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フェアリー・クインテット  作者: 芝森 蛍
色彩で叫ぶ挽歌(エレジー)
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第一章

 ローザリンデ・アスタロス王妃殿下の崩御から数日。

 彼女の訃報は世界を余すところなく駆け抜け、震撼させた真実となった。

 誰からも敬愛された人物の死。悼んで嘆いた者は数多く。流れた涙もその全てを掬えないほど膨大で。

 改めて彼女の人望に尊敬を抱いた。

 そんな王妃殿下の一般葬儀にクラウス達もしっかりと参列して。その胸に彼女の事を深く刻み納得のいかない真実をどうにか受け入れる。

 学院も数日の休みはあったものの、最低限に留め授業も再開された。

 小耳に挟んだ話では、そこにローザリンデからの遺言があったらしい。

 曰く学生は学ぶべき事を学べと。

 元研究職の彼女らしいことだと安堵を募らせて、クラウス達はどうにかいつも通りを取り戻していく。

 彼女の崩御から一週間も経てば空気は日常のそれへと移り変わり、時折彼女の名前が噂に挙がるほどに収束した。

 そうして気付けば時節は冬。一年の最後の時期になり空気も段々とせわしなくなってくる。

 いつの間にやらの冬服は、そう言えばハロウィンの騒動より少し前から着ていたものだったと、周囲で起こった色々な出来事も懐かしく思う。

 春に『妖契の儀』があり、平行して委員会の設立、悪戯騒動。思えばあの出来事から殆ど休む暇がなかったと、目まぐるしく変わった景色に呆れさえ浮かんで来る。

 ヴォルフの時は色恋や退学問題。テオからの相談はヘルフリートについて。ニーナ……エルゼの問題に至っては、春に交わした約束を履行しただけに過ぎない親子喧嘩。それからユーリアのお見合い問題。

 彼や彼女達との関係の変化も幾つもあって、クラウスが望んだものからそうでない偶然も中には存在した。

 やがてクラウスの野望……その源泉であるアルが姿を現して、同時に起きた妖精変調(フィーリエーション)。春からの騒動の中でこれだけはクラウスの埒外の問題だったと今になって思う。

 それから委員会に回ってきた妖精変調に起因するハロウィンの妖精の魂の問題。そして続いた死の概念……王妃の崩御。

 特に妖精変調以降はクラウスの想像の枠を超えて問題が押し寄せてきた。

 それもこれも、想像していなかった世界のはんぶんの変調に全ては繋がるのだろう。

 偶然と必然が織り成したこの景色。

 手繰り寄せたものと避けられなかった現実は正しく真実だけを世界に刻み込んで時を進めた。

 クラウス個人としても、そしてこのフェルクレールトと言う大地にとっても沢山のことがあった一年。また変わらず一年が過ぎ、新しい年が始まる、その境の月。

 騒がしく早足になるのは寒くなった気温の所為か、それとも目の前に迫った年の瀬の所為か。

 色々あったとはいえ今年も変わらず時は刻まれいつも通りの日常を描き出す。

 少しだけ押した授業日程を元に戻す為に学院の講習は少しだけ退屈なものへとなって。クラウスとしては居心地のいい安眠場所へと変化した窓側最前列の席は今日も今日とて降り注ぐ陽光に舟を漕ぐ。

 不真面目な授業態度はいつものこと。教員も近くを通る際クラウスの頭を小突く事はあるが、蹴飛ばされたりはしない。

 クラウスは無駄な時間が存在する事を知っている。勉強なら教科書や参考書があれば自室で出来るし、予習で八割ほどは理解している。試験も同様に八割くらいは答えられるし成績自体が問題になる事はない。そればかりかなまじ勉強が出来る分、教員から問題を解けと指名されることの方が多い。クラウスとしてはそうした順調な進行の為に指名される事は(やぶさ)かでは無いし、時折教科書に載っていない問題を解かされる時は面白くも感じる。

 少し問題があるとすれば、各教科の評価はどれ程理解しているかに限らず普段の授業態度も評価基準になる為、学期末の評価では最高評価を得る事は殆どないということ。

 それでもご機嫌取りに授業外で気になる事は質問するし、個人的に疑問に思うことがあれば相談にも乗ってもらう。中にはそう言ったやり取りで話の分かる教師も居るのでクラウスとしても助かっている。

 授業態度は不真面目。けれど要点は抑えて試験は結果を残し、授業外で教員の関心を買う。

 一言で言えば打算的で嫌な生徒だ。

 問題児とまでは行かないが、注意するべき生徒としては名を連ねていることだろう。もちろんそういった悪目立ちもクラウスの望むところだ。

 クラウスの野望。妖精の国(アルフヘイム)の存在の探求。

 その夢にはクラウス個人の力だけでは足りない。誰もが夢想する理想郷だ。

 だからこそ他人の力を借りる為に悪目立ちさえも手管にして利用するのだ。

 それがいつか彼女との約束の成就に繋がると信じて。




 そんな日々を過ごしながら、変化した景色に安堵も取り戻す。

 ローザリンデの作り出した妖精術。アンネを介しての進言も取り入れてもらえたようで、その名を回帰の揺籃歌(ベルスーズ)と冠した異能は、世界にまた新たな理を生み出した。

 妖精変調の抑制。それまでいつ妖精の脅威に脅かされるとも知れない景色の中過ごしていた世界は、彼女の遺したその結晶で目に見えて空気を変えたのだ。

 まず今以上の妖精に関する新たな問題が激減した。

 問題が起きないのは平穏そのもので、民草も目に見えて雰囲気が緩和する。

 国を支える町。町を支える人々。人々の営みに必要な食べ物や用品は、妖精変調の登場によってやり取りが激減していた。

 なにせ妖性の具現化は彼女達の本質を刺激する問題だ。

 それまで悪戯好きと一括りにされていた妖精の性格だが、紐解けばそれにも幾つか種類が存在する。

 大きく分ければ加虐性の強いものとそうでないものだ。童話や物語の中でよく聞くゴブリンやデュラハンと言った種は目に見える被害を与え、中には人間の命を刈り取るものも存在する。

