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フェアリー・クインテット  作者: 芝森 蛍
大地の無言歌(リーダ・オーネ・ウォルテ)
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第一章

 時は朝。場所は学院。思考放蕩気味。

 眠気に揺れる頭は睡眠を求めて降下し、机に組んだ腕へと落ちる。

 ここ国立フィーレスト学院の第三階級。トーア級の教室の一つ、窓側最前列の日当たり良好物件では、一人の男子生徒が春先の蝶が揺蕩う陽光に身を委ねてだらりと授業開始までの時間を過ごしていた。

 灰色の短い頭髪にアンダーリムの銀縁眼鏡の奥には髪と同色のくすんだ瞳。肩上に白銀の長髪を身に纏った異性の妖精を従えて、今日も今日とて平和を欲し彼は惰眠を貪る。


「…………クラウス」

「……………………」

「……クラウスっ」

「呼ばれてますよー、クラウスさん?」


 耳に木霊するのは何処か別の世界の音のようで。瞼の奥の景色が段々と現実感を伴って焦点を結び、色鮮やかに輝き出す。

 耳元で囁く契約妖精が優しく眠りの淵よりクラウスの意識を引っ張り上げていく。


「…………そんなに大きな声を出さなくても聞こえてるよ、ユーリア」

「だったら一度で返事しなさいよ」


 肩上の契約妖精──フィーナに指先で相手をしながら顔を上げたクラウスは呼び声の主と視線を交わした。

 陽光を受けて艶やかに流れる黒い長髪。妖しいほどの光を放つ紫色の双眸。きちんと整えられた目鼻立ちは今日も変わらず冴え冴えと光る一発の弾丸のようで。

 不機嫌に結ばれた桜色の唇が不満そうな声を漏らす。


「……それで、どうしたの?」

「これよろしく」


 最低限の言葉を交わすと差し出されたのは書類の束。分かりきっていた返答に辟易としながら受け取って紙面に目を落とす。

 内容は昨日新設したばかりの校内保安委員会宛投書。書かれているのは早急に手を打つほどでもない生徒たちの学院への不満や愚痴などなど。中には恋愛相談まである。一体誰が担当するのやら。

 と、数枚めくって確認したところでふと過ぎった感慨を口にしてみる。


「…………呼び方。無理してない?」

「────無理して何か問題が?」


 びくりと震えたのは彼女の肩か。視界の外でさらりと流麗に踊る黒髪が猫の尻尾のようで少しだけ言葉を選ぶ。


「僕にはないけどユーリアにはあるんじゃないかな。……何て答えて欲しい?」

「……気遣いする暇があるなら早くそれ片付けて。ニーナ会長に持って行くから」

「それは失礼」


 顔を見ないのはせめてもの情け。彼女も知らず変わった表情を悟られては気に障るだろう。……それはクラウスの物言いにもか。

 素直に嬉しさも言葉に出来ないなんて互いにどうかしてる。

 彼女と密接に関わるようになってまだ一週間ちょっと。この短期間で異性と仲良くなるのはクラウスにも、そして恐らくユーリアにも少し重い問題だ。

 けれど今みたいに軽口なら交わせるし、こういうことに頭の回転の速い彼女はクラウスとしても付き合いやすい。

 この調子なら面と向かって友達と言える日もそう遠くないのでは、とクラウスは一人物思いに耽る。

 友達。その言葉のなんと薄く厚い事だろうか。

 今こうして不器用ながらも会話を成り立たせようとしてくれている彼女も、少し前に親友と小さなすれ違いを起こした。

 それはいつからかクラウスを巻き込んで、途中からクラウスを中心に据えて回り、最後にはクラウスの計らいで自然と消滅した旋風(つむじかぜ)

 あのすれ違いで、クラウスは今一度友達という言葉を見つめなおした。


 ────私の友達をアンネが勝手に決めないでよっ!


 あの疾風(はやて)のような物語の中で彼女が口にした言葉が脳裏を過ぎる。

 それは彼女の本心で。同時にクラウスは彼女が望む形の一端を突きつけられた気がした。


 ────君に事の真実を教える


 ────その代償に、君は僕の友達になってくれないかな?


 ────この契約はユーリアが真実を知った後に破棄してくれて構わないから


 あの時交わした言葉は結果ユーリアにとって酷い侮辱となった。

 契約で構わないと。自分のことは忘れて構わないと。

 そんなこと出来よう筈もないのに。あの時既に友人としての一歩を踏み出していたのに。

 いつから友達という言葉を概念でしか認識できなくなったのだろうか。面と向かって友達だと言うのが恥ずかしくなったのだろうか。

 幼馴染に問いかけてみたが満足のする答えは手に入れられなかった。

 結局クラウスの一番苦手な感情論。そこに納得を求めるしかないのだろう。

 そうして膨れ上がった新たな疑問は、しかし彼女の小さな歩み寄りで少しだけその答えに近づいた気がした。

 彼女が契約を勝手に延長したのか。それとも契約の外の試行錯誤なのか。

 そんなことを少しでも考えた自分が恥ずかしかった。


「……はいこれ。それじゃあニーナ会長によろしく」

「明日は自分で取りに行きなさいよ。ここは学び舎なんだから」


 幾つか覚書を書類に留めてユーリアに差し出すと、彼女は怒った風に言って教室を出て行く。

 あれは彼女なりの感情表現としておこう。そう思えば少しだけ彼女に歩み寄る事が出来た気がした。


「……大変ですね、委員会」

「妖精は自由でいいね」

「わ、私はクラウスさんの苦労を分かってますからっ」


 ユーリアの背を眺めていたフィーナは彼女が見えなくなるとクラウスへ向き直り声を掛ける。

 彼女の言葉はどんな気遣いよりも正鵠を射ている。それはきっとクラウスの心の内が知らないうちに彼女に流れてしまうから。

 契約妖精との間に繋がれる回路。その切れる気がしない契約の証を胸の奥に意識しつつ惰性で言葉を交わす。

 

