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フェアリー・クインテット  作者: 芝森 蛍
疾風を欺く狂詩曲(ラプソディー)
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第四章

 あれから簡単に生徒会に報告して犯人の監視を進言するとニーナは少しだけ笑って「ありがとう」と言った後、クラウスの進言に頷いたのだった。

 彼女の心情を(おもんぱか)っての措置だけではないが、それでもあの人の不安を少しでも和らげてあげられたことに満足感を覚えながら時間は過ぎていった。

 ユーリアに犯人の特徴を教えたその翌日。クラウスがいつもと変わらない様子で学院へ向かうと、教室に入ってすぐアンネに引き止められた。


「あの、少しいい、かな……?」

「……少し待ってて」


 壁の時計を見やって授業の始まりまでまだ時間があることを確認すると、荷物を置いて彼女に声を掛ける。


「どこかに移動する?」

「……購買に」


 頷いてアンネと一緒に廊下を歩き始める。


「それで、今日はどうしたの?」

「その……『妖契の儀』、が。明後日に決まったから。アルフィルク君にはそれを知っていて欲しくって」

「……そっか」


 クラウスより10セミル低い彼女の歩調に合わせつつ会話を続けていく。


「アルフィルク君には、色々迷惑も掛けたし、ユーリのことも……」

「それは、ルキダさんだけの事じゃないよ。僕にも問題はあったし。……けどありがとね」

「それは私の台詞だよっ。アルフィルク君、ありがとう。それと……ごめんなさい」


 笑顔で言葉を交わしつつ、時に見せる彼女の寂しい横顔に胸の奥に燻る感情を押し殺す。これは、今言うべきじゃない。


「その、それでっ。よかったら何か飲み物でもどうかなって思って」

「だから購買に?」


 俯いて小さく首肯するアンネに感謝を述べると彼女の好意を受け取る。

 いつの間にか辿り着いていた目的地でアンネは飲み物を一本買うとクラウスに手渡す。


「はいっ」

「ありがと」


 そうして含羞むアンネは、やはり何処か寂しそうな表情で佇んでいたのだった。

 教室へと戻ると始業の鐘が鳴る寸前で、アンネとクラウスは慌てて席へと着き、授業の準備を始める。

 準備が整うのと同時、教員が部屋に入ってきて授業開始の号令を促す。窓から差し込む春の陽気に当てられて気だるげに礼を行うと、机に伏せるように座り込む。

 そうしてクラウスの周りにはようやく彼の求める日常が戻ってこようとしていた。




              *   *   *




 そんな怠けた様子のクラウスを、教室の後方からユーリアが見つめていた。

 彼女は珍しく肘を突いて手のひらの上に頬を乗せ、蝶でも追いかけるようにクラウスの灰色の後頭部を眺め続ける。

 右手に握られた筆は配られた小さい試験用紙を全て埋め終え、手持ち無沙汰に用紙の隅を小さく叩いていた。

 彼女の頭を巡るのはここ数日間行動を共にすることの多かった視線の先の彼。昨日、クラウスがユーリアに教えた情報もあって、既に犯人が誰かは突き止めた。更に言えば彼のその人物を思っての行動は功を奏してか、犯人の行動を半ば自発的に収縮させ、罪状を並べ立て吊るし上げなくとも事は終息を迎えようとしている。

 一体どこからが計算でどこまでが彼の掌の上なのだろうか。もしかするとユーリアでさえもその盤上の一つだったのかもしれないとさえ思わされる。

 事件を知らされてから三日での高速解決。その謀略は彼の手を離れた場所で実行されていたようにも感じる。恐らくこのまま放っておいても事件は解決するし、彼はその功績を誇りもしないのだろう。謙虚……と言うよりは無関心に近いのかもしれない。

 そんな彼に関心を引かれている自分は彼の監視役として失格なのだろう。その監視も、昨日いっぱいで命令の破棄が通達されたけど。……一体本当に何のための監視だったのか。

 ユーリアは軍人だ。上から下された命はこなすし、努めて疑いを抱かないようにはしている。

 けれどもし彼が自分と同じ立場であったなら。彼は今ユーリアがこうして甘んじている現実に牙をむくのではないかとさえ思う。

 ユーリアの中のクラウスは温厚で、面倒事を嫌う、けれど周りに多大な影響力を秘めた空気のような存在だ。

 一度その殻が解き放たれたらきっと誰にも止められる事はないのだろう。昔からこの手の直感は外れた事がないのがユーリアだ。

 そんな平和主義の仮面を被った彼は、今回の事件に何か別の視点を持っているのだろう。現に、今でも彼の瞳は何か別のものを探すように焦点を結んではいないし、あの屋上でユーリアに見せた灰色の瞳もどこか寂しそうな色をしていた。

 悪戯犯はもうその存在を薄くしている。事件は解決したも同然だ。けれどクラウスの中ではまだ何か重大な問題が終わっていないのではないか……。ここ数日彼を監視し続けてきてユーリアはそんな感想を抱きつつあった。

 彼の監視を始めたのは先週の頭からだ。

 監視が始まってからの一週間は何処か時間の流れが速く感じていた。それは他に気を配るべき案件があったからだと思っていた。

 けれど今にして思えばそれは私がただ一つの案件に入れ込んでいたからだ。

 一週間が一ヶ月に感じられるほど時間の感覚は曖昧だ。

 先週の最後の登校日。彼を監視していたユーリアは彼が危険に晒されている事を知った。

 注意の出された区域に踏み入り、下手をすれば頭の上から金網が落ちてくるかもしれない状況で。はたまた彼の通り過ぎた道の上に高所から落ちた鉢植えが落下し、少しでも狂っていれば命に関わるような状況で。

 もし実際に危険が訪れるようであればユーリアはその降りかかる火の粉を彼の──自分の任務の──為に振り払っていた事だろう。

 けれど彼を襲う危険は何処か現実味を欠いていて、だからこそユーリアはその犯人の行動制限さえも彼の掌の上だと思い至ったのだ。

 そう思って彼に詰め寄り、彼の思惑を吐かせた。その時に見せた灰色の瞳。寂しい色を灯した彼の瞳が脳裏に蘇る。

 もしかして私の考えは違うのかもしれない。そう心のどこかが囁きかける。


「何が、見えてるのよ……」


 小さく呟いてみるが答えは思いつかない。それはまるで遠見の術を掛けた際に、自分の近くが死角になるような感覚。

 私の周りで、まだ何か、起ころうとしてる?

