12話 降り積もる思い
ロザリンドの献身的な看病と、オルトンの監視により完全回復したウィリアムは、再び王太子執務室に来ていた。
ウィリアムが休んでいる間、軍内部ではオーレリアの報復を恐れた軍人たちがキビキビと働いていたため、特に大きな問題は起こらなかった。皆がさぼりがちの書類仕事も率先して行う勤勉さである。
おかげで、一週間後が提出期限の書類をウィリアムはオーレリアに渡すことが出来た。これで汚名返上出来ただろう。
「……はぁ」
ウィリアムは切なげに艶のある溜息を洩らした。
それを聞いたオーレリアは、不機嫌そうに眉を上げ、机をバンッと叩いて立ち上がる。
「何度も何度も何度も何度も……溜息がうるさいんですの! 周りを苛立たせるのは止めてくださるかしら? 鬱陶しいんですわ!」
「まあまあ、オーレリア落ち着いて」
ジェイラスが宥めると、オーレリアは渋々、椅子に座り直した。
「それで、ウィリアム。一体、何に悩んでいるんだい?」
「…………ロザリンドが可愛すぎて辛い」
ウィリアムは両手で顔を覆って呟いた。
ジェイラスとオーレリアは、揃ってウィリアムから目をそらした。
「気持ちが悪いですわ! 鏡を見てから出直してきなさいな!」
「そうだね。目が潰されるかと思った……おうぇっ」
「毎日、求婚劇を繰り広げるお前たちには言われたくないぞ!」
本当に失礼な奴らだ。
「で? そんな状態になるってことは、ウィリアムはロザリンド嬢に告白したんだよね?」
「うっ!」
ジェイラスはウィリアムの痛いところを突いてきた。
ウィリアムはロザリンドと聖女の話をしていない。話そうとしても、言葉が出てこないのだ。ウィリアムはロザリンドに看病されながら、ひたすら悶えていた。目を合わせると顔が赤くなってしまうし、それが恥ずかしくて、看病してくれている彼女に素っ気ない態度を取ってしまう。
(……これは、危うい状況なのではないか? ロザリンドに嫌われてしまうぞ!)
今更、事の重大さに気づいたウィリアムだった。
「……この様子ですと、ヘタレがロザリンド様の前で存分に発揮されているようですわ」
「うわぁ……昔はいろんな女性に『一緒に夜を過ごさないか?』とか言っていたのにね。本命には、こんな情けないんだ」
「あの頃は毎朝、違う香水を匂わせていましたよね。屑野郎でしたわ。……千切れてしまえば良かったのに」
オーレリアはウィリアムの下半身を蔑んだ視線で一瞥すると、軽蔑を隠さずに吐き捨てた。どこがとは言わないが、ウィリアムはオーレリアの意図を知り、身を縮める。
(ち、千切られるのは御免だ!)
「いや、その……彼女たちとは恋人ではなかったし、後腐れのない関係だった! それに、ロザリンドに出会ってからは、彼女一筋だ!」
ウィリアムは必死に言い訳するが、オーレリアの目は冷たいまま。ウィリアムの背に冷や汗が伝う。
本当に千切られてしまうのではないか。ウィリアムはオーレリアの日頃の行いから、完全に否定できないことを恐ろしく思った。
「口ではなんとでも言えますの。これからの行動で示してくださる? ロザリンド様を幸せにしないと許しませんので、肝に銘じておきなさいな」
「わ、分かったぞ、オーレリア!」
オーレリアは満足そうに頷くと、ドサッと辞書数冊分の厚みがある紙束を机に置いた。それを見たウィリアムの口元は盛大に引きつる。嫌な予感しかしない。
「では手始めに、この書類を国務省に提出してきてくださる? 一気にまとめて提出してくるので、軍の書類だけこんなに溜まってしまいましたわ。……仕事の出来る男はいい男だと思いますの。ねえ、ウィリアム?」
「……承った」
軍務大臣を顎でこき使うとは、末恐ろしい王太子補佐官殿だ。
ウィリアムは逆らう気も起きず、粛々とオーレリアに従う。
「あ、ついでに貴族と商人に開放されているカフェで、持ち帰り用のサンドイッチを買ってきてよ。僕とオーレリアの二人分ね。一つはトマト抜きで」
「ジェイラス、それは……」
話の流れに便乗しようとするジェイラスを、ウィリアムは窘めようとする。しかし、オーレリアは満面の笑み――ただし背後に吹雪が見える――で、コツコツと指で机を叩く。無言の圧力を感じた。
「偶には良いことを言うのですわね、ジェイラス殿下。……ほら、何をしていらっしゃるの、ウィリアム。ボサッとしていないで、さっさとお遣いをしてきなさいな、この駄犬」
オーレリアは顎をしゃくり、ウィリアムの退室を促す。
ウィリアムは俯きながら、書類を手に取った。
「……はい」
「そこはワンッじゃないのかい?」
悪ノリするジェイラスを窘める気力も起きず、ウィリアムは鬱屈とした心情を引き摺りながら、国務省へ書類を運ぶのであった――――
♢
「……はぁ」
ロザリンドは今日何度目か分からない溜息を吐いた。
自室のロッキングチェアに腰を下ろし、窓越しに晴天を眺めていたが、一向にロザリンドの気持ちは晴れない。ロザリンドの心を乱すのは、たった一人の男性だった。
「……旦那様」
小さく呟くと、ロザリンドの胸がキュッと締め付けられるように痛む。
ロザリンドはヴァレンタイン侯爵家に来てから……いや、ウィリアムと出会ってから、時折、この痛みに悩まされていた。
ロザリンドは研究者気質だ。疑問は自分が納得いくまで追求する癖がある。だから、痛みの原因は調べが付いていた。
(……わたしが恋をするなんて、思わなかった)
答えはウィリアムの書棚にあった娯楽小説に書かれていた。
特定の人物を見て胸が苦しくなり、その人の一挙手一投足が気になり、ちょっとした言動で自分の気持ちが浮き沈みするのは恋である……と、名のない酒場の看板娘が作中で言っていたのだ。
「馬鹿で不毛な、わたし」
ウィリアムには、愛している人がいる。その少女は既に高みへと登り、ロザリンドには手出しできない地位をウィリアムの心の中に築いている。だから……ウィリアムがロザリンドが求めている感情を返してくれることはないだろう。
(最近、旦那様はわたしと目も合わせようとしないし。嫌われちゃった……?)
