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フェアリー・クインテット  作者: 芝森 蛍
蜂蜜酒に踊る即興曲(アンプロンプチュ)
80/138

第二章

「……また喧嘩したの? 飽きないね、アンネさんも」

「やり直し方を、それしか知らなかっただけだよ。クラウス君と喧嘩もできないしね」


 彼女の言葉に小さく笑う。

 確かに、アンネとクラウスでは喧嘩にはならないだろう。

 彼女を駒としか見ず、与えられた役割以上の興味を殆ど抱かなかったクラウスと。被った仮面と手にした居場所に縋りついて身を焦がし続けたアンネでは。対等でないが故にそこに諍いは起きない。

 だってクラウスは彼女に怒れないから。彼女が怒ったところで、クラウスは謝る事も許されないから。

 そんな歪にして釣り合いの取れた関係に、心地よさと遣り切れなさを感じながら。安心感と不条理の棘の中で溺れていたのは語るだけ野暮というもの。


「クラウス君と喧嘩できたら、その時ようやく隣に立てるんだろうね。……私には、無理かなぁ」


 寂しく笑って零すアンネに、けれどやっぱりクラウスは何も言えなくて。

 妙に色気を纏った彼女は流し目でこちらを見つめる。

 あぁ、まったく。度し難いほどに何故彼女じゃなかったのだろうかと。

 たった一つの未練を感じながら言葉を紡ぐ。


「自分で言うのもなんだけど、僕を怒らせたら大したものだよね」

「だからユーリなんでしょ?」


 そういえば彼女の為に怒って、その末に失敗したのだったかと。

 だったら今感じているこの未練は、未練なんかではなくてただのクラウスか。

 今更ながらに気付く。どうやら僕という存在は、どうしようもなく意地悪らしい。

 好いてくれる女の子に上辺を取り繕って。本心では別の女の子を追い駆けて。随分な外道だと笑えば、それこそがクラウス・アルフィルクだと納得できた。


「……言い訳をするなら、アンネさんが諦めなかったのが悪いんだよ?」

「うっわぁ…………もう一回死ねばいいのに」


 心からの罵倒に心地よさを感じて。それから笑い飛ばせば満足感を得る。

 そうだ。これでいい。アンネが何処までも力になってくれて、その最後のところで全てを台無しにする否定を振り翳す。

 クラウスが最初にアンネへ望んだ立ち位置だ。

 ここまでくるのに長かったと。意味があったのかすら分からない今までの事を反芻しながら尋ねる。


「……それで? まだ全部じゃないよね?」

「いいけど、長くなるよ?」

「好きなだけ語って聞かせてよ。それがアンネさんに対する償いになるのなら、僕は甘んじてそれを受け入れるから」

「なんないよ。クラウス君はずっと、私が追い駆け続ける事を感じながら、自分を苛み続けるの。そんなクラウス君を見て、私が笑ってあげるんだから。クラウス君を好きでいる限り、私が救われる事なんてないんだよ?」


 一体それはどちらに対する拷問なのだろうか。

 少しだけ考えて、だからこそそこに感じる歪んだ満足感に、それが二人のあり方だと納得する。


「だからクラウス君はずっとユーリを選ぶの。その為に、今はただ私の全部を知ってもらう為にもう一回紡ぐよ。始まりからずっと狂い続けた、私の嫉妬と後悔の詩。クラウス君を追い駆け追い詰めた、狂詩曲(ラプソディー)であり奇想曲(カプリッチョ)。絶対に許されない悪逆非道に恋をした、憐れな女の子の物語」




              *   *   *




 あの日の放課後には分かりきっていた事。

 私は、クラウス君には選ばれない。

 けれどそれでも諦められないほどに、彼の事が好きなのだ。

 愛という言葉では語り尽くせないほどに募ったこの想いは、なんと形容するのが相応しいだろうか。例え世界にある全てのことばを寄せ集めても足りない気はするけれど。出来る事ならばたった一言で語ってみたい。

 …………やっぱり『愛情』になるのかな。そんなものじゃ足りないけど。

 そういえば、『あ』の次は『い』らしい。それでもって、『あ』は始まりの言葉らしい。それは何処で目にした話だったか忘れたけれど、続いた話は今のアンネにぴったりだ。

 『あい』という言葉は、始まりの感情とそれを肯定する二番目で出来ていて。そこに気持ちが篭った『愛情』から、始まりの気持ちを忘れてしまうと『異常』になると。

 もしかしたら私はどこかでその始まりを落としてきてしまったのかもしれない。

 そんな事を考えるほどにこの胸の気持ちはずっと暴れ続けている。

 答えなどない。満足感などない。

 想えば想うだけ募っては行き場無く寂しさに持て余す。

 こんな感情、知らなければどれ程安心していられただろうか。

 そもそも、彼の何処がいいのだろうか。

 考えても、納得のいかない好きだけが、唯一つ燃え盛るだけ。

 それほどに彼の事が好きなのに。何もできない事が悔しくて。

 きっとそんな何かに気付いた妖精の導きが、ぶつけるべき問題を目の前に突きたててくれたのだろうと。

 クラウスを連れ戻すという目的に全てを注ぎ込めば、ようやく前に進む勇気を得て歩き出せる。

 カイに掛け合って国外渡航の許可を貰ってからは時間の流れが早く感じた。

 学院の授業も大詰めで。今年卒業の生徒は殆ど学院にも来なくなって。いつの間にかやってきた試験もあっという間に過ぎ、ニーナの卒業式。

 アンネにしてみれば、それほど思い入れのある先輩達ではなかったと。特にこの一年はクラウスとユーリアの事ばかりを考えていて、それ以外の事が目に入らなかった。

 だからあまり感動もない、通過儀礼の数多ある一つ。

 ただ少しあったのは、ニーナの事。彼女には少しばかり世話になったというか、世話を焼いたというか。間にクラウスを挟んで幾度か話をしただけの思い入れはある。

 友達というには離れすぎていて、他人というには近すぎる。そんな曖昧な距離感は、きっとアンネの判断基準が全てクラウスに由来するからなのだろう。

 クラウスが気に掛けるから、アンネも気に留める。クラウスが選んだエルフの先輩だから、記憶にだけは残っていた。たったそれだけの事。薄情だというなら(なじ)ってくれて構わない。

 そんな彼女と、やはりクラウスを間に挟んで協力するに相成った。

 彼を連れ戻す為、彼女はこれからスハイルに向かう。それは彼女が決めた事で、アンネが望んだ事。だからきっと、ユーリアに語ったようにそろそろ本気にならないといけない。

 私の世界を、クラウス君とユーリだけで完結させていてはいけないのだ。


「……先輩」

「うん?」


 見つけた背中に声を掛ければ、振り返る仕草に短く綺麗に切り揃えられた穹色の髪が揺れる。

 ニーナ・アルケス。純血のエルフにして、批難を背負い、自分を持った尊敬に値する先輩。

 それは何よりも、アンネ自身の為に。


「ご卒業、おめでとうございます」

「……彼相手なら聞き飽きたって笑い飛ばすのだけれども」

「いいですよ? そういうの嫌いではないですし」

「そう?」


 手に持った花束は在校生からの贈り物か。そこから一輪、黄色い花を抜き取ってこちらに差し出しながら首を傾げるニーナ。意味もなく受け取れば、彼女は紡ぐ。


「…………何だか変な気分ね、アンネさんとこうして話をするのは」

「まともに会話をした事がありませんでしたからね。もちろん存じ上げてはいましたけれど」

「必要に駆られたから、でしょう? 彼に似て薄情な事ね。……人間って皆そうなの?」

「クラウス君が特殊なだけです」


 二人して言い訳を投げれば、ようやく笑う事が出来た。


「……彼が居ないけど大丈夫?」

「大丈夫じゃないです。けれど大丈夫にします。帰って来た時に安心してもらえるように、どうにかします」

「ん…………。まぁテオも居るし、他にも力になってくれる子は沢山居る。あたしはこっちには居ないだろうからそう簡単に手助けは出来ないけれど、無責任に応援だけしておくわよ」

「精霊の加護、ですか?」

「安売りをするつもりはないわよ」


 それは残念だと笑えば、ニーナが真剣に零す。


「あたしも頑張るから、彼のことよろしくね」

「任されました。先輩も、フェアリードクター目指して頑張ってください。……意味もなく応援してます」

「邪魔だからやめて頂戴」


 冗談に肩を揺らして、それからニーナの背中を見送る。

 どうやら誰かを探しているらしい。先ほどの会話から考えるに、唯一名前の出たテオあたりだろうか?

