30話 潜む狂気
……おかしい。
そう気づいたのは、庭園の方向ではなく、馬車の停留所に程近くなってからだった。早朝だからか、辺りに人はほとんどおらず、警備の者もいない。
いつの間にかクリスティーナに掴まれていた腕を、ロザリンドは不安げな気持ちで見つめた。
「……ねえ、クリスティーナ。どうして庭園じゃなくて、停留所の方へ向かっているの……?」
「あら? わたくし、外の空気でも吸いに行きましょうって言ったわよね」
クリスティーナは、いつもとまったく同じ微笑みをロザリンドに向けた。
だが、ロザリンドは気づいてしまった。優しげに細められた目元から覗くクリスティーナの瞳は、酷く冷たい炎を灯している。
「く、クリスティーナ。どうしたの……おかしいよ……?」
「おかしい? わたくしはいつも通りよ。おかしいのは、ロザリンドの方でしょう」
優しげな声音に潜む鋭い棘に怯え、ロザリンドは咄嗟にクリスティーナの腕を振り払って彼女と距離を取った。
「あらあら。いつも研究ばかりで貧弱だったロザリンドにしては、素早い動きね。運動でもしているの? 結婚って、やっぱり女を変えるのね」
(……に、逃げなきゃ!)
ころころと笑うクリスティーナに危険を察知したロザリンドは、彼女が正常な状態ではないことを悟り、逃げ出す。
しかし、ロザリンドは使用人に扮した数人の男たちに逃げ道を塞がれ、クリスティーナと彼らの間でぎりりと奥歯を噛みしめた。
(どうしよう、囲まれた……!)
思考を回転させ、ロザリンドは打開策を探す。
(……まずは、情報を集めなくちゃ)
ロザリンドは震える足にめいいっぱい力を入れて奮い立つ。恐怖に揺れる心を押さえつけ、飄々とした姿を見せた。
「物々しい雰囲気だね、クリスティーナ」
「ふっふふ……ねえ、ロザリンド。わたくしたち、友人でしょう? だから、わたくしの言う通りにして欲しいの」
確信をぼかしながら、曖昧な要求を突きつけるクリスティーナへ、ロザリンドは懐疑的な表情を見せる。
「……友人? 貴女がわたしに親愛の情を見せたことなんてない」
「あらあら、気づいていたの? 鈍いロザリンドがねぇ」
意外だと、クリスティーナは目を瞬かせた。
ロザリンドとクリスティーナの間には、いつだって距離があった。学院でも、クリスティーナはロザリンドを気にかけるそぶりを見せるが、実際に手を差しのばしてくれたことなどない。
「……わたしとクリスティーナは腐れ縁でしょう? ファリスの弟子であるわたしと、ファリスと同じ研究をするクリスティーナ。貴女がわたしを憎んでいるのは知っていたよ。こんな直接的な手段をとるほどだとは思わなかったけれど……」
クリスティーナはエレアノーラ国学院でファリスと同じ、『万人が飲みやすい薬』や『万能薬』の研究をしていた。
それ故、生前のファリスが残した資料を借りに、ロザリンドの室へ来ることがあった。ごく稀にそれ以外の用事で来ることもあったが、大抵ロザリンドにとって良くない情報を伝えに来るときだ。
(……確か、ウィリアムとの結婚話のときもそうだった)
ロザリンドは、クリスティーナの瞳が苦手だった。セルザード伯爵家で向けられた、継母の瞳に似ているからだ。
「……クリスティーナは、わたしの苦しむ姿を見るのが好き?」
「ええ、大好きよ」
クリスティーナは頬を上気させながら、心からの笑みを見せる。
「わたくしよりも上の身分を持っているのに、可哀想な境遇の貴女が、さらに不幸に苦しむのを見るのが最高なのっ……!」
「……クリスティーナ」
「社交界で貴女の噂をばらまけば、面白いように広がったわ。『ものぐさ姫』なんて、引きこもりで臆病なロザリンドにぴったりの渾名よね」
不意に、笑っていたクリスティーナの声が消える。そして、ギョロリと鋭い眼光でロザリンドを睨み付けた。