 そんな存在の噂が囁かれれば外出を自粛するようになるし、契約を交わした妖精にもその嫌疑は向けられる。

 結果行動は抑制されて、物流も滞る。供給が減れば需要が溢れ、様々な相場が跳ね上がる。

 代用品の情報もいくつか出回ったが、それらか根本的に解決には至らず。

 かくして世界は活気を失い、誰も彼もが不安な未来に暗雲を想像する。

 仕方のない情勢とはいえ、世界が新たな原動力を求めていたのは確かだ。

 それが回帰の揺籃歌であり、止まりかけていた歯車がどうにか軋んで再び動き始めたのが現状だ。

 動き出したとはいってもその歩みは遅く、様子を伺いながらの手探りだ。

 正直、すべてが好転したというわけではない。

 が、個人的に唯一つ助けられたのは、妖精変調から余り間を開けずにヒルデベルトの誕生祭やハロウィンと言う行事があったことだろう。

 秋特有の賑やかな行事。その陽気な空気に当てられて、沈んでも沈みはきらなかった。

 そんな折に今度は王妃殿下の訃報が流れて、一時期空気は深く落ちてしまったけれど。

 彼女の遺した妖精術が引き金となって町の活気は再びその精気を取り戻した。

 まず妖精変調によって妖性の具現化を危惧して、あまり大々的な調査を出来ていなかった各国が、起こる騒動の鎮圧に向けていた人員を調査に回せるようになったのだ。

 今までびっくり箱だった妖精変調の解明。それは何事においても優先され、この世界における妖精変調の真実が次々に明らかになった。

 これ以上の拡大は無いこと。世界でどのような妖精の本質が明らかになっているか。それらはどんな影響を及ぼすか。どんな対策に当たっているか……。

 恐らく真実ばかりではないのだろうが、その殆どは国や世界を安定させる為の言葉だった。

 やがてその言葉達は巡る時の間に噂として伝播して町の中に安堵を生み出す。

 そうすれば止まっていた物流が動き始め、他国との物のやり取りもその量を着々と増やしていった。

 そんな取り戻した日常。クラウスは学院の休日、必要な日用品を買いに町へと出てきて、その空気の変化に胸を撫で下ろしたのだ。


「……何だか賑やかになりましたね」

「ようやく妖精変調について解明が始まったからね。これからまた前みたいにいつも通りの活気が戻るんじゃないかな」


 ここは言わば城下町だ。ブランデンブルクを望む石畳の大きな目抜き通りに賑やかな露天。他国の珍しい食べ物や細工品も並び、色鮮やかに景色を彩る。

 行き交う人は少年少女や親子。男女の仲睦まじい姿を幾つも目にする。遠くに見える白い噴水の周りには、見世物をしている集団や旅人の叩き売り。それから一休みをしている年老いた人たちの姿も見える。

 老若男女問わず栄えた風景。流石の王都。

 特に人通りも多いここはブランデンブルクの中でも屈指の喧騒だ。

 少し道を外れれば娯楽施設の沢山ある一際賑やかな区画にも通じているし、公園などの緑溢れる場所も存在する。

 立ち止まって振り返れば青い空に緑の山々を背景に聳え立つブランデンブルク城が景色の中央に鎮座していた。


「本来はこんな景色こそが正しいあり方だよ。妖精変調とか王妃殿下の崩御とか、色々騒動は絶えないけど、だからこそ賑やかで楽しい場所だ。僕の故郷とはまた違った良さがあるよね」

「クラウスさんの故郷って……」


 改めて俯瞰して感想を零すとフィーナから疑問が募る。そう言えば彼女には詳しく話した事はなかっただろうか。

 そんな事を思うのと同時、何処か勝ち誇ったようにアルが答える。


「ここから馬車で東に数日ほど行った小さな村よ。確かブランデンブルクの中でも最も朝日が早く昇る場所だったかしら?」

「だね。村の名前は、ソラリウム。古い意味では始まりの地って言われてるよ」


 ソラリウム。日時計の名を冠したブランデンブルクの中で最も東に位置する村だ。フェルクレールトの大地でも極東。世界の中で一番早く陽が昇る大地として、過去には一日の始まりの地とも呼ばれた歴史のある場所だ。

 一説には一日の時間を決める際その基準点だったとも言われているが、クラウスにとってはどうでもいい。

 古くは栄えていた土地だったが、時代が下るにつれて人々は他国に気を配り始め、やがてブランデンブルクと言う国が出来上がるとその中心に王都を据えた。

 ソラリウムより大きな河川が近くにあったことも影響したのだろう。水のある場所に文化は栄える。

 結果、人々は王都へ移り住むようになり、過疎化したソラリウムは辺境の地へ……過去の場所へとなって。

 そんな過去に栄えた東の端の大地がクラウスやテオの故郷、ソラリウムだ。

 今では田舎と言うこともあって王都とは違った良さもあるが、便利なところに住みたいのは誰もが望むこと。

 人が訪れることもそうそうなく、それどころかクラウスのように王都に出てくる人たちによって特に人口が減っている寂れた村の一つだ。

 強いていいところをあげるとすれば、自然に囲まれ、近くに海があるということだろうか。

 そういう観点で見れば港町とも言えるが、生憎そちらの管轄ではなかったはず。もちろんクラウスが故郷を発ってから時間も経っている。その間に何か変化があったかもしれないが。


「余り楽しい場所じゃないけれど……」

「いつか行ってみたいです。……駄目ですか?」

「何もないけどそれでよければ」

「はいっ」


 きっとクラウスの故郷と言う以上に興味は無いのだろう。その興味が、彼女の楽しさだというのならば妖精の生き甲斐を無闇に潰すわけにもいかず。

 彼女の嬉しそうな笑顔に小さく過去を回想する。

 あの場所は……クラウスにとっては居心地の悪い場所だ。全ての始まりの地で、クラウスを成した場所だ。

 思い返して、心を曇らせる。

 いい思い出など、殆どない──


「クラウス。お腹空いた」


 湧き上がった感情が顔に出そうになって、けれどそれより数瞬早くアルの声が耳に届く。

 彼女はクラウスに視線を向けないまま、平坦な声で串焼きの露天に視線を向けていた。

 だから妖精には食事の必要性もお腹が空くという概念もないだろうと。

 考えて、彼女のその言葉に感謝する。

 アルはクラウスと幼少期を共に過ごした片割れだ。過去の事は子供の奔放さで愚痴として幾つも不躾にぶつけたし、そうしてどうにか笑いに変えた。

 今のクラウスがあるのは、彼女のおかげと言ってもいいだろう。それでも性格は随分歪んでしまったようだけれども……。


「……今食べると昼ご飯が入らなくなるよ?」

「満腹感なんてあってないようなものだもの」


 今論理が破綻した音を聞いた気がするが……目を瞑るとしようか。

 どうでもいいことだが、妖精は食事ができる。その食事の幾つかは妖精力に変換される為、妖精力を外部から供給する手立ての一つだ。けれどそれは食べたもの全てではない。幾つかであって、量にしてみれば微量なもの。それこそ一度の食事では妖精弾一発程度ではなかろうか。

 その口に入れた食べ物。それらは一体どういう理屈か、彼女達の体から忽然と消えるらしいのだ。

 確かに食べた感触はあるらしい。咀嚼して、嚥下して、物としての異物感と満足感は存在するらしい。

 けれどそれが喉を過ぎた辺りから知覚できなくなるらしいのだ。幾つかは妖精力へ。そして大部分は彼女達の体の中の虚空へ。

 この辺りの妖精の生体についてはまだまだ未知数なところが多いようで研究が進んでいない分野だ。

 この世界のはんぶんを構成する妖精という種族。彼女達は契約をするまでは自由で、何者にも縛られず。契約をすれば妖精従き(フィニアン)と時間を共にし。最期にはどちらかの死で消滅する。

