ヒロインは嘲笑う
「君とは結婚出来ない。婚約は破棄させてもらうから、そのつもりでいてくれ」
煩わしげにそう告げてきたのは、幼い頃に婚約を結んだ伯爵家の次男、アンドリュー様。
久しぶりに会いたいと請われ、やってきた中庭で突然の申し出だった。
予兆がなかったとは言わない。けれど、いくら何でも、まさか、そんなことが起こるはずがないと思っていた……いえ、信じようとがんばっていた矢先の宣言だった。
「……なぜ……」
声が震える。
問わなくても、本当は、どうしてなのかはわかっている。彼の……彼らの中心にいる可憐な女性、クレア様の為なのだろう。
クレア様、彼女は商家の平民の出でありながら、この学園内の名だたる貴族の子息達を次々と親しくなり、今では彼らをまるで取り巻きのように連れ歩き、学園内で最も有名な学生の一人となっている。
彼らを侍らせ微笑む姿は、さながら女王のようだ。
可憐に楚々として微笑んでいる姿。なのに、わたくしには人を惑わす毒花のように見えた。
この状況を、まるで困惑しているかのように微笑んでいるクレア様を正面から見据える。
あなたの思惑は、一体、何処にあるの。
クレア様を探る意識は、アンドリュー様のこわばった低い声によってふつりと途切れた。
「なぜ、だと?」
不愉快だと言わんばかりにわたくしをねめつけるアンドリュー様に息を呑む。
いつの間に、この方はこんな風にわたくしを見るようになっていたのだろう。
ギリギリと胸がきしんだ。
幼い頃は兄のように、年を重ねてからは恋心を抱き、そして彼もにくからぬ思いを返してくれていたというのに。
クレア様が入学されてから、あっという間にいろいろなことが変化してしまった。
優しくて、いつもわたくしを気遣ってくれていたアンドリュー様は、だんだんと話しかけてくることが少なくなっていった。寂しく思いお話しする時間を取っていただいても、ぼんやりとして、わたくしの言葉に耳を傾けてくれることが減っていった。
アンドリュー様の伯爵家は、建国以来続く最も古い血を持つ貴族の内のひとつで、その家名は侯爵家とも並び立つほどに力がある。現当主はこの国の宰相を任じられていた。
次男とはいえ、彼にも継ぐ爵位はあり、家名に恥じないよう、そしてそれに見合うよう努力をしてこられた方だった。
今は学園で学業を中心に生活しているが、それ以外にも成すべき事が多い。彼の立場は、学園外の身分に寄るところはもちろんのこと、学園内でも学生達を代表する立場の一人となり、常に勤しんでいた。
そんなアンドリュー様が。
わたくしへの対応がおざなりになる一方で、そうした学園内での仕事もおろそかになっていっているのが、だんだんと明らかになっていった。それに比例して、クレア様と過ごす時間が増えていく。
最近では、ぼんやりしてあらゆる物事に興味を失ったような状態の彼が、クレア様の前でだけは、以前のように聡明でりりしい姿を見せる。朗らかに笑いながら、彼女の気をひこうとしている。
アンドリュー様だけではない。皇太子殿下も、騎士団長の息子でもあり将来を期待されている子爵令息も、学園始まって以来の天才と称された青年も、……この学園で最も尊敬されていた彼ら全員が、クレア様の虜となっていた。
その様子は異様だった。全員が自ら邁進していたことをなおざりにし、ひたすらクレア様を求め、彼女を称えている。彼女の笑顔こそが至上と言わんばかりに。
その様子を何度もアンドリュー様に注意した。
どうぞ、足下をおろそかになさらないでと。あなたが大切にされていた誇りを失わないでと。
彼は激高した。お前に何がわかる、と。
彼の目は、久しぶりにわたくしを真っ直ぐに見つめていた。最近ではともることのなかった光が宿っていた。だから訴えた。
わかっております、あなたがどれだけの重圧を抱え、その為にどれだけがんばってきたのかを、わたくしはわかっております。なればこそ、今まで築いてきたそれらを捨ててはなりません…………その訴えは、アンドリュー様に届くことはなかった。
「私をわかってくれるのは、クレアだけだ……」
彼の瞳がまたどこか遠くを見つめる。誰かを探すようにさまよう。
