16話 ロザリンドとファリス
フランレシア王国の最高学府であるエレアノーラ国学院。そこに弱冠8歳のセルザード伯爵家令嬢ロザリンドが入学することになった。それはロザリンドの才を見抜いたセルザード伯爵の采配――ではなく、体のいい厄介払いだった。
実家から侍女一人携えずに学院来たロザリンドは学院長室で挨拶をした後、学院長に手を引かれながら廊下を歩いていた。
「どこに向かわれるのですか、学院長」
ロザリンドは息を荒くしながら学院長を見上げた。
学院長の歩幅に合わず、小走りになるロザリンドに漸く気づいた彼は慌てて速度を緩める。
「ああ、ごめんね。ゆっくり歩くから。……どこに向かっているかだったね。どこだと思う?」
「質問に質問で返さないでください」
柔和な笑みを浮かべる学院長に、ロザリンドは感情のこもらない声で淡々と言った。
「入学試験満点だったロザリンド君なら分かると思って」
「……出会って一時間も経ってない相手の心を読めとおっしゃるのですか? 不可能です」
「不可能なことなどこの世にはないさ。出来ないのならば出来るように研究すればいい。ここはそういう場所だ。そして君の家になる」
「理解できません。わたしの所有権はセルザード伯爵家にあります。わたしが彼らに望まれているのは、人脈作りと政略結婚の駒としての価値を上げること。それ以外の行動はセルザード伯爵……というよりも、継母様の御心に反するかと」
ロザリンドが事実だけ言うと、学院長は眉尻を下げた。
時折、大人が自分に見せる表情だ。彼らが抱いている感情の名をロザリンドは知らない。
「ロザリンド君は貴族だ。だから生家に縛られることもあるだろう。でもね、学院は基本的に不可侵領域なんだよ。ここに居る間は、君を守ってあげられる」
「守る?」
ロザリンドは意味が分からなかった。
生母は物心つく前に死に、継母には虐げられ、父である伯爵はロザリンドという個人には無関心。そんな中でロザリンドを守ってくれる人なんて存在しなかった。
食事を一週間抜かれたときも、謂われない言葉で罵られたときも、継母に暗殺されかけたときも、ロザリンドはすべて自分で対処していた。
(……守るなんて嘘ばかり)
ロザリンドのことを真に守ってくれる人なんて存在しない。血の繋がった身内すらロザリンドを利用することしか考えていないのだ。それなのに他人が守ってくれるなんて絵空事。
学院長だって、セルザード伯爵家がロザリンドの所有権を訴えれば、守ることは不可能に近い。
「……君には誤魔化しが効かないんだね」
ロザリンドの考えていることが分かったのか、学院長は苦笑いをした。
そして暫しの間、無言で廊下を歩き続けた。
「着いた。ここだよ」
「ここ……ですか?」
案内されてたどり着いたのは、強烈な異臭漂う部屋の前だった。
ロザリンドは耐えきれず、鼻をつまんだ。
「初めての子にはキツいかな。あっはは!」
「……笑い事ではありません」
「ロザリンド君にとって、彼が救いになることを祈るよ」
学院長はノックもせずに扉を開いた。
そしてロザリンドの手を掴み、そのまま室内に入る。
「この部屋汚染されています。もはや汚物の域です」
「汚物の城の主が、ロザリンド君の生活すべてを支えてくれる人になるよ。……ファリス君、実験を止めて出てきなさい!!」
理事長が叫ぶと、部屋の奥にあった、本が積み上がってできた壁が崩れ落ちた。
「うっせーぞ、学院長! 今いいところなんだから邪魔すんな!」
「5秒以内にこちらに来なさい。そうしないと、この個人研究室を学院長権限で没収するよ」
「きったねーぞ!」
そう言って出てきたのは、15歳ほどに見える青年だった。
華奢で、見目麗しい顔立ちをしているが、大きな翡翠の瞳は不機嫌そうに細められ、手入れをすれば宝石のように輝くであろう金茶色の髪はボサボサに乱れていて、色々と残念なことになっている。
「汚いのはファリス君の言葉と容姿だよ。一体、何日風呂に入ってないんだか」
「何日だっけか。えっと……」
「……思い出さなくていいよ」
学院長は呆れ顔で言った。
「それで、学院長。そのチビはなんだ? 見たところ貴族みたいだが」
ファリスはロザリンドを上から下まで見ると、フンッとあからさまに鼻を鳴らす。
貴族嫌いなのだろうか?