今のロザリンドはウィリアムの妻の地位にいるが、それもいずれは離縁されてしまうのではないか、とロザリンドは思った。その時、自分は耐えられるだろうか。みっともなく喚き散らしてしまうんじゃないか、最後に徹底的に嫌われてしまうんじゃないかと思うと気が気でない。
(……旦那様に秘密があるのに、図々しいね、わたしは……)
ロザリンドはそっと眼鏡の縁にを触った。この眼鏡は、かけがえのない思い出であり、ロザリンドを戒めるための枷だ。
ロザリンドは身に余る大きな秘密を抱えていた。それが自分の心の内にあるだけのものだったらどんなに良かっただろう。しかし残念ながら、ロザリンドの秘密は、ごく一部の人間は知っているはずだ。そしていつ、漏れ出すか分からない。
(わたしは、旦那様と結婚するべきじゃなかったんだ)
あまりの好条件に嬉々として我を忘れてしまったが、よくよく考えれば、ウィリアムのように優しい人をロザリンドの事情に巻き込むべきではなかった。
頭では分かっている。しかし、ロザリンドの心はウィリアムを離したくないと子供のように駄々をこねているのだ。ロザリンドはウィリアムが好きで好きで堪らない。加減しながら触れてくる無骨な手も、常に険しい眉間の皺も、心に染みこむような甘い優しさも……すべてが愛しい。
「奥様、いかがなされましたか?」
「体調が優れないんですか? もしかして、旦那様の風邪が移ったとか!?」
部屋の中にはいつの間にかオルトンとシンシアがいた。彼らがノックをしないというのはあり得ないので、ロザリンドが思考に耽るあまり、気づかなかったのだろう。
「別に……なんでもない」
「ですが、胸を押さえていらっしゃいますし……」
シンシアの言葉にロザリンドはハッと驚いた。
さすがに恋で胸が苦しいとは言えないので、笑顔を貼り付けて何事もなかったかのように振る舞う。
「これは……えっと、胸が成長するような気がしたの」
「それはよいことです! 私も遅い成長期がこないかと、待ち続けていて……」
シンシアが自分の胸を押さえつけて言った。
ロザリンドは侍女服越しに見えるシンシアの胸を見て、首をかしげる。
「え、シンシアの胸は標準よね?」
「いえ、これは偽ち――な、なんでもありませぇんっ! おほほほほ!」
シンシアは甲高い声で笑い始めた。
しかし、心から笑っているように見えないのは何故だろう?
「……奥様。シンシアのなけなしの名誉のために、その好奇心を今は閉まってください」
「? 分かった。オルトンがそう言うのなら」
ロザリンドは素直に頷いた。
「あ、奥様! そちらの刺繍、とっても上手ですね。……狼?」
シンシアがテーブルに置いてある、やりかけの刺繍をのぞき込む。刺繍枠には純白のハンカチがはめられいて、黒の狼が刺繍されている。ハンカチの端を取り囲むように蔦薔薇も刺繍されているが、こちらはまだ途中だ。
「旦那様にあげようと思って」
「それで狼ですか?」
「うん。これなら落としても、誰の物だか分かるでしょう? イニシャルより確実」
「いや……それはどうでしょう? 逆に渡せないというか……」
なんだか言いづらそうにしているシンシアをロザリンドが不思議に思っていると、オルトンがくいっと眼鏡の縁を上げて、シンシアを睨んだ。
「シンシア」
「はぃぃいい! すみません、とっても素敵だと思います!」
シンシアは何故か侍女なのに敬礼した。
ウィリアムが軍人だから、使用人も影響を受けているのだろうか?
「本当にお上手です、奥様。誰かに習ったのですか?」
「自己流。こうやって偶にやらないと腕が落ちちゃうから。……旦那様は、わたしが縫ったハンカチなんて渡されても迷惑だろうけど」
「そんなことはありませんよ。旦那様は絶対にお喜びになります」
「……ありがとう。気休めでも嬉しい」
ロザリンドが笑いかけると、オルトンは額を手で押さえた。
「……奥様。大変申し訳ありませんが、一つ、旦那様のために働いてもらえないでしょうか?」
「いいよ。何をすればいいの?」
「こちら旦那様が忘れていった書類を届けてください。本日締め切りのヴァレンタイン侯爵領の納税内訳書です」
(それって、とてつもなく重要なものなんじゃないかな? 旦那様ったら、大事な書類を忘れちゃって……おっちょこちょいだね)
ロザリンドはオルトンから書類の入った大きな封筒を受け取り、胸に抱き込んだ。
たとえ嫌われていようとも、ウィリアムに会えることがロザリンドは何よりも嬉しかった。
「急がないとダメだよね。オルトン、シンシア、行ってくるね!」
「「お気を付けて、いってらっしゃいませ」」
ロザリンドは弾む足取りで屋敷を出て、玄関前に駐めてあった馬車へと乗り込んだ。