 ぼんやりとそう考えると、背筋を怖気が走り体の内が冷たく凍てついていく。

 私は何か、見落としているのだろうか?

 それは彼の目には映っていて、自分には見えていない何か。

 何が起こると言うのだろうか。

 物言わぬ恐怖に心臓を鷲掴みにされた気がして知らず息を呑む。

 霧の掛かった景色のようにぼんやりと動く思考は、彼女の外れない直感を刺激して血流を早くさせる。

 まだ事件は、終わっていない。




              *   *   *




 特に何事も無かった一日を振り返って、クラウスは寮の自室の窓から山の奥に沈み行く夕日をぼんやりと眺める。

 幾通りも考えた未来の形はその最良の形に向かって終息している。

 悪戯犯は明日か明後日には自主的に名乗り出る事だろうし、クラウスの周りに起こっていた怪奇現象もその発生元を自戒の沼から引きずり出す事で終わりを迎えるだろう。

 怪奇現象。

 クラウスの周りで起きたそれを思い返しつつその実行犯の行動を読み解いていく。

 まずその数から。クラウスを標的に行われた悪戯は全部で三つだ。

 もちろんこれはクラウスがそうだと断言できる物の数なので実際にはもう少し多いのかもしれないけれど。犯人の動機を探るには十分な証拠だ。

 最初は『妖契の儀』が執り行われたその放課後。能力査定書と同時にフィーナとの間に深い関係を築く事になったあの能力調査の中で。

 クラウスが見せた空き缶の爆発。まず訂正としてあれは元々対象を爆発させるような術ではない。

 クラウスがやろうとしたのは物質浮遊。中に入れた土はただの重りで火薬でもなんでもないし、あの際に施したのは空き缶の表面への妖精力の循環だけだ。

 循環させた妖精力を繰ってただ単に物を持ち上げるだけの初歩的な術とも呼べない妖精術。

 クラウスはそうして物を持ち上げようと妖精力を練って、それとほぼ同時にあの空き缶が大きな衝撃に耐えかねて四散しただけ。

 文字や言葉にすればそれだけの事だが、犯人にとってはあれが恐らく最初の嫌がらせだったのだろう。

 ニーナに聞いた話ではあの頃以前から悪戯騒ぎはあったし、その裏付けもあって当初の悪戯犯探しではトーア級以下の生徒を疑わなくて済んだのだ。……容疑者が一気に同級生以上に絞られたのだから、クラウスとしては犯人探しの決め手の一つだ。

 次の悪戯は時間が飛んで先週の最後の登校日。蔓延した噂に踊らされるように欄干の落下地点へ行ってみれば、屋上から聞こえたのは件の鉄柵が揺れる音。

 そして最後は同日の鉢植え落下。

 これらは最初の悪戯を除けば誰にでも行える事ばかりだ。体当たりでもすれば鉄柵は外れて、立て付けが悪ければ壊れて落ちるだろうし、鉢植えは物質浮遊を使えばいい。あとはクラウスの行動を観察し、折を計るだけだ。

 最初の悪戯は、遠くから物を破壊したり出来る能力があれば可能だ。

 例えば遠距離から気付かれない──視認の難しい攻撃で的確に空き缶を打ち抜き、空き缶の内部から衝撃を発生させればその状況を再現できる。

 それにクラウスも薄々気付いている。自分が誰かに目を付けられていると。辺りに敏感なのは彼が周りの顔色ばかりを窺って生きてきたからだろうか。

 他にも色々な証拠はあったりするが、そういう検証の上に『彼女』と彼女に力を貸す『妖精』が今回の悪戯の犯人だろうと推測を立てたわけだ。

 ……ただひとつ疑問があるとすれば、その動機。『彼女』がそう行動するに至ったクラウスへの思い入れ。

 そこだけがどうしても分からない。『彼女』と顔を合わせるその時に聞くつもりではあるのだが、できる事ならその発端を予め知っておきたかったのが心残りかもしれない。

 と、そうして考え込んでいるうちに薄暗くなり始めた部屋の中、回した視界でフィーナの姿を探す。しかし残念ながら見つけられず、電気をつけていないことに今更ながらに気がついて椅子から立ち上がる。

 人工の灯りの下、明るくなった部屋を見渡して部屋の隅でなにやらこそこそと菓子の包みをつまみ食いしている彼女を見つけると、忠告ついでにその背中を指先で突く。


「そろそろ夕食だぞ。あまり間食ばかりしてると妖精とはいえ太るんじゃないか?」

「お友だふぃ……ぶふっ!」


 びくりと肩を震わせて振り返るフィーナ。彼女は焼き菓子を頬張ったまま彼女の言を振りかざそうとして、むせる。


「飲み込んでから喋りなさい、行儀の悪い」


 コップに水を汲んで渡すと彼女は顔をつける様にして水を飲み、口の中を侵食していた甘味を喉の奥へと押し流す。


「……っんく。お、お友達に貰ったんですっ。食べないともったいないじゃないですかっ!」

「別に今じゃなくてもよかったんじゃない?」

「食べても無いのに感想が言えるわけ無いじゃないですかっ」


 何処か怒った風に言うフィーナ。そんな彼女に微笑しながら、彼女にもまた友達が出来たのかと親心のようなものを芽生えさせる。

 と、そのとき部屋の扉が叩かれ部屋の中に小さく二つ音が木霊した。

 取っ手を捻って顔を出すと人影はなし。変わりに弁当箱と一枚の紙が足元に置いてあって、珍しいと思いつつ拾い上げると扉を閉めて部屋へと戻る。

 紙に書かれていたのは走り書きのような一文。


 ────彼女の動機は親愛なる友のため


 その言葉だけだった。

 殴り書きのその一言に、クラウスは天井を仰ぎつつ笑顔を零す。

 どうしてこう欲しい時に欲しいものを持ってきてくれるんだろうか。これも幼馴染だからこその絆か何か? 気持ち悪い。

 想像して似合わない振る舞いに頭を振ると頭の中で『彼女』の行動を再構築する。

 悪戯。空き缶。遠隔破壊。噂。金網。鉢植え。友達────

 先ほどまで見えてなかった行動のその先が、霧が晴れ行き着く先を示し始める。


「クラウスさんだってお友達に嘘は吐きたくないですよね?」

「……そうだね」


 フィーナの言葉に頷いて、気付けばその小さな頭を撫でていた。彼女に大切な言葉を教えて貰った気がして胸の奥底にしまい込む。そうして──


「僕、友達殆どいないけどね」


 腹癒せにフィーナの頭をぐりぐりと捏ね繰り回したのだった。




 翌日、クラウスはフィーナと一緒にいつも通りに昇降口へと向かう。自分の下足箱を開けて上履きを取り出すと中からひとつの便箋がひらりと足元へと落ちた。拾い上げて差出人と宛先を確認する。