 ならば深追いはするまい。恋人との睦言に割って入れるほど、アンネの心は図太くないのだ。

 何せ親友の好きな人を横取りしたいと願うほどだからね。絡め手で奪い去ろうなんて心の弱い人がすることでしょう?


 ────アンネさんほど女の子らしい人を僕は知らないよ


 クラウス君にしては下手な冗談だね。寝てる間に鈍ったのかな、なんて。というか私が話をしてるんだから静かに聴いててよ……。

 で、そんな一幕を過ごしてニーナだけでなくヴォルフと、そしてユーリアもそれぞれに他国へと向かう。

 一番心配なのは色々と噂の絶えない騎士団国へ赴く我が親友。あの日以降、まともに言葉を交わさないまま旅立った、たった一人の愛すべき友達と次に顔を合わせるのは一年後。特使という肩書きの他にも、ユーリアには留学という体裁もあって、例え求める結果が得られたとしても途中で帰ってくることはない。

 次に会うのはヴォルフの卒業式の頃。

 それまでに、アンネにだって彼女の為にできる事はある。

 まず、まだ彼女はトーア級だ。流石にクー・シーの息女がトーアで卒業というのは問題がある。せめてハーフェン。

 その理由としても留学があって、向こうで得る経験がこちらに帰って来ても確かな意味を持つように。それから来年の冬の進級試験には参加できるように今からお膳立てを。

 もちろんアンネだってトーアに居座るつもりはない。この一年で忙しさに(かま)けた分をこれからの一年で取り返して一つ上へ。

 私個人のこの先の未来予想図はある程度固まっているけれど、二人の周りにいる以上迷惑は掛けられない。上を目指すのはそれだけ二人への助力となり箔へと繋がる。

 ……そうだ。私の目指すべきところは今のヴァレッターとしての居場所を守る事。彼が戻ってきた後、国さえも利用すると語った彼の力になれるように、この居場所は手放せない。

 それ以外にも、単純にいい成績で学院を卒業すれば幾つかの保険も利かせられる。

 打算とあわよくばとそうあるべき未来と。言ってしまえば個人的な理由で意欲を燃やして足を出す。

 できない事はしなくていい。できる事だけを真剣に。

 勝手にクラウスから受け取ったそんな行動指針を胸に据えて、そうして新学期。まずは自由を活かす為に今年度はトーアのまま。

 一度受講した階級だ。ある程度復習するだけで授業を真面目に受ける必要はない。試験でしっかり結果を出して、あとはそう見えるように振舞うだけ。……折角なら誰かさんと一緒に進級したいしね。

 始まった新たな年に、今できる事をとその場に胡坐を掻いて自由を振り翳す。

 時間を見つけては立ち寄ったのが男子寮、そのクラウスの部屋。手続き上は未だクラウスのもので、彼の帰って来るべき場所を守る為に、主にエルゼの力を借りて主不在のその部屋は彼の名義のまま確保をしてもらっている。

 そんな主を失った居城に彼が認めた二つの魂が篭っている。そんな二人の面倒を見る事も、きっと彼の専属の従者たるこの身の役目なのだろうと我が儘を言い訳にして。


「生きてるー?」

「生きてる」

「いらっしゃいませ、アンネさん」


 記憶より少しだけ散らかった彼の部屋。その部屋を問答無く開けば、挨拶を返してきたのは白銀と漆黒の妖精。

 片や彼と契約を交わしていたクォーターのはんぶん、フィーナ。片や彼の幼い頃からの知り合いだというクォーターのはんぶん、アル。

 彼女達はクラウス眠るその後、この部屋に浸ってずっと顔を突き合わせている。

 曰く、彼女達にはクラウスを連れ戻す算段があるらしい。その為にもこの世界の中心地たる古都──ミドラースへ向かう事が必要で、その為にユーリアやニーナ達に頼み込んだのだ。


「……また散らかってるね。片付けてもいいかな?」

「好きにしたら?」

「ごめんなさい、迷惑をお掛けして」

「いいんだよ。私達にしてみれば、二人しか頼れないの。その為なら幾らだって力になる」

「あたしたちの為、じゃなくて、クラウスの為、でしょうが」


 アルの呟きに肩を揺らして、それから部屋の中を軽く掃除をしていく。

 彼が眠ってから早三ヶ月。その間に幾度も訪れたこの部屋にはもう、彼の残り香はない。

 その事に少しだけ寂しくもなりつつ、けれど彼の残した意思は確かに今ここで燃えているのだと優しく抱き込む。

 フィーナとアルは、私だけじゃない。みんなの希望だ。彼が戻って来る為に、それぞれが努力をする。だったら私に出来るのは、そんなみんなの僅かな手伝いだけ。

 もとよりそれほど積極的でもなければ、何かが出来るほど秀でているわけではない。ただ諦める事が少し苦手な、ちっぽけな少女なのだ。

 だから私は私に出来る事に、少しだけ手を伸ばすだけ。


「何か新しい事は分かった?」

「まだですね……。…………ごめんなさい。あんな事言ったのに、具体的な方法を言えなくて」

「いいの。何も出来ないで泣いてるよりは随分な進歩だと思うから」


 惨めなこの身を笑って、それから続ける。


「この世界の中心、ミドラース。最も多く妖精の国(アルフヘイム)の伝承が残る古の都……。そこに行けばなにかしらの手がかりは掴めるかも知れない……。それだけあればしっかりとした理由だよ」


 ミドラース。このフェルクレールトの台地の中心に位置する、保護区域。歴史の中で失われたその都市には、妖精に関する幾つもの逸話が残っている。

 代表的なのは妖精の国。そこに起因するオーベロンやタイターニアという名前。

 今では廃都と化し、森へと変わってしまった土地にして、歴史的な価値があるという名目で四大国によって共有財産として保護されている立ち入り禁止区域だ。

 その場所に手がかりがあるかもしれないと語ったのはアル。前から彼女は、どこか一歩引いた場所から何かを知っているように語る節があったのは気付いている。彼だって口にはしないけれど気に掛けてはいたはずだ。

 彼女は何かを隠していると。

 そんな彼女が言ったのだ。クラウスを連れ戻したいと。

 加えてフィーナも。彼と契約を交わした唯一にしてはんぶんが、縋るように続いた。

 ならばもう、私にだって理由は要らない。ただクラウスの為にという気持ちがあれば、動くに足る中核へとなる。

 そうしてその場に居合わせたユーリアたちも力になると申し出てくれて……もちろんそうなるように彼女達を振り回したのだけれども。

 ミドラースへ行くには四大国から許可を取らなければいけない。その為に、ニーナはスハイルへ、ヴォルフはカリーナへ、そしてユーリアがトゥレイスへと向かったのだ。

 残ったテオがブランデンブルクから許可を取り、アンネはそれぞれの中継ぎと何かあった時に動けるように。それからアルやフィーナに協力して具体的な今後の方針を固める手助けに。