 ────わたしも、悪者になりますっ


 フィーナの言葉を裏打ちする彼女の言葉が脳内で響いてその真偽を改めて理解する。

 妖精は嘘を吐かない。それはこの大地に妖精が現れて約700年の間不変として語り継がれてきた事実だ。

 正確には契約妖精は妖精従き(フィニアン)に嘘を吐けないと言うものであり、その理由は契約妖精との間に繋がれる回路が深く関係している。

 妖精との契約によって妖精から受ける恩恵。この言い方には少しだけ語弊がある。

 クラウスの考える限り妖精との契約における正しい言葉の形は『契約妖精から人間への恩恵と、人間が契約妖精に及ぼす隷属関係』だ。

 隷属、と言うと少し聞こえが悪いかもしれないが、要は妖精は一人では生きられないということ。

 契約後の恩恵の内容に妖精従きから契約妖精への妖精力の半永久的供給というのがある。これは視点を変えれば人間が妖精に妖精力を分け与えているということと同義だ。

 あまり意識をしない視点だが、これは立派な個人の支配だ。

 更に言えば、妖精力を分け与えている。それは妖精にとって生きるために不可欠なもの。そう言った強制的な文として捉えた時、その対価に見合うほどの恩恵を人間側が受け取っているとは限らない。

 こうした視点は意識しないと見辛い。けれど一度見えてしまうと視界は一転し、妖精側から見た人間という視点へも適応されていく。

 この話を妖精側から見た場合、彼らには幾つかの対価がある。その一つが妖精従きに対して嘘を吐くことができないというものだ。

 これは嘘を吐けないであって、嘘を吐かないわけではない。つまり妖精は嘘を吐く事ができるのだ。

 ただしこの際の発言に対して意識、無意識に関わらず妖精従き側から虚言への弱い制限があるようで、嘘を吐こうとすると妖精の言動が不審になるそうだ。

 これはフィーナの言葉なので事実である可能性が高く、実際に嘘を吐いてもらいその嘘に対しての制限……つまりは疑いの心をクラウスが向けると彼女は言葉通りの反応を示した。……因みにその際の対価はクリームパン二つだった。

 また、妖精従きの契約妖精に向ける疑いの心には強制力のようなものが存在する。つまり妖精従きが疑い、真実を問い詰めれば契約妖精は隠し事も嘘を吐くことも恐らく不可能というわけだ。

 もし仮に嘘を吐けたとしても膨れ上がった感情が妖精従き側に流入すればそれでばれてしまう。

 けれど妖精とは契約や強制という言葉以前に素直な生き物だ。元よりそうなのだからこういった暗い話はそう有り触れては存在しない。

 それに素直なのは人間側にも言える事だろう。友達に言えなくとも契約妖精に語る心の吐露はその表れだ。

 そう言った妖精の例に漏れずフィーナ個人は正直者だし、感情が表に出やすいので変な勘繰りをしないで済む。

 正直者だからこそ彼女の言葉は真実で、覚悟は曲がらない意思で彩られる。

 だから彼女の悪役宣言も心の底からのクラウスへの信頼なのだろう。

 信じてもらえるのは嬉しい。何より、自分のもう半分のような彼女と一緒にいられる事が嬉しいのだ。

 そんなフィーナを自分の我が儘と人間の理不尽の中に連れて行くのかと思うと、彼女よりもクラウスの心のほうが先に挫けそうだ。

 フィーナの気持ちを考え、その果てに自分の心を覗き込む。そうして自分のやろうとしていることを改めて自覚するのと同時、意気込むフィーナの言葉に横から一つ声が掛けられた。


「分かるだけじゃ駄目だと思うなぁ」


 そちらを見れば緩く波打つライトブラウンの短い髪に、透き通った水色の瞳を持つクラウスの級友がそこにいた。彼女はユーリアとは方向性の異なるクラウスの友人だろうか。


「おはよう、アンネさん」

「おはよう、クラウス君」


 挨拶を交わせば柔らかい微笑で返すアンネ。

 彼女はユーリアの親友であり、先の騒動の一端を担った少女だ。けれどその表情は軽やかなもので、いつも通りを過ごしているように見える。クラウスにはその横顔が心なしか楽しそうに見えた。


「……分かるだけじゃ駄目ってどういうことですか……?」

「そのままの意味だよ」


 唐突に入ってきた横からの指摘に、フィーナは唸るように言葉を返す。


「分かってもその苦労を解決しないと元は変わらないって事。私の言ってることの意味、分かる?」

「あ、当たり前ですっ」


 アンネの言葉に食い気味に答えるフィーナ。その敵視さえ滲ませた視線はフィーナ自身よりも、クラウスの妖精従きとしての格を貶されたことに対する反抗に見える。

 確かに信頼は貴く嬉しい。しかしあまり行き過ぎるとそれはただの押し付けだ。


「フィーナ」

「…………うぅぅ。だって、この人が……」

「アンネさん」

「アンネさん、が……クラウスさんのこと……」


 ともすれば泣き出しそうにクラウスを見つめるフィーナ。だから女の子の涙は苦手なんだって。

 とりあえずフィーナの機嫌を宥めに掛かる。


「僕は何も傷ついてないよ。だからそんなに怒らないで。あとそんなに言うと僕より先にアンネさんが傷つくよ? そしたら今度は僕が悲しくなる」

「………………ごめんなさい」

「私も悪かったよ。少し強く言い過ぎた。……後クラウス君、歯の浮くような台詞禁止」

「……それは流石に自意識過剰じゃ?」


 クラウスの言葉に謝るフィーナ。素直さは彼女の大きな武器だろうか。

 過ぎる感慨も一瞬。次にアンネから放たれた言葉に呻くと、彼女は小悪魔に微笑んで優しい色をした唇にそっと指を当てた。その仕草の艶かしいこと……。思わず昨日の廊下での一幕を思い出す。


「……それで、どうかしたの? まさかただからかいに来ただけ?」

「それは私には役不足だよ」

「その自身が羨ましいよ……」


 どうにか頭を振って脳内の景色を振り払う。唇が熱を持つ寸前で言葉を継ぐと、今度はユーリアより女性らしい膨らみを誇示してみせる。だから君は僕をどうしたいんだいっ。昨日の自分の言葉を思い出して欲しい。

 もしかして先ほどの歯の浮く台詞云々に対する小さな報復? だとするならもう十分だからやめてっ!