「ロザリンド君、挨拶して」
ぽんっと背中を軽く叩かれ、ロザリンドはファリスの前に立たされる。彼は不機嫌さを隠そうとしていない。ロザリンドは仕方なくドレスの裾を摘まみ、淑女の礼をとった。
「エレアノーラ国学院に入学することになりました。ロザリンド・セルザードです。どうぞよろしくお願い申し上げます」
「よろしくなんかしねーよ。俺は貴族とガキが大嫌いなんだ」
「そんなこと言って、ファリス君だって子どものくせに」
「俺は23歳の立派な大人だ!!」
驚きの事実だった。
ロザリンドが固まっていると、学院長は笑い出した。
「ファリス君は童顔だもんね。それに背だって小さいし」
「顔はどうしようもねーよ! 背が低いのは貧民街出身だからだ!」
「貧民街って言っても、ファリス君は6歳の頃に保護されて、そこからは充実した食生活を送っていたじゃないか。ほぼ自分のせいだと思うよ」
「うるせー!」
ファリスは地団駄踏み、真っ赤な顔で叫んだ。
顔も中身も子供のように思える。
「キャンキャン騒がない。今日はファリス君の記念すべき日なんだから」
「記念すべき日……?」
ファリスは胡散臭そうに学院長を見上げた。
「ファリス君が初めて弟子を迎える日さ!」
「はぁぁああ!? そんなこと聞いてねーし! なんでピチピチに若い俺が弟子を迎えなきゃいけないんだよ。弟子っつーのは、老いぼれが自分の研究を後生に引き継がせるためにとるもんだろ。俺は教授になったばかりだぞ!」
「ロザリンド君は今日からファリス君の弟子だ。仲良くやってくれ」
「俺の話を聞けよ!」
ファリスの言葉にロザリンドも内心で同意した。
(いきなり師匠って……訳が分からない)
「しょうがないじゃないか。私は学院長業で忙しいし、他の教授たちは独身の研究狂いだし……同じ研究狂いだったら、見た目も中身も子供みたいなファリス君が適任かなーと思ってね」
「ふっざけんな! ガキのお守りなんてしてたら、俺の研究時間が減るだろ!」
「そうは言っても、ファリス君の師匠からのお願いだからね」
「……あんのケチクソババア」
ファリスは苦虫を噛み潰したような顔をすると、ぐるんと首をロザリンド方へ捻った。
「大変不本意だが、俺がお前の師匠をしてやる」
「別にいらない」
ロザリンドは即行で断った。
嫌がる人に無理強いするのも良くないし、何より自分のことは自分でできる。他人と関わりたくない。
「図書館にでも引きこもっていれば、誰にも迷惑かけないでしょう?」
「おい、学院長。どうしてコイツはこの学院に来た」
ファリスは冷淡な声で言った。
「ロザリンド君に嫉妬した継母が、彼女を毒殺しようとしたことが発覚し、セルザード伯爵がこちらに預けたと聞いている。もちろん、入学試験は申し分のない点数だったよ。……ロザリンド君は、ファリス君と同じ天才だ」
「おい、ガキ。お前、この学院に来たことをどう思っている。父親や継母については?」
「別になんとも。わたしには感情がないから」
無表情でそう言うと、ファリスは眉をしかめた。
「……寂しいヤツ」
「寂しい?」
寂しいとは、家族がいなかったり、心が満たされないことをいう。
ロザリンドには当てはまらない言葉だ。
「お前の顔を見てたら、こっちまで辛気くさくなる。これでもかけてろ」
ファリスは白衣のポケットから眼鏡を取り出した。
乳白色の不透明なレンズに、老人がかけるような丸めがねのフレーム。端的に言って、趣味が悪いものだった。
「ファリス君、いくらなんでも女の子にその眼鏡はないと思うな」
「このレンズは珍しいから買い取ったんだが……面倒になって諸々の加工も同じ硝子職人に頼んだら、ひでぇことになった」
「硝子職人に眼鏡の美的感覚は期待しちゃいけないと思うよ」
ファリスはそのままロザリンドに趣味の悪い眼鏡をかけさせた。
眼鏡は子供には大きいらしく、すぐにずり下がってくる。しかし、視界は思っていたよりもクリアだった。
「先に言っておくが、ロザリンド。俺の弟子でいたいなら、その眼鏡を外すなよ」
ロザリンドは眼鏡を外そうとフレームに手をかけるが、それはすぐにファリスによってはたき落とされた。
「弟子は師匠の望みを叶えるためにいる。常日頃から敬うようにな」
「……」
「言っておくが、この学院にいる限り貴族の身分は振りかざせねーからな。そんなことをすれば、女王に従順な子犬たちに、お前なんて簡単にひねり潰される。でもまあ、俺の弟子でいる限り、それなりに守ってやるよ」