 妖精との関係は人間との契約と言う枷があるから成り立っている不安定なもので、どちらかがどちらかを縛り付ける関係ではない。

 特に妖精と交信する妖精憑き(フィジー)や妖精従きにとっては契約相手だ。機嫌を損ねればそれが妖精全体に伝播して人間との関係を悪化させるかもしれない。

 そんな危惧と、一歩間違えれば崇拝のようなそれで、妖精という種についての研究は手を(こまね)いているのだ。

 だから妖精が何処から来たのかと言う疑問も解決していないし、妖精の国が存在するかどうかも現状はあやふやな結論を据えているに過ぎない。

 人間は、僕達が思っている以上に妖精という種族について何も知らない。


「……フィーナは?」

「私はいいです。クラウスさんのお昼ご飯を美味しく食べたいですから」


 嬉しい事を言ってくれる。ならば彼女の期待に答えるとしよう。

 笑顔を浮かべて答えると、露天を覗き込んで妖精用の串焼きを一つ買う。

 当たり前だが妖精が居る世界、妖精がいる生活。妖精用の大きさの食べ物もあるし、彼女達の体に合わせた服も存在する。

 ブランデンブルクでは少ないが、中にはエルフの文化や好みに合わせた店もある。賑わっているが故に、その景色はとても煩雑だ。


「そういえば二人は服とか要らないの? 必要なら買ってもいいよ。お金には少し余裕あるし」

「高くつくわよ?」

「その笑顔が見られれば安いものだよ」


 口元汚れてるけど。

 指差して指摘すればアルは慌てて顔を逸らした。全く、女の子なんだから手で拭うのやめなさい。

 花紙を一枚手渡しながら金勘定。

 妖精用の服は一着が高い。まず大抵女性物だし、その上小さいのだ。

 それから手間がかかる。人間のもののように幾つかの部位に分けて生産し、あとから縫合する大量生産品ならともかく、妖精のそれは一枚の布から作る上下一纏まりの貫頭衣だ。作るのに時間が掛ればその分生産量は減って単価が高くなる。

 だから中々妖精用の服は手が伸びにくい。特に妖精従きがクラウスのように男だと、おしゃれに興味があまり向かない分、契約妖精への配慮は後回しになり易いのだ。

 一応更衣(さらごろも)の術の命令式を組み替えれば少し違った見た目のものを作ることが出来るが、そもそもが妖精力。一律虹色で、色としての変化は望めない。形が変化しても色が変わらなければ余り見た目の変化は感じられないだろう。


「こほんっ。それじゃあ行こうかしら」


 クラウスの前で取り繕う必要がどこにあるのかと。

 小さく笑えば唸った彼女はそれからやっぱり顔を逸らした。

 そんな彼女を右の肩に。そしてぱたぱたと足を揺らすフィーナを左の肩に乗せて足を出す。

 景色は変わらず人の行き交う混雑そのもの。人の熱気と降り注ぐ陽光が大地を照らして体感温度を温かくする。

 そろそろ冬本番。学院の授業もあと半月すれば一旦終わりを迎える。

 今年の冬期休暇は何をしようか。とりあえず委員会の仕事と、それから夏に後回しにした帰郷と……。

 考えて雑踏の中を進んでいるとすれ違い様他人と肩をぶつけた。

 まぁ道を埋め尽くすほどの人の数だ。他人とぶつかるのは仕様のないこと。


「失礼しました」

「いや、こちらこそ」


 年の頃は30代半ばの男性。癖で妖精の姿を探して、けれど彼の傍らにはその姿がない事に気付く。妖精と交信できない者か。

 この世界にも多く存在する妖精力を持たない人たち。

 珍しいわけでもなく、有り触れた景色。違うのは少しばかりの価値観か。

 謝って、それから行くべき場所に向けて再び足を出す。

 しばらく歩いて、それから肩上のフィーナが何か考え込むように顔を俯かせている事に気がついた。


「……どうしかした?」

「…………いえ、先程の方……お相手の姿が見えなかったので」

「普通に妖精と交信できない人ってだけでしょ。外に出れば珍しくないよ」

「妖精力なら感じたわよ?」

「え……?」


 クラウスの声に答えたのはアル。

 足を止めて振り返る。

 と言う事は先程の男性は妖精憑きと言うことか……。クラウスよりも年上で……?

 直ぐに思考が回って納得を求める。


妖精殺し(フィリング)……? いや、それなら国がどうにかしてるはず」


 幾ら妖精変調など騒動があったと言えど、常日頃から行っている仕事を疎かにするはずはないだろう。ならばその可能性は低い筈だ。

 それに軍属と言うわけでもないのだろう。体つきはともすればクラウスよりも細かったし、そう言った体を動かす仕事に就いているとは思い難い。

 ならば戦いに赴いて戦地で相棒を失ったとも考え辛い。

 普通に暮らしていれば契約妖精と逸れる事も死に別れることもないはずだ。

 いや、単純に契約妖精は家に居て、今は別行動というだけかもしれない。


「こういうのは、珍しいですよね……?」

「確かにね。まぁあの人にも何か理由があるんじゃない?」

「妖精二人抱え込んでるクォーターがいるくらいだしね」


 アルの投げやりな言葉にどうでも良い事だと納得を生み出して再び足を出す。

 確かに珍しいがないわけではない。

 一般的に妖精との契約は一生だといわれる。

 それは何か特別なことがない限り、契約した妖精が消滅するような事はないからだ。

 まず契約で繋がっている以上、妖精力の供給は断続的に行われる。それを意図的に遮断するか、どちらかの死によって契約が不履行にならない限り供給は止まらない。

 妖精の存在の源は妖精力。最悪それさえ受け取っていれば何もせずとも存在していられる。

 また、妖精は世界のはんぶん。世界の伴侶とも言われる存在で、一緒に世界を作り上げる彼女達の機嫌を損ねたくないのは人間の都合。ならばよほど思い詰めない限り、人間の方から契約に不備をきたすような事はしないはず。

 ならば一体彼に何があったのか……。

 考えて、けれどそれは彼の問題だと放棄する。


「……うーん…………」


 フィーナはまだ何か気になるところがあったようだが、目的地である服飾店に辿り着くとその疑問もどこかへ消え去ったようだった。


「で、どれくらいまで大丈夫?」

「二着ずつくらいなら多分」


 クラウスにとってお金とは持て余す欲望だ。

 あれば溜め込んでしまうし、男であるクラウスはそこまで必要なものが多いわけではない。

 特に国経由の委員会での活動や、連結術式のような一般公開している妖精術のお陰で余りお金には困っていないのだ。

 特に連結術式の方は使い勝手が良いようで幾つもの声が届いている。我ながら便利な妖精術を開発したものだ。


「悩みどころですねー」


 沢山の衣服を目の前に目を輝かせるフィーナ。こういうところ、人間らしく女の子だと思いつつ鮮やかな景色を店の外から眺める。

 そんな風に近くの椅子に腰掛けて長くなるだろう買い物を見ていると、その背中に声が掛けられた。


「買い物か?」


 振り返ってそこにいたのはヴォルフ。異母妹の姿は見えないので、どうやら一人で外へ出てきたらしい。


「……そんなところです。先輩はどこかへお出かけですか?」

「……………………」


 クラウスのそんな何気ない問いに、ヴォルフは何故か黙りこくる。

 何かいけないことでも聞いたかと他愛ない雑談を思い返すのと同時、答えたのは彼の傍に人間大で控えるクリスだった。


「ハニーが買い物するって言うから……。アタシは必要ないと思うんですけど」

「……レベッカの誕生日だ。流石に渡さない方がおかしいだろう」


 続いたヴォルフの言葉に納得して笑みを零す。

 なるほど、それでクリスの機嫌が少しだけ傾いでるわけか。


「ただ何を贈っていいものか分からなくてな……。生憎そういった経験が少ないもので決めあぐねていたのだ」


 それは彼らしい実直さ。不器用なのは真剣さ。

 彼らしい悩みだと小さく笑えば、彼は怒ることなく視線を僅かに逸らした。


「……よろしければお手伝いしましょうか?」

「それはそれで不安だが……背に腹は変えられんか」


 今少しだけ彼の本心を聞いた気がするが無視。何より、彼女にお世話になっているのはクラウスも同じだ。

 隣に腰を下ろしたヴォルフとどんな贈り物がいいかを話しつつ、フィーナ達の買い物が終わるのを待って。それから連れ立って歩き出す。

 そう言えば誰かの誕生日が続くと。毎日誰かの誕生日だと言えばそれまでだが、特にクラウスの周りはこの時期が多いらしい。

 そんな事を考えて、ふいに脳裏を彼女の顔が過ぎる。彼女はまだか。

 クラウスの記憶が正しければ冬期休暇が終わってからだった気がする。後で確認をしておくとしよう。

 何を贈るのがいいだろうかと頭の片隅で考える。

 彼女に似合うもの? 彼女の記憶に残るもの?

