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狼侯爵と愛の霊薬  作者: 橘 千秋
第一章
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3話 初夜の主導権は妻に

 結婚届にサインをした後、ロザリンドとウィリアムはお茶を飲んでいた。

 

 結婚条件に関する話し合いは終わったため、使用人たちが忙しなく動いている。とても勤勉な使用人のようで、『お飾りの奥様』になるロザリンドにも丁重な対応をしてくれた。


 応接室の窓から見える景色は、橙色に染まっている。もう一時間もすれば、日は完全に沈み、夜の帳がおりるだろう。ヴァレンタイン侯爵家に来てから、初めて迎える特別な夜だ。


 ロザリンドはしばし黙考し、自分では結論が出なかったのでウィリアムに問いかけた。



「ところで、旦那様。初夜はいかがなさいますか?」


「ぶふぉっ!」



 ウィリアムは突然咳き込み、口に含んでいた紅茶を噴き出した。ロザリンドは立ち上がり、ウィリアムの隣に腰を下ろした。そして綿のハンカチでウィリアムの口元を拭い、未だに咽せているウィリアムの背を、赤子をあやすように優しく撫でた。



「気管に入ったりしていませんか、旦那様?」


「だ、大丈夫だ、ロザリンド。……聞き間違いだったら済まないのだが、今……初夜と言わなかったか?」



 一瞬だけロザリンドはきょとんとしたが、すぐに納得したように微笑む。



「こちらの地域では初夜と呼ばないのでしょうか? それとも、わたしの処女検査と言えばいいのですか?」


「ごほっ、ごほっ……貴族令嬢がしょ、処女とか言うんじゃない!」


「わたしは貴族夫人ですよ、旦那様」


「そうだが……そうじゃなくてだな!」


「貴族の結婚では処女性を重視いたします。そのため、結婚して初めての夜は、花嫁の処女を証明するために敷布についた血を教会に提出したり、親族が花嫁の処女が散るのを見届ける……なんてこともあるそうです。地域や家ごとに色々です。ヴァレンタイン侯爵家の場合はどうなのでしょう?」



 あっけからんと言うロザリンドに、ウィリアムはわたわたと慌て、挙動不審になる。



「わ、我が侯爵家ではそんなことはしない! 本家筋の人間は私だけだし、教会とは持ちつ持たれつの関係で、お互いのことに深く干渉したりしない!」


「良かった……安心いたしました。動物の血を付けたり、教会を買収したりしなくてはならないかと思いました」



 胸に手を当ててホッと息を吐くと、ウィリアムがロザリンドに引きつった笑みを浮かべた。相変わらず、彼の眉間の皺は健在だ。



「く……詳しいな」


「知り合いの恋多き貴族夫人に聞きました。女性とは生まれながらの役者ですから、夫に見破られることは、ほとんどないそうです。すごいですよね。わたし、性別は一応女ですけれど、演技なんてできそうもございません。まあ、わたしには一生縁のないことですけど」



 くすくすとロザリンドが笑っていると、ウィリアムの狼侯爵と揶揄される強面に、何やら暗い感情が灯る。怖さ倍増だ。


 何を思ったのか、ウィリアムはゴツゴツと堅い手で、ロザリンドの頭をぐしゃぐしゃとかき回す。髪が乱れ、頭が少しくらくらする。しかし、ロザリンドはウィリアムのその粗野な態度に不思議と暖かな気持ちになった。


 こんなふうに誰かに触れてもらったのはいつ以来だろう?……たぶん、あの人がいなくなってから初めてのことだ。



「……淑女にすることではなかったな。すまない、ロザリンド」



 そう言ってウィリアムがロザリンドの頭から手を離した。しかし、ロザリンドは猫のように素早く動き、離れていくウィリアムの手をキャッチして、自分の頭に再び乗せた。そしてウィリアムを見上げる。



「気持ちがいいです。もっと撫でてください、旦那様」



 久しく触れていなかった人肌。次にいつ触れられるのか分からないのだから、今のうちに堪能しておくのがよいだろう。


 レンズ越しに見えるウィリアムの顔は少し赤らんでいる。


 ……熱?でも、手は熱くないし、特に問題はない?