 何かを出来るほど力を持たないのならば、何かが出来る人たちが動きやすいように地盤を整える。それが今、アンネにすること……できる事。


「けど幾らミドラース、妖精の国と言っても、今はないんだよね?」

「えぇ。だから言ったはずよ。それは可能性で、確実ではない。それでもいいというから、あたしは力を貸してるの」

「だってそれ以外に方法なんて無いんでしょ?」


 それは直感染みた断言で。アルの宝石のような紅玉の瞳を真っ直ぐに見据えて告げれば、彼女は諦めたように溜め息を吐く。


「……無いならつくる」

「クラウス君ならそう言うだろうね」


 アルが何かを飲み込んだのを感じながら、笑い話にして話を逸らす。

 教えてもらえないのならばそれでもいい。私にしてみれば、クラウス君が戻って来るという結果さえあれば、それ以外には何もいらない。その為に、必要な事をするだけだ。


「だってそれこそが妖精術の本質だもんね」


 無から有を生み出す力。命は営みによってしか生まれないが、けれどその営みを支える数多ある柱の幾つかは、彼女達妖精の御技で成り立っている。

 だからこそ、妖精の干渉によって失われた意識ならば、それを取り戻すのもまた妖精の力。

 未知にして絶対にして不条理のその先に。求める結果を手繰り寄せる為にその最奥へと手を伸ばす。


「…………例えそれで妖精を敵に回す事になるんだとしても、私は諦めないから。そのつもりで協力してよ?」

「いい度胸ね。その覚悟に嘘がない事を信じてるわよ」


 もちろん、そんな事実は望んではいないけれど。彼女の期待と信頼を勝ち取る為に交わすその場限りの契約。

 それほどに、彼はアンネにとって大切な人なのだ。


「……何か食べる? 作れるものだったら作るよ?」

「おまかせしますっ」


 太い本を一冊。音を立てて閉じたフィーナが顔を笑顔で彩って答える。

 妖精に食事はいらない。けれど、彼女達は何よりも、彼の選んだ妖精なのだという理由さえあれば、その言葉の前にどんな常識でも覆る気がしたアンネだった。




 そんな風にクラウスの部屋と学院。それからブランデンブルク城を渡り歩く日々の中で、見過ごせない問題も幾つか起こる。

 それはクラウスが居ない事に起因する景色の変化。

 彼が居なくなって初めて気付いた、彼が抱えていたものの大きさ。

 それは一口にこれだと言えないほどに多岐に渡っていて。生徒会や校内保安委員会。果ては学院全体の空気というのも一身に引き受けていたのだと改めて知った。

 クォーターである事を最大限に利用して。目立つのならと逆手にとって、興味関心悪態を全てその身に集めて。本来ならばもっと多方向に向いていた不平や不満を、クラウスという名前一つで纏め上げていたのだと知らされた。

 彼はよく、悪役だとか道化だとか。そんな事を冗談のように口にしていたけれど。それが口だけではなかったのだと身を(もっ)て体感した。

 それは語るだけ彼の事を貶める事になるのかもしれない。けれど誰かに聞いてもらえるのならば……聞いてもらいたいほどに、怖気のするものだった。

 アンネだって気付いていた。表沙汰にならないだけで、彼の周りで起きていた彼個人を誹謗中傷する幾つもの心ない言葉や行動に。

 けれどそれにはまるで無関心を装って。特にユーリアやニーナ達の前ではそんな話題を一切出すことなく、裏で一人全てを受け止めていた。

 クォーターだから。悪魔憑きだから。クラウスだから。

 そんな言葉で括られて、影で囁かれる噂話が全て彼のところで止まっていたのは、彼が成した功績と相殺されていたからかもしれない。

 委員会を創り、妖精術を開発し、国の仕事もこなして、生徒会副会長としてもやるべき事を全うした。

 だからこそ彼に対して強く言えなかった部分もあって、それが確かな矛先を持つまでに至らなかったのだろう。アンネが知らないだけで、裏ではそうならないように何か工夫をしていたのかもしれない。

 知っていて、けれどアンネにはどうする事もできなかった。

 それは例えば、誰かが他人へ抱く負の印象だから。妬ましいとか、気持ち悪いとか。そういったそれぞれの心に根差す、本来ならばその人の中で完結するだけの感情。

 それを(さなが)ら制御するように、良い事や一見正しい事で釣り合いを取っていた彼の行いは、けれどデュラハンの事を境になくなってしまった。

 だからそう、それは当然の帰結。

 誰でもない、止めるべき人が居なくなってしまえば必然起こる混乱と噂。助長された雰囲気がやがて明確な流れを持つまでにそう時間は必要なくて。

 それが何時しかクラウスという個人だけではなく、彼の周りにまで影響を及ぼすようになる。

 そうなればニーナの降級騒ぎの二の舞のようになる事を恐れ、下手な事が出来なくなる。学院が動けばそれは噂を肯定した事へ繋がり。逆に表立ってやめさせる事が出来なければ余計に悪化して、そうして負の螺旋へ。

 クラウス一人が居ないだけで起こったその悪化は、学院全体を包み込むように気持ちの悪い(わだかま)りとなる。

 改めて彼が背負っていたものの大きさを知る。

 一体どうしたらいいのだろうか。何も出来ない、どうすればいいかも分からない、形のない敵を目の前にアンネは一人悩む。

 気付けば過ぎていた時間は夏季休暇に。

 けれどユーリアの居ないその長期休暇は、アンネにとっては色のない世界で。やるべき事に追われながらやる事を見失って、自室で一人唸る。

 寝転がるのは少し体が跳ねるほどにふかふかな寝具の上。差し込む陽光に枕の隣に置いた白猫のぬいぐるみが照らされる。

 意味もなく猫の頭を小突いて、それから窓の外を眺める。

 遠くの空に流れる雲は、夕刻の所為か朱色に染まる。風に揺蕩(たゆた)って考えもなくどこまでも進んでいく自由に思いを馳せて、自分の小ささを知る。

 私は、ただのアンネだ。何かに優れているわけでもない、他人の顔色を伺って依拠する事だけが取り柄の、自分のない何か。

 特にクラウスやユーリアが居なくなってから余計に自分を見失って、今自分が何の為に生きているのかも分からなくなることが時々ある。

 フィーナやアルとの具体的な方針決めは着々と進んでいて。ブランデンブルクからの許可もいつでも取れる状況で。あとは他国から結果を持ち帰ってきてくれれば動き出せるという、停滞の日々。

 そんな中で学院の雰囲気は悪くて、けれど何も出来なくて。

 何かをするべきなのだろうが、何をしていいのか分からない曖昧な気分に沈む。見つめても雲は答えなどくれない。

 そんな何かを考えているかも怪しい考え事をしていると、部屋の扉が叩かれた。


「おねえちゃんご飯どうするの?」


 顔を覗かせたのは鳶色の長く波打つ髪に水浅葱色の双眸を湛えた妹、ティアナ。彼女の言葉に時計を見て、夕食時だと上の空で思うのと同時、そういえば今日はお母さんが居ないのだったと思い返す。


「あー……何食べたい?」

「手料理っ」

「それはそうなんだけど……。じゃあ手伝って」

「うんっ」


 的外れな妹の答えに小さく笑って寝具から立ち上がると二人で台所へ。

 交わす会話は帰るのが遅くなると言っていた母親について。


「お母さん夜ご飯どうするって言ってたっけ?」

「食べて帰るって言ってなかった?」

「だっけ。ならお父さんので三人分だね。どうしよっか……」


 身支度を整えながら材料を眺める。簡単に出来そうなのは炒め物か麺類か……なら合わせてしまうおうか。


「かき揚げと餡かけ、どっちがいい?」

「んーかき揚げ」

「じゃあ野菜切ってくれる?」

「あいさー」


 今年で13歳というには随分と小さな背丈で可愛らしく答えるティアナ。背が小さいのはアンネも同じ事。そこは遺伝。髪先が遊ぶのだって母親譲り。客観視して可愛いと思いこそすれ、文句を言うつもりはない。ただ少し、授業で運動をする時は邪魔に思うけれど。

