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狼侯爵と愛の霊薬  作者: 橘 千秋
第一章
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15話 心の亀裂

「な、なんだ貴様は……」



 訝しむエクランド伯爵を無視して、ロザリンドは彼の前でしゃがみ、敷石の上に散らばった茶器と紅茶を見つめた。

 比較的大きな茶器の破片の上を人差し指でなぞって紅茶を掬うと、ロザリンドはそれを鼻に近づけてにおいを嗅いだ。次いでペロリと小さな舌で舐めとる。



「……嘘つき。これは毒じゃない」



 ロザリンドは淡々とした声で言うと、ゆっくりと立ち上がる。そして堂々とエクランド伯爵の前に立ちふさがる。



「毒じゃないだと……? そんな訳あるか。どうやら貴族の娘のようだが、奇異な眼鏡をかけている時点で大した家柄ではないのだろう。無知な小娘ごときが出しゃばるな」


「無知? わたしはエレアノーラ国学院の薬学科を卒業しているし、医師免許だって持っている」


「嘘は大概にしろ。小娘が医師免許など取れるはずがないだろう。まあ、お前が20代後半の行き遅れだというのなら、辛うじて信じてやってもよいが」


 エクランド伯爵は小馬鹿にするように言った。


 ロザリンドは目を細め、レンズ越しにエクランド伯爵を観察する。未だにウェイトレスから手を離さないことから考えて、彼女が目的でこんな茶番を自ら行ったのだろう。



(……反吐が出る)



 ロザリンドは内心でそう吐き捨てるが、できるだけ冷静な声を意識してエクランド伯爵を追い詰める。



「こんな場面で嘘をつくほど、わたしは馬鹿じゃない。……貴方はこの紅茶に死灰毒が盛られていると言った。それは真っ赤な嘘。だって、死灰毒は無色透明だもの。こんな黒色に変色するはずがない」


「そ、そんなの紅茶自体が黒かったからだろう!」



 エクランド伯爵は焦ったように言い返した。



「次に匂いと味だけど、死灰毒は甘ったるい匂いがする。味のほうは知らないけど……あれはとても強力な毒。たった一舐めでも多大な効果を示す。わたしが五体満足なのが何よりの証拠」


「ふざけるな!」


「貴方、一舐めどころか一口飲んだのでしょう? どうして元気なの?」



 ロザリンドは不思議そうに首を傾げるが、それはあからさまにエクランド伯爵を馬鹿にした動作だった。



「私は毒に耐性があるのだ! 死灰毒だったのは間違いだったのかもしれないが、このウェイトレスが毒を盛ったのは事実だろう!」


「うあっ」



 エクランド伯爵はウェイトレスを振り払った。

 ウェイトレスは勢い余ってビタンッと敷石の上に転がる。



「それも嘘。わたしはその紅茶の匂いと味に心当たりがある。フランレシア王国の北に一年を通して生息するメザン草。乾燥させて粉末にすると、紫黒色になる。そして、粉末は非常に水に溶けやすい。薬学的効果は期待できないけど」



 そこまで言うと、エクランド伯爵は耳まで赤く染め、ロザリンドを憎々しげに睨み付ける。しかし、次に目を向けたのは、敷石の上に転がるウェイトレスだった。



「お前如きのせいで!!」



 エクランド伯爵は立てかけてあった杖を握りしめ、それをウェイトレスに振り下ろそうとしている。


 貴族のロザリンドを殴れば大きな問題になる。だから八つ当たりにウェイトレスを殴りつけようと思ったのだろう。エクランド伯爵のような小者が考えそうなことだ。


 彼の振り上げた杖は上等な代物で、杖先は鉄で覆われている。あれが男の力で振り下ろされるのだ。下手をすれば死んでしまう。




「危ない!」



 ロザリンドは咄嗟にウェイトレスへと覆い被さった。


 衝撃を覚悟して目を瞑るが、ロザリンドは一向に痛みを感じない。恐る恐る目を開けると、エクランド伯爵の杖を片手で掴んでいる男の後ろ姿が見えた。それはロザリンドがよく知る姿だ。



「……だん、な、さま?」


「ロザリンド、立ち上がれるか?」


「は、はい」



 困惑するロザリンドだったが、ウィリアムの指示通りに立ち上がる。そして未だに震えて恐慌状態に陥っているウェイトレスを椅子に座らせた。



「エクランド伯爵。これは一体どういうことだろうか? 私の妻を殴ろうとしていたように見えたのだが」


「つ、妻!? 決してそのような……私はただ、教育の行き届いていない下女に仕置きしようとしただけですぞ。それなのに、貴殿の奥方が勝手に……」


「これだけ大勢に見られていて、嘘をつくのは見苦しい。それに私の妻は、黄金の錬金術師の愛弟子。彼女の見解は説得力のあるものだと思うが?」



 ウィリアムの声は怒りに満ちていた。エクランド伯爵はその怒りに気圧され、先ほどまでの威勢の良さはなりを潜めている。



「女王陛下が作り出した憩いの場で、毒を盛られたなどと騒ぎを起こすなど、貴族が考えることだとは到底思えない。今回のことは上に報告させてもらう。……エクランド伯爵は他にも色々と・・・やっているようだ。それらもまとめて、最終的に貴方へ沙汰が降りるだろう」