「旦那様、顔が少し赤いです。体調が悪いのですか?」


「あ、いや……そ、そんなことはない! 元気すぎるほどに私は元気だ!」


「身体は丈夫なほうが良いです」



 ウィリアムは先ほどよりも乱雑にロザリンドの頭を撫でる。ぐわんぐわんと視界が揺れ動くが、ロザリンドは彼のなすがまま身体を預ける。


 そして幾ばくかの時間が経った頃、ウィリアムがポツリと呟いた。



「なあ、ロザリンド。お互いのことを知ろう」


「ですが、わたしはお飾りの妻ですよ?」


「あ、いや……確かにロザリンドを私が愛することはないだろう。その逆もしかり。だが、君は私の妻になった。それならば、君を尊重することは、私の義務といえる。これから一緒に暮らすのだ、お互いのことは知っておいたほうがいいだろう?」



 確かに、自分はウィリアムのことを殆ど知らない。これから一緒に生活する上で、すり合わせが必要かもしれない。自分の意図しないことで不快な思いをされて、追い出されるのは嫌だ。こんな好条件の結婚がまたロザリンドの元へ転がってくるなんて、とても思えない。追い出されたら、今度はセルザード侯爵家の継母が、喜んで好色な爺の元にでもロザリンドを送るだろう。それでは研究ができないではないか。



「分かりました。何をお話すれば良いのですか?」


「そうだな……色々な確認を含めて、まずは年齢を。私は28歳だ」



 クリスティーナの前情報の通りだ。



「わたしは、18歳です。でも、もう数ヶ月すれば19歳になりますね」


「私と結婚するまで何をしていた?」


「エレアノーラ国学院で学生をしていました。その傍らで、貴族や民間から依頼を受けて薬を作り、お金を稼いでいました。……旦那様、まるで尋問のようなのですけど?」


「あ……いや、すまない。職業病だ……」


「旦那様の職業はなんですか? やはり、軍人? それとも、侯爵に専念されていらっしゃる?」



 ロザリンドが聞くと、ウィリアムは左目を丸くさせる。



「知らないのか……? あ、いや……箱入りの貴族令嬢だったのなら……セルザード伯爵には何も聞いていないのか?」


「わたしは実家に10年帰っておりません。父であるセルザード伯爵ともデビュタントの舞踏会――3年ほど前でしょうか? それからお会いしていませんね。今回の結婚話も、3日前に聞いたばかりです。セルザードの使用人も最低限の事務的な会話だけでしたから、旦那様の職業を知ることはありませんでした。申し訳ありません」



 ロザリンドは深々と頭を下げた。夫となった人の職業を知らないなんて、失礼にもほどがある。



「頭を上げろ、ロザリンド。君は何も悪くない。……私の職業は軍務大臣だ」


「まあ! 先の戦争でご活躍されたとは小耳に挟んでおりましたが、宰相と並び立つ軍のトップが旦那様なのですね」



 自分の夫となったウィリアムの社会的地位の高さにロザリンドは心底驚いた。


 この国には国務・外務・財務・軍務の4つの大臣がいる。文官が所属する国務・外務・財務の総指揮は宰相が執り、国の守りである国軍の総指揮を取るのは軍務大臣の役目だ。宰相と軍務大臣の上には絶対君主である女王陛下がいる。ウィリアムはこの若さで女王と軍人たちの信頼を得ているということだろう。



 ……よくこんないい縁談を伯爵家如きが勝ち取れたね。



 女王陛下の子は王太子殿下しかおられないから王族の姫は無理だが、同格の侯爵家はもちろんのこと、格上の公爵家の令嬢がウィリアムに嫁いできてもおかしくはない。……というか、それが普通だ。それなのに、何故『ものぐさ姫』と悪評を立てられる自分に結婚話が持ち込まれたのだろうか?