 裏返してみるが書いてあるのは宛先人の名前であるクラウス・アルフィルクの文字だけ。差出人の署名は無い。

 とりあえず昇降口で足を止めていても他人の迷惑になるので自分の席へと着いてから中身を確認する。

 そこへ書かれていたのは『放課後生徒会室へ顔を出すこと』という簡潔な一文と、それを書いたであろう人物の名前が記してあった。これくらいの事校内放送でも口頭でもいいのに。

 一応他に何か無いか入念に調べては見るがそれ以外の文章は見当たらなかった。

 たったこれだけの為に少しとはいえ人の気持ちを弄ばないで欲しい。

 言葉に出さずに悪態をつくと溜息を一つ落とす。朝から変な気力を使った気がする。

 午前中の養分を吸い取られた気がしながら手元の便箋をじっと見つめる。


「……何、それ」


 呼び出し先でどんな会話が広げられるのか。そのことに思考を移しかけた直後、クラウスの斜め後ろから低く唸るような声が掛けられた。

 首を回してそちらを向くと立っていたのはユーリア。彼女はどこか鋭い視線でクラウスの手元へと視線を注いでいた。

 隠すことでもないので小さく便箋を振りつつ彼女の疑問に答える。


「ニーナ会長からの呼び立て。……たぶん悪戯犯のことじゃないかな」

「……私のところには何もなかったんだけど」

「僕はニーナ会長じゃないからその疑問には答えられないよ」


 不満そうな物言いに言葉を返すと彼女の機嫌は目に見えて悪くなる。

 フォローした方がいいだろうか? 数瞬迷って下手に出てみる。


「……気になるならあとで話の内容くらいは教えるけど?」

「…………そう」


 その返答は一体どちらの意味で受け取ればいいのだろうか。判断に困る答えに言葉を詰まらせると、彼女も言葉の足りなさに気付いたのか顔を背けて頬を掻く。仕草に流麗な長い黒髪がさらりと舞った。


「…………明日の朝にでも教えて」

「分かった」


 笑顔で答えるとユーリアはまた何処か不満そうに吐息を漏らす。どう答えればよかったのかと。

 気難しいユーリアの心を探るように流れた沈黙を挟んで、それから彼女が今ここにいる理由に着いて尋ねる。


「……それで、ユーリアは僕に何か用があってきたの?」

「──っ! あ、いやっ……その……」


 問いかけに返って来たのは歯切れの悪い言葉。慌てた様子のユーリアはしきりに視線を動かして答えを求めて彷徨う。

 首を傾げて答えを促すと、彼女は追い詰められたように息を飲み込んで震える唇でどうにか声を発する。


「あ、んたが……何か見てたから……気に、なって……」

「…………そう」


 クラウスはしどろもどろに答えるユーリアに深くは追求しない。彼女が本当に言いたいことは彼女の口から聴きたいというのがクラウスの気持ちだ。無理やりに言葉にさせたってそこに気持ちは伴わない。

 そんな風に考えつつ壁の時計を見ると針は授業の開始五分前を示していた。

 ユーリアも同様に目をやって確認すると、踵を返し去り際に「……それじゃ」と小さく残して自席へと戻っていく。

 クラウスが授業の準備を終えた頃に、教室の後ろの方で机の揺れる音がしたが振り向きはしなかった。

 やがて教員が入室してきて、今日も今日とて平穏の皮を被った日常が動き出していく。




              *   *   *




「ユーリ、ご飯いこ?」

「わぅっ!」


 昼休み。昼食の時間も含めて長く取ってあるその休憩時間の頭に、いつものようにアンネが昼ご飯の誘いを掛けてくる。

 考え事をしていた私は親友の声にびっくりして背筋を伸ばしながら声を上げる。

 アンネはそんなユーリアを見て小さく笑った。


「何? 考え事してたの?」

「……何でもない」


 とりあえず誤魔化してみるがアンネの興味の視線は外れない。かといって彼女に聞いてもらうような相談事でもない。


「もしかして────」

「何でもないよ。いこ」

「……うん」


 変わらず探りを入れようとするアンネの先を制して、努めていつも通りに振舞いつつ頭の中を切り替えに掛かる。


「……今日は購買?」

「うん。外で食べようかなって。ユーリはどこがいい?」

「アンネが好きな場所でいいよ」


 先ほどの話題を煙に巻くように言葉を重ねる。そうするとこの親友は本気で悩み始めるのでついからかいたくなる。


「それともアンネが好きな人のところでもいいよ?」

「え? 私? いや、その……私は、そういう人は…………」


 彼女に特定の人物が居ないことは知っているがその情報もいつまで信じていいか分からない。こうして照れながらいつも鬱陶しいと口にする、緩く波打つライトブラウンの髪を指先で弄る様は友達視点でも十分に可愛い。