「……そんな訳が」



 エクランド伯爵は憔悴しきった顔で敷石の上に膝をついた。

 ウィリアムは杖をへし折ると、その残骸をエクランド伯爵の前にバラバラと落としていく。そして一際鋭い眼光でエクランド伯爵を一瞥すると、近くに佇んでいた軍服の青年へと声をかける。



「後のことは任せた。私は少し外す」


「了解っす!」



 ウィリアムは厳しい表情のまま、ロザリンドの元へ近づく。そしてロザリンドの腕を掴むと、そのまま有無を言わせず歩き出した。



「旦那様!」


「……」



 ロザリンドが声をかけるが、ウィリアムは無言のまま。そしてしばらく歩き続けると、小さな部屋へとロザリンドは連れてこられた。


 部屋には長テーブルと椅子が置かれているだけの簡素な内装だ。



「……ここは?」


「小会議室だ。仕官している者が自由に使用することができる」 



 ロザリンドはウィリアムに助けてくれたお礼を言おうとする。だが彼がロザリンドの肩を掴んで詰め寄ったことに驚き、言葉を呑み込んでしまった。



「何故、あんな危険なことをした。ロザリンド」


「危険なこと……?」


「そんなことも分からないのか!」



 ウィリアムの語気が強くなり、彼の手に力が籠もる。

 僅かに骨が軋み痛んだが、ロザリンドは無表情のままウィリアムを見つめる。



「そんなこと? わたしが出て行かなければ、ウェイトレスはエクランド伯爵によって酷い目に遭わされていたはず」


「だが、他にやり方はあったはずだ! 近くの軍人に知らせるなり……」


「都合良くエクランド伯爵よりも高位の軍人が近くにいるなんて思えない。希望的観測。軍人を呼びに行っている間にウェイトレスが攫われる確率の方が高い。わたしが行くべきだった」



 ついロザリンドは棘のある言い方をしてしまった。

 ウィリアムの左目はロザリンド射殺さんばかりに鋭さを増していく。



「それでウェイトレスの上に覆い被さったと? 自分の身も守れないくせに人を助けようとするなど、愚かな行為だ!」


「わたしが愚かだなんて分かってる! それでも……わたしはもう、自分の目の前で誰かが傷つくのは見たくないの! 死ぬ姿なんてなおさら!」



 ロザリンドは涙を流しながら激昂した。



「どうして君は、自分を大切にしないんだ!」


「……誰よりも愛していた師匠を殺したわたしに、どれほどの価値があるというの……?」



 ロザリンドがそう言うと、ウィリアムは静止した。

 力が緩んだその隙に、ロザリンドはウィリアムの拘束から逃れた。



(……言っちゃた)



 一番知られたくなかったことを、ウィリアムに言ってしまった。

 ロザリンドは後悔の渦に呑まれるが、もう後戻りは出来ない。



「……私は君が死ぬのは嫌だ」



 優しいウィリアムの言葉は、ロザリンドの心を容赦なく抉った。

 この甘さと痛みは、ウィリアムが何度もロザリンドに与えてくれたものだ。



「どうしてそんな期待させることを言うの? わたしは所詮、お飾りの妻。それなのに真綿に包むように優しくして……本当に酷い人。わたしを好きじゃないくせに、愛されていると錯覚させるんだもの。どうせ捨てるんだから、わたしに優しくしないでよ!」



 ウィリアムは驚いた顔でロザリンドを見るだけだ。

 きっと、ロザリンドの醜態に幻滅したんだろう。当然だ。こんな醜い女、他にいない。でも、ウィリアムはとても優しい。こんな醜いロザリンドにでさえ、気遣ってくれるに違いない。



(……ごめんね、旦那様。わたし、貴方に嘘をつく)



 ロザリンドはグッと拳を握り、大きく深呼吸して叫ぶ。



「旦那様なんて世界で一番大っ嫌い!!」



 これでウィリアムはロザリンドを見限るはずだ。

 正しいことのはずなのに、ロザリンドの心はズキズキと痛み出す。



(傷ついたのは旦那様で、わたしじゃないのに……)



 ロザリンドはウィリアムの顔を見ることなく、彼に背を向けて駆け出し、小会議室を出て行く。

 結局、ウィリアムがロザリンドの後を追うことはなかった――――







 


次回から過去編。


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