第五章
「妖精だ」
呟きには咆哮が返る。足が地を踏みしめれば、視界が虹色の光に奪われた。
これも防衛本能の一種か。
目の前の存在にこちらの気持ちを伝える手段があるのかと思考を巡らせる中で、口は反射的に叫ぶ。
「フィーナ、反転! 地っ!」
「間に合ってっ……!!」
いつしかなくなった風の足場。背中に受ける風に落下方向を確認して、空中で半回転。腕を広げて風を受ければ、どこからともなく上昇気流が発生して速度を緩める。
物質浮遊も相俟って減速した体が、許容範囲内の落下速度まで収まり、着地を身体に命令させる。
悲鳴のようなフィーナの声を耳に聞きつつ、接地に合わせて右の拳を地面に打ち付ける。
足が捉えたのはどこまでも沈むような柔らかい砂の大地。森の中という環境ではまずありえない大地の抱擁に、胸の内で感謝を募らせる。
それとほぼ同時、足元に形成された大きな方陣の上に反転術式が奔った。
次の瞬間盛り上がった土がクラウス目掛けて殺到したかと思うと、串刺しになる既の所で止まり、端から崩れて妖精力へと解けていくのを目で捉える。
一つ遅れて足元の土が蠢き、クラウスを森の中へと引き込んでいく。
思わず早くなった鼓動を落ち着ければ近くにヴォルフが居た。
「無事か……?」
「……はい、助かりました」
落下速度の低減はユーリアからの援護。着地地点が砂の海だったのはヴォルフの力によるものだ。
どちらかが欠けていれば、今頃クラウスは足や腕を大怪我していたことだろう。
特にヴォルフのお陰で着地の衝撃を大幅に散らすことができた。落下地点が儀式術式の範囲内でよかったと今更ながらに冷や汗が垂れ、思わずその場に尻餅をついた。
「それで、何か分かったか?」
「…………えぇ。取りあえず集合しましょう。そこで話します」
ヴォルフの言葉に頷いて彼の手を取り立ち上がる。足元の砂が滑るように蠢き、立ったまま木々の合間をすり抜けていく。
巨人から距離を取って安全圏にまで退避すれば、ニーナ達に加えてダミアンやカリーナからの調査隊の面々と合流できた。
遠くに見える巨人は今は静かにこちらを見つめていた。
「で、巨人は…………」
「クラウス、怪我してる」
ニーナ達を顔を合わせ一息吐くと単刀直入に疑問が響く。けれどそれに重ねてユーリアが告げた。
クラウスの頬に手巾を当てたユーリアが手を離すとそこには少し濁った赤い染みが出来ていた。どうやら先ほどの岩塊が掠ったらしい。
直ぐにニーナが治癒術を掛けてくれる。
ただの掠り傷。直ぐに治るだろうに。ユーリアもニーナも心配をしすぎだろう。
その心配の原因が、少し前の腕の負傷に関係している事だと気付いて、甘んじて治癒を受け入れた。
「それで、巨人の方は?」
「……あれは巨人では無いですよ。妖精です」
テオの問いに飾らず答えると誰かの息を飲む音が聞こえた。
巨人ではなく妖精。その事実が示すところは一つだ。
「あれは元々妖精です。僕もフィーナもあの中に妖精と全く同じ異能を感じました」
「……ってことはなんだ。あれは妖精が変身した姿ってことか?」
「いいや。あれは巨人じゃなくて妖精だよ。……いや、あの姿こそが正しい妖精のあり方と言うべきかな?」
どう伝えれば正しく伝わるだろうか。言葉を選ぶようにして連ねれば、周りの視線が訝しくなっていく。
「……まず最初に、あの巨人は妖精術で変化した姿ではありません」
考えているとフィーナが語り出す。
「逆なんです。妖精が巨人になったのではなくて、巨人が妖精に…………あれ?」
フィーナの言葉に再び頭を悩ませるような雰囲気が漂う。
彼女の言いたいところはクラウスには分かる。それをどうすればいいか。順を追って構築しながらフィーナの言葉を分かりやすい文にしていく。
「……あれが妖精だと言う事を念頭において聞いてください。あれは妖精本来の姿です」
一つ区切りを入れて言葉を纏める。
「先ほど目にした通りあの巨人は妖精術を行使しました。その結果に巨人はあそこに現れた」
「その妖精術は見た目を変化させる術です。でも少し変なのは、使ったのが人化の術だと言う事です」
小さな手を見つめながら告げるフィーナ。彼女の抱える矛盾。その疑問をどうにか纏める。
人化の術。妖精が人間大に大きくなるために使用される妖精術。ハーフィーやクォーターに許された少し特殊な妖精術で、その身に宿る人間の血を媒介にして行われる見た目の変化術だ。
「知っての通り妖精個人で人化の術を使おうとすれば人間の血が必要です。けれどあの巨人の妖精は純粋な妖精。人の血を持っていません。それはフィーナが確認済みです」
「波長からは人化の術を使った歪みが感じられました。でもそれはどちらかと言うと失敗した……人化を解除した時のような変化でした」
「つまりあの巨人の妖精は人化の妖精術を介して、巨人の姿になったというわけです」
巨人の出現。それを可能にしたのは妖精術。妖精術を行使できるのは妖精力を持つ妖精。
けれどその存在の形は巨人で、変化には人間になるはずの人化の術が関係している。
おかしな話だろう。だからこそ言葉に出来ないもどかしさが胸の内で蟠る。
「あと問題は、あの姿で妖精と同じと言うことです……。妖精よりも妖精らしいと言うか……」
「簡単に言うとあの姿が妖精の本質そのものと言うことです」
「それってあれか? 妖精が何処に干渉範囲を持つとか言う話か?」
「その話の源泉って所かな」
テオの疑問に答えつつそこから話を広げるのが分かりやすいかと再構築する。
「妖精はそれぞれに干渉範囲を持つってのはもちろん知ってますよね」
「そうね。ディルクだと波かしら?」
「正確には震動や振動だな。いわゆる音の波だ」
「それが妖精の本質に左右されると言うのも学び舎の座学で習う話です」
妖精の持つ干渉範囲はその妖精の本質に左右される。これはその妖精が何に深い関わりを持つ存在かと言うことだ。
ディルクの場合は音。ヘルフリートだと炎や溶岩だろうか。
本質はその妖精の生まれと言っても過言ではない。
「ではその生まれの姿を知ってますか?」
「姿…………? 妖精は人型でしょう?」
「問題はそこだね」
ユーリアの言葉に楔を打ち込んで話を広げる。
「ヘルフリートのときに少し言ったんだけど、ヘルフリートは溶岩や炎の流れと深い関わりを持つ。それは時に溶岩や炎の流れそのものと同一視されるんだ。そうなった時、ヘルフリートと言う存在は不定形の溶岩や炎の事を指す」
「……それはディルクも同じよ。ディルクは音に干渉範囲を持つ妖精で、音と深い関わりを持つ」
「じゃあその存在の形は? ってところで妖精の分類上の名前が出てくる」
「ウィルオウィスプとかって事か?」
テオの言葉に頷いて思考で埋める。
妖精という存在は一般的に人型として語られる。それは彼ら彼女らが実際に人と同じような見た目をしているからだ。
けれどその本質は妖精力の波長に左右され、その波長はどんな妖精に属するかと言うところで決まる。
ヘルフリートは人型で、炎に属する妖精。その妖精としての核はウィルオウィスプだ。人間が知覚する現象としては人魂などと言われ幽霊の一種ともされる存在。
同様にディルクの場合は音に関係する水の妖精……ウォーター・リーパーなどが近いだろうか。かの妖精は音によって他の生物を気絶させたりする事ができると言う。
もう一つ例を挙げるとすればアンネの契約妖精、ダフネ。地に属し、治癒術を扱うことの出来る彼女は地と水の二つに深い関わりを持つ存在だ。
クラウスも時間があるときに調べた知識だが、ダフネと言う名はとある噺に出てくる名前で、過去に記憶していた通り川の辺で月桂樹に姿を変える妖精、ニュンペーだ。中でも特に樹木に深い関わりを持つ存在をドリュアスと呼ばれる。ドライアド、ドリアードとも呼ばれる存在で、その本質はやはり樹木だ。だからこそ、水の側で地に根付く月桂樹の妖精として、ダフネは地と水に精通し、草葉に干渉範囲を持つ。
「妖精にはそれぞれ人型を取る前に何かしらの存在の形がある。ヘルフリートの時はウィルオウィスプ……人魂で、ディルクの場合は音に関わる水の妖精……ウォーター・リーパー辺りかな」