「……これを渡そうと思って」


 アンネに心を掻き乱されつつ彼女の差し出した大きな封筒を受け取る。


「反省文」

「本当に書いてきたんだ」

「けじめをつけときたかっただけだよ」


 どこか恥ずかしそうに顔を背けるアンネ。

 再三脳裏を掠めるアンネとの記憶。それは昨日の生徒会での作業の合間の会話。

 クラウスとしては気分を紛らわす程度の話で、アンネにとっても休憩の片手間の事で。その際に交わした話が、アンネが起こした騒動の落としどころとして反省文でもどうかというもの。提案したのがクラウス。笑い話のように答えていたのがアンネだった。

 クラウスからしてみれば事は終わった後で、あの屋上で言葉にした通り特に贖罪も求めてはいなかった。

 しかしそれはやはりクラウスの気持ちで、アンネ自身は何処か後ろめたさがあったのかもしれない。だから彼女は委員会の手伝いを申し出て、更にはクラウスとあの廊下で口先の契約を交わした。そしてこうして反省文までクラウスに提出した。

 それはやり方や込められた気持ちこそ違えど、フィーナの覚悟やユーリアの歩み寄りと似通ったものなのだろう。


「……わかった。しっかりと読ませてもらうよ」

「原稿用紙十枚……」

「……それ今言わないといけなかったかな?」

「あと、この子も紹介しときたくて」


 あぁ聞こえてないんですね、そうですね。……仕返しにきっちり同じ枚数で感想文でも突き出してあげようか。


「どうも、はじめまして。ダフネです」


 やはりアンネは小悪魔の器ではないとかどうとか……。そんな事を考えながら視界と耳は新しい情報を鋭敏に捉える。

 そのダフネと名乗った少女は妖精大の身長に四枚の翅。若草色のショートヘアに琥珀色の瞳を嵌めた女性の妖精だった。


「私の契約妖精。……あの、私が言うのもおかしいかもしれないけど。仲良くしてあげて貰えると、嬉しいかな」


 アンネは恐々とそう言って決まりが悪そうに視線を逸らす。まったく次から次へと表情が変わる。一緒にいて飽きない子だよなぁ。

 胸の奥が甘く疼くのは、やはりアンネが魅力的な女性だからだろうか。逃がした魚は随分と大物だ。


「妖精に背を向ける事は妖精が見える者の絶対なる恥である、ね……」


 クラウスが優しくそう言葉にするとアンネは息を止めた後、小さく顔に花を咲かせる。


「よろしくお願いしますっ」

「よろしくね、ダフネさん。……アンネ」


 フィーナに続いて挨拶をすると、最後にアンネは頬を染めて逃げるように席に戻って行ったのだった。




 クラウスの価値観が変化するのであれば、目に見えない日常の流れの中にも気付かない無数の変遷があるのだろう。それはきっとクラウスの主観が届かないところで繰り返されてきて、その一部が彼の周りを彩っている。

 全てを自分の手中に収めて、全能の神様のように全てを俯瞰し操ることなんてクラウスには不可能だ。けれども散らばった欠片を拾い集めてそれをくっつけて一つの結果を齎すことは別段難しいことではない。それがクラウスの前に突き出された問題であるならば、だ。

 時計の針が時を刻み。授業と休みを繰り返し。訪れた放課後にクラウスは生徒会室へ向かう。

 その足取りは何処か楽しげで、彼の視界は鮮烈な色彩で彩られている。肩上の相棒は今日も変わらず上機嫌に鼻唄を奏で、妖精という軛と自由に縛られて生きている。

 楽しい事は良き哉良き哉。日常こそ平和なり。

 優しい春の陽光に気分が温厚へと向かうのは悪いことではない。ただ少し、危機感が和らぐのは引き締めたほうがいいだろうか。

 冷静に自分の周りを判断して裁定を下すと脳内を切り替えていく。さて、今日はどんな問題が積み重なるのやら。

 鞄から幾つかの書類を取り出して生徒会室の扉を開ける。

 視界良好。人影多数。

 目から入って来た情報が脳で処理され確認のように反芻する。

 相変わらず生徒会長──ニーナ・アルケス女史は椅子に腰掛け、書記ヴォルフ・ブラキウムはクラウスの来室が分かっていたように紅茶と菓子を準備中。クラウスより先に教室から開放されたのか別のクラスの幼馴染、テオ・グライドはソファーに腰掛け手元の書類に目を落としていた。

 生徒会室の中には友人、ユーリア・クー・シーの顔はない。彼女は今日は国軍の方の用事で委員会を欠席だ。

 一人欠けてはいるが問題は無いだろう。彼女は参加できないことを理由に仕事を放棄したりはしない。それはクラウスの手元の書類の束が証明してくれる。


「ユーリアからです。彼女は今日こちらに顔を出せないので預かってきました」

「これだから軍は嫌なのよ。結局人も組織も駒でしかないんだから」


 ユーリアが今日授業の合間にこなしてきた仕事の結果をニーナに差し出す。彼女は受け取りながら悪態を吐いて憂さを晴らした。

 ニーナは今こそこの学院の生徒会長と言う席にほぼ毎日座っているが、少し前まではユーリアと同じ軍属だったのだ。その苦労は彼女もよく知るところ。呟きは仕方のないものだ。


「知りませんよ、誰かに聞かれても」

「いいのよ。今更下がるほどの評定持ってないもの」


 それは自虐というより開き直りか。彼女のことだから前を見据えた発言なのだろうけれども。ニーナの抱える闇を少しだけ垣間見た気がしてクラウスは口を閉ざす。

 ニーナは純血のエルフだ。クラウスはクォーターであり、他の妖精に嫌悪されることが間々あるがそれは確かな理由の結果にある拒絶。けれど彼女の場合はただエルフであるというだけで、エルフという種族であるだけで忌避され拒絶され続けてきたのだ。

 今ではエルフの過去の行いに悪魔や蛮族などと言う輩の方が非難される。それは歴史研究においてエルフの過去が人類には無害なものだと証明されてきているからだ。

 けれどいくら証明がされたからといって心の奥に根付くその反感や嫌疑といった感情がすぐに消えるわけではない。今でも彼女に対する風当たりは強いし、町でエルフやハーフエルフなどが騒ぎの中心にいれば根拠なく犯人に仕立て上げられることもある。