 幾つもの選択肢が渦巻いて、それから悟る。

 なるほど、考え出したら決まらない。ヴォルフの懊悩もこういうことか。


「それで、先輩は傾向としてどんな贈り物にする予定ですか?」

「……そうだな…………」


 問いに考える間を言葉で埋める。

 そんな彼の傍らで相棒たるクリスはやはり機嫌を斜めに傾けていた。

 確かに、彼女の視点から見れば面倒臭い場所にいる人物だろう。

 異母兄妹で、その胸に仄かな恋心を抱いていて。ヴォルフも彼女の事を気に掛けている。

 そんな二人のありえるべき関係は、けれど隠されて公にはなっていない。

 そこに彼女の恋心が絡めば確かに余り気はよくないだろう。

 けれどそれこそ恋愛の本質ではなかろうか。

 相手が……自分がどう思っているかなんて結局は当人にしか分からず、制御さえも難しい感情だ。 

 そうして持て余して求めるからこそ、悩んで理想を描くのだ。

 ままならないからこそ恋愛なのだと。

 恋人のいないクラウスが語るべきではないのだろうが、感情を否定してきたからこそそこに根拠のない自分の論を持っていられる。


「誕生日…………」


 呟きは肩の上から。

 白銀の長髪を着流した相棒は何処か遠くを見据えて小さく零す。


「どうしたの?」

「…………いえ、何でもないです……」


 一体何を考えていたのだろうか。

 少しだけ気になって彼女の心を覗こうとしたところで、今度は逆側から視線を感じてやめる。とはいえ浅い類推はできた。

 ……なるほど、クォーターか。

 人間は人間と人間の間に生まれるから、人の暦で誕生日が存在する。

 けれど妖精は転生するもので、生まれ変わる事はあってもそれを新たな生とはしない。

 それはただ、長い魂の流れの一つに過ぎないのだ。

 けれどハーフィーやクォーターは違う。彼女達は親に人間の血を持つ。

 妖精のように転生ではなく人の血の通った子として生まれ、人のように死んでいく。

 人の血を持つ妖精は、純粋な妖精のように転生する事はないのだ。

 だからその数は世界では少ないし、爪弾き物として嫌悪されるのだ。

 また人と同じ生を歩むのであれば、人の暦で誕生日が与えられる。

 その話で考えるならば、フィーナやアルにもクラウス達と同じ誕生日が存在する事になるのだろう。

 そういえば今まで彼女達の親については聞いた事がなかったと思いつつ、けれど詮索はやめる。

 クォーターである事を理由に辛い思いをしてきたのはクラウスも一緒。幾らはんぶんと言えど、そこを不躾に暴くのは彼女の為に……何より自分の為にしたくない。

 それは、彼女が話してくれるときに聞けばいい。


「……とりあえず何か彼女の為になるものを買うとしようか」

「分かりました。それでしたら────」


 心の中に気持ちを閉じ込めて。響いたヴォルフの声に答えて幾つかの選択肢を提示する。

 彼はクラウスの言葉に感謝を述べて、それから最後は自分で決めると言い残すとクリスを残して雑踏の中に消えていった。

 彼のことだ。悩んだ末に無難な答えを出すのだろう。それが正しいのだと、彼の選択を正義だと認める。

 そんな彼の後姿をクリスがじっと見つめている事に気がつくと、フィーナが近寄って何事かを囁く。

 一体何の会話だろうか。考えつつ、クラウスも一つ思考を巡らせる。

 クラウスが選ぶ彼女への贈り物。

 きっとそこが最後の勝負だと描く未来の予定表に印をつけて目的とする。


「…………さて、それじゃあ僕達も買い物をして帰るとしようか。昼は何が食べたい?」

「どうしましょうかねー。きっとどんな料理も美味しいはずですけど」

「何でもいい、が一番困るって事は覚えておいてくれると嬉しいかな」


 どうでもいい日常。どうでもいい会話。

 だからそれはいつも通りで、非日常を引き立たせる調味料なのだ。

 今度はどんな非日常が起こるのか。

 例えそれがありふれた他人の誕生日でも、想像外であれば立派な非日常だ。

 そんな日常的な非日常を望んで、クラウスはまた前へと進む。

 この世界は日常と非日常、どちらが多いのだろうか。




 買い物を終えて寮へ戻り、昼食を終えてしばらく。窓から差し込む陽光に眠気を助長されつつ、余り暑くならない日中に冬の訪れを感じていると、突如部屋に呼び出しの音が鳴る。

 何やら誰か尋ねてきたようだ。予定は入っていなかったはずだが。

 考えて、それから腰を上げると玄関の待合い広場に向かう。するとそこにいたのはユーリアとアンネだった。


「どうしたの?」

「今時間いいかしら?」

「ん、まぁいいけど……。とりあえず中に」


 疑問をかけてきたのはユーリア。その隣で何処か疲れたように溜息をつくアンネ。

 一体何事かと思考を巡らせつつ部屋に招き入れて、もてなしの飲み物を用意すると彼女達の正面に座り込む。

 するとクラウスが問うより早くユーリアが口を開いた。


「アンネのことで、色々聞きたいことがあるんだけど」


 ……あぁ、なるほど。大体想像がついた。

 アンネの立ち位置……クラウスの言うところの駒としての役割である国との連絡係。ヴァレッターの地位は少し前までユーリアとクラウスしか知らなかった。いや、ヴォルフとレベッカ辺りも知っていたのだろうが目を瞑っていてくれたのだったか。とりあえずその二人は除外。