「……そこまで丸裸にされるとは思わなかった」
ディルクの言葉に小さく笑う。
因みにウォーター・リーパーの姿は犬ほどの大きさの手足のない蛙で、四肢の変わりに魚の尾と飛び魚の翼のようなものを持つ。物語の中では人さえも食べてしまうとされる、水辺に住む妖精だ。
「それと同じように、あの妖精も巨人の形を取る。有名な巨人の妖精と言えば?」
「…………トロールね」
ユーリアの言葉に頷く。
トロール。トロル、トラウ、トゥローなどと呼ばれる毛むくじゃらの巨体。
個で変身能力を持ち、大小様々な大きさをとることができる大地に住まう地の存在だ。
この世界で妖精の巨人と言えばどの地域でもトロールと言う名前が返って来る。その種類には多様性があり、財宝を秘匿する小さな姿を丘の人々。人攫いの存在をうつろな人々。水辺に住む者をシェートロールなどと呼称する。
「なるほど。ヘルフリートやディルクが妖精としてのウィルオウィスプやウォーター・リーパーであるように、あの巨人の本質はトロールだということか」
「そういう事になりますね」
「けどそれは妖精の本質の話でしょ? 妖精は小さい人型じゃないの?」
ヴォルフの納得にユーリアの声が重なる。
さて問題はここだろう。
妖精はそれぞれに本質を持っていてそれは個によって異なる。リーザもクリスも何かしらの妖精に属する核を持っているはずだ。
けれどそれでも妖精は人型。今までに巨人になったり人魂になったりといった前例は無い。
「そこに関しては僕も何も言えないんですよね。分かったのはあの巨人が妖精で、トロールの本質を持ちあの姿でそこにいるということだけ。どうして妖精がトロールの姿で存在しているのか、その理由までは分かりません。多分妖精術が関係してるとは思うんだけど」
分からない事だらけの景色でいくつか分かっている事。その一つにあのトロールが現れた際に妖精力が辺りに振りまかれて、それは妖精術の使用の後に出る余剰した残滓だと言う事。またトロールへと変化した原因は妖精術であって、トロールが持つ種としての特異技能ではないと言う事。
その残滓の所為でこの辺りに置いていた通信用の中継地点が無力化されてしまったのだろう。
今もこの辺りには妖精力が溢れていて新たに設置する事ができない。
属性妖精術は形を取るために固定されて技へと昇華するが、中継地点のような妖精力の塊は不定形故に他の妖精力で簡単に形を失ってしまうのだ。特に風は偏在するが反面、不安定で維持が難しいのだ。
「つまり話を纏めるとこういう事ね」
言ってニーナが要点だけで語り始める。
あの巨人は妖精。その妖精としての本質はトロールで、何かあって人化の術を使用した。結果あの巨人の姿で顕現した。
「問題は何で人化の術を使ったかよね……。それでどうして巨人の姿になったのか」
言いつつ視線を向けてニーナが零す。
「そう言えばさっきは何で攻撃されたわけ? 何で今は攻撃してこないわけ?」
あぁ、そういえばそこの説明はしてなかったか。
こちらは憶測になるがとりあえずの納得として話しておこう。
「恐らく、ですが……先ほど攻撃されたのは防衛反応。自分の姿を見て突っ込んで来る人間がいれば、妖精の側からすれば恐怖ですよ。こちらにその気がなかったとは言え、ね」
言いつつまた一つ気付く。
防衛すると言う事はやはり妖精としての個の意思があるということ。それからあの巨人化現象……否、妖精の本質具現化現象は、妖精達の意思とは無関係だと言う事。
もし意図的にだとすればまず変化はしないはずだ。興味の対象とされるのは分かりきった事で、それを考えられないほど妖精は馬鹿ではない。
「それから今攻撃してこないのは現状が飲み込めたからでしょう。反撃して来たという事は意思がある。思考を持つならこの景色を理解しようとするはずですから」
加えてとても納得には程遠い理由が一つ。
先程かの妖精の存在を確かめるために行ったフィーナの接触。この接触による波長の理解は一方通行では無い。
フィーナがあのトロールから妖精としての本質を感じたように、あちらもフィーナから何かを感じ取ったのだろう。
こちらの気持ちは一貫してトロールの正体を知ること。フィーナ個人としてはクラウスの感情流入があってか助けたいとでも思っていたのだろうか。
本当にそんな感情の流れがあったかどうかは別として、そう言った可能性も含めて判断を下す。
「フィーナを介して伝わったかどうかは分かりませんが、こちらには傷つけようと言う意思はありませんからね。恐らくその辺りが影響しているのかと。とりあえず、こちらから敵対行動を取らなければ問題は無いと思います」
「……あの巨体で暴れられても困るからな」
ヴォルフの現実的な言葉に全員で共有して一つ息を吐く。
まずはここまで一苦労。
当初の目的としてはあれが妖精だということが分かっただけでも進展だろう。問題はこの後だ。
まずはこの事実を国へ持って返らなければならない。そして他国にもこの事を連絡。この妖精の本質の具現化現象は、恐らくブランデンブルク王国内だけで完結する話ではないのだ。
そして、目の前のトロールたちの対処。これが一番厄介だ。
現状分かっているのは妖精術……人化の術が作用してこの景色を作り出したと言う事だけ。その戻し方まではまだ至っていない。
一つ考えられるのはもう一度人化の術を掛けてみるということ。
例えば巨人の姿を人型以外と見做すなら、人化の術で人型の妖精に戻せると言う仮説。
けれどきっと日常でハーフィーたちが使っているような人化の術ではいけないはずだ。その人化では人間に近くなるだけで妖精にはならない。何より、純粋な妖精には妖精術だけでは変化を望めない。
人化の術を元に新たな術……それこそ妖精化の術とでも言うべき技が必要だ。そういう意味ではクラウスは一枚噛めるだろうか?
「さて、どうしたもんかなぁ……」
テオの呆れたような言葉に沈黙が横たわる。
目の前にいきなり現れた壁だ。そう直ぐに打開策が出てくるほうがおかしい。
「……ここでこうしていても仕方ありません。まずは連絡しましょう」
「せめて話が通じればいいのに…………」
ニーナが唸って、けれどその可能性を直ぐに頭が否定する。
巨人……トロールが震わせた空気、咆哮。吼えると言う事は声帯に近いものがあるのだろうが、獣のような咆哮になってしまうようでは詳細な言語を繰る事は難しいだろう。
言葉を介せると言うのは存外に珍しい。
それならば言葉を介さない意思疎通方法。人間由来のものと妖精の助けを借りるものとを合わせていくつかが直ぐに思い浮かぶ。
まずは絵、文字。絵ならば恐らくこちらの意図は伝わる。けれどあちらからの反応を得ようとすると少し面倒だ。文字ならば妖精語を使えばどうにかなるだろうか?
妖精語は妖精が操る言語だが、そこには大きく分けて二種類が存在する。筆の妖精語と伝の妖精語だ。
筆の妖精語は識字の妖精語。過去からの研鑽により人間が妖精語を読む事は、その方面についてを詳しく学んだ者ならば可能だ。書く事もできるだろう。
伝の妖精語は会話の妖精語。会話と言ってもそこに音は無い。妖精の会話は妖精力で成される感情の会話だ。これは人間の使うような明確な音としての言葉があるわけではない。言わば感情をそのまま相手に伝える術だ。
人間は妖精術さえも禄に扱えない。そんな存在が妖精力に感情をのせて会話するなどできようはずもなく、結果伝の妖精語は妖精にしか扱えない言語だと言われている。
余談として妖精術は命令式にも使われている。古い妖精術や、命令式の種類によっては妖精古語が使われることもあるが、それもやはり珍しい。
先程のフィーナとトロールのやり取りもそこから派生した一つと言っていいだろう。
咆哮は極論、音。音であるという事は妖精語ではなく、妖精たちにもただの叫びにしか聞こえない。
ならばどの方法を取るべきかと逡巡したところで視界が異変を捉えた。
虹色の光。妖精力の光。それがトロールを包み込む瞬間だ。
誰かが妖精術を使った……? いや、今は全員近くに居る。ならトロールが起点の何かか?