 そうした理由のない謗りや弾劾に晒されている彼女が願うのは、きっと人間との間に蟠りのない関係を築くことなのだろう。

 自分がそうだから、この先を生きる他のエルフや非難されてる人々を救いたい。

 心優しい願いは茨の道で、その困難さを思えばクラウスごときが口を挟める話ではない。

 だけど力になりたいと思う。それが例え傲慢や自己満足で、(あまつさ)えクラウスの思惑の踏み台でしかないとしても。

 近くを通って、共感をしたのなら、その偽善的な行為にクラウスは協力を申し出るのだろう。逆に手を取らなければ、クラウスはきっと後悔する。

 どこかで彼女と自分は似ていると勝手に思い込んで自分勝手に解釈しているに過ぎない考えだが、一人ではクラウスもニーナもその願いを叶える事はできない。

 小さくともいい。ただ少しだけ変わるのならば。この組織を設立すると決意した時に彼女との間に見つけた一つの共通点。

 今を変えたい。


「上がるとも限りませんけどね」

「クラウス君に判断求めてないもんっ」

「では僕以外の評定が下がらないように早く仕事をしてください」


 その為の委員会。その為のこの時間。その為の校内保安。

 やるべきことをきっちりと言葉にして空気を入れ替える。

 拗ねたように間延びした返事はニーナの口から。その声を背中に聞きつつソファーに腰を下すと目の前にいつものように紅茶が置かれた。

 上級生に給仕させているこの状況を改善するのが先かもしれない。

 ふと過ぎった感慨を脳裏に留めつつテオから差し出された今日最初の問題に目を通し始める。

 その時、部屋に響き渡ったノック音。全員が手元を一旦止めてそちらへと顔を向ける。


「どうぞ」


 来客とは珍しい。書類仕事よりも先に現場だろうか。

 クラウスが考え、ニーナが入室を促すと引かれた扉の奥には女性徒が一人立っていた。

 (ひわ)色の短い髪に黒橡(くろつるばみ)色の瞳。品のいい顔立ちは穏やかな微笑を描き出し、女性徒の物腰を柔らかそうに印象付ける。


「失礼します。……あ、先輩っ」


 礼儀正しく腰を折って挨拶一つ。それから上げた視界で吟味するようにそこにいる面々を見渡した女性徒は一人の異性に目を止めると、瞳を輝かせ駆け寄って了承も得ないまま飛びついた。


「ブラキウム先輩!」

「コルヌっ」


 大きな体に抱きつき頬ずりをする女性徒。ヴォルフは困惑する間を置いてやんわりと女性徒を引き剥がす。


「先輩、どうしてですか?」

「……今は、忙しい。それに他の人の迷惑だ」


 ヴォルフの言葉に不思議そうに顔を回す少女。ちらりと首元に見えたリボンは青色。どうやら彼女は最下級生、ハウズ級の生徒のようだ。

 ぐるりと他の面子を視界に入れて、まるで最初から気付いていなかったかのように驚愕の表情を見せる少女。今になって室内の視線に気がついたらしい。先ほど目が合ったはずなのだが記憶に留まらなかったのだろうか。


「あ、あっ。えっと、すみませんっ。わたくし、レベッカ・コルヌと申します。ブラキウム先輩の許婚です!」

「元だ。今は違う」


 突然の告白。冷静でいられたのは事実であろう補足をしたヴォルフとある程度の事を聞いていたクラウスだけ。

 空いた間を埋めるように三つの疑問が矢の雨のように到来する。その全てに、ヴォルフは落ち着いた様子で答えを返した。


「先輩、許婚なんていたんですかっ」

「……元だが」

「二人は付き合ってるの?」

「いいえ」

「ハニー、許婚ってどういうことっ!」

「だから元だ」


 テオ、ニーナ。そして最後のはヴォルフの契約妖精であるクラウディア──クリス。

 クリスはヴォルフのことを一人の異性として愛している。この委員会の最初の集まりの時に見せた彼女の大胆な告白はクラウスの記憶に新しい。

 だからこそ彼女としては当然の感情で、こうして何処か火花散らすようにレベッカと視線を交し合うのも必然といえばそれまでだ。


「初めまして、コルヌさん。クラウス・アルフィルクです」

「あ、レベッカで良いですよ、クラウス先輩っ」


 そんな逆巻く嵐を余所にクラウスは平然と挨拶を交わす。

 ニーナはあの時一緒にいたからある程度のことは聞いていたはずだが……。逆にそれが変に作用して早とちりを生んだのだろうか。

 友好の握手をしつつそんな事を考えるクラウス。二人の様子をちらりとみたヴォルフだったがクラウスは気付かない振り。

 いつも通り振舞っていつの間にか切り替わった頭で言葉を継ぐ。


「愛称は駄目?」

「そういうのはブラキウム先輩にしか許してませんっ」


 少し軟派に探りを入れてみると引っ掛かったのは尊敬するほどの一途な思い。思考回路はテオ寄りかな。それならやりやすい相手だ。


「それは失礼なことを聞いたね。ごめん。……それで今日はどういったご用件で?」

「先輩にお話があって……」


 問いかけに視線は外れてヴォルフの方へ。

 全員の視線がそちらへ向く中で室内を俯瞰すると、テオが察しよくいつも通りに戻っていて少しだけ安心した。今の時間と短いやり取りでクラウスの思惑になんとなく気付いてくれたらしい。こういうとき幼馴染は便利だなと思う。