 背が低いのも相俟って小動物ぽいというか、隣に立つ自分が抜き身の刀のように鋭いのでその所為で余計に女の子らしく見える。

 む、胸も──いや、まだ成長途中。私だって人並みには大きいつもりだ。──大きくなる、予定だ……。

 頬を染めて蜂蜜のように甘く笑う小さな顔は不意に向けられたら衝動に駆られて抱きしめてしまいそうになるほどだ。

 外見だけでもそれほどに女の子なのだ。それに家事が出来て、器用で、少し臆病だけど人の気持ちや空気を察することが出来て。

 悪いことが苦手で、優しくて……そんな女の子の正義を集めたような少女だ。

 きっと自分は彼女みたいにはなれない……。


「あ…………そっか、そういうことか……」


 これは嫉妬なのだろうか。そんな事を思いつつ購買を経由した足はいつもの屋上へ向かう中で。

 不意に照れから直り声を上げたアンネが一人納得するように頷く。

 彼女のそんな様子に首を傾げて疑問を向けると、アンネはにやりと笑ってユーリアを見つめる。


「好きな人のところへ行きたいのは私じゃないよねぇ?」

「……は? え、ちょっ、待って……!」


 アンネの言っている言葉の意味が分からずどこか焦った声で彼女の思考を探る。


「一緒に戦ってー、一緒の委員会に入ってー……いつから?」

「待ってって! だから何がっ?」


 階段を早足で先に上がるアンネの背中を追いかけながら必死に会話の終着点を探す。

 問いかけにアンネは屋上へと出るための扉、その取っ手を掴んで振り返り答える。


「何って? アルフィルク君でしょ? ユーリの好きな人」

「はぁっ? 何でそうなるのよっ!」

「あれ? 違った?」

「当たり前でしょっ! 何であんな奴」


 否定の言葉を口にしてアンネを睨みつける。

 アンネは飄々と笑って「そう、ごめんね」と言うと目の前の扉を押し開けた。


「あれ、人……。あぁ、そっか、立ち入り禁止なんだっけ……」


 ようやく足を止めた彼女に追いつくと、隣から発せられる声に肩をびくりと震わせる。

 そうだ、屋上は、立ち入り禁止だ。あの眼鏡がそう流布する様に仕組んだから。

 自分はそれが単なる噂で、事実ではないことを知っていたから。屋上に行くアンネを止めることを忘れていた。


「……今日は教室で食べよっか」


 いやそれよりも。昨日までは普通に教室で食べていたのだ。

 彼の仕組んだ噂に踊らされて、アンネもまた「屋上怖いねー。私たちもしかしたら落ちてかもしれないんだよ?」なんて笑いながらここへ近づくことを避けていたのだ。

 それなのに、なぜ今日になって別の場所で食べようなどと声を掛けたのだろうか? そして噂の効果でその危険さを知っていて、なぜアンネはこの場所に来ようと思ったのだろうか?


「と言うか今日寒いね。風強いからここの方がまだあったかいよぉ」


 怖いもの見たさ? いや、アンネはそんな危地に自ら赴くような少女ではない。

 噂を忘れていた? 昨日までは普通に教室で食べていたのに?

 彼女なりの冗談? 悪戯は事実だ。そんな危険を冒す彼女ではない。

 ──悪戯

 その言葉が脳裏でひりつく。


「……ユーリ? どうしたの、早く戻ろ?」


 悪戯犯はどうなった?

 彼が追い詰めた。そろそろその悪事を認めることだろう。

 けれどまだそれが誰なのか、いつ終わるのか。その事実は恐らく殆どの生徒が知らないはずだ。

 ではそれを誰が知っている? ニーナ女史、クラウス・アルフィルク、自分──

 …………何かが、違う。

 ユーリアの直感が、何か別の答えを求めて暴れ出す。


 ────僕が噂を流した


 ────もうすぐ犯人は自ら悪戯を認めるよ


 ────犯人は(フェリヤ)の属性を持つ人物だよ


 ────ニーナ会長からの呼び立て。……たぶん悪戯犯のことじゃないかな


 彼の発した言葉が頭の中で反響してその中に潜む歪さを探していく。

 

 ────正義感の強い人はその正義を振りかざすだろうね


 正義。その言葉を、私は何か履き違えていないだろうか?

 正しいことばかりが、正義ではない。その人の信じるものがその人にとっての正義なのだ。


『私、あいつみたいにそ知らぬ顔で正義を振りかざしてる奴が嫌い』

『正義は嫌い?』

『そうじゃなくて……。正義の皮を被ってる悪いことが嫌い』

『悪いことは私も嫌いだよ?』


 あの後、その『そ知らぬ顔で正義を振りかざしてる』彼が教室に入ってきて、私は監視対象である彼と最初の接触をとった。あのときばかりは、流石の私も教室の空気を悪くしたとは思ったけれど……。

 ……違う、そうじゃない。

 彼女はあの時言ったのだ。悪いことは、嫌いだと。

 頭の中が軋む。そうではないと、そうでなければいいと思考が叫ぶ。


 ──私の周りで、まだ何か、起ころうとしてる?