しばらく見つめていれば、やがてそこにいたはずのトロールの姿が虹色の残滓を振りまいて消える。
直ぐに思考が回転して納得を引き出す。
トロールの姿が消えたと言う事は、消滅したか或いは人型の妖精に戻ったか。どちらにせよそこには妖精力が関わっている。
例えば消えたのであればこの本質の具現化現象は命を散らすほどのもの。妖精の命とは内包する妖精力で、それを枯らしてしまうほどの変化だと言う事。
あるいは人型の妖精に戻ったのであれば先程の妖精術で元に戻ったか、時間制限のようなものがあってそれに達したか。
考えて、直ぐに思考が引っかかる。
そう言えばこの話に首を突っ込む事となった最初の原因。今にして思えばあれもトロールだったのだろうと思いつつその後を追う。
確認された場所を中心に周辺を探索してみたが、あの時は報告にあった巨人の姿を確認する事ができなかった。
その理由は今目の前で起きたように妖精力に関する何かが原因で、トロールとしての存在を保てなかったと言う事だろうか。
考えているうちに他のトロールたちも妖精力に包まれて消えていく。
全く次から次へと疑問ばかりが増えていく。
「12……」
「5……」
呟きは隣から。見ればそこにはピスとケスが先程まで巨人のいた場所を見つめながら立っていた。
その二人が不意にこちらを向く。
「……違うね」
「……違うよ」
それから顔を見合わせた二人は、これまた不思議な言葉の感覚で意思疎通を図って納得の頷きを見せる。
……とりあえず今二人の事は置いておくとしよう。これ以上疑問を増やしても仕方ない。
意識して思考の片隅に追いやる。取りあえず現状打開。得た情報を持ってそれぞれの国に帰るほかない。
「…………一旦国へ帰って今後の方針を聞いてきましょう。何か新しい事がわかるかも知れませんし」
流石にこれ以上ここにいれば頭がおかしくなる。
妖精の本質具現化。消滅。それらへの妖精力、妖精術の関係性。
きっと全ての答えとなる妖精術の出所が分からないのでは、前には進めない。
「あの巨人はトロールで、元は妖精。その妖精が何らかの妖精術の効果を受けてトロールとして出現した。それからトロールはまた何かしらの影響を受けてその場から姿を消した…………。伝えた上でまた必要になればここに来ましょう」
「……分かった」
起こった事象を簡潔に纏めたクラウスの言葉にダミアンたちが頷く。
それから周辺を警戒しながらクラウス達はしばらくを過ごして、入れ替わりの探索班に後を任せると、ヘルフリートの背に跨って空を駆けた。
カイに得た情報を伝ると一先ずの休息の時を貰えた。
できることならこのまま任務自体から外してくれるといいのに。
そんな事を考えながら王都の学院、その寮に戻ってきて勢いそのままに寝具に倒れ込み、一日経過。翌日目が覚めると窓の外に小さく座って空を眺めるアルの姿を見つけた。
「……おかえり」
「鍵くらい開けといてよ。お陰で体冷えた……」
扉を開くと悪態を吐きつつアルがクラウスの頬を叩いた。触れた小さな手のひらが氷のように冷たくて小さく声が漏れた。
「どうだった?」
「その前に体洗いたい。あと温かい飲み物用意して」
「妖精はお風呂必要ないんじゃ?」
「あたしクォーターだもの。純粋な妖精じゃないなら人間らしく振舞ってもいいでしょ? 後、気持ちの問題」
「あ、それならわたしもご一緒したいですっ」
帰ってきて早々アルはアルらしく彼女全開にしてクラウスを振り回してくれる。彼女の言葉に続いて、いつの間にか起きてきたフィーナも名乗りを上げた。
仕方ない、異性の機嫌を損ねては後で何をされるか分かったものじゃないからな。
小さな抵抗として溜息をこれ見よがしに吐くと、部屋に備え付けられた浴槽に湯を張る。
彼女達が脱衣所に向かったのを確認してクラウスも三人分の飲み物を準備し始める。
妖精とは言えフィーナとアルは異性。流石のクラウスも個人の場所だったこの寮に異性がいると少しばかり緊張する。
きっと原因は二人がクラウスに近すぎる所為なのだろう。アンネ辺りならきっと下着姿でもうろたえる事はないのに。
扉の奥から聞こえて来るアルの気の抜けるような声に小さく笑って呼吸を整える。
アルのことだ。何も結果が得られなかったならあそこまで能天気と言う事はないだろう。つまり何かしらの答えを持ってきた。
そしてそれはあの巨人……トロールの、妖精の本質具現化現象に関係する事だ。
今日はブランデンブルク城への召集が掛かっている。本来ならばそこで集まった情報から現状を類推するのだが……どうやら一足先にクラウスの元に運が回ってきたらしい。
部屋の換気。それから朝食を作りながら思考に耽る。
現在手元にある情報。クラウスが知っている知識。アルが齎すだろう結論。
それらを想像の上で組み合わせて可能性を吟味する。
クラウス達が得た知識は人間側の視点の知識だ。だから人間が知らない事実では想像できないし、語れない。けれどそれでもいくつか分かった事はあるのだ。
そして妖精側の視点。まだ巨人との接点が妖精に関わるところでしかない今、早い接触が待たれる。それこそ昨日考えた絵や文字を使っての意思疎通だ。
けれどそんな事をしなくても事実を知る方法はある。妖精側からの直接の情報だ。
アルが求めたのはきっとそれだろうし、国の方でも早ければ何か掴んでいるかもしれない。尤もこの世界中で起きている問題、そう簡単に踏み込めるものではないのだろうが。
簡単な方法の一つとしてトロールとなった妖精のその後を追う事だ。
昨日見たトロールの最後。幾ら思い返してもあれはやはり妖精術の光で、ならばあの周辺を探索すれば何かの情報は得られたかもしれないと今になって思う。
取りあえずその辺りの事は入れ替わりに入った探索隊の人たちがやってくれている事を願おう。
「クラウス、お腹減ったー……って、流石!」
考えながら出来た朝食を机に並べていると、風呂あがりのアルが髪の毛をわしゃわしゃと拭きながら出てきた。その姿は人間大。どうやら人化の術を使って風呂を楽しんできたらしい。なんとも人間らしい妖精だ。
人間大。言葉にすれば人間の大きさだが、変化には少しだけ条件がある。
妖精の纏う薄布の貫頭衣。これは妖精力で構成された妖精が半日常的に行使している妖精術の一つだ。名前は確か更衣の術だったか。
この術は人化の術に呼応して服の大きさが自由に変わる代物だ。人間からすれば便利なものだが、それは貫頭衣を着ている状態で人化をしたらの話だ。
例えば今回のように裸になって人化を行えば更衣の術は連鎖しない。更衣の術を解いて人化を使い、その上で更衣の術を行使しても人間大の貫頭衣は出現しないのだ。
こういう場合大抵は人間が普段使っている衣類を流用する。例に違わずアルもクラウスの服を着ていた。断わりはなしですかそうですか。
普段自分が着ている物が他人に着られていると言うのは少しだけ居心地の悪さを感じる。それも相手が異性となればクラウスとしては気にしないわけにはいかない。
「ごっはん~」
ご機嫌なアルは髪を拭いていた浴布を肩に掛けると、そのまま机の前に座って手を合わせる。
「髪傷めるぞ」
「だったらクラウスが手入れしてよ」
まるで女王様が側付きにそうするように視線と同時に名誉に近い何かをお投げあそばされた。
彼女でもないのにその態度はどうなのかと、アルの不遜な物言いに溜息を吐きつつ、箪笥から新しい布を取り出すして彼女の髪に触れる。
短く切り揃えられた溌剌な黒髪が妖しく濡れて艶やかに光る。ちらりと見えたうなじが仄かに桃色に色付いていて少しだけ居住まいを正した。
「今回だけだからな」
「はーい」
返事だけはよろしいことで。
丁寧に髪を傷つけないよう水気を取って、文机の上の小さな箱から方陣の刻まれた宝石を取り出す。
手にして妖精力を込めると当たりに柔らかく暖かい風の流れが出来上がる。
これは風包玉。中に風の妖精力が込められた石で、分類としては前の特別試合でエミが使っていた術式封印石と同じものだ。こちらは彼女の使ったものとは違い一度きりの使い捨てでは無い。もちろん込められている風の妖精力には限りがあるので消耗品ではあるが。町に出ればお手軽に手に入る日用品だ。
妖精力を込めるだけで風を発生させることのできる便利品だ。
主にちょっとした掃除や今回のように髪を乾かしたりする時に使われる。使い方次第では小さな武器にもなるために質のいいものは軍でも採用されていたりする。
便利ではあるがやはり消耗品。学生の身分では少しだけ使うのに抵抗があるが、今回ばかりは仕方ない。それにどうせ今回の任務で報酬も出るだろう。
「……ちょっといい気分ね、これ」
少し眠たそうに言うアル。頼むから食べながら寝るみたいな赤ん坊みたいな事はしないでくれよ?