 そんな髪を後ろで簡単に一纏めにして調理を開始する。


「あ、お風呂っ」

「洗っといたよ?」

「ありがと」


 と、そうして食材を並べたところで思い出したように零す。今日はアンネの当番だったと。

 けれどそんな呟きに、気の利く妹が当然だという風に答える。


「代わりにまた勉強見て欲しいの。分からないところがあって」

「夜にね。……というか本当にフィーレストいくの?」

「もちろんっ。おねえちゃんも、おにいちゃんもいるからねっ」


 言って笑顔を浮かべるティアナに「そっか」と零す。

 彼女がフィーレストに入りたいと言い出したのは去年の学院祭の後頃から。その原因が、やはりというべきかクラウスにあって。憧れと、それから迷子の恩返しがしたいとかで志したそうな。

 一応ブランデンブルク唯一の国立。それ相応に学が求められる学び舎で、入学試験だってある。

 最初こそは幾度か止めたらと聞いては見たものの、彼女の決意は固いようで。諦めれば、可愛い妹の為に姉として面倒を見るくらいの覚悟はあるわけで。

 試験に向けて今から準備を進めるティアナに、時折家庭教師紛いの事をしているのだ。

 もちろん、フィーレストに入りたいという以上、ティアナも立派な妖精憑き(フィジー)だ。妖精に憧れ、妖精従き(フィニアン)になる為に努力する。彼女にはその先になりたいものがあるのかは聞いた事が無いが、少なくとも軍属なんていう道には進まないのだろうと考えながら。

 同時にその問いが自分に向いて深く沈む。

 私は、何になりたいのだろう。

 このまま行けば順当に卒業して、ヴァレッターに所属する事になるのだろう。今でも期待をしてくれているのか、先輩達には可愛がってもらっている。もちろんそこには、ヒルデベルトやクラウスとの繋がりも少なからず関わっているのだろう。

 クラウス。彼の顔が脳裏を過ぎって幾つかの想像が巡る。

 ヴァレッターは、言ってしまえば使用人で。アンネ個人は国に任命されたクラウス専属の傍付きだ。

 だから例えば、ヴァレッターをやめないのであれば、同時に彼の傍付きとして控える事もあるわけで……。そうなればもしかすると彼に奉公する、という将来も存在するのだと朧気に夢見る。

 夢見る……? あぁ、そうか。それもいいかもしれないと、思っているのだろう。

 ルキダの家は名のある家系ではない。極一般的な、日常を回すその一部。いわゆる一般国民だ。父親が騎士として国に仕えている訳ではない。そもそもアンネの父親は妖精が見えない。

 母親も、仕事はしているが、ただの店勤め。そんな有り触れた家庭の長女がアンネだ。

 何の因果か、望んで手を伸ばした末にヴァレッターなんていう居場所を手に入れて、クラウス専属の使用人にもなって。肩書きだけ考えれば国へ奉公するという立派な娘という事になるのだろう。

 けれどそれと、アンネが例えばクラウスの傍付きとして仕事をする為に家を出るというのは、繋がらない。

 そうなりたいと言えば二人はきっと反対するだろう。

 国に仕えるヴァレッターなら未だしも、クラウス個人を追い駆けると言えば、やめて置けと優しく諭されるのが目に見えている。

 例え許されたとして、ユーリアには許されないかもしれないと考えれば、指先に小さな刺激が走った。


「いっ……」

「おねえちゃん?」

「あは、指切っちゃった」


 指先に浮かぶ赤い珠を見つめて笑う。

 そんなの、許されるわけはない。そこにいたいからって、報われない恋に好きな人を追い駆ける為だけに、名のある家の出ではない誰か個人の傍付きになるなんて。幾ら両親二人が優しくても許してはくれない。

 わかって、いるのに。

 そうなりたいと願う自分が胸の奥に居る事に気付いてしまえば、温かくなって、辛くなるのだ。




 そんな風に夢と現実の間で揺れる日々を過ごして。葛藤を埋めるように生徒会や委員会を手伝ったり、新年度として後輩がやってきて増えたヴァレッターの仕事をする事で、どうにか直視する事から逃げ続けて。

 纏まりきらない曖昧な気持ちを湛えたまま夏季休暇を終えれば、学院祭も催される。

 けれど学院の雰囲気も悪い中で開催されたところで盛り上がりに欠けるのは当たり前。前年度よりも随分と弱くなった活気と、反比例して増えた騒動と。

 少しだけ思ったのはクラウスがいなくてよかったという安堵。こんな無様な結果を彼に見せなくてよかったと、意地悪く考えたのは自分を守る為だっただろうか。

 そうして寄る辺を無くして宙に浮いたこの体が、何処へ行こうか彷徨っている内にも時は流れて。

 目の前にハロウィンが迫った頃、地道に進めていたフィーナたちとの話に僅かな希望が生まれる。

 その日もやる事を追えて空いた時間にクラウスの部屋までやってきて。彼がそこに生きていたという証を確かめるように、答えの分からない調べ物をしていた最中の事。

 結局収穫の無かった一冊の本を読み終えて元あった場所に戻し、次の背表紙に指を掛ける。

 そうして目に入った題名に小さく音を漏らす。


「『ロミオとジュリエット』…………」


 子供の頃よく母親に読み聞かされた思い出のある童話。悲しい結末を迎える原本とは違い、子供用に再構成されたそのお話は、最終的に愛し合う二人は生きて結ばれ、諍いもなくなり全て都合よく収まるものだったはずだ。

 元の話の終末は、愛し合う二人が引き裂かれる事を防ぐ為に仮死毒を用いた計画の末に行き違いで心中という悲しい結末だ。

 愛に殉じると言えば少しだけ美しく聞こえるかもしれないが、その元の話を聞いた時にアンネは遣り切れない気持ちになったのを覚えている。

 もっと方法があった気もする。けれど終わってしまった事を悔やんでも仕方ないと。そういうものだと胸の内にしまいこんだのだ。


「学院祭でもやったんだっけ……」


 今年は運営の方で忙しくて出し物を見て回る余裕なんて無かったけれど。確か多目的会館で催された演目の中にこの作品があったはずだ。

 ……今になって思えば、見なくて正解だったかもしれないと。

 重ねるわけではないけれど。クラウスを止められなかった事を思い出してしまうから。ユーリアとの喧嘩を思い出してしまうから。

 そういう意味では見られなくて正しかったのだと自分に言い聞かせる。

 気付けば手に取っていたその表紙。茨の額の中で男と女が背中合わせで立つ絵。結末を知っていればもの悲しい一幕だ。


「……ねぇ、今日泊まっていってもいい?」


 それは傷跡を舐めるように。痛いものを抱きこんでしっかりと心に刻むように零した言葉。

 振り返ればこちらに視線を向けたフィーナとアルが応える。


「わたしはいいですよ?」

「好きにすれば? 後何か作って」

「ありがと……」


 きっと興味なんてないのだろう。いてもいなくても同じで、彼女達はアンネの気持ちを酌んでくれたに過ぎない。

 それでも、確かに意味がある気がしたのだ。

 失敗したのは、何も彼だけではない。その事を今一度見つめなおす為に。優しく表紙を撫でて呟く。


「家に連絡して来るよ。何か食べたいものは? 足りないものあったら買って来るからさ」

「…………フラン」

「クリームパンでっ」

「おんなじことしか言わないね、君たちは」


 最初にくすりと笑ったのは誰だったか。

 大きな窓から差し込む夕日に急かされる様に彼の部屋を後にして。


「お見舞いも行こうかなぁ」


 そういえば随分長いこと顔を見ていなかったと思い出すと、覚悟のように呟く。

 そうして踏み出した足は、心成しか軽く感じたアンネだった。




 家に連絡を終え、食材を買い足した後。病室を覗いて静かに眠るクラウスの顔を見て安堵すると、決意を燃やし彼の部屋へと戻る。

 主なき部屋の常連となったアンネは既に扉を叩く事もしなくなって。それを咎める事もないフィーナとアルに甘えて台所で包丁を握る。

 料理は、している間だけ何も考えなくていいから好きだ。時に今みたいに考える事がありすぎて、何から手をつけていいか分からない時には、順に支度を整えていく調理に心の内を知らず整理をする。