 昨日の朝脳裏を過ぎった予感が今もまた鎌首を(もた)げる。


 ──その謀略は彼の手を離れた場所で実行されていたようにも感じる


「ユーリ?」


 そこまで考えて、下から顔を覗き込むアンネの声に我に返る。

 目の前に彼女の顔があって、その近さに驚いて。

 脳裏に描かれる景色が何処か別の世界の事のように構築されていく。

 悪戯犯がいて。悪戯を行って。その周りから噂が這いより、悪戯犯の行動を阻害していく。

 そうであるはずの事の流れに、ぼんやりと別の影を浮かべだす。

 その人間は、悪戯犯の横に立って。その耳元に唇を寄せて。何事かを囁く。


「どうしたの? 顔色悪いよ?」


 その姿が────


「っ────! ごめん、先に食べててっ。用事を思い出した」

「そう? 分かった」

「ごめんっ」

「ううん、行ってらっしゃい」


 嫌な想像を掻き消して走り出す。

 そうじゃないと。そうであって欲しくないと。

 心を侵食していく感情が否定から懇願に変わっていくことに否定の矛先を向けながら。

 そうして辿り着いた場所から目的の人物を探し出して早足に近づく。


「ねぇっ」

「ん……?」


 彼──クラウス・アルフィルクは恍けた様な表情でこちらの顔を見つめる。

 その顔に、自身の想像に誤りが無いことを確信しながら尋ねる。


「悪戯犯って────本当に一人?」




              *   *   *




 フィーナと談笑しながら昼食を摂っていると不意に横から声を掛けられた。


「ねぇっ」

「ん……?」


 声に顔を向ければそこにいたのはユーリア。彼女は白くなるほど唇を噛んで引いたその一文字から震える声で紡ぐ。


「悪戯犯って────本当に一人?」


 彼女のその問いは唐突で。けれど紫色の瞳が秘めた感情はこれまでに見たことが無いほど不安に揺れていた。

 机の上でクリームパンを咀嚼するフィーナが目に疑問符を浮かべながらユーリアからクラウスへと視線を移す。

 クラウスは相棒のその視線でユーリアの放った言葉の意味をようやく理解し、喉が焼けるほどに乾くのを感じる。

 真摯な眼差しは、覚悟だろうか。

 こちらをじっと見据える彼女を見つめなおして思考を纏めると、手元の弁当箱を手早く片付けて椅子を立ち上がる。


「……だったら、確認してみる?」


 目を見開いたユーリアは、少しだけ間を空けた後クラウスの言葉に頷いた。

 彼女の気持ちを読み取って、クラウスはフィーナをつれて教室を出る。後ろからはユーリアが静かな、けれど不確かな歩調で着いてきていた。

 歩いて辿り着いたのは生徒会室。扉を叩くと中からは間延びした声が返ってきた。


「どうぞー」


 礼儀正しく挨拶して扉を開けると部屋の中にはこの城の主たるニーナ・アルケスが幾つかの書類を机に広げてそれらと顔を突き合せていた。

 入室に顔を上げた彼女はそこに立っていたクラウスに気付いて、机の上のそれらを簡単に片付けると口を開く。


「呼び出しは放課後のはずだけど? せっかちな男は嫌われるわよ」

「悪戯犯、出てきたんですよね。今連れて来てもらえますか?」


 クラウスの言葉にニーナが目を細める。それと同時に追いついたユーリアが顔を覗かせて、挨拶をすると生徒会長は仕方ないとばかりに頷いた。


「ヴォルフ。お茶はいいから呼んできて」

「……承知しました」


 来客に対応の準備をしていた書記のヴォルフはニーナの言葉に答えると静かな歩みで廊下へと出て行く。

 すれ違いにクラウスたちが中へ入るとニーナが席を立ってヴォルフの後を次いでお茶の用意を始めた。

 ユーリアが代わると申し出たが、ニーナは手のひらと笑顔でそれを制すとソファーへと促す。

 不慣れな手つきで茶器と格闘する様子を目端で確認しながらクラウスは持参した弁当を広げて昼食の続きを開始した。

 最初は咎める様な視線を向けていたユーリアだったが、途中からは匂いにつられてかちらちらとクラウスの方を盗み見ていた。


「……よかったら食べる?」

「…………食べ物に罪は無いものね」


 それではまるでクラウスが何か罪になることをしたみたいではないか。

 考えつつ弁当箱を差し出すと彼女は迷った後に卵焼きを選んで口にする。……彼女なりの歩み寄りなのだろうか?