髪を乾かし終えると今度は髪の毛を梳く。最初は手で、次に櫛で。時折擽ったそうにアルが笑い声を零して、その度にクラウスは少しだけ緊張する。
知識では知っていても異性の髪を梳かした事はない。こうして触るアルの髪は細くしなやかで絹糸のように柔らかく、整髪剤の匂いに混じってアルの女性らしい香りが鼻先を撫でる。
元はクラウス一人の男部屋。軽く身だしなみを整えるようなものはあっても本格的に異性の髪を手入れする道具は揃っていない。彼女達のためにも一式揃えるべきだろうか?
そんな事を考えながらアルの髪を梳いていると耳に焦ったような声が飛び込んでくる。
「あーっ、ずるいです! クラウスさん、わたしの髪もやってください!」
声のした方を向けばこちらも人化の術を使って大きくなったフィーナ。小さな体の所為か着ているクラウスの服が袖に丈にと所在無さ気に宙を掻いていた。
服に着られたフィーナ。アルと比べて少しだけ幼い彼女はその言動と相俟っていつもよりまた一つ子供っぽく見える。
「分かったから。もう少し髪の水気を拭いてこい。床もな」
「あわっ、そうでした……!」
指摘に驚いて踵を返すフィーナ。その仕草に靡いた長髪からまた少し飛沫が飛んだのだが……もういい、一々指摘するのも疲れた。
アルの髪の手入れをし終えると今度はフィーナ。一体何時になったらクラウスは自分の朝食にありつけるのかと考えながら相棒の長髪を梳く。
「クラウスさん、髪形変えることって出来ますか?」
唐突にそんな事を聞くフィーナ。
期待されて何もできないと言うほど引き出しのない人間ではないが、その中に彼女の望むものがあるだろうか?
「……少しだけなら。フィーナは髪が長いし、選択肢は多いと思うよ。どんなのがいい?」
クラウスが知る知識から可能な辺りを選出して問い掛ける。言葉にして意外と知っているものだと自分の知識に驚きながらフィーナの答えを待つ。
しばらくすると彼女は困ったのか少しだけ唸った後アルに続いて戯れなさる。
「……クラウスさんが好きな髪型にしてくださいっ」
聞いておいてそれは無いんじゃないかと。今度はクラウスが悩む破目に。
好きな髪形。別にクラウスは異性に対して好きな見た目があるわけではない。強いて言えば性格で、クラウスの軽口に付き合ってくれるような人物なら気兼ねなく自分らしく居られるから好みだが……。
それに髪型は女性の一つの武器だろう。似合っているものそうでないものが存在する中で、似合わないのに強要したって仕方がない。個人的には似合っていればそれでいい……と言うのは男の言い分だが。
さてどうしようかと考えたところで不意にアルからの視線を感じた。それは……嫉妬、だろうか?
アルは肩の上で利発に切りそろえられた短髪だ。髪形を弄るのは少し難しい。整髪料を使えば少し変えられるかも知れないが、長髪の場合と比べてその数は少ない方だろう。
その点フィーナは、おしゃれの一つのように長く総やかだ。普段手を加えているわけではないから、好みで伸ばしている様子でもない。が、手入れをしなくても身なりが整っているのは、体のすべてが妖精力で編まれた妖精という種の特権の一つ。
日常に生きる女性たちからすれば、手間暇掛けずにいつも通りの最良を維持し続けられるそれは、羨ましい限りなのだろうと。
であれば、折角ならその強みを活かしてもいいかもしれない。
そう考えて、文机の引き出しから目的の物を取り出す。
「……好きかどうかって言われたら困るけど、多分よく似合うんじゃないかな」
勉強の邪魔になることがあるため、髪が伸びてきた時に使う木製の髪留めがある。それを使って髪の房を留め、浮いて見えないように小さい房で留めた辺りをくるりと覆い自然に見せる。学院の級友が時々している髪形だ。
出来上がったのは仕草に揺れる二つ結び。元々の髪質が真っ直ぐで柔らかいフィーナだからか、膨らむような房にはならなかったが、少しだけ輪郭が細くなった気がして、彼女をまた魅力的に彩った。
「どう?」
「……可愛いですねっ」
鏡を見つめて笑顔で答えるフィーナ。どうやらお眼鏡に適ったらしい。
「あたしも髪伸ばそうかなぁ……」
ぽつりと呟くように零れたアルの言葉に小さく笑う。
「アルはそのままでも充分に可愛いよ。長い髪ばかりが女性らしさじゃないからね」
「クラウスがそう言うならこのままにしようかしら。長いと手入れが大変そうだし」
そう言えば風呂から出てくるのもフィーナの方が遅かったが、そういう理由だったらしい。綺麗な見た目にはそれ相応の時間と努力が必要なのだろう。人化して湯浴みを楽しんだが故の弊害か。
男には解りかねる女性の難しさに尊敬の念を送りつつ、クラウスもようやく朝食の席に着く。
それから三人でご飯を食べ終えて一服。しばらく窓から流れ込む涼しい風に体を揺らして胸の内を整えると、ようやく本題を切り出した。
「それで、アルはどんな結果持って帰ったの?」
「……眠い…………」
返ったのは的外れな自己主張。
頼むから投げた言葉の玉を投げ返してくれませんか。
「…………クラウスは? あの巨人についてどこまで調べがついた?」
……聞きながら寝る何て事はしないだろうか?