 彼女に知られる前はクラウスだけ。

 そうして秘密にして来たのは、その方が互いに便利だったからだ。

 要らぬ詮索をされず、必要な干渉が出来て。それぞれに利がある契約。

 けれどそれはユーリアの勘によって暴かれて、彼女と共有する秘密となった。

 それからユーリアはアンネを危険な目にあわせたくなくて、彼女の行動を逐一把握しようとした。アンネの企みが、その身に危険が及ばないように危惧を重ねようとした。

 そうして、不安定ながらも秘密の関係として共有し続けた。

 けれどこの前の王妃殿下の崩御の際、クラウスも……そしてきっとユーリアも把握してなかったアンネ個人の思惑でヴァレッターの地位がニーナ達にも露見した。

 アンネの話ではそうすることでクラウスの為になるということらしい。詳しい事は分からないが今はその言葉を彼女の本心だと捉えておく事にしている。

 アンネの存在はどこまでいってもイレギュラーだ。舞台裏から表の舞台を支える黒子役。

 その黒子が顔を見せたのだから、それまで秘密の関係だと思っていたユーリアは彼女に問い詰めたのだろう。

 どうしてと。どんな理由があるのかと。

 だからアンネはあんなにあからさまに疲れた表情をしているし、クラウスと視線を合わせてくれない。

 つまり彼女が聞かれて話したこととは────


「クラウスは一体何をしようとしてるのよ。何の為にアンネを利用してるのよ」


 そういうことだ。

 クラウスの野望について。

 きっとその疑問をアンネに詰問して、けれど想像で補った上辺しか知らない彼女は答えられずに逃げ続けて、そうしてここにやってきたというわけだ。

 アンネに妖精の国の事は話していない。頼んだ調査で情報を組み合わせて近いところまでは想像しているのだろうが、きっと彼女はそこまで深くは探っていなかったはずだ。

 なぜなら彼女の最大の理想は隣にいるユーリア。彼女の為を思っての行動だ。それを彼女に話したかどうかは分からない。

 彼女はクラウスの駒でいる以上、クラウスの機嫌を損ねたくないから……これ以上の面倒事に巻き込まれたくないから、あえて自分で調べる事はしていなかったのだろう。

 だから問い詰められて、答えられなくて、余計にユーリアの疑問を助長させた。

 結果、クラウスに直接聞きに来たというのが、この景色と言うわけだ。


「……別に利用してるわけじゃないよ。利害が一致してるだけ。言わば共犯者だね」

「そんな事は聞いてないっ。何をしようとしてるかって言ってるの!」


 随分な剣幕で声を上げるユーリア。

 クラウスが彼女に話すと言う事は、同時にアンネの思惑もばれるということ。

 それを彼女は望んでいないことだろうし、だからこうしてここにいるのだろうと。

 また面倒臭い疑問を突きつけられたと……きっといつかは対面するはずだった壁にぶつかって思考を巡らせる。


「…………回帰の揺籃歌。あれの為に色々走り回ってただけだよ。そこにアンネさんが居たって話」

「……それが全てじゃないでしょ。確かにそれは本当かもしれないけど、たったそれだけの為にクラウスは委員会を作ったわけじゃない」


 しっかりと意志の込められた断言。

 その根拠は……と考えて至る。

 そういえばアンネがヴァレッターである事がばれたときに『月夜の切株亭』で交わした会話。あの時にユーリアはアンネの立場だけでなくもう一つ何かを調べていて、その真偽をアンネにだけ問うていた。

 例えばそれが、クラウスの委員会の設立理由だとしたならば今の唐突な疑問にも合点はいく。

 ……いや、そうでなければ今こうして疑問をぶつけには来ないだろう。

 あんな頃から彼女はクラウスに対して疑問を抱えていたのか。……いや、それを言うなら委員会が設立した当初からか。


「何をしようとしてるの? クラウスには、何が見えてるの……?」


 実直な色を灯したユーリアの紫苑の瞳。妖しく揺れるその炎がクラウスの化けの皮を炙り焦がす。

 そろそろ引き際か……。

 これまで積み重ねてきた道化の仮面。けれどやはり彼女には通用しなかったと。だからこそ、クラウスは彼女を正義だと認めるのだ。


「…………分かったよ。降参。全部話すから」


 沈黙を挟んで溜息を零す。

 予想外はいつだってクラウスの予定を狂わせる。だから想像通りにいかない予定に楽しくなるし、それさえも利用したいと思うのだ。


「唯一つお願い。これは全部僕の理想。だからアンネさんは関係ないって事」

「……えぇ。クラウスに利用されただけ、ね」


 だから利用じゃないって。

 とは言えそう重ねたところで面倒が増えるだけ。アンネに矛先が向かなければそれでいい。元より彼女は、クラウスの盤上にはいないはずの人物だ。

 ここで、その役目を一旦取り除く。


「……話は単純だよ。妖精の国が存在していて欲しいってだけ。ないなら作っちゃおうと思って。その為に委員会を作った」


 ユーリアの視線が異物を見るようなそれに変わる。

 それはそうだろう。クラウスのこの野望は、普通ではないのだから。

 国を作りたいという夢。

 一介の人間にそれは出来ないと言われれば否定したいが、かなり遠く険しい道程だ。


「出来ないとは思わないよ。例え存在していなくても、皆は知ってるんだから。この世界の人々が妖精の国と言う名前を、存在を知っている以上その言葉は消えない。消えないどころか、その名前を借りれば誰だって妖精の国を作り出すことが出来る」


 至極当然だ。

 例えこの世界上に空気という見えないものが存在していたとしても、人間はその存在を疑わない。クラウスはその見えない存在に色と、形と、温度と、匂いと、感触を与えようとしているに過ぎない。


「条件と根拠さえ揃えばいつでも、誰でもその存在を証明できる。証明できれば、作ることが出来る。……今まで作られなかったのはその方が都合がよかったからだよ。そんな都合僕には関係ないけどね。もう妖精が理由で人間同士がいがみ合うなんてごめんだ」


 何も間違った事は言っていない。

 ありえるかもしれない未来。ありえてもおかしくない未来。どこかにあるはずの未来を、形にしようとしているだけ。

 簡単に言えば探究心。複雑に言えば再現。

 理想と偶像の入り混じった曖昧な郷。


「たったそれだけ。何もおかしくは無い、真っ当な夢でしょ?」

「子供ね」


 ユーリアの一言に笑顔を浮かべる。

 そう。クラウスの理想は子供の戯言だ。

 その野望を、子供より少しだけの賢いこの頭で論理詰めにして肯定しようと言う話に過ぎない。

 

「……クラウスは、気付いてるんでしょ? それが間違ってるって」

「散々そう言われてきたからね」

「ならどうしてそこまでするのよ……」


 睨むような彼女の視線にクラウスは分かりきった答えを告げる。


「悪者がいないと何も出来ない人たちがいるからだよ」


 その言葉に、フィーナがはっとする。

 そう言えば彼女には聞き覚えのある言葉だったか。

 クラウスは、争いが嫌いだ。人間同士が醜く争い、傷つけあう。

 そんな他人の戯れに巻き込まれるのが嫌なのだ。

 だから考えた。どうすれば巻き込まれずに済むか。どうすれば争いをやめさせることが出来るのか。

 そうしてクラウスなりの結論を導き出した。


「この世界はね、理想過ぎるんだ。世界の敵も、共通の夢もない。だから人々は手を取れない」


 善も悪もない。

 だから人間は、身近にある存在に敵意を向けてしまう。

 他人同士で。友人同士で。組織同士で。軍隊同士で。国同士で、争う。


「ならば簡単だ。世界から争いをなくしたければ、一度全員で同じものを敵として認識すればいい。虚構の敵を、作り出せばいい。そうすればほら、他人も、友人も、組織も、軍隊も、国も。みんなが一緒に手を取れる。そこには正義と平穏が存在する」