無邪気に笑うファリスに絆されたのか、ロザリンドは気づけば頷いていた。
「私はもう必要ないみたいだね。では、ファリス君、ロザリンド君、失礼するよ」
学院長はロザリンドを残してあっさりと部屋を出て行った。
これからはファリスに従うしかないらしい。
「仕方ねーから、コーヒーでも煎れてやるよ。適当に座れ」
ロザリンドは辺りを見渡し、本と書類に埋もれたソファーを見つけ、そこにちょこんと座る。
ファリスはコーヒーを煎れる器具を取り出すと、テキパキと慣れた様子で作業し始めた。ロザリンドはそれをただ眺めているだけだ。
「どうだ、珍しいか?」
「……別に」
砂時計とは逆に上へと吸い込まれていく湯。そして黒みがかった茶色に色を変えていく様子はロザリンドが初めて見る光景だった。
次第にセルザード伯爵家では嗅いだことのない、香ばしい匂いがロザリンドの鼻をくすぐる。
「まあ、ガキはコーヒーなんて知らないか」
馬鹿にするようなファリスの物言いに、ロザリンドはムッとした。
「そのぐらい知っている。コーヒーの起源は今から700年前。フランレシアから遠い国で生まれ、後に商人によって伝来されたとされている。燻したコーヒー豆を湯または水から抽出したもので、最初は薬湯として飲まれた。今現在では、嗜好品として好まれている」
すべてセルザード伯爵家の書庫にあった本に書かれていた内容だ。
ロザリンドは一度見たもの、聞いたことは絶対に忘れない。だから今話したことは間違っていないはず。しかし、ファリスはニヤニヤとした表情でロザリンドを見ている。
「知識だけは一人前だな。だが実践に勝る知識はねーよ。ほれ、飲んでみろよ。ほろ苦いが、うまいぞ」
ロザリンドはコーヒーの入ったカップをファリスから受け取った。
ふぅふぅと息を吹きかけて十分に冷ますと、ロザリンドはコーヒーを一気に口に流し込む。
そして、一気に吐き出した。
「ブフォッ! ……けほっけほっ」
強烈な苦みがロザリンドの幼い舌を襲い、耐えきれず咳き込む。
貴族らしく上等な布を使った淡い水色のドレスには、見事な焦げ茶色の染みが出来ていた。ロザリンドはドレスの裾で乱暴に口元を拭うと、ファリスを睨み上げる。
「ほろ苦くない! すごい苦かった!」
「ぶっはははは! 『ブフォッ!』とか、貴族令嬢が出す言葉かよ。しかも、鼻からもコーヒー垂れてるし!」
(確信犯か……許せない)
頭に血が上ったロザリンドは、鼻からコーヒーが垂れているのもお構いなしにファリスに詰め寄った。そして、人差し指と中指をファリスの鼻の穴に突き立てる。
「ふんごぉっ!」
まさか貴族令嬢がこんな下品な報復に出るとは思っていなかったのだろう。油断していたファリスはロザリンドの攻撃に耐えきれず、じたばたと暴れ出す。
「変な鳴き声。鼻の粘膜はとても弱い……って本に書いてあった。ファリスなんて、汚らしく鼻血をまき散らせばいい」
さすがに子供の力ではファリスを押さえつけることは出来ない。ファリスは早々にロザリンドの攻撃から逃れた。しかし、よほど痛かったのか、鼻を両手で覆い、涙目でこちらを忌々しげに睨んできた。
「……悪い気はしない」
「何がだ! とんだじゃじゃ猫だ。最悪だぜ」
「ファリスは馬鹿犬だね」
「てめぇ、調子に乗りやがって……俺のことは師匠って呼べ!」
未だ涙目のファリスを見て、ロザリンドの口角は自然と上がった。
「ファリスファリスファリスファリスファリスファリスファリスファリスファリスファリスファリスファリスファリスファリスファリスファリスファリスファリスファリスファリス」
「もう我慢ならねぇ。この痺れ薬をお前の鼻に塗り込んでやる!」
ファリスは手近にあった小瓶を掴むと、ロザリンドに迫ってきた。
だが、ロザリンドも負けていない。両手の人差し指と中指をファリスの前でくいくいと曲げて挑発した。
「その前に、わたしがファリスを目つぶしする」
「師匠を敬え!」
「弟子を大切にして!」
そして、ロザリンドとファリスは取っ組み合いの喧嘩を始めた。それは騒ぎを聞きつけた学院長が来るまで続けられ、その後反省と称してロザリンドとファリスは、学院中のトイレを清掃する羽目になる。
しかし、この日からロザリンドは笑顔を取り戻していった――――