少しだけ邪推して仕方なく知っている事を伝える。
巨人はトロールであり妖精。妖精に何かしらの妖精術……恐らく人化の術だろう何かが作用して巨人の姿として顕現したこと。その妖精術の行使の理由については分かっていない事。
あれから考えてみたがやはりそこだけは理解できなかった。
それから当初に予想していたヨトゥンやファーフナーと言った物語の中だけの存在ではなかったと言うこと。
元が妖精なのだから人間の歴史や知識で納得できないのは道理だ。無駄骨だったと頭に溜まった知識を疲労に変えてアルに告げる。
クラウスが口を閉ざすと、彼女は気持ちを切り替えるように一つ息を零してそれから真摯な声音で語り出す。
「…………あの変化はね、妖精がその本質を剥き出しにするもの。妖精に掛けられた人化が解ける事によって起こる現象なの」
妖精に掛けられた人化。
違和感を含んだアルの言葉に訝しみながら先を促す。
「まずはあたし達のこの体。今クラウスが目にしてる人型の妖精自体が、妖精術によって形作られた借りの姿なの」
「……つまり人型は妖精の本来の姿では無いって事?」
「そうね」
伏目がちに告げるアル。
なるほど、その人型にする妖精術が人化の術で、それが解ける事によって妖精としての本来の姿……人間が口にするところの妖精の本質が姿を形作ると言うことか。
例の巨人で言えば、彼又は彼女も元は人型をした妖精で、人化が解けてトロールの本質が表面化した。その解けた人化の痕跡をフィーナが感じ取ったと言うことだ。
けれど解らないところが一つ。
「……どうして人化の術が妖精に掛けてあるんですか?」
フィーナの口にした至極当然の疑問。
妖精が人型になった理由。そこを知らなくては全てに納得を通せない。
考えて、アルの言葉を待てば、彼女は少しだけ苛立ちを含んだ視線をフィーナに向ける。僅かに揺れる紅の瞳。そこに宿ったアルの意思にフィーナがむっとする。
……クラウスの知らないところでアルにはアルの理由があって、その矛先がフィーナに向いていると言うところだろうか。
取りあえずその辺りは今は放置。現状に影響がないなら一旦思考の外へ。
「…………隠しても仕方ない、か。どうせ話さないといけないことだし」
嘆息して決意を固めるように。天井を仰ぎ見たアルの仕草に思考を減速させて、開いた穴に彼女の語る言葉を情報として埋めていく。
「アルフヘイムって知ってる?」
「妖精の国、ですよね……」
「国、ってことは当然そこを統治する者がいるわよね」
王。国王、皇帝などの何かを治める者が得る君主号。
ブランデンブルクは王国であるが故に国王を据え、スハイルは帝国であるが故に皇帝を構える。
例外として王を必要としない形……カリーナなどの共和国も存在するが今はいいとしよう。
領土を持っていたり、そこに住む民や国の象徴としての証。その名の下に存在するありとあらゆる物を支配下に置く絶対。それが王。
大抵の場合は国の頭として存在する称号ではあるが、どうやらそれは妖精の側にも存在する概念らしい。
「その昔……それこそ妖精の国なんて名前が付く前、妖精が住む土地があったの。そこに妖精たちを取り纏める、人間で言うところの王様みたいな存在がいた」
「妖精王オーベロン。女王タイターニア……」
クラウスが音にすればアルは静かに頷いた。
オーベロン。タイターニア。
現在に存在する架空の物語でもよく登場する、妖精の王にしてその絶対的象徴。
一つの国に王と女王が一緒に存在すると言うのは人間の感覚として少し理解のし難いことだが、それもとりあえずは棚上げ。
一般的な知識としては妖精の国の王にして、後にも先にも存在しない妖精達の統率者。全ての妖精は何処より生まれ何処へ向かうか。その答えとして囁かれているうちの一つ、妖精の国と言う存在を肯定せしめる妖精の象徴だ。
時折、クラウスの先人たちは彼と彼女と手を取って今の妖精と共存する世界と作り出したと言われている。
「存在するかどうかなんて真偽は置いておいて……人間の歴史では二人は色々な力を持っていたとされているわよね」
「金銀財宝の守護者。時間の超越者。叡智の管理者。他にも色々あるけどね」
クラウスが言葉にしたのは全て物語の中で語られるオーベロンやタイターニアの姿。
二人が治める土地には巨額の富や幾多もの秘宝が眠るとされ、それを守護している。
その瞳は過去と未来、起こりうる全ての事象を観測し認識する。干渉が出来るかについてはその話によるところだが。
妖精に限らず世界に対しての深い智慧を持ち、全ての事象に対して精通をしている。
人間が紡いだオーベロンとタイターニアは架空の物語の中で自由の翼を手に入れ、時には仲睦まじい夫婦で妖精の頂点に君臨し、時には男女間の相違で喧嘩をし、時には冒険譚の中で主人公の敵として、時には助力する全能の味方として描かれる。
「例えばその視点で語られたとして、彼と彼女が人間との共存を望んだとしたらどうなると思う?」
アルはどこか蒙昧に夢想するように遠くを見て連ねる。
「人間はよく見た目が違うだけで差別意識を燃やす。そんな存在と肩を並べて歩こうと思ったら、人間から見て巨人や火の玉なんていう異形の存在である妖精をどうしようと考えるかしら?」
「……出来る限り人間に近しい姿形として描き、認識させるだろうね」
それは人間の身勝手でもある。
例えばトロールが妖精であり巨人であるならば、物語の中では味方ならば人間に近しい人型で、敵ならば異形の怪物として描かれるだろう。そうした想像の果てに、きっとオーベロンとタイターニアも人間の姿を与えられた。それが人間の側から見た人間の犯した罪だ。
「その方法として、人化の術が作り出され、全ての妖精に掛けられた。……もしそんな話があったとしたら?」
思考が彼女の言葉の先を駆ける。
人の前に姿を見せる妖精。人間は忌避と興味を繰り返し、やがてオーベロンやタイターニアがそう願った……そう思い描いた通りに手を取り合う。
月日は流れ妖精と人間が交信し、原初の妖精従きが登場する。その後世界の伴侶として妖精は受け入れられ今の世へと時間は流れていく────
どこまでが想像でどこからが実際の現実か分からないアルの言葉。けれどそうした一面も、この世界にはあったのかもしれない。
「……けれど例えばその通りに話が運んで、妖精と人間が手を取り今の世界が出来上がったとして。どうして今になってその人化の術が解けたのかって話だよね」
ようやく想像が今に追いついて思考が景色の裏を返す。
オーベロンとタイターニアは妖精だ。例えばその二人が存在したとして、彼女の語った言葉が真実だとして、その存在は紛れもなく妖精以外の何者でもない。
幾ら妖精王、女王と言えど不老不死ではないはずだ。妖精である以上存在するために妖精力が必要なのだ。クラウスが知っている限りでは、妖精は個人で妖精力を補給する術を持たない。
それにもし不老不死なら、人化の術を使った二人がこの世界にどこかに存在し続けている事になる。彼ら彼女らが望んで手にした景色だ。二人の方から手放すという事はないはずだ。少なくとも、それが妖精という種の為を思ってのことならば。
つまり二人の都合の悪いようにはしないはず。ならば人化の術が解けたと言う事は、即ち────
「大方、クラウスの考えてる通りよ。あたしの話が本当かどうかは別として、これだけは真実だと断言してあげる。妖精の人型としての姿は、本来の妖精の姿ではない。それは作られた姿で、今その似姿が壊れかけてる。そうであると言う事実を調べてきたから」
アルが持って帰った情報と言うのは、即ちこの世界に起ころうとしている変異だ。
人型の妖精がその偽りの見た目を失い、妖精本来の本質としての姿で顕現する。
妖精が妖精足りえる姿。トロールであったり、ウィルオウィスプであったり、ウォーター・リーパーであったり。ニュンペーだとか、バンシーだとか、アルプだとか……。
きっとフィーナやアル、リーザやクリスにも存在するだろう妖精としての根源。
それらを詳らかにする世界の変遷。
「回避する方法は?」
「現状存在してないはずよ」
クラウスが最も懸念する疑問。口にすればアルは間髪いれずに答えを返した。
現状。つまりは今後その可能性はあるということ。方法論は分からないが、可能性があるならば最も望むべき景色に向かって進むのが分かりやすいか。