「狂ってるっ!」


 それは、褒め言葉だ。

 けれど同時に、どこまでも正しい。

 正義を振りかざして正義同士がぶつかるならば、その正義の矛先を一つに纏めてしまえばいいだけの事。

 その正義を向ける先の悪を、クラウスが作り出すだけのこと。


「倒せない悪役を、作るだけだよ」


 この大地における妖精は、世界の伴侶だ。

 今や人間の生活に妖精の存在は欠かせない。もし今この世界から妖精が忽然と消えてしまえば、人間という種は絶滅してしまうだろう。

 だから妖精の国と言う存在は、倒せない。壊せない。

 その存在を悪として語れば、それは未来永劫続く普遍的な悪の理となる。


「……これ以上ない平穏の作り方だよ。何か、間違ってるかな?」

「…………クラウスは、どうなるのよ」


 向けられた言葉。

 突きつけられた矛先に、ようやくクラウスは物語の完成を見る。

 その言葉が、聞きたかった。


「何が?」

「それって結局クラウスが悪になるって話でしょ? そんなのを私が許すと思う?」

「許されなくても、そうするだけだよ。別に止めてもらいたくてユーリアに話したわけじゃないし」


 これは最初の悪。諸悪の根源。


「それにユーリアの今抱いてる感情こそが、始まりだ。もう僕は止まらないよ」


 クラウスの言葉にユーリアが視線を強くする。

 分かっていても覆せないだろう。胸に抱く否定の感情が世界を平穏にするなんて許せないだろう。そんなことの為に、妖精の国さえも利用するクラウスを認められないだろう。

 共感できなくて当たり前だ。

 だってこれは、クラウスの道で。絶対悪の物語。

 クラウスの言葉を認めてしまえば、その時点でその者はクラウスの理想通りになってしまうのだから。

 誰からも共感されてはならない。

 この道は、クラウスだけのものだ。


「……それでも見過ごせない?」

「当たり前じゃないっ。妖精の国を、みんなの夢を、そんな事になんて利用させない……!」


 ユーリアは、そう言うだろう。

 だから答えも、用意している。


「だったら僕を殺せばいい。春に僕がそうしたように、僕の中からその悪者を殺せばいい。妖精の国を完成させた時に、僕の手から奪い取ればいい」

「えぇ、そうさせてもらうわ。クラウスは、絶対の悪よっ」


 言い放って、ユーリアは立ち上がるとそのまま部屋を出て行く。

 残されたのは俯くアンネと笑顔のクラウス。

 やがて下りた沈黙に零れた笑みはどこまでも楽しげだった。


「やったっ! ユーリを怒らせたっ! これで自由に動ける!」


 声はアンネの物。彼女はまるで笑顔を堪えていたように床に転がり満面の笑みを浮かべる。

 なるほど、これがアンネの目指したかった景色か。

 アンネよりもクラウスに意識を向けるユーリア。それを作り出したくて彼女は春の悪戯騒動のときから道化を演じ続けてくれたのだ。


「……とりあえずお疲れ様。僕が想像していた当初の予定とは少しずれたけどね」

「だってこれ仕返しだもん。私クラウス君にふられたんだからね? ちょっとくらい見返りなくちゃ割に合わないよ」


 相変わらず彼女はクラウスにとってイレギュラー以外の何者でもない。

 彼女が居るから、退屈なクラウスの物語に喜劇が混じるのだ。だから感謝こそすれ、そのクラウスよりも尚意地悪な性根を責めたりはしない。

 

「クラウス君はもう少し他人に振り回されるといいよ。そうやって……人間になればいい」

「それは難しい相談だね」


 一つ調子の落ちた声に笑顔で答える。


「それにほら、これでようやくアンネさんは自由だ。君自身も変われたはずだよ」

「……嫌なこと気付かせないでよ」


 それはクラウスの理想。

 クラウスにとってユーリアが傍に居る事は大前提だ。それと同じくらい、他人依存だったアンネが変わることも必要だった。

 いつまでもクラウスに後ろ髪を引かれてもらっては困るし、それが理由でクラウスの理想を破綻させられても困る。

 何より彼女はイレギュラーだ。どこかで外さなければいけない役目。

 その為の自由だ。


「それで、これからどうするの?」

「…………とりあえず今まで通りに振舞いつつ、必要なときに利用してくれたらいいかな。今度はクラウス君の為じゃなくて自分の為に同じ事をする」


 結局そうなるかと諦める。

 今や彼女にとってクラウスもユーリアも切り離せない存在だ。

 自由を手に入れたってそれを放棄すれば今までの苦労が水の泡になってしまう。

 だったら彼女はやはり彼女らしく今まで通りを演じるしかないのだろう。

 彼女は手に入れた自由で他人に縛られる事を良しとした。


「奴隷根性だね」

「ただの依存心だよ。誰かに何かを言われてその通りに行動する方が楽なだけ」


 諦めたように告げる彼女に溜息一つ。

 ならば彼女の為にクラウスも利用するとしよう。


「それじゃあ早速。……揺籃歌はどんな感じ?」

「順調みたいだよ。クラウス君の言った通り既に妖性が具現化した子たちには効いてないみたいだけど。とりあえず今以上の騒動は起き辛いんじゃないかな?」

「その今起きている騒動については?」


 分かりきった答えから疑問を伸ばす。

 クラウスの言葉に、けれどアンネの言葉は返らない。


「……まだ言えない?」

「まだとかじゃなくてね。これは学生に回る話じゃないってだけ」


 平坦な語調にクラウスの危機感が疼く。

 フィーレスト学院の生徒は準軍属。それなりの授業で戦闘訓練も受けているし、特に委員会は腕の立つ者ばかりが集まっている。言わばそれは国の小さな部隊の一つだ。

 非常時の予備戦力。

 そんな組織に話が回らない案件。

 それほど今国が抱えている問題は危険だと言うことだろう。

 想像だが……そこにはきっと人の命さえも掛かって来る。

 妖精の問題で、人の命が関係して、危険……。そこまで情報が揃えばクラウスにも幾つかの想像はつく。


「言葉にしないでよ? 国は情報規制()いてるんだから。お願いだからそれについては忘れて。話が行かないように私もどうにかするから」

「…………分かった」


 クラウスが音にするより早く、体を起こしたアンネは強い色を灯す水色の瞳でこちらを射抜いて告げる。

 きっと彼女の手にも余る案件。だからこそ嫌な予感は鳴り止まない。


「ただこれだけは言わせて。……それがもし、僕の管轄に危害を加えるようなら、その存在を見過ごせない」

「…………解決したら結果だけ教えるからもうこの話はしないでっ」


 糾弾の視線に苛烈な言葉が加わってクラウスも頷く。

 今の言葉を彼女の主に伝えてもらえればそれで充分だ。

 それにクラウスだって自分の命を懸けてまで大業を成したくは無い。可能ならば安全な道で夢を手にしたいのだ。

 考えて、それから下りた沈黙にクラウスも寝転がる。

 そうして視界に入った窓の向こうの空に、既に天頂から半分ほど傾いた陽が目に入って視界が一瞬眩む。

 差し込む陽光は冬に差し掛かった所為か色を薄く、これで風が無く雪や雨が降らなければとても好きになれる季節なのにと一人ごちる。


「すみません。アルさんとフィーナさん、少しお借りしてもよろしいですか?」


 ふとそんな声を耳が捉える。聞きなれない音に誰の声かと少し考えれば、記憶はダフネのそれだと情報を照らし合わせた。


「……僕はいいよ。二人がいいなら」

「それじゃあ少しだけ」

「一体何よ……」


 答えればダフネが笑顔で頷いてフィーナとアルを部屋から連れ出す。

 ダフネの方から疑問とは珍しい。クラウスの前から逃げたことから妖精同士の話なのだろう。

 あとで聞いてみるとしようか。彼女達は話してくれるだろうか?