「ブラキウム先輩」


 ブラキウム。レベッカがヴォルフに対して真っ直ぐな恋心を持っているのはほぼ確定だ。けれど彼のことを家名で呼ぶのは先輩後輩の関係だからだろうかと少し疑問に思う。

 簡単に話をした程度の推測だが、彼女の性格はどちらかと言うと攻撃的だ。自分の感情を優先して、その心情は強く揺るがない。押し付けと言っても良いかもしれない。

 だとするならば、彼女がヴォルフの事を名前で呼ばないのは少し違和感がある。

 恋心を振りかざしている。けれど一線を引くように家名で呼び、更には先輩という上下関係の見える言葉を付随させている。

 この二つを両立するのは少し妙ではないだろうか。

 仲良くなりたければ名前で呼ぶであろうし、目上であることを尊重するならば『さん』等の敬称をつければいい。そちらの方が近い存在に聞こえるはずだ。

 それとも過去に一度そう試してヴォルフのほうから呼称についての要望があったから気に入ってもらうために受け入れたのか。

 違和感は疑問となり脳はいくつもの想像を巡らせる。

 迷路の様に可能性を模索するクラウスを時間は待たない。気付けばレベッカが本題を話し始めていた。


「先輩、わたくしと男女交際をしていただけませんか?」


 幾つかしていた予想の範囲内。しかしその言葉は随分と直接的なものだ。


「…………前から言っているが君とは付き合えない」


 返した言葉も刃のように鋭く真っ直ぐに。低く押し殺した声は戒めのようでありとても深く響く。

 ヴォルフの言葉に少し悲しそうに顔を歪めたレベッカは、けれどすぐに明るい笑顔を浮かべると「あーあ」と諦めのような言葉を零した。


「……そんなに魅力ないですか?」

「……………………」

「ご主人様、仕事の続きを」


 沈黙は何を意味するか。レベッカをじっと見つめて視線だけを返すヴォルフに彼女は真摯な瞳で訴えかける。

 横から声を掛けたのはヴォルフの契約妖精であるクリス。彼女の言葉にレベッカから視線を逸らしたヴォルフは黙って紅茶とお菓子を用意すると机に置いて書類仕事へと戻る。

 お客様扱いであることに気がついたレベッカは少しだけ悔しそうに制服の裾を掴んではいたが、その内長椅子に座って小さく紅茶を飲み始めた。

 そんな様子をちらちらと伺っているのはニーナ。彼女はレベッカの様子が気に掛かる様で手元の書類は蔑ろ。

 気持ちは分かるが仕事をしてください。


「……回収行って来る」


 上がった声はヴォルフのもの。彼は逃げるように生徒会室から出て行く。

 ヴォルフの背中が見えなくなってから、室内には小さく一つの溜息が零れ落ちた。肩を落としているのはレベッカ。


「あ、の……」

「んー?」


 声に答えたのはテオ。彼はクラウスのほうをちらりと確認して反応がないことを見ると書類を整えて机の隅に置く。


「先輩のことか?」

「……はい」


 話題はここにはいない上級生のこと。ニーナも手を止めて耳を傾ける。


「先輩は、わたくしのことを嫌いなのでしょうか……」

「どうだろうな。ただ気には掛けてるんじゃないか?」

「…………」

「本当に嫌なら無視するだろうし、心の底から嫌ってるようには俺には見えないけどな」


 レベッカは顔を上げてテオの言葉に聞き入る。

 テオは恐らくレベッカとヴォルフの間のことはあまり知らないはずだ。けれど知らないからこそ新しい視点で物事を見ることが出来る。


「……レベッカちゃんはどうしてあの人のことを好きなんだ?」

「それは許婚……でしたから」

「許婚だから、なのか?」

「…………いつのまにか、です」


 まぁそんなところだろう。

 許婚として過ごしてきて、相手と触れ合って。気付けば本当に相手のことを好きになっていた。十分にありえる話だ。


「頼れる先輩で、少し口数が少ないけど紳士で。わたくしにとっては王子様みたいです」

「……あれだな。押して駄目なら引いてみなってね」

「…………」


 テオの言葉に口を結ぶレベッカ。どうやらテオは彼女を応援するらしい。

 クラウスとしては少し複雑な気分だ。一昨日の放課後、クラウスはヴォルフから相談を受けた。その相談内容が脳裏を答えを求めて彷徨う。落としどころの難しい話だ。結局は当人次第。クラウスが余り口を挟んでいい話ではない。

 一度思考を外すために書類を持って腰を上げ、ニーナに渡す。彼女も一昨日の場にいた人物だ。ヴォルフの抱える悩みは一応理解しているはずで、だからこそ簡単に口を挟めないのだろう。

 少し寂しそうにレベッカを見つめる瞳は色が足りないように見える。ニーナは一体どちらの気持ちを重く見るのだろうか。


「……仕事、してくださいよ」

「だって気になるじゃない」

「人の恋路に首を突っ込んで引っ掻き回さないでくださいよ。それに会長には──」

「わぁああああっ!」


 唐突に大声を上げるニーナ。慌てて振り回した腕がクラウスの持っていた書類の束を弾き飛ばして視界を白色に染め上げる。その一枚が顔に当たって痛かった。


「……嫌がらせですか?」

「クラウス君が悪いんだよっ!」


 机に力強く手をつき怒りを露にするニーナ。大声に続きそんな癇癪を起こせば自然と視線が集まる。

 いつの間にかテオが仕事が増えたとばかりに溜息をつき、レベッカが椅子から立ち上がる。


「お手伝いしますっ」

「お騒がせしました。レベッカさんはどうぞ寛いでいてください。これは会長の責任です」

「元はと言えば──」

「ね、生徒会長?」


 レベッカの好意を抑えて抗議をしようとしたニーナに首を回すと、先を制し言葉の端に爆弾を滲ませて威圧する。視線にびくりと肩を震わせたニーナはやがて涙目になってクラウスを睨んだ。


「うぅぅ……。この悪魔っ……」

「僕が悪魔なら囁いてもいいんですかね?」

「…………泣くよ?」

「泣くのは仕事を終えてからにしてください」


 冷血に言い放って仕事へ戻る。テオがちらりとこちらを見て苦笑いを零したが、彼ほど余裕のないクラウスは同情をしない。

 思考を切り替えて書類へと向き直る。

 とりあえず悩み事は後、まずは今日の分を終わらせないと何時まで経ってもここから開放されないのだ。


「す、すごいですね……」

「恐ろしいのはこいつと幼馴染してる自分だってこの頃よく思うよ」


 茶化したテオにようやく笑顔を浮かべたレベッカは気がかりにニーナのほうを伺いつつお茶に口をつける。

 飲み込んで顔を綻ばせたのは単に美味しかっただけか、それとも用意した人物の顔を浮かべたからか。

 その内テオも書類仕事に戻って会話も少なくなってきた頃、投書箱を見に行ったヴォルフが戻ってきた。


「……仕分けを」

「あぁ、僕がやりますよ。そこに置いといてください」


 箱を抱えた彼の言葉に思い出す。そういえば投書の分類はユーリアの管轄だ。彼女がいない今、他の誰かが代わりを埋めなければならない。

 そこもどうにかしないとなと頭を捻り始める。すぐに幾つか思いついた案を脳内で実行して有効なものだけを選り出す。それから拾い上げた他の想像と組み合わせてよりよい効率のものを模索。