そんな事を考えているとフィーナが慌てたように問う。
「わ、わたし達はどうなるんでしょうか?」
「妖精が本質を取り戻すのは、簡単に言えば掛けられた人化の術を維持する妖精力の供給元がなくなったからよ。契約をしてる妖精たちはその相手から妖精力の供給を受けていられる。契約をしている限り人型から別の何かに変わったりする事はないはずよ」
「アルはどうなる?」
きっとあえて触れなかったのだろう。けれどクラウスとしては今一番問題視すべき観点だ。
アルは契約をしていない。彼女の話ではいわゆる野良の妖精にのみ変化が訪れると言うこと。そこには彼女も含まれる。
真剣な瞳で見つめればアルは笑って逃げようとした。
「……誤魔化せないようにフィーナに監視してもらおうか?」
「…………分かったわよ」
少しだけ苛立ちを宿して尖った口調で退路を断つ。しばらく視線を交わすと、やがてアルは諦めたように溜息をついて話し始めた。
「あたしが記憶に関する部分で妖精術を行使する事を得意としてるのは知ってるわよね」
「封印術、とかですね?」
「それを少し応用してこの人間に近い妖精の姿を記憶に書き込んで人化の術を使用するの。すると一時的にだけど変化を先送りにすることができる」
「……代償は?」
「…………少しだけあたしが存在できる時間が縮む」
クラウスの詰問に視線を外して居心地悪く答えるアル。
「今までに何回使用した?」
「……ここに帰ってくるまでに四回。あたし自身にはまだ一回も使ってない。使わなくても、あたしには人間の血があるからそう簡単に影響は受けないでしょうけど」
「他の妖精に使っても存在できる時間は縮むわけだな?」
辛そうに視線を逸らして小さく頷く。
人の血があれば影響を最小限に抑えられる。となれば野良のハーフィーやクォーターは一旦この件から外しても問題は無いだろうか。一応気に掛ける程度には覚えておくとしよう。
彼女の気の良さに溜息を一つ吐いて告げる。
「……アルの体一つでどれだけ先延ばしにできるかは知らないけれど、それで対処したとして結果は変わらない」
「……………………」
「だったらもう少し賢いやり方を探そう。これ以上アルが犠牲にならなくて済む方法。ないなら作ればいいだけだ」
「……できると思ってんの?」
「思ってない。出来た未来しかいらないから」
視界を揺るがす因子を完全に否定してアルの瞳を覗き込む。
「だから力を貸して。アルの知ってること、話せるところまででいい。誰かの為じゃなくて自分の為に、納得できる未来の為に」
「クラウスさん……」
「そうでないと──妖精の国なんて目指せないから」
アルの肩がびくりと震える。
妖精の国。それは彼女と目指す約束の地であり、到達すべき未来だ。
過去に彼女と夢見た景色。今でも実現が不可能だ何て思っていない。
何よりも、実現するために今までを積み重ねてきたのだ。
クラウスの訴えにアルは顔を伏せる。何に悩んでいるのだろうか。何を天秤に掛けているのだろうか。
クラウスはクォーターだから、妖精の考える事は四分の一しか分からない。
けれどそれだけ分かっていれば確信することも存在する。
「アルは、それでもいいの?」
「……いいわけ、ないじゃないっ」
ぽつりと零れた声。やがてアルは泣きそうなほどに顔を歪めて叫ぶ。
「でもそんなことしてる暇ないでしょっ!? 国を作るって言ってるのよ? 簡単に出来るはずないじゃない! なのにそんな必要のないかもしれない事に一生懸命になって────」
「少なくともっ」
強く言って、アルの言葉を遮る。
「少なくとも、今の僕には必要なことだと思う。何より、アルのために必要なことだと思う。だから、見過ごすわけにはいかないよ」
「何、で…………」
「それがクラウスさんの理想だからです」
続いたのはフィーナの言葉。
「疑問に思った事を譲ったり妥協したりして、納得できないまま夢を手に入れても、きっとクラウスさんは後悔します。出来ない事を出来なかった事にする前に、出来なかった言い訳を自分の所為にできるように、後悔しない様にするべきです。わたしは、クラウスさんと契約した事を、後悔したくないですから」
それは彼女なりの覚悟。アルではなくフィーナを選んだクラウスに対する、彼女なりの答え。
「アルさんは……アルは諦めるんですか?」
「…………それこそ、ヤよ……。だってクラウスの相棒は今も昔もあたしだもの。それに気安く呼び捨てしてくれちゃって、いい度胸じゃない」
「だってようやくそれで、アルと対等になれますから」
胸を張ってそう告げるフィーナ。クラウスの隣にいれる事に誇りを持って、彼女は彼女らしくアルに向き合う。
そんなフィーナの言葉に、アルは睨み返すように視線を交えて受け止め返す。
「……あたしが関わる以上失敗は許さないから。この寄り道、決して無駄にしないわよ」
「もちろん。二人とも期待してるよ」
固まった決意。二人の助力を心強いものだと感じて思考を一新する。
さて行こう。ここからが妖精の国への第一歩だ。
その後正装に着替えてブランデンブルク城へと向かった。
出来る限りの準備をしたつもりだがどうなることだろうかと思いつつカイの元へと向かう。
通されたのは小さな個室。どうやら謁見してと言う話ではないようだ。
ここに来るまでに城内の様子はある程度把握できた。あちこちへ走り回る騎士たち。姿の見えない重鎮。その示すところはやはり大きな問題だ。どこまで掴んでいるかは定かでは無いが、少なくともあの巨人が妖精である現実。その対応は追われていることだろう。
また、アルの話では今はまだ変遷の途中らしい。これから全ての野良の妖精が人型を維持しきれなくなり、本質を剥き出しにするのだそうだ。その報告もきっといくつか既に入ってきていて、城内は慌しくなっているのだろう。
国は大変だと暢気な事を考えながらクラウスは自分に出来ることのみに集中する。
「……とりあえず昨日の任務の報酬だ」
任務は任務。国から下った命で、準軍属扱いであるクラウス達は名目上仕事をこなした事になっている。ならばそれに見合った報酬があって然るべきと言うわけだ。
ユーリアやニーナは軍属元軍属と言うことでまだ納得できるし、テオもヘルフリートで理由が付けられる。ヴォルフも家名を振り翳せば拒否する事は出来ない。
けれどクラウスは一介の学生だ。軍属でもなければ大きな家名があるわけでもない。そんな自分が貰っていいのかと少しだけ疑問に思ったが、カイの立場もある。一応貰うだけ貰っておこう。
差し出された報酬を受け取って気持ちを入れ替える。さて、ここからが本題だ。
「で、昨日の件だが、色々話し合った結果君たちにも報告しておくべき事だと判断が下った」
ちらりとヘルフリートの方を見て告げるカイ。やはりそこが大きな要因かと思いつつ、もしかすると別のところでも便宜を図ってくれたのかもしれないと少しだけ感謝する。
「現在わたし達が得ている情報は以下の通りだ」
そうしてカイは語る。
妖精の本質具現化現象。国は今後の事を考えて、それら一連の事象に妖精変調と名を付けた事。
妖精変調はこのフェルクレールトの大地全体で起こりつつある変転であり、トロールに留まらずゴブリンなどの加虐性の高い妖精から、ケット・シーのような殆ど無害なものまでが姿を見せていると言う。
やはり他国でも知らずのうちに確認はされていたようだ。
妖精の細かい種の判別は人間の積み重ねてきた研究と、そこから派生した民間伝承に則る所が多いらしい。
つまり物語の中で悪戯好きに描かれている妖精は、その性格通りに何かしらの影響を及ぼすと言うことだ。この辺りは恐らく、人間の研究が偶然一致したのではなく、何かしらの要因で妖精の本質を知った過去の先人たちがそのままに残してくれていたお陰だろう。どんな理由にせよ、判断基準があるのはありがたい。
今はその種の細かな分類と、どんな影響を及ぼすかといったところを重点的に洗い出している最中だとか。
仮に過去の文献が全面的に信じられるなら、その対処法などが先に分かるかもしれない。今はできる限りを尽くしているということだろう。
それを乗り越えたとして、次なる問題は意思疎通が難しいと言うことだろうか。
ケット・シーのような特に影響を及ぼさない存在は、どうにか接触して妖精を介せばある程度のやり取りは出来るだろうとの想像。