 ……あ、お飾りにするためだ。納得。



 ロザリンドはうんうんと一人頷いた。



「……戦争は、私だけの活躍ではない。皆が頑張ったからだ」


「そうですね、同感です。時に旦那様。好きなものや苦手なものはございますか? お互いを尊重する上で、一番大事なことだと思うのです」


「好きなものは……酒だ。苦手なものは………………ない」



 ウィリアムの機嫌を損ないそうになったら、とりあえず良い酒をプレゼントに贈ろうとロザリンドは決意した。これが処世術というものだ。



「苦手なものがないなんて、旦那様はすごいですね!」


「あはは……まあ、な」



 ロザリンドが褒め称えると、ウィリアムはあらぬ方向を見て凶悪な顔で笑った。



「奥様、旦那様は嘘をついていらっしゃいます。酒が好きなのは本当ですが、猫も好きなのですよ。それと苦手なものは、幽霊などオカルト関係です。子供のようでしょう?」


「オルトン!」



 突然会話に入ってきた老執事は、ウィリアムに呆れているようだ。名はオルトンというらしい。長年ヴァレンタイン侯爵家に勤めているのだろうか?



「変な見栄を張るのはお止しになった方がよいと、爺は思うのですよ。……初めまして奥様。私はオルトン。ヴァレンタイン侯爵家の執事長をしております。何かあれば、なんなりとお申し付けください。奥様、狼侯爵に嫁いでくださりありがとうございます」


「オルトン! それは……」



 さーっとウィリアムの顔が青ざめた。逆にオルトンは、ニコニコと人の良さそうな笑顔になった。だけど、鳥肌が立つのは何故だろう。



「世間に疎い奥様だから隠そう……とか思っていませんよね? 隠し通せるものではないのだから、今ここで言ってしまうのがよいでしょう」


「狼侯爵のことならば知っていますよ。戦争で活躍した悪逆非道な軍人。逆らう貴族は片っ端から叩きつぶし、昔は女癖が悪く、今は男色家。ですよね?」


「そ、それは根も葉もない噂だ!」


「一部本当のことでしょうに。それに今の現状を見て、自分が狼侯爵ではないと言い切れますか?」


「うぐっ……」



 悪逆非道な軍人が軍務大臣になれるはずがない。実績や身分も大事だが、他の軍人たちから多くの信頼を得なければ勤められる役職ではないだろう。それに、逆らう貴族を片っ端から叩きつぶすという点も疑問だ。なんとなく、ウィリアムにちょっかいをかけて返り討ちにあった貴族の負け犬の遠吠えのような気がする。


 女癖が悪かったことだって真偽のほどは分からないが、今は関係のない過去のことだ。ウィリアムは道ならぬ恋いをしている。ただ相手が男性だっただけだ。それのどこを咎められるだろうか。



 ……わたしは味方だから、旦那様!



「ええ、分かっています。旦那様、わたしは自分で見たことを信じます。噂など当てになりません。旦那様は愛の探求者なのですから!」


「ロザリンド、君はまだ勘違いをしている!」



 ウィリアムに肩を掴まれ軽く揺らされた。

 ロザリンドはふっと安心させるように柔らかい笑みを作る。



「照れなくてもよろしいのに。安心してくださいませ、わたしは安全で魅惑の夜に誘う媚薬の調合も承っております。旦那様は特別ですから、タダですよ?」


「淑女が媚薬とか言うんじゃない!」


「そうですか? よく貴族女性が注文されるのですけど……」



 媚薬はロザリンドの貴重な資金だ。高値で売れる。しかし犯罪などに使われると困るので、これだけは相手と直接会って見極めたから仕事を引き受けることにしている。媚薬を作るのが女であるロザリンドのせいか、依頼者は貴族女性が多い。


 彼女たちは色々なことを、社交界から離れているロザリンドに教えてくれた。初夜のことだってそうだ。一生役に立たないだろうと思っていたが、今日のように意外なときに役に立つこともある。知識とは素晴らしい。


 