「アンドリュー様……!!」
私の叫び声に、ぴくりと反応し、一度は戸惑ったように私を見つめていたけれど、それもやがて、離れていった。
そんな、交わることのない言葉を何度交わしただろう。
アンドリュー様は、変わってしまわれた。
彼らは他人の言葉をほとんど気にかけることがなくなり、何事も煩わしいと言いたげな様子、彼らは、やがて学園内での信頼も失おうとしていた。
アンドリュー様は、私の言葉には時折意識を向けてくださる物の、それもほんのひとときだけ。すぐに煩わしそうにクレア様の姿を探した。
愛しく思う方が、自分以外の方を一心に求める姿は、辛くてたまらなかった。
それでも、信じていたかった。いつか、こんなおかしくなるほど執着する恋など、落ち着いてくると。我に返ってくれる日が来ると。
彼と過ごした時間は、長い。十年にもわたる親交はそんなに簡単に切れてしまう物ではないと。
なのに、アンドリュー様はわたくしよりも、知り合ってたった一年のクレア様を選ぶのだ。
クレア様がアンドリュー様を選んだわけではないことは、様子を見ていればわかる。婚約を破棄するほどの決定的な何かがあるようにも思えない。
「お前は、クレアに何をした」
憎しみさえこもった声でアンドリュー様が詰め寄ってくる。
「……アンドリュー様?」
「彼女を傷つける者など、誰であろうと許さない」
「何を、おっしゃっているのですか?」
「彼女に暴言を吐き、あらぬ噂を蔓延させ、下らぬ嫌がらせを頻繁に行い……お前はクレアを傷つけたのだろう!」
おかしい。彼は何を言っているのだろう。
その勢いに言葉を失い、何も言い返すことも出来ず、ただ首を横に振る。
こんな風に、一方的に誰かを断罪するような方ではなかったはずだ。
「クレアを傷つけるような者など許さない」
息が詰まり、声も出せず、やはりわたくしは首を横に振ることしか出来ない。
こんなの、アンドリュー様じゃない。人の言葉に耳も貸さず、一方的に人を責め立てるような、こんな……。
「わた、わたくしはっ」
声が涙でにじむ。震える声が、泣きそうになっているわたくしを暴いてしまう。泣きたくなんてない。こんな事に、こんな理不尽を許して良いはずがない。
ふとアンドリュー様の向こう、クレア様の姿が見える。
三人の男性に支えられるようにして震える可憐な姿が。でも、真正面から見ているわたくしにだけは、彼女の口元が、瞳が、楽しそうに笑っているのがわかる。
許せない。許せない、許せない!! なぜあなたは笑っているの! わたくしの大切な人を、こんな風に変えて!! こんな愚かな人ではなかった!! 優しくて、思慮深くて、冷淡なところもあるけれど、それでも愛情の深い人だった!! こんな人ではなかった!! この人をこんな風に変えておいて、あなたはなぜ笑っているの……!!
悔しくて涙がボロボロとこぼれる。こらえることが出来ない。
「わたくしは、そのようなこと、やっておりません!」
叫びながらアンドリュー様に訴えた。その瞳をのぞき込んだ。
「アンドリュー様…!!」
びくりと彼の体が震える。わたくしをねめつけていた瞳が、戸惑うように揺れる。
その時、クレア様の声がした。
「アンドリューさま、フェリアさまを責めないで差し上げて?」
震えるような声は、アンドリューの剣幕に脅えているかのように響いているが、その瞳の輝きがそれを裏切っている。クレア様は現状を楽しんでいるのだ。
怒りに震えながら彼女をにらみつければ、とたんに、問答無用で顔の向きを変えられる。
アンドリュー様が、私のあごを掴み、再び怒りを燃やした目線を向けてきていた。先ほどの戸惑いは、もうそこには見えない。
「クレアの優しさで、このまますむとは思うな。お前の犯した罪は、償ってもらう」
「わたくしは、やっておりません……!!」
「だまれ!」
やってなどいないこと責められ、罪とまで言われ、絶望を感じる。アンドリュー様は、もう、わたくしの知っているアンドリュー様ではないのだと。
「アンドリューさま……」
心配するようなクレアさまの声がする。彼の表情がうっとりと笑みを浮かべる。