 そんな事を考えていると、クラウスの上にいつの間にか這い寄っていたアンネが覆い被さる。


「……私さ、どうあってもきっとクラウス君を諦めない。ユーリとくっつこうが、私はクラウス君を好きで居続ける……。そんな私が、クラウス君の望む自由なんだよね」


 真っ直ぐな瞳。垂れ下がる波打つライトブラウンの髪から香る、女性らしい匂いが鼻先を擽る。

 いつ見ても綺麗な髪だと。ユーリアのような鋭く真っ直ぐな髪とは対極な、柔らかい雰囲気を演出する優しく淡い感触。

 気付けば彼女の頬に手を添えていた。

 アンネの笑みに朱が混じる。


「そうだね……」

「だったら、さ…………。こういうのも、自由の証だよね──」


 近づく唇。

 少しだけ考えて、それから優しくその口に人差し指を添える。


「……別にアンネさんがそうして求めるのは構わないよ。けど言ったよね。僕はそれに答えない。君の我が儘は、春のあの時に聞いたから。あの秘密を思い出にして、大事に仕舞い込んで……そうやってずっと自分を責め続けてくれなくちゃ、僕がユーリアを選んだ理由がなくなるよ」


 クラウスだって欲は存在する。

 けれどその欲は、野望を実現する為の糧であって、彼女の横暴に答える為の火薬では無い。


「……私は、クラウス君以外を、好きになんてならないっ。それなのにキスの一つもないなんて、やっぱり納得できないよ……!」


 クラウスの頬に落ちたのは彼女の瞳から溢れた雫。

 だから女性の涙は卑怯だと。今回のそれは、演技では無い彼女自身の感情の全てだ。

 こんな涙を見たくないから、クラウスは異性を泣かせたくないのに。


「…………それでも駄目だ。どれだけ理不尽であろうと、そこは変わらないっ……!」


 せめてもの情けとして涙を拭って、それから彼女を押し退けて体を起こす。


「交換条件だ。僕はアンネさんの気持ちに答えない。その代わりアンネさんの危惧している問題には出来る限り関わらない」

「……卑怯だね」

「そんな僕を見るのが嫌で、力になってくれたんでしょ?」

「力になんて、なってない……。ただ、クラウス君のことが、好きになっただけだよ…………」


 情熱的で、一途で、献身的な愛情。

 それがアンネにとっての中核なのだと納得して、それさえも利用する。


「僕はそこに好意なんて感じないよ」

「知ってる……。だってクラウス君は他人の感情が分からない道化だもんね。だからクラウス君はユーリを幸せになんて出来ないんだよ」

「友達想いだね」

「……でしょ?」


 彼女は彼女を慰める為に、交わすたび深くなる傷を追い求める。

 知っていても求めずにはいられない後悔とは、一体どんな味がするのだろうか。どんなにおいで、どんな色で、どんな音で、どんな感触なのだろうか。

 クラウスは、それを最後まで理解できない。手に入れられない。

 それを生き様に自分を苛むことができる彼女を、クラウスは羨ましく思う。


「──アンネさんみたいな人生を送ってみたいものだね」

「私はユーリになりたかったなぁ……」


 それは自分がどう生きたいと言う理想なのかもしれない。

 だとしたら、そこに名前の上がる人物は尊敬されるべき人なのだろう。

 クラウスもいつか誰かにそんな風に思ってもらえるだろうか。

 ……今の僕には、まだ想像ができない。


「さて、そろそろ帰らないと家の人に心配掛けるよ」

「どうせならクラウス君に心配してもらいたいなっ」

「勿論心配してるとも」

「台本に無いどんな事をしでかすか分からないから?」

「分かってるなら控えてもらえるとありがたいんだけど……」


 分かりきった答えに向けて台詞を紡ぐ。

 そうして告げたクラウスの言葉に、アンネは笑顔で答えるのだ。


「こんな台本だから、壊したくなるんだよっ!」




 ユーリアの訪問。アンネとの会話。

 有り触れた景色の有り触れた一幕が過ぎ去って、クラウスはまた自室にて孤独を味わう。

 ただ床に寝転がり、何をするでもなくぼぅっと窓の外の景色を眺め続ける。耳には心地よい本を読み進める紙の音。

 ちらりと視線を向ければ、そこには自分の背丈ほどに大きな本を床に立ててその前で熱心に文字を追うアルの姿。

 少し前から彼女も随分な本の虫だと思いつつ、妖精らしいことだと嬉しくなる。

 見えた本の題名はクラウスが昔読んだ推理小説。前にアルが興味本位で読んで面白かったと言っていた本の続きだ。

 娯楽……楽しい事に身を委ねるのは妖精の本質の一つだ。ならばこの世界の伴侶として彼女達妖精の生き様を無闇に邪魔することもないだろう。

 考えて、それからクラウスも自分のしたいことへ戻る。

 何かをするというよりは、何もしないということをしていたい気分。

 何も考えず、ただ体を楽にして何の益にもならない貴重な時間を食い潰す。

 思えば春の悪戯騒動からこちら、こうして本当にどうでもいい時間を過ごしたのは今日が初めてでは無いだろうか。

 今日あった出来事は、全てがクラウスの都合の外側だ。

 ヴォルフとの出会いも偶然。ユーリアの詰問も、アンネとのじゃれ合いも。彼女達の方から突きつけられた予想外だ。

 そこにはクラウスの思惑なんて一つも絡んではいない。

 それでも時間は平等で、今日あった出来事の中でクラウスはまた一つ理想へと近づいた。

 ユーリアの興味をアンネからクラウスに完全に移動できた。

 彼女の気持ちを考えれば罪悪感に押し潰されてしまうだろう。だからそんな愚策はとらず、ただ理想の為に彼女を利用する。

 それが結果、全て彼女の為になると信じて。


「クラウスさ~ん。そろそろ夜ご飯の準備しないとですよ?」


 どんな道程がいいだろうか。どんな未来なら、彼女は喜んでくれるだろうか。

 あり得ていい未来に向けて……ユーリアをクラウスのものにする為に思考を重ねる。

 ユーリアに役割を。委員会を……クラウスの野望の為の組織に居るに足る、彼女だけの理由を。

 ……元はと言えばイレギュラーな彼女がその役割をユーリアから奪ったのが問題だ。だからこんな方法を取らないといけなくなったのに…………。

 全ての原因を彼女に押し付けて、ようやくクラウスは納得する。

 彼女のお陰で、クラウスはこうして人間をしていられるのだと。


「……何が食べたい?」

「クラウスさんの心尽くしがいいです」


 これまた面倒なご注文だ。

 けれど何時如何なる時も彼女に迷惑を掛けているその褒美として、今日くらいはその希望を叶えてあげるとしよう。

 重い体を持ち上げて気持ちを一新。それから身支度を整えて台所に立つ。


「そう言えばダフネさんに呼ばれてたけど何を話してたの?」

「女の秘密ですっ」

「首を突っ込むと痛い目見るわよ?」


 いつの間にか本を読んでいたはずのアルも近くに来ていて話に混じる。

 どうやら聞かせてもらえる様な話ではなかったらしい。

 クラウスにとってそれが重要なのか、そうでないのか。聞かなければ分からない以上この興味は考えるだけ無駄だ。

 直ぐに思考の外へ切り捨てて話題を変える。


「……そう言えばフィーナ」

「何ですか?」

「朝外に出たときに呟いてたよね、誕生日って。もしかしてフィーナも近い?」


 そのときも脳裏を過ぎったことだが、改めてフィーナはクォーターだ。親の片方が妖精、もう片方がハーフィー。

 ハーフィーやクォーターは他の妖精のように転生ではなく、人間のように親を持って生まれてくる。転生で生まれないから死ぬ時も次に転生することなく、人間と同じように生命としての死を迎えるのだ。

 人間と同じ生まれを持ち、人間と同じように死ぬ。だから人間と同じように誕生日も持つ。

 ならば一人の女性として……何より迷惑の対価として、ささやかにでも日頃の感謝を伝えるべきだろうと。


「いえ……。…………あの、クラウスさん。頭のおかしい話だと思われるかもしれませんけど、真剣に聞いてくださいね?」

「何?」


 いつになく真剣な声音のフィーナ。

 彼女のその声に思わず手を止めて耳を傾ける。


「わたし、親の顔を知らないんです。はっきりとした自分の誕生日を、知らないんです……」

「え…………?」


 思わず聞き返してしまう。

 親の顔を、知らない? 生んでくれた親の顔を? その日の事を知らない?