「あ、美味し──」


 言いかけて途中でやめるユーリア。食べ物に罪は無いのでは? それともクラウスの作ったものは食べ物ではないと。

 彼女の心の内を少しだけ覗けた気がして嬉しく思いながらクラウスも食事へと戻る。

 それから幾つか弁当の中身を彼女に攫われつつ食べ終えて、食後にニーナの入れた少し濃い目の紅茶を飲んで待っているとヴォルフが生徒会室へと戻ってきた。

 彼の後ろには一人の男性が居て、その人物の顔は兎の仮面に覆われていた。

 ヴォルフの身長が渡された書類によれば186セミルだったはずで、彼はそれより少しばかり小さい。背丈は180セミル前後だろうか。


「彼が今回の悪戯騒動の犯人よ」


 犯人よ。と、言われてもその顔は仮面で覆われているので誰かと言うことまではわからない。

 ただ今回の場合は会話さえ出来ればいいのでその辺りの事はまた別の機会に話題に挙げるとしよう。

 そんな事を考えているとユーリアが立ち上がり悪戯犯の目の前に立ちはだかる。立つ時にちらりと見えた彼女の表情は怯えと憤怒に彩られていたように見えた。


「……貴方が校内で悪戯を起こしていたのね?」

「……あぁ」

「悪戯は妖精と一緒に行った。それで間違いない?」

「あぁ」


 ユーリアの質問に短く答えていく悪戯犯。

 簡素な答えに段々と焦りを滲ませながらユーリアが問い詰めていく。


「貴方の得意な属性は(フェリヤ)。それを使って悪戯を働いた」

「あぁ」

「噂に足をとられて身動きが出来なくなり自白した」

「あぁ」

「貴方は──」


 機械のように答える悪戯犯の落ち着き様にユーリアは苛立ちを募らせる。

 その感情は言葉の端から聞き取れるほどに肥大して彼女の声量を大きくしていく。やがて。


「貴方は共犯者を持たず、自身の妖精と悪戯を起こして回ったっ」

「あぁ、そうだ」


 淀みない返答にユーリアは息を詰まらせる。

 これで彼女も分かっただろう。

 悪戯犯は一人。共謀者は、居ない。


「……そう。…………ありがと」


 だからこそ納得できないはずだ。

 ユーリアの想像では二人は繋がっていて、そうでなければ辻褄が合わないから。

 想像の中で掛けた容疑は半分挫かれ、半分が諦められない。


「ヴォルフ」

「分かりました」


 疑いは新たな迷宮を作り出し彼女を思考の迷路に閉じ込める。

 ニーナの言葉にヴォルフは頷いて仮面の男性を連れて行く。

 クラウスの隣ではユーリアが歯を食いしばり納得のいかない返答に苦渋を味わう。その横顔を一瞥してクラウスはニーナへと向き直った。


「ありがとうございました。放課後の件はどうしましょうか?」

「なしでいいわよ。何かあれば連絡するから」

「分かりました」


 必要な言葉だけを交わして生徒会室を後にする。

 教室へ向かう帰り道、午後の授業の予鈴が廊下に鳴り響いてクラウスは足を止める。

 後ろに振り向けばそこには俯いて歩くユーリアの姿。垂れ下がる黒い前髪の奥は悔しそうに歪められていた。

 そんな表情の彼女を少し見つめて幾つかの考え事を巡らせた後、静かに声を掛ける。


「ユーリア」

「…………」


 ゆっくりと上げた顔は辛そうに表情を作り、目の端には小さく雫を確認できた。


「そんなに真実が知りたい?」

「……………………」

「君が望むなら、僕は真実を見せてあげることが出来る。けれどそれはきっと痛みを伴うよ。……それでもいいと願うなら、僕は君を信じる」


 クラウスの言葉に再び俯くユーリア。

 彼女は今何を考えているのだろうか。流石にここまできてもそれを類推することは出来ない。

 しかし彼女の思い浮かべる構図は想像ができる。

 ユーリアの至った結論は恐らく半分が当たっている。もう半分は先ほど違うと証明され、それを求めればその人物が何をして来たかを知ることになる。

 覚悟は決まっているのだろう。彼女が求めているのは、勇気だろうか。


「……ユーリア。君は真実を信じられる?」


 問いかけにユーリアは顔を上げる。

 彼女は今にも泣き出しそうな顔で口を結びクラウスをまっすぐに見つめる。


「君は、自分を信じられる?」


 クラウスのその言葉に彼女はようやく小さく頷く。

 最後の一歩はそんな些細なことなんだろう。

 言葉にしても曖昧な感情論に縋りついてようやく前へと進みだす。


「だったらおいで。君の信じる真実を僕が見せてあげる」




 ユーリアと一緒に教室へと戻ると外で一人の少女が足元を見つめて壁に寄りかかるように立っていた。

 足音に気付いて彼女が顔を上げ友とその横を歩くクラウスを見つける。


「ユーリ。もう授業始まるよ?」

「うん」

「……アルフィルク君も一緒だったんだね。もしかして生徒会のこと?」

「そんなところ」


 俯いたままのユーリアに代わってクラウスが答えると、アンネは小さく笑ってユーリアの手を引っ張った。

 親友に連れられて教室へ入っていくユーリアが途中でクラウスの方を振り返る。その目に宿るのは隠しきれない葛藤だった。

 彼女の立場からすればそれは仕方のないことで、自分に当てはめてみてもそれはそう簡単に納得できることではない。

 けれど事実は変わらないし、その真実を聞き届けると心を決めたのは彼女なのだ。

 そこまで考えて、ようやく何を目的としたクラウスへの悪戯だったのか……その結論に至る。

 ……不器用だな。

 そんな感想を胸に抱いてクラウスも自席へと腰を下す。

 悪戯とその目的の人物が別人だなんて。

 一番の悪者は僕なのかもしれない。

 納得の出来る答えを探して行き着いたのはそんな言葉だった。




              *   *   *




 彼は私に気付いている。

 彼はそれを隠して私に接している。

 彼は私を見ていないはずなのに、私は彼に見られている。そんな得体の知れない恐怖が私の心を貪り踏み躙っていく。

 湧き上がった恐怖心は猜疑となり彼の一挙手一投足を常に観察し続ける。

 この気味の悪い視線に気付いたのはいつからだろうか。最初からかもしれなければ昨日からかもしれない。私の生み出した幻想でさえあるのかもしれない。

 いつからかにせよ私の心は彼に覗かれ、そうしてその事実に向き合うたびに私の心は荒み、私を形成する全てが崩れていくような感覚と対面する。

 計画は完璧だ。けれどどこからか、彼に私の行動は筒抜けになっている。もしかすると彼女の存在も知られているかもしれない。

 一度膨れ上がった感情は答えを求めて暴れだし、心の中を掻き乱す。

 その衝動は私の体を勝手に動かし、私の望まない結果を齎そうとした。

 それはあの屋上で。それはあの校舎裏で。

 彼の身に降りかかろうとした災厄は私の心の内に巣食う私自身への断罪の気持ちだった。

 早く私を罰してっ。早く私を切り刻んでっ! 正義の名の下に、私の中に眠る悪魔を取り除いてっ!!

 救済を求める極悪犯のようなその気持ちは、彼の頭上から襲い来る災厄として形を現した。

 けれどそれは彼を傷つけはしなかった。

 屋上の鉄柵はどこも錆び付いておらず私一人ではどうしようもなかった。

 彼の通り道を見計らって落とした鉢植えは幸運にも彼の通り過ぎた後に落下して破片をばら撒いただけだった。

 その事実に、私は安堵した。

 彼を傷つけなくてよかったと。私は手を汚さなくてよかったと。

 自分が招いた災厄に、結果を得られなかった私は苦しむ事も俯く事もせず、ただただ安堵した。

 そうして同時に、私は恐怖した。

 耳元でクスクスと嗤う彼女と、私は並んでしまったと。同じ事実を共有し、私は私の意思で他人を傷つけようとしたのだと。

 震える手を見下ろせばそこには真っ赤な液体が滴っていて。私は夢の中で彼を殺す悪夢を幾度も見た。

 その度に彼女の声が脳裏に蘇り、彼の存在に縋ろうとした。

 学院へ行けば彼女は居ない。学院へ行けば彼はいる。

 いつの間にか私は彼に縋り、彼に断罪を求めていた。

 彼は私に気付いている。けれど手は出してこない。

 早く私を断罪して。早く私を解放して。

 願えば願うほど胸の中に生まれる想像は現実味を掻いて残虐に暴虐になっていく。

 このままではいつかは私が彼を殺してしまう。

 友のためを思って始めたこの計画が崩れ、友の涙を見てしまう。

 こんな事になるはずじゃなかったのにっ。ただ大切な親友のためだったのにっ!

 きりきりと胸を締め付け捻り切れるほどに細く歪んだ心は悲鳴を上げて蜘蛛の糸を求めて彷徨う。

 この身に流れる血は穢れてしまった。私は私の罪を清算しなくてはならない。

 罪を受け入れ、罪に滅ぼされなければならない。

 彼に、滅ぼされなければならない!

 そうして我武者羅に答えをと救済を欲した掌はいつしか一枚の白い便箋を掴み取っていた。

 中を開いて確認すれば、そこにはただ一枚の手紙とも呼べない紙切れ。


 ────明日、君を殺してあげよう


 その一言に。私は膝から崩れ落ち、照りつける夕日に頭を垂れながら、胸にその一通の便箋を抱いて。静かに涙して心の底から歓喜したのだ。


 ────全ては彼と彼女の為に


 そう願って始まった悪夢がようやく終わるのだと言う開放感から、私はただ獣のように慟哭し続けたのだ。




              *   *   *




 日が落ちてまた昇り。そうして変わりのない朝を迎えて何かが変わる一日が始まる。

 眠そうに目を擦るフィーナが纏う睡魔の衣にクラウスは飲み込まれないようにどうにか振り払って学院へと向かう。向かうと言っても学院の敷地内にある寮からの徒歩通学だ。五分もあれば遅刻しないで済む。