「アンドリュー様」
私もまた彼の名前を呼んだ。あふれる涙が止まらない。けれど、アンドリュー様は、もう私を見つめてくれなかった。
声が、届かない……。
「そこまでですわ」
突然、第三者の声が響く。目を向ければ、そこには皇太子殿下の婚約者候補でもある侯爵令嬢の姿があった。
彼女はちらりとこちらに目を向けてから、すぐに殿下の方へと視線を移す。
「いい加減に目を覚ましてくださらないと、そろそろ取り返しが付かなくなりますわよ」
ため息交じりの声に、また君か、と、とがった声が反応した。
「年下の女性に、このような行為、止めることもなさらないなんて紳士のすることではございませんわね」
「クレアを害した女だ、仕方あるまい」
殿下と侯爵令嬢が言葉を交わす。
「クレア、クレア、クレアと!! もう聞き飽きましたわ!!」
殿下に向けて心底不愉快そうに言葉を投げつけた後、侯爵令嬢は再びこちらに目を向けてきた。
「……ねえ、あなた。フェリア様とおっしゃったかしら?」
「は、はい」
「この方達の様子、おかしいと思ったことは?」
うっすらと笑みを浮かべている侯爵令嬢に、わたくしは戸惑いながらもうなずく。
「どのように?」
「まるで、クレア様の言葉しか聞こえてないかのようですわ……」
「ええ、わたくしも同じように思っておりましたの。そこで、わたくし、調べてみましたのよ。何か、そのように人を操る方法がないのかと。そしたら、おもしろい文献が見つかりましたの。……ねぇ、クレア様? あなた様の血筋には、ずいぶんとおもしろい方がいらっしゃるようね? 未だ魔術が色濃く残るといわれている彼方の国の、魔術師の血」
クレア様は突然侯爵令嬢に声をかけられ、いかにも困惑した様子で不安げに首をかしげた。
「何のことだか、わかりません」
「……なんのつもりだ。侯爵家の令嬢にそんな風に詰め寄られては、クレアが恐れてしまう。退け」
皇太子殿下の言葉に、侯爵令嬢は薄く笑った。
「殿下。この方がおっしゃったんですの? フェリア様が、クレア様を害したと?」
「ああ、そうだ」
「しておりません……!! わたくし、そのようなことは、一度も!!」
とっさに出てきた叫び声に、侯爵令嬢が小さくうなずいてくださり、そしてクレア様は……びくりと体を震わせた。
わざとらしい。
その様子が悔しくて唇をかみしめる。
「そうやって、そんな顔をして、クレアを苦しめるのか」
低い声がそばで響く。
アンドリュー様が、わたくしを冷たい目で見下ろしていた。
「……そんなっ」
「婚約者に、そのような冷たい顔をなさる物ではありませんわ。……で、クレア様の言葉を裏付ける、証拠はございまして?」
侯爵令嬢がわたくしをかばうように動いてくださった。
「……証拠? 当然証拠な、ど……」
自信ありげに言いかけて、ふっと、動きが止まる。最近クレア様がいないときによく見せる、ぼんやりとした様子、……それは、まるで思考が突然に止まったように見えた。
「……アンドリューさま?」
クレア様がそっと声をかける。とたんにはっとした様子で彼は当然のように言い放った。
「……クレアがそう言ったのだ、間違いなどない」
迷いのない様子にめまいがする。それが、立場のある者が言う言葉だろうか。
「……間違いない、ですわね」
隣でぼそりとつぶやいた侯爵令嬢の声に、はっとする。
間違いない、とは、先ほどおっしゃっていた、魔術師の血のことだろうか。
「血を、飲ませるのだそうですわ」
「……え?」
「魔術師の血は、一時的な酩酊感を持たせるのだそうです。その間に洗脳すれば、その者は魔術師の傀儡に等しくなってしまうのだとか。詳しいことはわたくしもわかっておりません。ですが、まさしく傀儡ですわね。考えようとしたとたん、まるでそれを拒絶されるように体がとまってしまわれたのが、わかりましたでしょう?」
「はい」
「そして、彼女の声で我に返り、彼女をなんの疑いもなく肯定した……」
それは、クレア様のこと以外は、考えられなくなっている、ということなのだろうか。他のことに思考を働かせようとすると、意識がとまってしまう、と……?
