かせたシャーリーが大嫌いだからね」
「うっ」
今となっては、ウィリアムもシャーリーのどこが良かったのか思い出せない。
だが、確かに青臭い餓鬼だった頃、ウィリアムはシャーリーに恋をしていた。
兄の婚約者である彼女に思いを寄せることを罪だと知っていた。だから、ウィリアムはシャーリーと兄の婚約を祝福し、彼女のことは姉のように慕っていたのだ。
時が経ち、ベルニーニ神国とフランレシア王国との小競り合いが頻発するようになる。軍の重役に就いていたウィリアムの兄はそれを鎮圧することに奔走した。
奮闘虚しく、やがてウィリアムの兄は戦いで命を落とす。
悲しみに暮れることもなく、シャーリーは莫大な資産を持つ老齢の成り上がり男爵の後妻となった。
戦争中のため、質素に行われた結婚式で見た彼女はとても嬉しそうで、男爵の年老いても衰えない端正な顔をうっとりとした目で見つめていた。
それはまだ純粋な少年だったウィリアムの心をやさぐれさせるには、十分な衝撃だったのだ。
「まあ、初恋がどんな終わりを迎えようとも、乱れた女性関係を結んだクズは滅びればいいと思っていますけれど」
「オーレリアはやはり私のことが嫌いだろう!」
「さて、ウィリアムのことは捨て置きましょう。問題はシャーリー・オレット男爵夫人の息子が誰の子で、何故、今更ウィリアムに助けを求めたか、ですわ」
オーレリアは淡々と言うと、シャーリーの口元から布をはぎ取った。
「――ぷはっ。ちょっとオーレリア! いくら会わない間にぞくぞくするような銀髪美女に成長したからって、わたくしが許すと思ったら大間違いよ!」
「お黙りになって。自分の状況が飲み込めていないようですわね。馬鹿は成長しないから嫌ですわ」
「そうだねぇ。君の命は僕らに握られているんだよ? 心証は最悪なんだから、もう少し媚びへつらったらどうかな? あ、この羽根を使って全身くすぐったら、とっても楽しいよね」
ジェイラスは色鮮やかな孔雀の羽を取り出すと、それをシャーリーの鼻先へと擦り付ける。
シャーリーはくしゃみが出そうなのか、間抜けな顔を晒している。それを見て、オーレリアはにやりと口角を上げた。
「ぬるいですわ。先日、別部署の文官から聞いたのですけど、東の国では石砲という拷問があるらしいですわ。尖った三角形の来の上に正座させて、膝の上に重い石を積み上げていくという……」
オーレリアは乗馬用の鞭を楽しそうにしならせると、笑顔で異国の拷問方法について語り出した。
(……誰だ、鉄氷の姫閣下に恐ろしい知識を与えたのは! 実験台にされるとしたら、私とシャーリーに決まっているではないか!)