 かと言って遅刻寸前に教室に入って多数の視線に晒されるほど肝が据わっている気がしないので、登校はいつも早い方の部類に入るのだろう。

 早く行動すれば時間は多く余るが、その時間に別のやることが横入りしてしまえば自由な時間なんて高が知れてる。

 それこそ日常はそんなことの連続だ。やらなければいけないことに忙殺され、気付けば一日が終わる。自由を求めて自由を捨てる。

 悪循環ともいえないような理不尽に振り回されつつ今日も今日とて朝から予定は狂わされていた。

 自分の席に着くな否や鞄を置いて再び廊下へと出て行く。大きくなる歩幅はありもしない時間を求めてか、それとも鼓動を急かす焦燥感にか。

 心の中に僅かに存在する良心が廊下を走ることを抑制して、更に少しの苛立ちを募らせる。

 そうでなくとも今日は色々と胸が痛いのに……。

 過ぎった予定に影を落として憂鬱になりかける。が、下ばかり向いていても目の前の景色が変わるわけはない。

 変えたければ自分で変えろ。そう過去の自分に叱咤された気がして心を落ち着けると辿り着いた目的地に足を踏み入れる。


「ニーナ会長。お呼びですか?」

「呼び立てしないといけなくしたのは誰かしら?」


 開口一番、互いの腹の内を探りあいながら挨拶を交わす。

 彼女に聞くまでもなくソファーに腰を下すと今日は珍しくクラウスの対面に座るニーナ。ヴォルフが静かにお茶を用意する中で早くも話題が口から飛び出る。


「……まさかここまで直接的に行動を起こすとは思いませんでしたよ」

「あたしだって元軍属よ。それもここを出たらあちらが引っこ抜くほどのね。もう少し興味を持って貰えるかしら?」

「失礼しました。昔からそういうことには不慣れなものでして。心の機微には敏感なんですけどね」


 険のある物言い。互いに譲らないまま平行線を辿りそうになった会話は、しかしクラウスの一言で不意に止まる。見ればニーナがクラウスを強く睨んでいた。


「……言いませんよ。首突っ込んで飛び火したら面倒ですから」

「…………弱みだなんて思ってないんだったら一々口にしないでもらえるかしら? そういう態度が一番気に障るの」

「知ってますよ」

「っ!!」

「お茶が入りました」


 クラウスの言葉に立ち上がり叫ぼうとしたニーナ。

 その寸前に用意を終えたヴォルフがお茶を差し出して矛先を収めようとさせる。

 それでも視線を外さないニーナに、ヴォルフは一つ溜息を吐くと助けを求めるようにクラウスにも紅茶を差し出した。


「ありがとうございます。頂きます」


 笑顔で受け取って匂いを楽しみ、口をつける。茶葉の芳しい香りが室内に漂い始める頃には、ニーナもソファーに膝を抱えて座り、子供のように両手で紅茶を飲んでいた。


「……ニーナ、クラウス君大っ嫌い」

「好きになってもらえるように努力はしますよ」


 幼児退行……ではなく張っていた緊張が弛緩したのか、聞きなれた一人称で拗ねた様に言うニーナに小さく笑みを浮かべて言葉を返す。


「それで、本題は校内保安委員会のことですか?」

「それ以外に何か問題があるの?」


 子供っぽい口調に年上だと言うことを忘れそうになりながら口を噤む。

 今回の呼び出しは緊急のものだ。どうやらニーナの元に言伝が入ったらしくその連絡のためにクラウスを召集したのだ。

 交わす言葉の中に現状を確認する。どうやら彼女はクラウスの身の回りの案件については知らないらしい。知っていればこんな聞き方はしないだろうし、彼女は知っていて隠し通せるほどあまり器用ではない。