 クラウスの使っていたらしい調味料も、使えなくなってしまっては勿体無いと言い訳しつつ、時折貸して貰いながら。気付けば、前に何度か食べた事のある彼の味を思い出して、それに寄せている事に小さく笑う。

 ……本当にその気で、ユーリアやクラウスに着いて行く覚悟があるのならばそれも必要なのだろうと。

 どうせアンネは選ばれない。ならばそこはもう諦めてもいい。だったら次の居場所。二人の傍にいられて、確かに意味を持つところ…………クラウス個人の傍付きならばそれを盾にずっと近くにいられる。

 使用人ならば、世話を焼くのは当たり前で、掃除なり料理なりもこなさなければで、彼の好みを把握していてもおかしくないわけで…………。


「アンネ、戻ってきて」

「……折角いい気分だったのに」


 無粋な横槍は相棒のダフネから。時折あるのだ。アンネが夢に浸っていると無情なる現実に引っ張り上げる冷徹な声が。そんな事の為にダフネと契約をしたんじゃないのに……。


「別にそういうの責めるわけじゃないけどね、アンネ暴走すると周り見えなくなるし、その感情が回路を介してこっちまでくるの……。なんて言うか、居心地悪くなるのっ。私そういうの考えた事無いから」

「だったら契約切る? 彼女に頼めばしてもらえるよ?」

「なんで。私アンネ以外考えられないし……」

「…………ありがと」


 変なところに着地した会話にむず痒くなる。逃げるように思考を馳せたのは話の途中に出た契約破棄。

 妖精との契約は一生のもの。それは学院でも散々言われた事で、アンネだってそう思っている。

 けれどその(ことわり)に背くように、クラウスはアルとの間に一つの妖精術を作り出した。

 それが契約破棄の術式。妖精との契約を無かった事にする外法の技。

 きっと世界には認められない力で、けれどデュラハンと対峙するにあたり、彼の大事な契約妖精を救った偉大な術式。あれがなければ、今頃フィーナはこの世界に存在していなかったかもしれない。

 そんな関係を覆す力は、今このフェルクレールトの中できっとアルしか使えない。

 まず今までにそんな術式を作ろうなんていう話が上がっては来なかったし、随分昔に取り組んだ時は契約術式への干渉で、そこに妖精古語が絡むとかで結実しなかったのだ。

 その壁をどうにか抜けて成した関係を揺るがす技。彼女も、クラウスに使った後彼が眠ってから後悔をしていたようで。その妖精術に関しては一切口を開く事はなかった。

 世界に不必要な術式。ならばアルの中で葬り去るのがきっと最善なのだろう。

 ……それにしても、そんな大法を作り出したり、妖精の国の事について知っていたりと、何かと規格外な妖精だ。

 彼の小さい頃からの付き合いだと聞いているが、それはきっとこれまで語って聞かせてくれた事の無い彼の過去に関する事なのだろう。

 クォーターであるから世界に嫌われて。周りを全て敵にして。それでも必死に生きてきた彼が、自分の事を語りたがらないのはよく分かる。アンネにだって、話したくないことは沢山存在する。全てを許せるなんて、そんなのはありえない。

 けれど、それさえも飛び越えて交わすのが契約なのだ。だからきっと、アルがクラウスに秘密を話す事はあっても、アンネに話してくれることはないだろう。

 どこかで距離がある彼女達との関係に、けれど今以上を望む事はしない。

 私だって人の子。幾ら他人の都合のいい自分を演じる事が出来ても、中には面倒な相手だっているし、そういう付き合いをしたくない時だってある。

 そうでなくてもクラウスもユーリアもいない今。その代わりとして彼女達に縋るのは違うだろうと。いくら彼の選んだ妖精だとしても、二人は二人なのだから。それを間違えるほど、アンネは馬鹿ではないつもりだ。

 だからそれは仕方ないに放り込んで飲み込む。


「出来たよ。直ぐに食べる?」

「はい、食べますっ」

「あたし後でいい…………」


 アルの方はまだ調べ物に一区切り付かないらしい。出来る事なら暖かいうちに食べて欲しいが、それは彼女の責任だ。押し付ける事はしない。


「お皿これ?」

「右のやつにしましょう」


 後ろの食器棚から聞こえるダフネとフィーナの会話に、ようやく団欒の温かさを感じつつ盛り付けをして机に並べる。

 そうして腰を下ろせば、胸のうちに達成感と寂寥感が込み上げてきた。

 誰かと一緒に食べるのは、家族を除けば久しぶりだ。けれどそこにクラウスもユーリアもいない。その欠けた感じに小さく息を落して。


「いただきます」


 礼儀正しく挨拶をすれば美味しくできた夕食に手を伸ばし始めたのだった。




 夜の(とばり)深い時間。煌々と照らされた室内には、僅かな暖かさと本をめくる音だけが時折響く。

 子供の頃よく読んでもらった童話、『ロミオとジュリエット』。敵対する旧家の男女が紡ぐ恋の物語。少し悲しい結末の戯曲。

 そういえばどうしてこんな本が彼の部屋にあるのだろうかとふと疑問に思う。手元から視界を上げて本棚を見渡せば、アンネも聞いた事がある題名がちらほら。

 ……別に妖精に関係する本ばかりを読んでいるわけではないか。妖精に関わるものを除けば……傾向として、推理物か英雄譚が多い。前者は彼らしいが、後者はあまり印象にないかもしれない。単純に、古い書物ということから過去の時代考察かもしれないが。

 分厚い背表紙が並ぶ中に見つけたこの一冊。そういう意味では『ロミオとジュリエット』もこの世界に古くからある物語。

 御伽噺ではあるが、その裏には確かに刻んだ時代があって。研究熱心な彼からしてみればこれも立派な参考書なのだろうかと。

 アンネにしてみればただの古い恋愛物語。小さな頃には王子様にも憧れた原因の一つ。

 私だって女だ。相応に恋に興味はあったし、抱いた理想はより高く募った事もあった。

 けれど何時からだろうか。自分を知って、どんな風に振舞えばより簡単に生きられると気付いたのは。そんな頃から夢に恋焦がれるのと別れを告げて、目の前に生きる事に必死になったのだ。

 自覚したのはフィーレストに入ってから。授業を受け、試験で何かを試されるような感覚を味わってから変わったのかもしれないと。

 いつの間にか忘れていた、ないものをある事のように語って縋る夢見がちな考え。子供らしい無鉄砲な、無邪気な空想。

 それを思い出すように更に一つ、物語を読み進む。

 そうして子供の頃を思い返すように物語に入り込んでいると、不意に目が思わぬ文字列を捉える。

 それは妖精。アンネたちにも馴染みの深い世界の伴侶。壁に背を預けていた姿勢を但し、もう一度その部分を読み返す。

 登場するのは妖精の女王と語られる存在、マブ。そうして気付く。

 あぁ、そうか。彼はたったこれだけ登場する妖精の為にこの本を手元に置いていたのか。……だとしたら何か意味があるだろうか?