けれど元が凶暴なゴブリンなどの種は警戒心が強い所為か近付くのも困難で、トロールの時のように話し合いに発展しないことも十分に考慮される。さすがに昨日の今日では進捗は期待できないらしい。
「……アル、その辺り意思疎通を簡単に取る方法は?」
「…………分からない。接触によるってことは多分妖精古語を使えばどうにかなるとは思うけど……」
妖精古語。古い時代……それこそオーベロンやタイターニアが実在していた時代に妖精が使っていた言語だ。
妖精力に乗せて交わされるものと文字を書くものがあるが、文字の方は発見も珍しくそこまで研究が進んでいない。今の妖精たちは妖精力に乗せるものは使っていても筆談の妖精古語は使わないのだ。
人間の歴史に流行り廃りがあるように、妖精も人間が知覚してから約700年の間に筆の妖精古語は衰退したと言うことだろう。
「その辺りはわたし達も調査中だ。些細なことでもいい、何かあれば今後情報を頼む」
「分かりました」
カイの言葉に頷いて先を促す。それから彼は続けて語った。
「それから恐らく一番の進展は、妖精変調の原因とされるものが見つかったと言うことだ」
「何ですかっ?」
カイの言葉にフィーナが疑問をぶつける。直ぐに嗜めると彼女は小さい体をさらに小さくして「すみません」と零した。
そんな様子を見やって、カイが静かに告げる。
「……まず最初に、妖精変調は妖精に掛けられた人化が解ける事によって起こる現象だ」
「そこまでは想像してました」
ニーナが答えてカイが頷く。
クラウスはアルから直接聞いていたがニーナ達にはまだ伝えていない。それでも昨日クラウスとフィーナが綴った想像からそこまでは至ったのだろう。
知識と想像力があれば、ここまでならば至れる。事実クラウスも、アルから話を聞くまでに最もあり得る可能性として巡らせていた考えだ。
「この人化だが、掛けられていたのは妖精個に対してではない。この大地全体に対してだ」
カイの言葉になるほどと納得を生み出す。
クラウスも言葉にはしなかったがそこは気に掛かっていた。
例えば妖精個人に人化を掛けたとして、下る歴史の中でそれがずっと受け継がれていくものかと言うこと。それから妖精個人に掛けているとすれば、不意の接触で人化が掛けてある事に誰かが気付くのではないかと言うこと。
けれどカイの語った言葉ならそのどちらにも説明がつく。
大地に掛けられた妖精術。それはきっとその上に存在する生き物全てに作用するある種の結界術のようなものなのだろう。だから消える妖精生まれる妖精全てに効果が現れる。
そして結界術と言う大きな括りで見るならばその恩恵、効果内に人間もいるはずだ。人化は波長に干渉して変化を起こす妖精術。人間も妖精も無意識にその人化の術の影響下にいれば、見た目に変化は無くても波長がその影響を受けて妖精との差異はなくなる。自分が人化の影響を受けているのだからそれと比べたって妖精が人化を受けているかどうかは分からない。だから日常的には気付かない。
今回のようにどちらかの人化が解ければようやくそこで変化に気付く。
では一体誰が、と思考を巡らせて結論を見つける。
アルの話ではこの人化を掛けたのはオーベロンとタイターニア。ならば二人がこの大地全体に妖精術を掛けた張本人と言うわけだ。
それが今回、何らかの引き金で解けて、妖精を形作っていた人の似姿が解けたと言う話……。
これが妖精の本質具現化現象……妖精変調の実態だ。
「その人化……恐らく結界のようなものなのだろう。それに綻びが生じて妖精が妖精としての本来の姿を取り戻しつつあるのが現状だ」
「どうして今になって……」
ユーリアの呟きに思考を回す。
確かにその疑問は尤もだ。どうして今その変化が起きたのか。
けれど考えたところで起きた現象がなくなるわけではない。起きた事を受け入れてその上でどうにかする他無いのだ。
情報は足りず後手。けれどやるべき事は至って単純だ。
「その疑問はとりあえず置いておこう。今はこうなった現状を如何に打開するかだ」
「そうだな。とりあえず国は妖精古語の方で解決に当たっている」
「自分達はどうすればいいでしょうか?」
「……この事実は公表しないわけにはいかない。その公表に先んじて学院の方は出来る限り混乱を避けれるように取り計らってもらえないだろうか」
「……分かりました」
ヴォルフの疑問に、まるで分かりきっていたように用意された言葉を返すカイ。だからこそそこに何かあると直感で悟ったのだろうユーリアが視線を向けてくる。
ユーリアの直感は見過ごせない。そこから裏を返すのはクラウスの役目。
用意されていた答えと言うのはその答えから未来に何か懸念する問題があるということ。
学院の治安を守れば、学院はいつも通りの日常を取り戻す。そうすれば学生は就学し、実力をつけ卒業する……。学院は準軍属……。妖精変調、本質、混乱、衝突────
なるほど、反吐が出る。
「クラウスさん?」
回路を介して何か感じ取ったのだろうか、フィーナが訝しげに尋ねて来る。さすがにここで口にするわけにはいかず笑顔で誤魔化してカイに視線を向ける。
「今後僕たちに国からの任務が下りる事は?」
「……あるだろう。出来るだけ危なくないものを回すつもりではあるが、覚悟だけはしておいて欲しい」
「分かりました」
「話は以上だ。手間を取らせて悪かったな」
そう言って立ち上がるカイ。
特にここで追求することも無いので静かに立ち上がって部屋を出る。それから礼をして帰途に着こうとした所で、カイから声を掛けられた。
「クラウス君。少し時間いいかな?」
振り返ればカイの隣にはいつの間にか女性の使用人が一人。その使用人が着ける腕章に注意がいったのも数瞬、気付けば口はいつも通りの軽さで答えていた。
「はい、大丈夫ですが……僕一人ですか?」
「あぁ、国王陛下からの直接の御指名だ」
「分かりました」
最上位の権力からの指名とあれば一介の国民であるクラウスには断わる事は出来ない。
カイの言葉に従って足を出す。
背中に物言わぬ視線が突き刺さっていたが、さて後でなんと弁解しようものか。
それからユーリアたちと別れてカイと一緒に歩き出す。角を曲がったところで視界の先に見慣れた顔があって少しだけ安心した自分がいた。
「ここからは彼女が案内してくれる。最後まで付き合うことが出来なくてすまない」
「いいえ大丈夫です。カイさんもお体に気をつけて」
「あぁ、またいつか」
そう言って歩いて行くカイ。彼の背中を見送って、それから隣の彼女に声を掛ける。
「お疲れ様。色々ありがとね」
「言っても仕方ないけど……もう少し余裕が欲しいな」
「これでも直ぐに行動に移した方なんだけど」
返ったのは気安い言葉。視線を交わらせれば綺麗な水色の瞳がこちらを射抜いて、肩を揺らした仕草に波打つ髪先がふわりと揺れた。
黒を貴重とした上下一繋ぎに白い装飾の付いた仕着せ服。頭には白い頭飾りが乗っかり、彼女の魅力の一部としていた。
腕には先程目にした女中と同じ腕章──バレッタの中心に銃弾の模様をあしらった精鋭使用人集団、ヴァレッターの証。
この姿の彼女を見るのはコルヌ家以来二度目かと少しの間見つめて告げる。
「その服よく似合ってるよ、アンネさん」
「はいはい、いつもながらありがとう」
随分と冷めた挨拶だ。
そろそろ別方向からの口撃を試みてみようかとどうでもいい事を思いながら、彼女に頼んだ仕事を思い出す。
それはクラウスがブランデンブルク城に来る前。エルゼ学院長経由でアンネにある人物への面会を頼んでおいたのだ。
今回の問題できっとその中心近くに居るであろう人物。クラウスでも無視できない多大な影響力を持つ人物。これはその為の呼び出しだ。
アンネが静かに零す。
「……着いて来て」
どうやらいつものように軽口を叩いている暇は無いらしい。彼女も忙しいと言うことだろう。
アンネに着いて城内を歩けば、辿り着いたのは大きな木製の扉。拵えられた取っ手は銀の色。
銀は毒を見抜く。全ての毒にと言うわけではないが、転じて厄除けの象徴だ。医療機関や飲食店での銀色の取っ手は厄を跳ね返す安全の印。
また銀には金に続く二番目と言う意味もある。ここはブランデンブルク城。その城の主は現在の国王ヒルデベルト・アスタロス陛下で、この国の一番。それに告ぐ二番は──彼の最愛に捧げられる席だ。