 裏を返せば正直で、だからこそ生徒から人望もあるのだろうけれど。


「……大丈夫ですよ。軍は単に上からという姿勢をとりたいだけです。試されてるんですよ。この程度で瓦解する組織なのかどうか」

「…………だからニーナじゃなくてクラウス君が代表やれば良いって言ったのに……」


 視線を逸らす生徒会長はどこか泣き出しそうに顔を歪める。


「何で断ったのよっ」

「都合がよかった……って答えじゃ駄目ですか?」

「駄目よ」

「適材適所ですよ」


 眼鏡を直しつつ会話を続ける。


「こういう組織の長はそういう風に見える人物や、実務能力とはまた別の人を引き付ける何かが必要なんです。僕にはそんな魅力はありません」

「でも木偶よ?」

「無能は愛嬌に見せかければいいんですよ。そうすれば貴女を慕ってくれる生徒たちから協力を願えるでしょう?」

「…………学院を挙げて軍と戦争でもするつもり?」

「そうなるのが嫌だから軍は上からという姿勢を崩したくないし、僕はこの組織を作ってくださいと貴女にお願いしたんです」

「……教師を騙してまですることじゃないと思う…………」

「僕は何もしてませんから責任を転嫁しないでくださいよ?」

「ニーナに全部押し付ける気!?」

「……鋏を渡して、鋏を渡された人が勝手に人を殺して。そうしたら鋏を渡した人は罪に問われるんでしょうか?」

「…………ぐすっ。ヴォルフぅ~。この子もうヤダぁぁぁ!」


 果てに泣き崩れてヴォルフに泣きつくニーナ。こういう行動を恐らく天然にやってのける人なのだ。だからこそ支持する生徒が後を絶たないのだろう。

 こんないい人を利用するのだから自分の性根はほとほと腐っている。

 まぁ彼女のおかげで事を起こすまで見えなかった視点から物事を確認することが出来たのだから、感謝こそすれニーナ個人に恨みも妬みも存在はしないのだけれども。

 自ら進んで選んだ偽善者の道のりは随分と波乱に満ち溢れていそうだと感慨に耽る。

 と、そんな事を考えていると横から視線を感じてそちらへ目を向ける。するとそこには目を吊り上げたフィーナが可愛らしく怒りを露にしていた。


「こんな人がクリームパンだなんてっ!」


 ……意味が分からない。いや、言いたい事は分かるけれども。


「それじゃあ今度は何パンがいい?」

「そう意味じゃありません!」


 うむむ……妖精心は難しい。


「全く、騙されましたっ」


 小さな体を目一杯使って怒りの感情をぶつけるフィーナに笑顔を返す。

 結果的に彼女を騙すような形になってはしまったが、いつかは隠し通すことが難しくなることだ。早い段階で誤解が解けるならそれでいい。


「フィーナはどう思う?」

「嫌ですよ、こんなのっ。どうして悪者になろうとするんですかっ」

「悪者がいないと何も出来ない人たちがいるからだよ」


 用意しておいた言葉を呟くとフィーナは哀しそうに俯く。


「はみ出し者にはお似合いだろう?」

「…………だったら。わたしも同じです……。わたしも、悪者になりますっ」


 次いでフィーナの口をついたのは地獄の果てまで付き合うという覚悟の言葉。

 彼女の決意に一つ息を吐いて小さく笑う。なんとも純粋で危なっかしい。


「……分かった。けど僕の片腕なんだからね? 弱音を吐かないでよ?」

「く、クラウスさんこそわたしの恐ろしさに怖気づかないでくださいよ?」

「そうだね。可愛すぎて恐ろしい」

「真剣に答えた私が馬鹿みたいじゃないですか!」


 銀色の長髪を振り乱して叫ぶフィーナ。和んだ空気に後を任せつつソファーから腰を上げる。


「それでは明日。よろしくお願いしますね。お茶ありがとうございました」

「……クラウス君、いつか絶対痛い目見るんだからっ」


 涙目で睨むニーナを背に生徒会室を後にすると、扉の奥からは愚直な罵倒の言葉がいくつも飛んできたのだった。

 そのままの足取りで教室へと戻ると入り口でユーリアに引き止められた。


「ねぇ……」

「何?」

「その……気付いてて、何で何も言わないの?」

「…………それは監視のこと?」


 彼女の唐突な質問に少し考えて言葉を返す。するとユーリアは視線を外して小さく頷いた。


「言ってどうにかなる問題じゃないしね。それともユーリアは何か後悔することでも?」

「……………………」


 黙り込むユーリア。この場合の黙秘は肯定と同義だ。


「今のところ僕に何か不利益が降りかかったわけじゃないよね? どちらかと言うとそうならないように注意をしてたのはユーリアじゃないの?」


 確証のない推論を口にすると彼女は小さく肩を震わせる。意外と、自分は彼女に気にしてもらえているのかもしれない。


「……何かあったらユーリアに言うよ。あとはユーリアに任せる」

「…………信頼を安売りするのはやめた方がいいわよ」

「忠告どうも。肝に銘じておくよ」

「…………ごめんなさい」


 主語の抜けた会話を交わしてユーリアは教室へと入っていく。クラウスも自席へと向かいながら彼女の心配に思考を割く。

 どれ程かという確証はないがユーリアはクラウスを監視していた。きっとその監視は彼女の時間が許す限りのものなのだろう。中にはクラウスの個人的な情報も含まれているのかもしれない。

 彼女がどこまでを監視し、どこまでを命令に従って報告したのかは流石に現状では分からないが、少なくともクラウスの人となりはお偉い方の選定指標に影響していることだろう。

 彼女の謝罪はそう言った個人の尊厳を踏み荒らしたことに端を発するものなのか。それとも別の何かか。

 何れにせよクラウスに彼女を責めるつもりはない。クラウスを監視した上で彼女もそうであると分かるからこそ、そのやりきれなさに歯噛みしているのだろう。

 誤解をしていたわけではないが、ユーリアという少女はクラウスが思う以上に誠実な人物なのかもしれない。

 そんな個人情報を頭の隅に書き留めた自分が嫌になって、クラウスは小さく溜息を零したのだった。




              *   *   *




 カチカチと鳴り響く秒針の音が胸を刺し、私の中に眠る呵責の情を強くさせる。

 それは授業中に。それは休み時間に。

 彼の姿を見つけ、彼が何か行動を起こすたびに私は糸で操られたように固まり心の奥底まで凍てつかせる。

 いつからか追いかけ始めた視線は彼の背中を渇求し不安定に揺れる。

 彼が笑えば安堵し、彼が寂しそうに目を細めれば私の心も引き絞られる。

 この気持ちは恋慕にも似ているのかもしれない。けれどそれとは少しだけ違う欲求で私の胸の内を満たし、掻き乱す。

 時折彼女と視線が合うと、彼女はどこか可哀相な瞳で私を見つめ、忌避するように接してくる。

 何度そんな彼女の泣きそうな笑顔を見ただろうか。そうして幾度計画の成功を確信しただろうか。

 私は悪者だ。

 友を追い詰め、彼を裏切って。納得をしたはずの悪事を他人の所為にしようとしている。

 混乱を振りまいて、その元凶を他人に擦り付ける。そうして自分が悪いと改めて見つめなおし、彼を正義へと仕立て上げる。

 悪者の存在なしで正義を語れなくなったのはいつからだろうか。そんな事をこの頃よくつらつらと考える。

 別に悪者がいなくたって正義を全うできるのに。悪者にその存在意義を押し付けて自分を確立しようとすることの何が正義なのだろうか。

 そんな答えに行き着いたから、悪者の道を選んだのかもしれない。

 正義という名の役割を強要され、正義の名の為に誅される事を良しとし、悪人の側から正義を作り出そうとしたのかもしれない。

 事ここに至って、ようやくその行動の真意を理解する。

 結局、私もまた正義の為に悪が必要などと考える愚か者なのだ。

 悪者にも正義があると縋っただけの大人の振りをした子供だったのだ。

 そんな悪者を成敗してくれと、彼に願ったのだ。

 自分が作り出した正義に──自分の正義に自分を裁いて欲しいのだ。私は私を裁く事なんて出来はしないのに。

 だからこそ彼にその役目を押し付けたのだ。

 気付いていた。私は悪役の振りをした正義で。彼に押し付けたその悪役で私を滅して欲しいのだと。

 当初の目的が薄れ消え行く中で、私は彼にしか存在意義を見出せなくなっていた。

 こんな中途半端な私を殺してくれと。被ったまま脱げなくなった仮面を取ってくれと。

 その願いを私は大切な友にまで押し付けたのだ。

 なんと醜く哀れな願いだろうか。なんと滑稽なことだろうか。

 けれどその願いは受け入れられ、最初に願った想像通り、彼と彼女は並び立ち共に歩み始める。

 悪役になりきれなかった私を、彼らは裁き、暴き立てる。臓腑を抉り出し煮えくり返った怨嗟のようなそれを浄化してくれる。

 私の目的は、達せられる。

 遠い、何処かで鳴り響く鐘の音を背に私は約束の場所へと駆け上がる。

 彼と対話し。彼女と歩き。たった一時でも三人で空気を共にしたあの場所へと、私は昇っていく。

 扉を開け放ち、急く鼓動を荒い息で整えながら体を焼く橙色の夕日を体に浴びる。寂しく冷たい横風が頬を撫でて鬱陶しく顔横の髪をさらりと揺らした。

 心地のいい景色を澄み渡っていく心の内で堪能し、やがて心を入れ替えていく。

 私は悪者。正義を振りかざし悪者になり損ねた哀れな道化。

 自己催眠のように反芻すれば再び悪者の仮面を被りなおすことができた。

 ふと階段を上って来る足音を耳が捉える。

 彼だ。そしてその隣には彼女もいることだろう。

 舞台も配役も整った。後はただ、私が彼に殺されるだけ。


 ────明日、君を殺してあげよう


 彼の言葉が肉声を伴って耳元で囁かれ身を引き裂くほどの高揚感を味わう中で。


 背後で屋上の扉が開く音に、私は密やかに微笑を浮かべる────

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