「……ねぇ、マブって知ってる? 妖精の」

「マブ? ……あぁ、蜂蜜酒のマブね」


 それはもはや勘とも呼べない感情で。気付けば音にしていた疑問に返ったのはアルの声。


「蜂蜜酒って、一番古いって言われてるあれ? 蜂蜜と水に醗酵菌を入れて作る……」

「よく知ってるじゃない。人間の言葉で言うなら蜂蜜酒(ミード)にハニーワイン……不死の飲み物なんて別名もあったかしらね?」


 作るだけなら蜂蜜と水だけでいい、この世界で一番最初にできたと言われる酒精飲料。一般に流通しているそれは大量生産が求められる為に、醗酵を促す菌を入れて短時間で仕上げるもので、家庭で作っているところも多い甘くお手頃な飲み物だ。

 不死の飲み物、というのは聖なる物の血として崇められる葡萄酒(ワイン)と同じように、特定の地域で呼ばれる名だ。確かスハイルの方だったか。


「マブがどうかしましたか?」

「いや、これに出てきたから……」


 フィーナまで話に入ってきて、答えるように本を見せれば、彼女は一つ間を開けて大きく分厚い辞典を取り出す。


「あれ、これ……」

「クラウスさんが使ってた妖精大辞典です」


 それは随分前にクラウスに頼まれて他国から取り寄せた、妖精に関して纏めてある辞典だった。妖精変調(フィーリエーション)以降需要の高い品で、今では殆ど手に入らない。あの時も手に入れるのに苦労した覚えがある。

 思い出している間にも、フィーナが中をめくっていく。

 そうして開いた部分には、先ほど話題にでた妖精、マブの名前。

 一緒に覗き込めばフィーナが顔を(しか)める。どうやら人間の言葉はそこまで得意ではないらしい。クラウスとの回路があれば読めたのだろうがと考えつつ、彼女の代わりに声に出して読む。


「えっと、マブだね。夢に生きる妖精であり、真実と誓約を愛し、裏切りを悪とする。フェアリー・マッブ、クイーン・マブの別名を持ち、妖精の女王とされる……」


 妖精の女王と言えばタイターニア。その者が治めるのは妖精の国だ。

 気付けば何かが噛み合っていた思考が口にする。


「妖精の女王って事は妖精の国とも何か関係あるかな……?」

「…………さぁね」


 疑問に答えたのはアル。彼女は何かから逃げるように自分が読んでいた本へと戻る。

 逃げるように感じたのはただの勘だ。ただ、これまでの事を考えれば、彼女が何かを知っていたとしても不思議ではない。そんな予感が少し胸をざわつかせる。


「ただ妖精の国はもうないから。例え似た何かがあったとしてもあたしはそれを認めないけど……」


 一人事のように呟いて、それからこちらをちらりと見てきた彼女は、どうでもいいという風に手元へと視線を下ろす。

 そんなあからさまな視線と声に気付けないほど、アンネだってクラウスの背中を追い駆けてきたつもりはない。それはアルがくれた精一杯の助言だ。

 考えるのは苦手だ。想像ばっかりで語ったって、そこには確かなものなんて無い。だから彼みたいに夢を描けるわけではないけれど。

 今まで積み重ねてきた知識を総動員して、どうにか形になる納得を生み出す。

 アルは今言った。似た何か、と。妖精の国ではない何か……それがきっと、ミドラースの地にある。だから彼女はそこに行けば、クラウスの容態を快復する手立てが見つかるかもしれないと語ったのだ。

 そしてそれは、回路に関係するなら妖精力に繋がって、元には妖精がいるはず。妖精がいる秘密の園。妖精の国ではない何か……。そこを治めるのが例えば、妖精の女王だとしたら────


「……ありがと」

「…………ふんっ」


 拗ねるように鼻を鳴らすアルに小さく笑って、それから思い付きを言葉にする。


「一緒に寝る?」

「何でよ……」

「私がそうしたいからじゃ、だめかな?」

「…………勝手にすればっ」


 顔を背けたアルに、フィーナと二人顔を見合わせて肩を揺らす。

 素直じゃないという意味では、本心を絶対に口にしないクラウスと一緒かもしれないと。

 少し赤くなった彼女の横顔に彼の存在を幻視すれば、アンネの胸の中には確かにするべき事が既に燃え始めていたのだった。




 翌日、朝食を賑やかに食べて。制服に着替え学院に向かうと、学院長の部屋を訪ねる。

 扉を叩けば顔を見せたのはエルゼの契約妖精であるリリー。


「おはよう、リリー。学院長いるかな?」

「エルゼなら外に出てるよ。今日は多分こっちには戻って来ないかな」

「そっかぁ……」


 彼女も多忙な身だ。これまでも用があってここを訪れては空振りに終わる時も少なくなかった。今回のも、その一つ。

 どうしようかと考えて、けれど退けないのだと覚悟を決めれば言葉が口を突いていた。


「……放課後何処にいるか分かるかな? 大体でいいんだ。大事な話があって……」

「んー……と。多分城」

「分かった。もしそれまでに帰って来たら私の事伝えておいて貰えるかな?」

「任せて。いつも迷惑かけてるからねっ」


 言って笑うリリーとは、もう随分と付き合いが長い。遡ればヴァレッターに入る前、エルゼに頼み込んだ時からで。それ以降ヒルデベルトの言伝だったりクラウスの案件だったりと何度もエルゼとは話をした。その度にいたりいなかったりするエルゼに、リリーと二人言葉のない共感のようなものを繋いだのだ。

 お陰で彼女とは砕けた口調で笑い合える仲となった。

 スハイルからやってきた賓客にしては、軽い足取り過ぎて追い駆ける事さえ諦めて。それは長年連れ添った彼女も同じようで、ならば当然の落としどころ。傷を舐めあうなんて言い方は癪だけれども、そういうものだと諦めて彼女と結んだ絆はアンネにも心地よかったのだ。

 そんな苦労を背負い込んだ学院長のはんぶんと別れて学院内を歩く。

 相変わらず空気は沈んだまま。アンネに向けられる視線もどこか険が混ざっていて、居心地が悪い。

 一番責められているのは今は眠る彼の幼馴染であるテオ。それでも生徒会長としてまだその椅子に座っていられるのは、ニーナの一件を知るからこその抑止力と、彼以外に任せられる人がいないからという言い訳に過ぎない。

 どうにか形を保っている生徒会。そこにはクラウスの居場所もあって、彼が帰ってくる為にそれを守るのもアンネの役目。

 何も出来ないから、せめてアンネの我が儘だけは突き通す。

 そんな風に重い雰囲気の学院内を歩いていると、廊下の向こうから俯き見慣れた姿が歩いて来るのが見えた。


「イーちゃんっ。元気ないぞー?」

「…………アンネ……」


 殊更に明るく声を明ければ顔を上げたのはイーリス。彼女からすれば自分を責めるばかりなのだろう。

 この学院の風紀。テオやクラウスに対する風当たりの強さの原因の一端は彼女にもある。

 詳しいことは彼女の名誉の為に伏せるとして、浮評に生きる彼女を襲った無意識と言外の圧力。それが僅かな引き金と共に景色を歪ませただけの事。

 ただの興味が引き起こしただけの、誰が悪いというわけではない現状に、けれど目の前の少女は必要以上の責任感を感じているようで。学院内で見かけてもこうして俯いている事が多いのが今の彼女だ。