「それなのに、どうして幸せそうなの? 親に決められた政略結婚で、極悪非道の狼侯爵の妻になったはずなのに。ねえ、どうして。どうして、どうして、どうして、どうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうして」
クリスティーナはふらふらと足を動かしながら、ロザリンドに徐々に近づく。
「王太子殿下やスペンサー公爵令嬢と懇意になっているし、噂とは違って狼侯爵と愛し合っているし、あげく、馬鹿丸出しの眼鏡の下にこんな顔を隠していたなんて……どうしてどうしてどうしてよ!!」
「こ、来ないで!」
クリスティーナが手を伸ばせばロザリンドに触れられる距離にまで近づくと、恐怖に耐えかねたロザリンドが声を上げた。
手には、透明な液体が入った小瓶が握られている。
「……それ以上近づくと、この瓶をたたき割るよ。中には死灰毒が入っているから、割れればどうなるのか分かるよね?」
ロザリンドの言葉を聞き、背後の男たちがたじろいだのが分かった。
しかし、肝心のクリスティーナはロザリンドを嘲笑うかのように一歩踏み出す。
「あはは! 時間稼ぎのつもりかしら。ロザリンドが死灰毒を……? あり得ないわ。だって、貴女は何よりも毒薬が大嫌いじゃない。ファリス教授を殺した毒で、誰かを殺すなんてありえない。だって、ロザリンドが黄金の錬金術師だもの。貴女は解毒薬を作る天才」
クリスティーナはロザリンドの手をはたき落とした。小瓶が床に叩きつけられ、砕け散る。液体が花火のような染みを作った。
液体の中身は、クリスティーナの言った通り、毒ではなくただの消毒液だった。
「……なんで……わたしが黄金の錬金術師だって……」
「分かるわよ。わたくしはずっとファリス教授と貴女を見てきたもの。ファリス教授は解毒薬なんて関心がなかったわ。貴女と違ってね」
クリスティーナはロザリンドの琥珀の双眸をのぞき込みながら、静かに呟く。
「弟子になりたいってお願いしていたのに、ファリス教授はロザリンドを連れて戦争に行ってしまった。毎日無事を祈っていたのに、結局、帰ってきたのはロザリンドだけ。ファリス教授は『黄金の錬金術師』として戦争の英雄となっていたわ。でもね、わたくしはすぐに気づいた。ロザリンドを庇って、ファリス教授は死んだんだって」
「そ、それは……」
「違わないでしょう? ロザリンドがファリス教授を殺したのよ!!」
クリスティーナの悲痛な叫びに、ロザリンドは後退る。
「だから、ロザリンドには罪を贖ってもらうことにしたの。ベルニーニで、貴女の大嫌いな毒薬を作ってもらうわ」
「――!?」
ロザリンドはクリスティーナの言葉を聞いた瞬間、無意識に忍ばせていた護身用のナイフを取り出した。そして、それを自分の頸動脈に向けて振り下ろす。
毒と薬は表裏一体だ。ロザリンドは、自分が恐ろしい毒を作り出す才能も秘めていることも正しく理解していた。
だから、ファリスを失ったあの日、ロザリンドは自分の人生をかけて死の霊薬を作り出すことを決意するのと同時に、自分の才能が悪用される事態になることになれば自害する覚悟も持っていた。
「止めなさい!」
クリスティーナの金切り声と同時に、男たちが動くのを感じた。しかし、ロザリンドが致命傷を負う方が早いだろう。
死――それは生物が当たり前に持ち合わせている未知の恐怖だ。身体の防衛本能だろうか。ロザリンドの脳裏に、ふとウィリアムの顔が浮かんだ。
(……ウィリアム様)
ほんの一瞬の躊躇が、皮肉にもロザリンドの命を救った。
「ぐ……あ、ぁぁああ」
ロザリンドはナイフを取り上げられ、腕を屈強な男に拘束される。容赦ない痛みに顔を顰めていると、口の中に布を詰められた。
「舌を噛まないようにしないといけないわ。ロザリンドには、生きて苦しんでもらうのだから」
クリスティーナはそう言うと、男たちにロザリンドをゴートン男爵家の馬車へ詰め込むように命令した。