 ……やはり人員増強が手っ取り早いか。そこまで考えが思い浮かべば思考は自然と人物へ。

 さてどうやって彼女を見つけ出そうか。

 そうして脳裏に描いた人物の所在を探し出した矢先、先ほど閉まった扉が叩く音と共に開かれる。


「やっと日誌終わったよ……」


 声に顔を上げれば想像を巡らせた女性徒がそこに立っていた。


「アンネさん、その箱の中身を選り分けてくれる?」

「……来るんじゃなかった」


 仮面さえも生ぬるい、貼り付けた満面の笑みを向けてクラウスは告げる。入室早々渋面で顔を彩った彼女、アンネは唇を尖らせて可愛らしく言葉を零す。

 昨日交わした彼女との契約。アンネは明日までクラウス個人の補佐役だ。だからクラウスの頼みを断る事は彼女にはできない。


「それで、どう分別すればいいの?」

「昨日のユーリアみたいにお願い」

「私がいつもユーリだけ見てると思わないでよ」


 瞬時に言葉の裏を返してしまった自分が嫌になる。アンネも分かっていて口にするんだから意地が悪い。

 言葉を返しながら作業に移るアンネの様子を目端で捉えつつそういえばと思う。

 いつの間にか、ではあるが彼女はクラウスに対して丁寧な口調を崩していた。それは単に彼女がクラウスとの間に壁を感じなくなったからなのか、それともユーリア関連の心変わりなのかは分からないけれど。

 ただ少しでも自惚れていいなら、この関係を失いたくはないなと心の内に留める。


「あの、先輩……」


 冷静に俯瞰して現状の変化を目に留めつつ、耳が捉えたのはレベッカの声。


「お菓子と紅茶、美味しかったです。それと、お邪魔してすみませんでした」


 静かに腰を上げた彼女はヴォルフに礼をして鞄を持つ。どうやらテオの助言を実行するらしい。

 クラウス個人の感触で言えば先ほどまでの彼女よりも今のほうが少しだけ魅力的に感じる。


「……コルヌ」


 そうして静かに退室しようとするレベッカに声を掛けたのはヴォルフだった。

 反射的に勢いよく振り返る辺り、引いてみる作戦は中々彼女にとって難しいかもしれない。


「預かり物」

「え……あ、そうだった」


 ヴォルフの言葉にレベッカは一瞬きょとんとして、それから慌てたように鞄を探り始める。

 出てきたのは一つの封筒。どうやら手紙か何からしい。


「ではわたくしはこれで。失礼しました」


 ヴォルフが受け取ったのを確認するとレベッカは出入り口で一礼して生徒会室を後にする。少しだけ便箋を見つめていたヴォルフが気になったが思考を切り替えて手元に集中力を回す。

 その内全員が仕事に戻って、ようやく回り始めた今日の委員会もいくつもの問題と対面しながら時間が過ぎていった。




 その日の投書を全部処理し終えて。廊下に出たクラウスは窓から差し込む光に一つ大きな伸びをする。真似するように肩上のフィーナが腕を伸ばしたのを見て彼女の額を軽く小突いた。

 仕事の開放感に浸るクラウスの背に声が掛けられる。


「アルフィルク」


 振り返るとそこに立っていたのはヴォルフ。ふと視界を回して二ーナとテオの姿がないことを確認する。


「……彼女のことですか?」


 クラウスの問いにヴォルフは頷く。どうやら意見が聞きたいらしい。


「えっと、レベッカさん、でしたっけ。ヴォルフさんの……」

「元許婚だ」

「そして今は彼女からの求愛に手を焼いていると」


 フィーナの疑問にヴォルフが答え、彼の抱える問題をクラウスが簡単に言葉にする。

 随分と贅沢な悩みだと思いつつ記憶を遡る。彼の抱える問題はレベッカとの関係改善。

 この話をされたのが一昨日の放課後。アンネとユーリアの問題を片付けた直後のことだった。

 ヴォルフ曰く彼女は前年度……つまりレベッカがこの学院へ入学するまでは彼の許婚だった。しかし彼女が入学するのと同時、その許婚と言う関係は白紙に戻されたのだと言う。

 その後、クラウスが悪戯問題に当たっている裏で、彼はレベッカからの許婚に対する疑問や彼女から向けられる気持ちに一人で向き合ってきたらしい。

 彼女の気持ちに答えられないとは告げてきたが、レベッカがそれで折れる様子はなく結果クラウスに相談を持ちかけたと言うわけだ。


「……今のままだと平行線ですね」

「やはりそうか」


 その返答は一体何を望んだ末の言葉なのだろうか。

 彼女の気持ちを受け入れていない以上現状に甘んじると言う選択肢もないわけではないが、彼は関係を変えたくてクラウスに話を持ちかけたはずだ。そうであるならば目指すべき彼の願いは……はっきりとした先輩後輩関係だろうか。


「先輩はあるべき形に、と言う意見でいいんですよね」

「……そうだな」

「けれど言葉を並べても彼女は納得しない。だから平行線……。これは先輩の気持ち一つでどうにかなる問題じゃありませんね」


 脳内の盤上に今確認できている駒と作戦を並べて俯瞰する。そこから冷静に幾つかの空想を走らせて、その結果から逆算した解決法を導き出す。更にはこちらの視点だけではなくレベッカの気持ちも鑑みてその情報を付与した最善策を練り直す。

 これまで勉強や個人的な疑問にいくつも向き合ってきたクラウスが答えを導き出すために編み出した幾つかある思考方法の一つ。

 多角度視点検証。

 今回は前回の悪戯犯の時の様にクラウスの手管一つで事が動くほど簡単ではない問題だ。事人間関係はそういう場合が多数だ。

 時間が掛かる問題だが最良の結末を思い浮かべつつ思考を重ねる。


「とりあえずもう少し時間が欲しいです。彼女についての情報が少ないのでこれといった決定的な解決法が出せません」

「……わかった。何かあったら連絡する」

「中々お力になれずすみません。よろしくお願いします」


 短い言葉しか紡がなかったヴォルフはそれだけを聞くと背を向けて歩き出す。そういえば彼は寮生活だったか。だとしたら今後顔を合わせる事が多くなるかもしれないなと考える。

 過ぎった感慨に溜息を吐いて生徒会室の扉に背中を預ける。


「……あの、クラウスさん」

「ん?」

「どうしてクラウスさんはヴォルフさんのお手伝いをするんですか?」


 その問いは耳元の白銀の妖精から。彼女の蒼色の瞳は疑問符に彩られ、クラウスの心の内を覗くように突き刺さる。

 彼女の問いはどういう意味の言葉だろうか。何故ヴォルフに力を貸すのかと言う疑問? それとも何故レベッカの応援をしないのか言う疑問?