 周りも、どうしていいか分からなくなった雰囲気の悪化に、彼女を責める事も出来ずに遠巻きに見つめるだけ。薄情な事だと少しだけ苛立ちを募らせながら言葉を告ぐ。


「そうだ、今日昼空いてる?」

「……いつも暇だよ」

「だったら一緒に食べよ? イーちゃんとお昼なんて久しぶりだねっ」

「……………………」


 睨むような視線は彼女なりの優しさか。そんなに誰かを巻き込む事が嫌なら、大切な友達なんて作らなければよかったのにね。

 見つめられて、けれど退かないままに笑顔を絶やさず答えを待てば、やがて逃げるように「好きにすれば」と言い残して早足に去っていくイーリス。

 噂を追いかけいつも笑顔なイーリスからは考えられないほど塞ぎ込んだ言動に頬をかく。

 結局は彼女の心の問題かと。だったらせめて友達として。何処までも友達らしく友達の悩みを聞いてあげようじゃないか。

 …………友達って、何だろうね。




「期待は嬉しいんだけどね、だからそれに応え続けるのも大変だよねーって……」


 秋の涼しい風に笑いながら、紡ぐのはどうでもいい愚痴。ヴァレッターでの些細な笑い話。

 いつもならきっと、それ以上の冗談で笑い飛ばしてくれるはずの友達は、けれど俯いたまま静かに購買で買った麺麭(パン)を頬張る。

 そんな落ち込んだ様子にアンネも食べる手を止める。

 彼女が落ち込んでいるのは、許せないからだろうか。

 もっと慎重に行動していればこんな事にはならなかったはずだった。もっと早くに頼ってればよかった。一人で抱え込んで悪かった。

 そんな謝罪と懺悔の言葉をイーリスが突き付けた先はテオ。雰囲気の悪化できっと一番の被害を被った少年。全ての責任を背負わされた生徒会長。

 イーリスだって望んでこんな大事にしたわけではない。そもそもの話、彼女に真実を教えて欲しいと詰め寄った生徒達にも、悪気があったわけではない。ただその先に、噂が一人歩きして広がっただけ。イーリスが気づいた時には大きくなりすぎていて、彼女独りではどうしようもなくなっていただけ。

 話の中心にはいつもクラウス。そんな誇らしくもあるような、どうしようもない言い訳が渦巻く。


「…………ねぇイーリス」

「……何?」

「別に悩む事を悪いとは言わないけど。それで自分を責めたって誰も救われないよ?」


 優しく突き立てた言葉の刃。その切っ先の感触に、イーリスが肩を震わせる。


「私はそれよりも、誰かに頼らずに自分でどうにかした方が幾らか楽だと思う。自己満足に救われると思う」

「……今更何やったって、変わらないよ」


 そうして俯く友達の横顔が、視界の奥で誰かと重なる。

 その記憶は、誰……? その顔を、アンネは前に一度見た気がする。

 クラウスじゃない。ユーリアでもない。……あの春より、更に前…………。何時だ。何時その顔を見た?

 言葉にならない疑問が、けれど曖昧にその先の結末を想像させる。

 あぁ、駄目だ。そうやって塞ぎ込んでいては、彼女と同じになってしまう。自責の念に駆られて後悔で心を焼ききってしまう。

 何よりも一番駄目なのは、今ここでイーリスがいなくなることだ。そうすれば同じ事を繰り返してしまう……。

 でもアンネには何も出来ない。出来ないから、せめて言い訳を作ってあげなければ……。

 私がクラウス君の正義であったように。今はイーちゃんの正義になってあげなければ。


「…………まぁ、変わらないだろうね」

「っ……!」

「だって許せないんでしょ? 後悔してるんでしょ? 私はそんなイーちゃんが許せないけど」


 心苦しい。助けてあげられないことが悔しい。けれど確かに、真反対の言葉で彼女の心を救う。


「私は許さないよ。悪い事をして、逃げるなんて。誰かに許してもらおうなんて。逃げたって何も解決しないんだから」


 それはもしかすると、この胸に希望を植えつけたまま眠ったクラウスに対する言葉であるかもしれない。


「だから私も許さない。もし許して欲しいんだったら、まずは自分が悪い事をしたんだって、認めないといけない。謝り方なんて幾らでもあるんだよ。でもその前に……謝る前にする事がある。謝った後もする事がある」


 ともすれば懇願のように。責めた言葉で許すように。


「信じさせて。イーリスは悪くないんだって。何も間違った事はしてないんだって。その為に、胸を張ってここにいて? そしたらいつか、きっと取り戻せる日が来るから」


 私にはそんな事出来なかったから。イーリスが出来たなら私にも出来るって思い込めるから。

 酷い言い訳だろうか。けれどアンネは、他人にしか意味を見出せない弱い人間だから。誰かがそれは正しいのだとい言ってくれるなら、自分もそうなれる気がするから。


「だからその時まで、私はイーちゃんを許さないでいてあげる」


 我が儘を言うだけ言って自分にも突き立てる。これから私がすることだって同じだ。彼が戻ってきて、それが正しい事だって証明してくれるように。一度正しい間違いを起こすのだ。




 イーリスとそんな会話をして。それから学院の授業が終わると、リリーに聞いたように彼女がいるだろうブランデンブルク城へと向かう。

 予定が噛み合って今日はヴァレッターとしての仕事がある。ならば折を見てヒルデベルトに聞いてみてもいいかもしれない。ハンスには仕えるべき主に迷惑を掛けるなと怒られるかもしれないけれど。残念、アンネが今一番尽くすべき主はクラウスだっ。

 そんな方便を振り翳しながら。けれどきっとハンスに盾突くような事は言えないんだろうと考えつつ。同僚に端々を改造された仕着せに身を包んでヒルデベルトの後をついて歩く。

 揺れる増量中の裾や腰から下のあざといほどの膨らみ。そんな外的変化に、けれどヒルデベルトは何も言わない。

 それは分かっていて許容しているのか、気付いていないのか。それとも気付いていて小言を飲み込んでいるのか。

 去年の今頃に行われた四大国会談以降、ハンスの目もあって仕事以外で殆ど話すことの無い彼から無駄話は聞かない。……聞けないが正しいか。

 それでも目を掛けてくれているのか、時折ハンスの目を盗むように冗談を口にする彼はどこかクラウスのようでもあり、そんな彼に安心しながら。

 そろそろ彼の最愛、今は亡き露草姫が亡くなって一年が経つ。あれ以降バンシーの姿も見る事はないけれど。彼女の喪失を悼む国儀は催されるのだろうと思いながら。近々それ関連で仕事が忙しくなるかもしれないと一人覚悟をする。

 と、色々な事を考えながら時を過ごせば、どうやら今日最後らしい公的な話し合いへ。またどこかの諸侯との会談だろうかと気を引き締めなおして扉を開ける。

 ヒルデベルト、ハンスに続いて最後に部屋へと入ればそこに並ぶ見慣れた顔に少し驚く。


「遅いっ。客を……それも国賓を待たせるなんて随分な大物ね」

「これでもこの国の主だ。君みたいに自由と尊厳の元に奔放を許される身ではないのだよ」

「それじゃあまるでワタシが落ち着きの無い子供みたいに聞こえるのだけれども……」

「おや、それくらいを分かるほどの思慮は持ち合わせていたかね」


 ヒルデベルトが入室するや否や、真っ向から言葉をぶつけたのは随分と不遜な態度のエルゼ。アンネが今日探していた縋るべき相手。

 彼女との会話に笑って口にしたヒルデベルトに、エルゼが視線を逸らす。まるで意地悪な親子の会話だと。

 そんな事を考えるのと同時、彼女の黄金色の瞳がアンネのそれとぶつかる。


「あゃ、君もいたの……」

「国仕えの使用人ですからね」

「偉くなったものね」

「そう言われる以上、まだまだ足元にも及びません」


 世辞と本心を混ぜて零せば、エルゼの言葉が止まる。そんな彼女に言葉を向けるのが、エルゼの隣に座るこれまた親しみ深い顔。


「これは彼女に言い分ありだな。久しぶりに君のそんな顔を見た気がするぞ?」

「……客人を持て成すのは礼儀でしょう?」

「先ほどその客人面が尊大な言葉を放っていた気がしたが。はて、聞き違いかの?」


 エルゼの横腹を言葉で突いたのはエーヴァルト。続いたエルゼの言葉にヒルデベルトが惚けて、部屋中の視線が彼女に集まる。


「…………招かれた方も、手ぶらで応えるわけにはいかないもの」


 次いで零れた苦し紛れの言葉に優しく肩を揺らしたのはカイ。そうしてようやく、部屋の中に明かりが灯る。

 並べる顔は錚々(そうそう)たる面子。ヒルデベルト、エルゼ、エーヴァルト、カイ。そこにハンスとアンネを加えた六人。ハインツがいないのは任務で外に出ているからだろうか。