そう考えれば、アンドリュー様の様子につじつまが合う。他のことに関心がなくなったわけではない、……考えることが、出来なくなっていた……?
でも、わたくしが話しかけたときは、一度は必ず反応をしていらした。それの意味するところは……。
「そろそろ、よろしいでしょうか」
突然に侯爵令嬢が声を張り上げた。
「この程度の状況証拠では足らないかとは思いますが、これ以上の放置は危険であると判断していただけませんか?」
現れた騎士達に、息を呑む。
「……父上!」
騎士団長の存在にクレア様の隣にいた団長の息子が声をあげる。
「動くな」
わずかに表情を曇らせた団長であったが、すぐにその表情から感情を消し、彼の指示によってクレア様を始め、彼女を取り巻くお三方、そしてアンドリュー様が拘束されてゆく。
「父上、なぜ、このような……!」
「団長殿、クレアをお放しください、彼女はか弱き乙女です」
口々に訴える彼らの言葉に、団長は「そんなことすらも判断が付かなくなったのか」と、重いため息をついた。
「……騎士団長様、あの、アンドリュー様は、皆様は、どのような……」
「……君はアンドリュー殿の、婚約者殿、だね」
「はい」
「ひとまずは、保護という形でこちらで拘束することとなっている。調べが付き次第、対処が決まるのだが、今は何とも言えない」
「……そうですか」
「離して! 離しなさいよ……!!」
甲高い叫び声が上がり団長との会話が途切れる。そちらに目を向ければ、今までの楚々とした様子とは打って変わったクレア様がいた。声を張り上げて暴れている。
「みんな、私を助けて! お願い……!!」
「……クレア!!」
すぐそばで拘束されていたアンドリュー様が声を張り上げた。
「すぐ助ける……!!」
「……動くな。お前達が動けば、すぐさまクレア嬢の首を掻き切る」
団長のその言葉に反応して、クレア様を押さえていた騎士が、剣をその首に当てる。
ぴたりと四人の動きが止まった。
首に剣を当てられ、ぐっと詰まったかに見えたクレア様は、次の瞬間、声をあげて笑い出した。
「あはははははは! 思ったより早かったわね! ……いいえ、遅かったのかしら?」
クレア様がにやりと笑って団長を、侯爵令嬢を、そしてわたくしを見た。
「ざーんねん。ゲームオーバーね。……ほんっと、つまらない世界。せっかくヒロインになったみたいだから全部手に入れるかもしれないと思ったのに。ちょっとぐらい無理したけど、もうちょっとおもしろくなるかと思ったのに」
つまらなそうに口をとがらす彼女は、四人の男達に目を走らせる。
彼女の言っている意味がわからない。ゲームオーバー? ヒロイン? 彼女は、何を目指していたの?
「クレ、ア……?」
「馬鹿な男達。あたしにつけいられて、操られて。……それでも、愛しているのよ……」
クレア様が、にやぁと笑みを浮かべた。
「望まぬ世界でどうせ汚く腐るなら、愛する男を道連れにしてこの世界を狂わせてやろうと思ってたんだけど」
あははは! と何がおかしいのか声をあげて笑い出した。そして笑いが途絶えると、怒り狂った様子で叫びだした。
「こんな世界、大っ嫌い!! なんで壊れないの! なんでここでバレるの! はやく壊れなさいよ! 今すぐ終わって! そしたらあたしは元の世界に……! 私の世界に……!!」
意味のわからないことを大声でわめき、彼女は、ぜぇぜぇと息を吐く。そして、うふふと軽やかに笑う。彼女の感情の変化についていけない。気が狂っているようにしか見えない。気持ち悪いほどに怖い。
「……まぁ、良いわ。だーいすきな彼らには、あたしの存在は刻みつけてやったから」
「もう良い、黙りなさい」
団長が口を挟む。すると、うふふっとクレア様は微笑んで、「なんてダンディーなおじさま」と場違いなことを口にする。
「あら、もう少し、聞いた方が良いわ。あたしの力について、聞きたいでしょう?」
「何が言いたいのだね?」
「血の呪いはね、離されていれば、そのうち薄れてゆくの。だからぁ、このままあたしと離してしまえば彼らはまた元に戻るわ。でもそこに一つ、条件があるの。私に会えば、また簡単に支配されちゃうのよ。うふふ。素敵でしょう?」
可憐な姿からは思いも寄らない毒々しい言葉が漏れてくる。
けれどなぜそんな自分に不利なことを彼女は話しているのだろう。何か企みが……? それとも、嘘を……?