 どちらとも考えられる。今現在ヴォルフに特別な異性はいない。いくらクリスから熱い恋愛感情を受けているとはいえ彼はクリスを契約妖精としか認識していない。それと同様にレベッカにもまた後輩として接している。

 どうして、と言うフィーナの疑問に少しだけ考えて言葉を返す。


「…………そこに必要があるから、かな」

「またクリームパンですか?」


 唐突な麺麭(パン)の名称に少しだけ考える。

 フィーナにとってクリームパンは好物だ。そしてそれと同等にフィーナがクラウスの願望を指し示す時の言葉でもある。


 ────こんな人がクリームパンだなんてっ!


 自分もクラウスと共に歩むと口にしたあの放課後に。彼女が叫んだ心からの罵倒はクラウスの心に深く突き刺さった。

 クラウスみたいな温厚そうな人物が実は事件の黒幕で、何てことは本を読めば沢山ある。童話や寓話にだって教訓や物語展開上ありえるのだ。

 その教訓を、クラウスが思い描く空想を最初に否定して共感したのは彼女だった。

 その言葉がクリームパン。甘味に溢れる傍ら、摂取することで満腹感と罪悪感を得る。尤も、妖精は人間のように急激に体重が増えたりはしないのだが。

 フィーナにとってはそれがクラウスを理解し表現する言葉なのかもしれない。


「……やっぱり僕は悪い人かな?」

「私には分かりません。……だって私も悪い妖精ですから」


 何も言葉にはしていない。けれど彼女との間に契約と言う回路が繋がっているからか。それとも他の何かか。

 そんな理解を超えた共感のような何かで結ばれて、フィーナは笑顔を浮かべて答える。

 クラウスは彼女の優しい慈母のような笑顔に少しだけ罪悪感を芽生えさせた。


 ────それなのに僕が君を見ていないなんて言ったら、君は一体どんな顔をするのだろうか





「あっ」


 夕日色に染まる廊下を歩いて。昇降口まで来るとそこに見慣れた姿の女性徒がいることに気がついた。

 クラウスが気づくのとほぼ同じく、彼女もまたクラウスと目が合って声を上げる。


「どうしたの、ユーリア。何か忘れ物?」

「……まだ委員会終わってないかと思って」


 それは気遣いと言うよりは彼女の真摯さなのだろう。いくら今日の彼女の仕事は授業の合間にこなしたからと言って、委員会のその場に彼女はいない。

 だから彼女は軍の仕事が終わって急いで学校へ引き返してきたのだろう。少し気をつけて見れば、彼女の頬は上気して夕日に照らされてなお少しだけ桃色に色づき、肩は僅かに上下している。

 しかし少しだけ遅かった。


「ユーリアの変わりにアンネさんが手伝ってくれたよ」

「……そう」


 息を整えたユーリアが短く答える。紫色の瞳は変わらず光を放ってクラウスを射抜く。


「ユーリア、寮生活だよね。よかったら一緒に帰らない?」

「…………好きにすれば」


 不満気な口調は目的を達することができなかったからだろうか。できればクラウスに会ったことがその原因でないことを祈りつつ彼女の横に並び立って歩き出す。


「今日はこっちでは特に問題はなかったよ。ブラキウム先輩と仲のいい後輩の女の子が少しだけ遊びには来たけど」

「……また何か変なことに首突っ込んでるんじゃないでしょうね」


 なんと鋭い。けれど今回はクラウスはまだ巻き込まれた側だ。


「今のところそのつもりはないよ」

「どうだか」


 何処か拗ねたようにも聞こえる彼女の口調に少しだけ笑みを零す。

 どうやら順調にアンネの望みは叶えられつつあるらしい。まぁ今になってみればアンネの望み、と言うよりはクラウスの望みなのかも知れないけれど。


「まぁ今日はそんな感じ。明日は普通に参加できるの?」

「……一応そのつもり。流石に発足して二日も連続で休んでられないでしょ」

「ユーリアがやる気なのはいいことだと思うけど、無理して体壊さないでよ?」

「その程度で崩れる体調なら(はな)から断ってるわよ」


 ユーリアが校内保安委員会に参加する理由は何なのだろうか。

 クラウスには机上の空論があって、ニーナには大義があって。けれどユーリアの目的は何なのだろうと頭を捻る。


「……どうしてユーリアは委員会に入ったの?」

「私にだって目標くらいはある」


 ユーリアの言葉に脳裏を過去の記憶が過ぎる。

 それはあの戦闘訓練の授業の日に、校舎の脇で言葉を交わした際の陰のある表情。

 愛銃を握り締めて、視線を逸らした彼女の姿。あの時ユーリアは何を思い浮かべ、考えていたのだろうか。

 すぐに思考が彼女のことを詮索しそうになって慌てて振り払う。

 それは彼女にとっての侮辱だ。僕は彼女のことをまだほとんど知らない。

 長い艶やかな黒髪と不思議な紫色の瞳と。一発の銃弾のように研ぎ澄まされた彼女の他を、クラウスは殆ど知らない。何を願うのか、何を思っているのか。その一欠片でさえも──笑顔でさえも見たことがない。