 何にせよ、アンネにしてみれば気の知れた相手。とはいえ不敬は働けない。先ほどの会話だって、ハンスから言わせれば十分に説教の対象だろう。今は目を瞑ってくれているのが余計に怖い。


「……さて、では途中報告、聞かせてもらおうか」

「…………え……?」


 と、そうして気を抜いていたところに飛び込んできた言葉。いきなりこちらへ向いた視線に鼓動を跳ねさせる。


「それぞれから経過報告は入っているのだろう。その後の首尾はどうなのだ?」

「…………ぁ……っ! そ、そういう事は予め教えてくださいっ」


 会談というから少し安心していたのに。その本題が自分にあるなんて聞いていない。

 確かに今日の仕事は少し歪だった。本来ならば交替でヴァレッターの面々がヒルデベルトの身の回りを世話するのが常だ。けれど今日はアンネだけに任された仕事。曰くヒルデベルトの指名で、アンネがずっと着いて回れと。

 前に無かったわけではない話だったので、他の同僚達は何か別の事で忙しいのだろうと勝手に納得していたのだが……。どうやらその本来のところは全てここに繋がるものらしい。

 彼に目を掛けてもらっていたなどと自惚れていた自分が恥ずかしくなる。もちろんその側面もあるかもしれないが……なんだかしてやられた気分だ。

 見ればハンスも知っていた様子で。意地の悪い大人達に囲まれて肩身を狭くする。だからアンネはクラウスほどに度胸はないというのに。

 心配そうに声を掛けてくれるダフネの声にようやく少しだけいつも通りを取り戻す。

 向いた視線。その色に、少しの愉悦と答えに対する好奇心が孕んでいる事に気が付いて、深呼吸。それから覚悟を決めて用意された壇上に上がる。


「……えっと、それぞれの報告はほぼ当初の想定通りです。トゥレイスからの返答以外は年を跨いだ、学院の卒業の時期に集まると思います。トゥレイスからはその後に。現状各国からの明確な意思表示はありませんが、真っ向から断られる旨の報告はありませんので、返答は恐らく理想通りのものが得られると思います」

「西はやっぱり様子見で遅くなるのかしら?」

「だろうな。仕方の無い事だ」

「うちはどうするんですか?」

「別に今すぐに許可を出してもいいのだがな。どうだ?」


 アンネの報告にエルゼ、エーヴァルト、カイ、ヒルデベルトの順で言葉が重なる。

 聞くだけ聞いておいて勝手に話を進めるとか……もしこれが全てクラウスの為でなかったら不貞腐れても文句は言わせないところだが。


「下手に刺激をするのも考え物ですね。期を見てになりますか」


 エーヴァルトの言葉にヒルデベルトが頷く。どうやらブランデンブルクとしては荒事にしたくないらしい。ミドラースという名前や、妖精の国が顔を見せている現状で今更だとは思うのだが、ヒルデベルトたちにも考えはあるのだろう。深くに首を突っ込んで面倒事を増やしても仕方ない。今は聞き流す。


「そう言えばあれなんだったの? リリーから聞いたんだけど」

「……あ、はい。こちらで調べ物をしていたところ、進展の兆しが見えたので誰かに現地調査を頼みたいと考えていまして。その連絡、というか報告にエルゼさんの助力を頂きたいと考えていたのですが…………」


 言ってヒルデベルトの方を見る。事は特使という名目に関わる。アンネ一人の決定で行動を起こせば矛先が国に向く恐れがある。だからその許可をヒルデベルトにもらう為に、エルゼに中継ぎをお願いしたかったのだ。

 けれど運よく、ここにはエルゼだけでなくヒルデベルトも。そしてエーヴァルトやカイもいる。発言を許されるなら情報伝達の為の無駄な手間が省ける。

 思っていると、ヒルデベルトが促す。


「具体的には?」

「特使として国外に赴いている皆さんに書簡を送りたいと考えています。可能であれば勅命としての後ろ盾をいただければと」


 飾ることなく告げればヒルデベルトが少し思案する。

 その間にカイから疑問。


「テオには言わなくていいのか?」


 ここにはエルゼもいる。答えるならば学院の事に触れなくてはならない。

 言うべきか……。少しだけ迷って、けれどフィーレストが国立という名を関しているのだと気付く。直ぐにエルゼへと視線を向ければ、彼女も一つ頷いた。


「……実は、今学院で少し面倒事が起きていまして。その対処に生徒会長であるテオ・グライドがあたっております。学生の本分は学業ですから、それを(おろそ)かにする事が出来ません。何より国立である以上、その名前を汚さない為にも問題の解決は最優先事項です。以上から、今彼が学院を離れる事はできません」

「その問題とは?」

「別に大した事じゃないのよ。ただここまでワタシたちを動かしたクラウス・アルフィルクが今いないでしょう? そこに起因する変化よ。かと言って無視するのもうちの子の二の舞になるから、仕方ないのよ」


 エルゼの補足に思う。

 彼女の語った二の舞というのはニーナの降級騒ぎの事だろう。確かにあの問題が解決して一年ほどのうちにまた新たな面倒が起きれば学院が責められる。そうなればエルゼや、国立という以上、国に対しても不信感が募る。

 なし崩し的に国の協力を取り付けているクラウスに関するこのやり取りも、自粛しないといけなくなる。ミドラースの地が遠のいてしまう。

 連鎖して崩れていく景色はアンネにも、そしてヒルデベルトたちにも許せないものだ。

 程度の差こそ在れど、ここにいる者達はクラウスに期待をしている。その子供染みた夢を現実になるならばと力を貸してくれているのだ。

 今更それから降りようなどという輩はここにはいない。逆に、例えばこの試みを大々的に広めれば、躍進を描いて一口乗せてくれと名を連ねようとする者達が沢山出てくるだろう。それほど妖精の国という名前には影響力があるのだ。

 可能ならばブランデンブルクはその思惑を最大限利用したい。だからこそクラウスを抱きこんで利用し返そうとも思っているはずだ。

 成功が発展に繋がるのならば、失敗の目は取り除くべき。

 その為にも、テオは今動けない。


「……つまりグライドの弟以外にそれぞれの国で調べ物をして欲しいと、そういうことだな?」

「はい。もちろん、ブランデンブルクでは私が引き続き調査を行います。必要であれば皆さんへお力添えをいただけるようをお願いする事もあると思いますが」


 今更退かない。話の中心に据えられている以上、一介の使用人だからと遠慮するつもりはない。侮言寸前の物言いに、物怖じは一切挟まない。

 何よりクラウスの為ならば、アンネは形振り構ってられないのだ。


「…………分かった。許可しよう。文書の検閲はさせてもらうが、構わないな?」

「ありがとうございます」


 意外と呆気なくもらえた許可に胸を撫で下ろす。

 この返答は、きっとこれまでクラウスが積み上げてきたものが得た結果だ。彼がここにいなくとも、彼が残した物は沢山ある。その確かな存在に、アンネもまた前へと進める。


「ならば具体的な話をしよう。時間は……」

「構いません。その為にこの会談を今日最後へ都合したのですから」


 ヒルデベルトの声にハンスが答える。

 もしかして彼は全て知っていたのだろうか? それとも長年の勘のような何かで、こうなると予想していたのだろうか。

 もはやそれは勘という言葉では足りないほどの研鑽。同じ使用人として、彼には敵わない気がしたアンネだった。


「それからルキダ。会議の後で話がある」

「…………はい」


 けれどまぁ、それと説教は別問題らしい。相変わらず最後の最後で堅物なヒルデベルトの右腕だ。

 やっぱり私、ハンスさん苦手かも。

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