わたくしには判断が付かず、ちらりと団長と侯爵令嬢を盗み見る。団長の表情は読めず、侯爵令嬢の表情は厳しい。
「つまりぃ、あなたたちにとって、どうあっても、あたしは邪魔っていう訳なのよねぇ。だからあたし、考えてたのよ。失敗したときはどうするのか。ねぇ、アンドリューさま?」
にやりと笑った彼女が、笑顔のまま四人の名前を一人ずつ呼んでいく。
そして彼らの視線を一身に集めた彼女は高らかに笑った。
「あたしを愛してくれて、ありがとう。楽しかったわ? ……その記憶を持って、あたしを思い出す度に苦しみなさいな! これは愛の証よ! あなたたちの心に、クレアという名の生涯消えない傷を刻みつけてあげるわ!」
そう叫ぶと彼女は「あはははは」と高らかに笑いながら、拘束の為に添えられていた剣に向けて、自身の首を差し出した。
瞬間、目の前が真っ赤に染まったのような錯覚を覚えた。
視界を染めるほどに飛び散っている血しぶき。遠くに聞こえる自分自身の叫び声、わめくようにくわんくわんと響くアンドリュー様の声。他にも、いろいろな音が景色が、私の耳を目を、意味もなく通り過ぎてゆく。
視界の端で、アンドリュー様を始め、四人の体が、ふつりと力を失い倒れるのが見える。何が起こっているのか理解出来ないまま、私もまた、体の力が抜けるのを、そして意識が遠のくのを感じた。
悪夢のような時間だったと、後になって思い返す。何度も何度も、思い出しては苦しさが胸をよぎる。
彼女は、……クレアさんは、家であまり良い待遇を受けていなかったらしい。彼女の狂気の一端はその生い立ちでわずかに垣間見えた物の、けれど、何が彼女を駆り立てたのかまでは、最後までわからなかった。
アンドリュー様はじめ、他の皆様は、クレアさんの自死後、すぐに回復していった。
侯爵令嬢が後に、教えてもかまわない範囲で、と、教えてくれたことがある。
血を使った傀儡の魔術は、術者の死亡によって切れるということ。長らく思考範囲を狭められていた後遺症で、しばらくは思考能力の回復に時間はかかる物の、日常生活にはさほど支障がない状態に数日で戻るということ。
そして、血を使った魔術で、なぜ簡単に傀儡にされるのかということ。
「最も愛しい異性を、術者に対して、投影しているのだそうですわ」
「投影、ですか?」
「愛する相手をすり替えられている、ということです。ですから、術も相まって、心底彼女を愛している錯覚に陥っていた、ということですわ。そして、目の前で愛していると思い込んでいる女が死ぬ瞬間を見たのです。その一瞬の絶望は、どうしようもない心の傷となるだろうとのことですわ」
「でも、術は解けたのでしょう……?」
「そう、術がすぐさま解けたからこそ、なおたちが悪いのですわ。愛してもない女を愛していると思い込み、盲目的に愛した素振りを見せた自分自身を覚えているのですもの。どうしようもない不快感はあるというのに、死んだのは不愉快な罪人だと理性ではわかっているのに、心が、愛した人を失った痛みをきざんでしまっているのだそうです。皆が一様に、彼女のことを心底憎み、消えない絶望を抱えた自分自身を恥じて悔いていらっしゃるようです。まるで呪いのよう……彼女の最後の言葉が叶ったようで、悔しいですわね」
侯爵令嬢はそう言って、重いため息を吐いた。
クレアさんは、あの時そこまで考えて死んでいったのだろうか。考えたところで、今はもう、それを知る術はないのだけれど。
全てが落ち着き、二ヶ月が過ぎた頃、ようやくアンドリュー様は「保護」という名の隔離から解放された。
彼は、伯爵と各所への謝罪や挨拶に回る前に、一番にわたくしの元へと来て下さった。
そして、わたくしの手を取り、何度も謝って下さった。
彼女に心酔していた期間でも、彼はわたくしに会う度に違和感を覚えていたらしい。けれど、考えようとすると、意識が薄れて何を考えようとしていたのかわからなくなっていたのだと。