 そんな彼女を勝手に探って勝手に理解した気になって……そんなのはきっと、友達だなんて言わない。


「理解も共感もいらない。ただ私だけの目標。……クラウスにだってあるんでしょ」

「ない、とは言えないね。ただ叶うかどうかは分からないかな」

「叶わないわよ。叶えるだけ」


 彼女のその言葉が胸の奥にすとんと定まる。

 そうして、気付く。彼女はきっとクラウスの求める答えの一つを持っている。

 友達になりたい。彼女の持つ答えが欲しい。

 二つの気持ちが互いに鬩ぎあって終着点を探し始める。

 いつかその答えを得られるだろうか。


「……そうだね、叶えたいな」

「できるんじゃない。知らないけど」

「意外と無責任?」

「責任を押し付けないで」

「……ごめん」


 少しだけ……少しだけ彼女の心の内を覗けた気がする。口から零れた謝罪は彼女の言葉に対するだけものではないのかもしれない。

 そんな事を考えた自分が嫌になった。


「……それじゃ、私女子寮だから」

「さよなら。また、明日」

「……さよなら」


 ユーリアの言葉に足を止める。

 気付けばいつの間にか寮の近くまで来ていて、ユーリアはいつもと変わらない様子で淡々と言葉を紡ぐ。

 向けた挨拶には、片方だけに返答があった。

 ユーリアと分かれて寮へと戻ると、寮の出入り口付近にアンネが一人で立っていた。

 彼女は実家暮らしだ。そんな彼女が男子寮の前にいるということは意中の異性でも待っているのだろうか。と、益体もなく理由を別の場所に求めてみる。


「フィーナ、先に戻って今日の夕食見てきてくれるかな?」

「甘味は私のものですからねっ」


 フィーナに先に戻るように言うと、彼女は少し拗ねたように交換条件を提示する。どうやらフィーナにとってアンネは少し納得のいかない人物のようだ。

 小さく笑って頭を撫でるとフィーナは飛び立って寮へと入っていった。

 クラウスが足を止めると音に顔を上げたアンネの口元が小悪魔に彩られる。思わず視線を逸らしてしまった。


「……何で顔を逸らすの?」

「アンネさんが魅力的で目を合わせられないんだよ」

「口が巧いと後で後悔することになるよ?」

「ご忠告どうも。相手は選ぶから気遣いは無用だよ」


 軽快に言葉を交わして意味もない満足感を得る。クラウスの言葉にアンネは押し黙って悔しそうに視線を逸らした。

 こんな時間が、何時までも続けばいいのに。

 きっと彼女も考えた理想に二人して小さく笑って本題に入る。


「……それでどうしたの?」

「伝えておかないといけないことがあるから待ってたの」

「寒くなかった?」

「別に。寒いのは埋められない欲求だけだから」


 今度はクラウスが口を噤む。何でこう頭の回転が速いかなぁ。気が抜けないから怖いくらいだよ。

 そんな事を考えつつ、彼女の言葉の裏に隠れる真実を幾つか脳裏に描き出す。

 そうして、思考に頭のいくらかを割いていて、アンネの起こした行動に反応をするのが遅れた。


「……女の子が体を冷やしちゃ駄目だよ」

「明後日から少しだけ時間をくれる?」

「何時まで?」

「……分からない」


 唐突に抱きついてきたアンネ。その華奢で、けれど何処か甘さを感じる柔らかい体を軽く抱きとめて囁くように声を続ける。こうなるならフィーナを先に返したのは間違いだっただろうか。

 己の甘さを自覚しつつ、冷静な頭はアンネの言葉の裏を探り続ける。

 やがて、少しの間を空けてクラウスの口から吐息が漏れた。


「………………いいよ」

「ありがと」


 アンネは小さく笑って首に回した腕の力を少し強くする。鼻先に甘い匂いが漂ってクラウスの思考を少しだけ阻害した。一体どこまで計算ずくなのだろうか。


「お礼は何を求めようか?」

「キスでもいいよ?」

「風があるから火が燃えるのかな」


 愉しそうに紡ぐアンネの言葉を諌めるように声を重ねて。

 それからクラウスの首の裏を小さく抓った彼女は突き飛ばすようにクラウスと距離を取った。


「無茶をしたらすぐに分かるんだから」

「巻き込まれるのはその埒外だよね」


 心配そうなアンネに現状をそれとなく伝えておく。少し曇った表情はやがて溜息の奥に隠れて見えなくなった。

 必要な情報を交換して少しだけ名残惜しそうに顔を背ける彼女の傍を通り過ぎる。すれ違い様に脛を蹴られたが甘んじて受け止めた。

 背後で小さい溜息の音が聞こえていた。




              *   *   *




 今日は先輩に会うことができた。会って、少しだけどお話をすることができた。

 ずっと、ずっと夢見てきた時間。

 先輩と話をして、同じ空気を吸って、共に歩いて、笑いあって──

 そんな想像とは少しだけ違うけど、それでもこの一歩はわたくしの大事な一歩。

 先輩と歩む大きな一歩。

 その景色を夢見て、わたくしはこの学院に入学したのだ。

 そんな夢と色に溢れた日常に足を踏み出した矢先のことだった。わたくしと先輩の許婚が解消されたのだ。

 先輩とわたくしはもう許婚ではない。それは分かっている。

 けれどそんな繋がりがなくたって、わたくしは先輩のことが好きなのだ。

 先輩は覚えていないかもしれないけれど、わたくしと先輩は小さい頃に一緒に遊んだことがある。

 先輩の家の庭で。青々と茂る芝生の上で。煌々と輝く太陽の下で。

 あの日は今日みたいな快晴の青空で、春の季節だった。

 出会いの季節。始まりの季節。恋の季節。

 そんな少し恥ずかしい言葉だって胸に灯すことができるほどに、わたくしは先輩のことをお慕いしている。

 確かに許婚と言う繋がりは途絶えてしまった。しかしそんな繋がりに頼るほど、わたくしも甘くはないつもりだ。

 本当に、心の底から好きだから……だから気に入らない事だって確かに存在する。

 あの妖精。先輩の傍に寄り添って片時もその場を離れようとしなかったあの妖精。

 キャラメル色のツインテールを揺らしたお菓子みたいな契約妖精。

 あの妖精は、わたくしと同じ気持ちを持っている。

 先輩に恋焦がれて、先輩を振り向かせようとしている。

 ライバルと言うことだ。妖精なのに、契約妖精なのに。隣に立つと言うのはその意味を履き違えてはいけないのだ。

 けれどあの妖精はわたくしと真っ向から対峙するつもりなのだ。

 人間は人間と歩むべきで、妖精と交わってはいけない。それは彼の心を汚す毒になる。

 だからわたくしが先輩と一緒にいるべきなのだ。わたくしが、わたくしこそが先輩に相応しい。

 …………明日は、何かいいことがあるだろうか。

 今日は、先輩の夢を見られるだろうか。

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