「使用用途は……いや、聞かないで置こう。とても恐ろしい気がする。女性不信になりそうだ。……その、君の方はどうなんだ。好きなものや苦手なものは?」


「研究、薬、本が大好きです。苦手なものは……大きな音、でしょうか?」


「そうか。そう言えば、研究がしたいと先ほど言っていたな。君が研究しているのはいったいなんだ?」


「よくぞ、聞いてくれました!!」



 ロザリンドが叫ぶと、びくりとウィリアムが肩を揺らす。それに構わずロザリンドは一気にまくしたてる。



「わたしの専攻は薬学です。医師免許も持っていますが、これは薬作りに役に立つために持っているようなものです。薬ならば、何を作っても楽しいですが、最近の実験はもっぱら解毒薬の開発ですね。解毒薬と言えば、毒物が使われることもあるのを知っていますか? 薬と毒は紙一重なのです。ああ、旦那様は薬学に精通していませんから、分からないことも多いですよね。失念しておりました。まずは薬の歴史から説明いたしましょう。現存する最古の薬学書には2つの薬のレシピが載っています。一つは不老不死の霊薬、もう一つは惚れ薬。これらは薬師ではなく呪い師や錬金術師という職業の者たちが作っていたそうです。ねえ、面白いでしょう? 面白いといえば惚れ薬ですが、この材料には死霊花と呼ばれる紫黒色の単性花が使われているのです。花言葉は確か、あなたを愛していますでしたね。現存しているか不明の花ですが、ぜひとも生きているうちにお目にかかりたいです。お目にかかりたいと言えば、不老不死に使われている賢者の石です。石を体内に入れるのは身体に悪いことですが、賢者の石という名を戴いている石ならば、可能かもしれません。素晴らしい効能があると――」


「……あの、ロザリンド。その辺りで……」



 戸惑いがちなウィリアムの声に、ロザリンドは自分が興奮状態だったことに気づいた。恥ずかしくなり、モゾモゾと膝を擦り合わせた。


 ……は、恥ずかしい。



「申し訳ありません、旦那様。薬の事になると自分の思っていることを次々に話してしまうのです」


「ああ、少し……驚いたが構わない」


「本当ですか!? やっぱり、旦那様は心が広い! では、今度はゆっくりじっくり順序立ててご説明しましょう。そうですね……薬の材料について、などどうでしょう? 旦那様は軍人ですし、咄嗟の事態に薬の知識は有用であると思うのです」


「ろろろ、ロザリンド……?」


「薬の種類は多岐にわたります。植物由来のものから、動物由来のものまで様々で――――」


















「――――という訳なんです。軽い概要でしたが、いかがでしたか、旦那様?」


「…………すごく、べ、勉強になった……朝日が、眩しいな……」



 熱中していて気づかなかったが、窓からは清々しい朝の木漏れ日が差している。どうやら、初夜はもう過ぎ去ったようだ。



「素敵な初夜でしたね、旦那様!」


「あ……ああ……ぐぅ……」


「寝ちゃった」



 ウイリアムは眠くなったのか、ロザリンドの肩に寄りかかった。ロザリンドは研究のために徹夜することも多いので、一日ぐらい寝なくても平気だ。


 体重の重いウィリアムをどうにかソファーに寝かせ、頭を自分の膝の上に乗せた。ウィリアムは規則正しい寝息を立ていて、あれほど深く刻まれていた眉間の皺も緩んでいる。少しあどけない表情は、よく見ると端整なものだ。この顔を見れば、ウィリアムを狼侯爵だなんて揶揄する輩も現れないに違いない。


 ロザリンドはウィリアムの頬をつねるなどして深く寝入っているのを確認すると、彼の右目の眼帯を慎重に外した。ウィリアムの右目には痛々しい傷跡が残っている。眼球も摘出されているため、骨に沿ってくぼんでいる。ウィリアムの今は塞がった傷に、ロザリンドは壊れ物を扱うようにそっと触れた。




「……良かった。あれから傷が化膿した様子もないし、後遺症もないみたい。元気になりましたね、軍人さん」



 眠っているウィリアムに釣られたのか、ロザリンドにも眠気が襲ってきた。

 そして対してあらがうこともせず、ロザリンドはふわふわとした微睡みに落ちていく。










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