アンネが扉を軽く叩く。最初に一回、次いで三回。合計四回の音が響く。この四と言う数字にも色々な意味があるが、今回の場合だと属性の数だろうか。
地、水、炎、風。四つの属性で構成される妖精力。その全ての恩恵を余すことなく受ける事を意味し、またその全ての厄を跳ね返す意味を持つ数字。
この国の二番で、四つの属性の恩恵を受け、銀に守護される最愛。
それはこの国の長、ヒルデベルト・アスタロスの妻。
「失礼します、ローザリンデ様。クラウス・アルフィルクをお連れしました」
ローザリンデ・アスタロス。民の間では露草姫と呼ばれるこの国の王妃殿下だ。
伏せた視線でアンネに着いて部屋に踏み入れる。視界に豪奢な絨毯と純白の寝具。そして鼻には嗅ぎ慣れない薬のにおい。
クラウスもここに通されるのは初めてだが、肌が過敏に嫌悪感を示す。
このにおいは、病のにおい。人に生じる不調や不都合。何時己の身に降りかかるとも知れない災禍だ。
そんな事を考えているとアンネが足を止める。続けて歩みを止めればアンネと一緒に自然と体が膝を突いた。
「……よく来てくれたね、さぁお顔を見せておくれ」
線の細い鈴の音のような掠れた声。間近で聞いた彼女の声は、今にも崩れてしまいそうなほど儚く響いていた。
言葉と同時、目の前に差し出された手を取ってその甲に口付けを落とす。手の甲への口付けは敬愛の証。
細く白い指を放しながらゆっくりと顔を上げる。
そうしてようやく目にする露草姫の姿。
長く伸びた白縹色の髪。綺麗に手入れされた彼女の後ろ髪は砂糖菓子のようにふわりと柔らかく波打って、柔らかい雰囲気を辺りに振り撒く。
病の所為か少しだけ細い首筋や白い肌は、彼女の纏う印象を更に儚いものにさせてこちらの胸を締め付ける。
そしてこちらを向く細く閉じられた目。彼女はその瞼を開くことなく静かに笑って告げる。
「何とも利発そうな顔立ち。貴方に会えて嬉しいわ、アルフィルク君」
「こちらこそお会い出来て光栄です、アスタロス王妃殿下」
ローザリンデはくすくすと肩を揺らして笑うと姿勢を崩すように言った。
彼女の言葉に頷いて静かに立ち上がる。その間、一時も彼女の笑顔は崩れない。
「今日は少し気分がよくて。これで貴方の目を見てお話できれば文句はないのに……」
彼女の言葉に、側に立っていた使用人が肩を震わせる。確かに立場にしては些か子供っぽい言い分だったかもしれない。けれどそんな風に言ってもらえるクラウスとしては嬉しい限りだ。
そんな事を考えながら思考は別の事を追う。
アスタロス王妃殿下は、目が見えない。生まれ付いてではなく後天的なものだが、全く視界をもたない全盲なのだ。
目の見えた頃を知る者は、彼女の瞳を透き通った縹色と形容したそうだが、残念ながらクラウスは彼女の瞳を直接見たことが無い。あるのは肖像画などだけだ。
彼女が光を無くしたのは前の戦争……第二次妖精大戦の時で、戦争相手である敵国の工作によるものだ。
直接戦争に関係が無かったとは言え、彼女の綺麗な縹色の瞳──露草色とも称される鮮やかな青色が色を失ったのは、民にとっても大きな衝撃だったのだろう。
そのためか露草の別名である月草の名から着草姫とも呼ばれ、いつの日か彼女の瞳に色が着くようにと深い思いを込めて現在も敬愛されている。
そんな民に愛されるこの国の王妃。彼女の御前にクラウスがお目通り叶った理由を思い出す。
「さて、アルフィルク君。今日貴方を呼んだのは他でもない、今世界中で確認されている妖精の変化……確か妖精変調と言ったかしら。あれについて詳しく聞きたいからよ」
「浅学甚だしいですが少しでもお力になれるのでしたらお話しいたします」
「えぇ、是非にお願いするわ。現状によってはもしかすると打開の一手が打てるかもしれないから」
ローザリンデの言葉に流石のクラウスも肩を揺らす。
既に対抗策? やはり彼女はクラウスが及びもつかないほど聡明な御方だ。
彼女は若い頃この国の研究員として働いていたとの事。それは彼女について少しでも興味を持てば聞く話だ。
彼女はその聡明な頭脳で王国一の研究員とも噂され、若い頃から期待を込められて仕事に就いていた。
特に妖精術についての研究、開発の分野において彼女の右に出るものはいなかったと言われている。それほどに彼女は賢く、そして優美だったのだろう。
そんなローザリンデを見初めたのがヒルデベルト国王だったりするがその辺りはまたいつか。
彼女が世界に色を失ってからも妖精術の開発には衰えを見せず、今もこうして病床に伏せながらも気分のいい時は妖精力を弄っていたりするという話をよく耳にする。
そんな彼女の一言。クラウスとしても聞き逃すわけにはいかず呼吸を整えて話し始める。
クラウスが得た情報、アルが齎した事実、カイが伝えた真実。そしてそれらを踏まえたクラウスなりの見解。
まだ整理し切れなかった為か少しだけ言葉が長くはなったが、それでも静かに耳を傾けていたローザリンデはクラウスが話し終えると大きく一つ頷いて口を開く。
「……なるほど、そんな事に。となるとこれを組み替えれば出来そうかしら」
そう言って方陣を一つ描き出すローザリンデ。断りを入れてその方陣に触れると、頭の中に幾つもの命令式に満たない言葉の羅列が脳裏に浮かぶ。
命令式は妖精が妖精語を使って構成することで意味を得る。そのため人間が人間の言葉で組み上げたものは、幾ら妖精力を流し込んでも何かを引き起こす事はありえない。
けれど人間の言葉で組み上げたものは妖精力に精通しているものならば触れれば理解をする事は出来る。他人の作りかけを見せてもらうことなど滅多に無い為その違いに少しだけ驚いたが、気付けば彼女の意図していることが脳内には思い描かれていた。
それほどまでに緻密で整然とした単語の羅列。これを命令式にしたらどれほど綺麗な妖精術が出来上がるのかと想像して一人身を震わせた。
クラウスが手を放すと彼女は方陣を消して問い掛ける。
「どうかしら?」
「僕が意見していいものかは分かりかねますが……結界術式に永続術式を組み込んで、後は妖精力の自然供給方法を確立させれば形にはなるのではないかと」
「謙遜する事はないわ。その年で世界的な術式を一つ作り出したんだもの。貴方は貴方の思い描く理想に自信を持ちなさい」
「ありがとうございます」
世界的な術式。クラウスが作り出した危険度が高い妖精術と言えば、妖精術統括理事会に承認された反転術式一つだ。
規格では戦略級であったはずだが、ローザリンデの中ではあれは世界的に影響を及ぼすものらしい。必要に駆られて作ったものとは言え、それほどの評価をいただけるのならば少しだけ自信も付くというものだ。
それから彼女についてもう一つ。彼女の目が見えないのは周知の事実だが、光を失った代償にか彼女の言葉はどこか目では見えないものを追っているという話がある。
具体的に言えばその人の考えていること……夢や理想だろうか。クラウスの場合は妖精の国についてがそれに該当するだろう。
どちらかと言えば眉唾な部類に入る論だが、クラウスは彼女の感じたものを尊重したいとは思う。
目が見えないからこそ見える景色。それは一体どんな風景かと少しだけ夢想して優しく笑った。
「さてさて、余り時間を奪っても仕様がないわね。また何かあれば声を掛けてもいいかしら?」
「アスタロス王妃殿下のご期待に副えるのであれば」
「えぇ、よろしくね。貴重な時間をありがとう、久しぶりに外のことが知れて楽しかったわ。またこの世間知らずの話し相手になって頂戴ね」
「こちらこそ、ありがとうございました」
随分と茶目っ気のある言葉選びに友達のように返して部屋を後にする。
隣を歩くアンネがしばらくして声を掛けて来る。
「……緊張しない?」
「もちろんするよ。でも有意義な時間であることには変わりないからね」
「全く、クラウス君らしいね」
呆れたように言うアンネに笑って前を向く。
色々な寄り道が出来てはしまったけれど目指すべき理想は変わらない。そのためにも今出来る事を堅実に成していく他ない。
踏み出した一歩はとても儚くて、前後不覚に陥るけれども。隣にフィーナとアルがいるのなら、クラウスはきっと迷わずにいられる。
だからただ真っ直ぐに前だけを見つめて次の一歩を踏み出す。
その道が妖精の国へと繋がっている事を信じて。