ウィリアムは名の知らぬ文官に恨みの念を送った。
「ル、ルカ! お母さまを助けて!」
「いやぁっ! オーレリアねえさまがいい! きれい! だいしゅき!」
ルカはパタパタと小走りでオーレリアに近づくと、がばっと思い切り抱きついた。
「ちょっとルカ! オーレリアよりもウィリアムの方が美形でしょ!? でも、わたくしと同い年なところがいただけないわよね!」
「……血は争えないということか……しっかりと受け継いでしまっている……」
ウィリアムの初恋の幻想は崩れ落ち、シャーリーが重度の面食いだというのは気づいていた。
そしてそんな面食いに恋心を抱いていた過去の自分を殴り倒したいほどに、消したい過去でもあった。
「ウィリアム助けて!」
「……シャーリー、ルカは私の子ではない。そして兄の子でも、亡きオレット男爵の子でもないだろう? どう見積もっても、年齢が合わない。誰の子なんだ」
ウィリアムは怒っていた。
元ヴァレンタイン侯爵家当主の婚約者であるシャーリーを無下にすることもできないと思い、遠慮していたのがそもそもの間違いだった。
そのせいで、愛するロザリンドとの間に亀裂が入ってしまったのだ。
これで夫婦関係が破綻したら、ウィリアムはシャーリーのことを……そして何より、そんな展開にしてしまった自分自身を許せなくなる。
「……それは……」
「一応、長い付き合いだから、お前のことは知っている。他人の幸せを奪うような真似をするなんて、相当切羽詰まっていると見える。シャーリー、何があった」
シャーリーは端的に言って馬鹿だ。
だが、人を貶めるような計略を張らない人間なのはウィリアムも分かっていた。……人を顔で判断することもあるが。
「……ウィリアム」
「時間の無駄ですわ。悠長なことを言っていないで、キリキリと話しなさい」
乗馬用の鞭がシャーリーの鼻先をかすめた。
「話す、話すわ! いくらオーレリアの冷たい美貌に似合っているとはいえ、鞭をしまって!」
「嫌ですわ。わたくしが鞭を振るうのは、躾のなっていない馬鹿だけですのに、何を心配することがあるの?」
「それでシャーリー、ルカの父親はだれなんだい?」
「……父親は……」
シャーリーは一瞬押し黙り、やがて覚悟を決めたようにジェイラスを見上げた。
「ベ、ベルニーニ神国前王の弟……ランベルト様よ」
「なんだと!?」
ランベルト・ベルニーニ。彼はフランレシアとの戦争を引き起こした神王の弟で、現在空位の王座を皇太子と争う王候補だ。
戦争時はあまり表に出ず、戦後、その頭角を現した切れ者だという噂だ。
「いつ出会ったのです!」
珍しくオーレリアは声を荒げるが、シャーリーは思いを馳せるようにランベルトとの出会いを語り出す。
「……あれは戦争中のことだったわ。オレット領に瀕死の重傷を負ったランベルト様が現れたの。わたくしは腫れ上がった彼の顔を見て、すぐに気づいたわ。怪我さえ治れば、彼こそがわたくしの理想の男性に違いないと!」
「ランベルト殿か……たしか、ベルニーニではまともな王族だったはずだ。戦時に何をしていたのかは不明だけど……」
「ランベルト様は戦争にかこつけて自国の者に暗殺されそうになっていたのよ! お可哀想に、彼は美しい方だから嫉妬の対象だったのよ。でも、だからこそわたくしと出会えた……彼こそがわたくしの運命の人よ」
運命の人、という言葉にウィリアムはロザリンドとの出会いを思い出す。
(少しばかりだが、シャーリーの言いたいことも分かるな)
瀕死だったウィリアムの命を救った健気な少女。ウィリアムは一目見てロザリンドに心奪われた。
彼女が平民だったとしても関係ない、彼女こそが自分の聖女、運命だとあの時確信したのだ。
「……ウィリアム。何か馬鹿なことを考えていないでしょうね……?」
「か、考えていないぞ!」
躾とばかりに今にも鞭を振り下ろしそうなオーレリアが恐ろしくなり、ウィリアムは咳払いをするとシャーリーへ視線を向けた。
「それでシャーリー、私の庇護を求めた理由は?」
「わたくしとルカの命を狙うベルニーニの派閥があるの。それで、辺境にまで狼侯爵と呼ばれて恐れられているウィリアムに、ルカを助けて欲しかったのよ。……奥さんとの関係を拗らせてしまったのは悪かったと思っているわ。まさか、ウィリアムを本当に好きになってくれている女の子がいるなんて、思ってもみなかったから……」
シャーリーの目には反省の色が見えたが、ウィリアムは何も言わない。
彼女を許すかどうかを判断するのはロザリンドだからだ。
「……奴らはもう、フランレシアで暗躍しているの。わたくしとルカは、いつ殺されるか、分かったものではないわ」
「ああ、それは面倒なことになったねぇ。どうしよっか。ウィリアムには働いてもらわなくてはいけなくなったし、当分、ロザリンド嬢との仲直りはお預けだね」
「なんだと!?」
こうしてヴァレンタイン侯爵夫妻の別居は、長引くことが決定された――――