 クラウスが理解の出来ない言葉に翻弄されていると、彼女はまるで自分を否定するように続ける。


「わたし、物心付いた時には、既に妖精の中に居たんです。普通の……純粋な妖精と同じように過ごしていたんです」

「……なるほど? それじゃあ……フィーナはもしかして…………」

「詳しい事は分かりません。けど確かに言える事は一つだけあります。──わたしは、わたしの両親に育ててもらった記憶がありません」


 彼女は何を、言っているのだ。

 それではまるで、フィーナを生んだ親がフィーナを────


「わたしがクォーターである事は間違いないです。属性に分類される妖精術も扱えませんし、中途半端な人化の術も使えます。それはクォーターだからそうだとクラウスさんが教えてくれたことですっ。……春にクラウスさんに出会って、あの時クラウスさんの波長を感じて……足りないはんぶんだと言う確信をしたから…………わたしはクラウスさんと契約を交わしたんです。クォーターであるクラウスさんを見つけて、それまでにないほど安心したんです……。この気持ちは本物ですっ! もしわたしがハーフィーなら、この気持ちはあり得ないんです。それは今日、クリスさんに会ったときに確認しました。自分と相手の血をを足して、合わせて妖精一人分と人間一人分なら、契約を交わした妖精は絶対に胸の中に異物を感じないって。クリスさんはヴォルフさんとの契約でそれを感じているって。だから! クラウスさんが人間寄りのクォーターであるなら、わたしは妖精寄りのクォーターで間違いは無いはずなんですっ!」


 怒涛の、フィーナの心の内。

 吐き出された波のような彼女の不安が、彼女の存在意義を揺るがす。


「なのに、親の顔を知らないんです……。わたしは親に育ててもらってないんです…………」


 募り溜まった不安が、そうして一つの疑問を音にする。


「だったらわたしの親は────イマ、ドコで、ナニを、シているンでしョうか?」


 流れた涙は彼女の壊れそうなほどに儚い顔の線を伝って宙を舞う。

 そうして浮かべた彼女の笑顔に、クラウスは心を奪われた。

 次の瞬間、フィーナが気を失って肩から落ちる。

 それを受け止めたアルは、彼女を宙で抱いたまま叫ぶように呼びかける。


「フィーナっ、しっかりしなさい! フィーナ、フィーナっ……!!」


 そんなアルの声さえもどこか遠くに響く景色に聞こえる。

 ありえない、想像できない…………。そんな気持ちで彼女の語った言葉を否定すると共に、絶対にない話では無いという肯定の納得も生まれて渦巻く

 クラウスもフィーナも、そしてアルも。体の中に流れる種族の比率は違えどクォーターだ。

 クォーターは平等では無いから、世界に嫌われる。

 それはクラウスが故郷にいた頃、父親に幾度も聞かされた刷り込みのような絶対的概念だ

 世界と言う言葉には、自分の認識している景色とそうでない景色が全て詰まっている。その中には、母親の顔と、父親の顔と、その者たちの気持ちが存在する。

 腹を痛めて産んだ子だ。二人の愛の結晶だ。愛しくないわけは無い。

 けれどクォーターであるならば、親に愛されると同時に、嫌われてもいるはずなのだ。

 普通は愛情が勝るはずだ。新たな生命は愛がなければ生まれない。

 しかし何かの拍子で、愛より拒絶が勝ってしまえば、自分の子を手放してしまうということもまたありえる。

 人間の社会にも孤児は存在するし、そんな子供達を集めてある程度育つまで衣食住を提供する施設も存在する。

 だが妖精は……クォーターはどうだろうか?

 人間にも妖精にも厭われて居場所を見つけられない色の無い世界の中で、唯一の繋がりである親さえもその手の届かないところに行ってしまえば。その先に待つのは孤独よりも尚辛い現実だ。

 誰からも認められず、誰からも認識されない。誰にも繋がれない、孤独と言う言葉でさえ生温い、存在の否定。

 クラウスには幸福にも両親が居た。きっとアルにもその記憶は存在するはずだ。

 もっと言えば、アルとクラウスは幼い頃故郷で共に時を過ごしたある種の友人のような関係だ。クォーターと言う括りで見れば、互いに共振して惹かれ合った幼馴染と言ってもいいだろう。

 けれどフィーナはそのありえたはずの景色を──何も知らない。

 親の顔も、親の愛情も、共感のできる身近なクォーターの存在も。

 意識を失ったフィーナから回路を介して流れ込んでくる彼女の過去の記憶。

 彼女の視点がクラウスの視点となって、その景色を脳裏に鮮明に描き出す。

 おぞましいほどの悪寒と、計り知れないほどの世界からの拒絶。

 自分の存在さえも曖昧になって、認識できなくなるほど世界から消えた生きているはずの自分。

 それはまるで死へと繋がる奈落の上を、目に見えないほど細く千切れそうなほど儚いたった一本の蜘蛛の糸で渡るような感覚。

 前を見た景色に果てはなくて。歩んできたはずの過去は振り返っても存在していなくて。何もない虚空を延々と歩いて行く、恐怖。

 気が狂いそうなほどの吐き気と眩暈が感覚を揺らし、自分が今立っているのかさえ分からなくなる。

 これが、クラウスに出会うまでフィーナが歩んできた過去────


「クラウスっ!」


 耳が痛いほどの呼びかけが脳を揺さぶって、ようやくクラウスは自分がクラウスであるということを取り戻す。

 はっとして顔を上げればアルが心配そうにこちらを覗き込んでいた。


「…………ごめん。とりあえずフィーナを、」

「いつもの寝床でいいわね?」


 まだ纏まりきらない思考で何も掴めないまま言葉を零せば、アルはその先を次いでフィーナを運ぶ。

 フィーナと契約して、彼女の為に設えた彼女専用の寝床。

 いつの間にか彼女らしい色合いと、どこから集めてきたのか分からない雑多な物に染められた彼女の聖域。

 その小さくも、大きな世界の詰まった空間にフィーナの体を横たえる。


「…………っひとりに、しないで………………」


 小さな呟きに何ができるわけでもなくて、ただ自己満足に彼女の前髪を指先でのける。

 細い線の小さな体。

 何で彼女があんな過去を……と考えて、じっと見つめる。

 過去に何があったのか。それを知ればクラウスは納得し、後悔するのだろう。

 だからそれは出来なくて──。ただただ今の彼女の居場所として、無力にここにいることが何よりも歯痒かった。

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