仕方のないことですもの。
私は何とか微笑んで、首を振って見せた。
あの時の切なさはなかったことにはならないけれど、それでも、抗いようのなかったことだとは、思っている。
いや、と彼が苦しげに首を振った。記録では血の魔術に打ち勝った人間もいるのだと。打ち勝てなかった自分が情けないと、彼は苦しげに頭を下げた。フェリアを傷つけてしまった、すまない、と。
そんな話、知りたくなかった。だって打ち勝って欲しかったと、心がきしむ。でも、それを口にすることは出来ない。きっと一番苦しんでいるのは、抵抗すら出来なかったアンドリュー様だ。
「それでも君を愛している」
アンドリュー様がわたくしに懇願するように、そうおっしゃった。初めてもらったその言葉に、心が震えた。
「私が投影した最も愛しい女性は、フェリアだった。フェリアへの愛おしさを、ずっと抱いていた。私が愛しているのは、君だ。どうか、婚約を破棄しないで欲しい」
あの辛かった日々は、なかったことには出来ない。でも、やり直すことは、出来るだろうか。
やり切れなさの中に、ほのかな期待が混じる。
わたくしは彼に手を握りしめられたまま、「はい」と小さくうなずくことしか出来なかった。
今回の出来事は、秘密裏に処理されて、詳しいことを知るのは、当事者のみとなった。
少しずつ、クレアさんのいなかった日常が戻ってきた。
アンドリュー様は以前よりずっとわたくしに優しくなった。愛していると言って下さるようになった。
以前より精力的に働くようになった。学園内での評価も戻ってきた。
けれど、彼から冷たい言葉を向けられ、築いた信頼をなかったことにされ、他の女性を大切にする姿を見せられたあの時間が、わたくしの心を沈ませる。
うまく心の整理がつけられずにいるわたくしに、ある日お母様が隣に座るとゆっくりと話し始めた。
「きっと、アンドリュー様のお年では、その呪いに打ち勝つのは不可能に近かったと思うわ。打ち勝ったという人は、アンドリュー様より十も年上で、しかも今よりも大変厳しい時代に生きていた方ですもの。心身共に、鍛えられ方が違っているはずよ。
それよりも、フェリアに会う度に混乱を起こしていたというのは、それだけあなたを思っていたと言うことではないかしら。それは、彼も、あなたも誇って良いことだと思うの。
今すぐ許して差し上げなさいとは、言わないわ。
その代わり、たくさん悩みなさいな。時にはアンドリュー様を責めて、そして、過ぎたと思ったなら反省をなさい。
心から許せるのは十年先になるかもしれない。もしかしたらあなたたちに子が生まれて、あなたたちぐらいの年になる頃になるかもしれない。けれど、その頃になれば、必ずわかるわ。心から、仕方のないこともあるんだって。許せる日が来るわ。その時にはきっと、悩んだことも、苦しんだことも、責めたことも、悔やんだことも、全てが自身を作る大事な糧だったのだと思えるようになるわ。……それまでは、たくさん、悩みきってご覧なさい」
と、ひどいことを、お母様は笑っておっしゃった。
「過ちを犯さない人間はいないわ。責めて責められ、許し許され、悔やみ悔やまれ、そうやって愛情は築いていく物よ」
そうは言われても、あの苦しみの日々を心から許せる日が来るとは、今はまだ思えない。
それは、クレアさんの呪いのようで、悔しいけれど。
曖昧にうなずいたわたくしにお母様は柔らかく微笑んで、幼子にするような仕草で、わたくしの髪をそっと撫でた。
わたくしとアンドリュー様の中に、歪に残る、彼女のつけた爪痕。
お母様のおっしゃるように、二人でこれから先も歩んでいくことで、消していけることが出来るだろうか。傷跡を、若かったのだと二人で笑えるような日が来るだろうか。
今はまだ、わからないけれど、それでもわたくしは、これから先も彼と共にいられたらと、願う。