第三章
「お疲れさま」
視界がいつもの見慣れた景色を捉え、安堵が高鳴った胸の鼓動を静かに静めていく。高揚した戦の余韻に浸りながら、視線の先に仲間を見つけて労いの言葉を背中に掛けた。
「……お疲れ」
「で、出来ましたっ」
ユーリアの返答はどこか冷徹な一発の銃弾のような鋭さを持って、彼女の親友であるアンネは対照的に興奮冷めやらぬといった様子で。
恐らく格上の相手に人数的不利を抱えた状態で勝利を収めたことに少しばかり優越感を感じてはいるのだろうが、それをあからさまに表現すると今度はこちら側での戦闘になりかねないので簡単に諌めておく。
「勝ったとは言ってもあまり小規模戦闘向きの作戦ではないからね。今回は偶然に助けられただけだよ」
「そうよ、今回のは作戦でも何でもない。ただの偶然の産物よっ」
クラウスの言葉に何処か怒った風な口調で言葉を重ねるユーリア。軍人らしい勝利に驕らない堅実な物言い。彼女の愛銃のようなその実直さに少しばかり共感と好感を抱いて、クラウスもまた気を引き締める。
「そういうことだから、あんまり過信しすぎても今度は僕が辛くなると言うか……」
「あの、えっと……!」
慌てるアンネに笑顔を向けて整列を促す。互いに称え合うように敬意を示して礼を行うと、それと同時にクラウスの目の前に差し出された手のひらに視線を止める。顔を上げると、そこには先ほどの戦闘で炎の妖精術を操っていた男子生徒が快活な笑顔でこちらを見つめていた。
「誇れ、小さき勝者よ。敗因は幻術を想定できなかった俺たちにある。その意表をつく明晰な作戦指揮、俺も見習いたいものだな」
年齢的には恐らく一つか二つ上なのだろう。けれどもそんな年の差を感じさせない堂々とした立ち振る舞いがクラウスの胸を打つ。
畏怖さえ感じるほどの豪快な笑みに、クラウスは手をとり同じ笑みで返すと彼の一回りは大きい掌を強く握りこんだのだった。
それから休憩と戦闘を繰り返し、数戦の勝敗を経験した後に大きく鳴り響いた午前最後の鐘の音に、クラウスたちは教員の実技訓練終了を告げる声を耳に聞く。
途端、辺りから瘴気のように漏れ出た溜息に失笑を零すと肩の上へと腰を下した相棒に声を掛ける。
「お疲れ様。戦闘訓練は午前だけだからこれで終わりだよ」
「そうですか。クラウスさんも、お疲れ様ですっ」
フィーナは百合の花のような笑顔を咲かせるとそう答えて足をふらふらと揺らし始める。
今回の戦闘では幾つか彼女に頼る場面があった。もちろん、妖精従きとその契約妖精なのだから持ちつ持たれつは当然のことなのだが、クラウスからしてみればそれは自分に足りない何かを彼女に求めているような気がしてあまりいい気分ではない。
何を求めているのかといわれれば言葉にするのは躊躇われる。けれどそれをフィーナに求めるのは彼女にとっても苦であることだろう。何よりクラウス自身の甲斐性や実力の無さが原因の一端ではあるため元々の問題はクラウスにあるわけで。
「……僕もまだまだだね」
「クラウスさんはすごいですよ!」
そうして笑いかける彼女の笑顔が少し眩しくさえ感じる。
けれどそうして俯いてばかりも居られない。反省をするならそれを踏まえて前に進まなければ。何処か無理やりに笑顔を作って彼女の賞賛に答えると心からの欲求を口にした。
「お腹すいたね。お昼にしようか」
「はいっ」
上機嫌なフィーナを肩上に乗せてクラウスは歩を進める。一度教室に帰り弁当を持って購買に寄り、フィーナの昼食たるクリームパンを一つ買うと屋上へと足を向ける。
蝶番の軋む音を響かせて運動後の疲労から少し重く感じる扉を押し開けると、そこに広がった青空の下の景色に胸に息を目一杯に吸い込んだ。
「あっ」
そうしてクラウスが戦の緊張感と軛から開放された体を堪能していると、彼の顔の横から声が上がって注意を引かれる。彼女のほうを見れば視線はクラウスの前方へ。
誘われるようにそちらに目を向ければフィーナが声を上げた理由に納得する。
そこにいたのは先客。それも先ほどまで行動を共にしていた元戦友であるユーリアとアンネの二人。
フィーナが彼女たちを見つけるのと同時、ユーリアは目に見えるほど渋面に、アンネは何処か期待するような瞳でクラウスを見つめる。
どうするのが正解だろうか。数瞬迷って、それからクラウスは静かに足を出す。
クラウスの選択にユーリアは視線を逸らして静かに手元の弁当へと視線を落とす。歓迎されていないのは彼女の近くに居る時と何も変わらない。
「一緒にお昼いいかな?」
「………………好きにすれば」
声を掛けるとアンネは何処か困ったように隣の友達へと視線を向ける。クラウスもつられてそちらに目をやり、フィーナも同様に視線を彼女へと移す。図らず視線の針に晒されることになったユーリアだったが、一つ小さく溜息を吐くと諦観した様子で相席を許可してくれたのだった。
流石に彼女の隣へ座るのは悪いのでアンネの横へと腰を下す。足の上に弁当を広げてフィーナのパンを開封すると千切って差し出した。
「わぁあ……」
と、そこで隣から上がったのが感嘆の声。顔を向ければアンネが目を丸くしてクラウスの広げた弁当に目を落としていた。
「アルフィルク君、お弁当なんだね……。もしかして自分で作ったの?」
「そうだよ。僕は寮生活だからね、一応自炊や簡単な家事は頭に入れてるつもり」
「そのっ、美味しそうだね」
「ありがと。よかったら何か食べてみる?」
「いいの?」
期待に副えるかは置いといて。アンネに弁当を差し出すと彼女は迷った後に卵焼きを選んで口にする。
クラウスの作る卵焼きは少し甘めだ。彼女の口に合うといいのだが。
「ぁわっ……ふわふわだね。あ、甘い。これは……お酒かな……?」
「料理酒を少し入れてるんだ。種類にもよるけど甘さや風味がいい感じについてくれるんだ」
「そうなんだ。今度やってみようかな……」
「ルキダさんはよく料理をしたりするの?」
「私は、えっと、実家通いで。お母さんの手伝いで時々、かな。今日は購買でパンを買ってきたんだけど」
話題に共通点を見出して会話が弾む。
異性間……更に言えばクラウスとアンネでは人間とクォーターという隔たりが存在するが、そんな些細な違いで生活環境が一転するわけではない。
生き物が生活をするのに必要な事は娯楽などの話題にも似通い有り触れていて、けれど実感のしない隣り合わせの……契約妖精のような関係だ。数を挙げればきりが無いが、有名所なら趣味でも必要に駆られてでも共通の話題の一つや二つはあって然るべきだ。
「……でもやっぱり一人だと食材が余っちゃうからね」
「そういう時は自炊するより買った既製品の方が安上がりになるってお母さんが言ってましたよ」
「やっぱりそうなのかな。今のところ僕が作る時は二人前以上だけど」
「二人……えっと、アルフィルク君には幼馴染の……あっ」
次々と話題は飛んでいき、やがてクラウスの事へも広がる。
アンネが言葉を言いかけて途端に口を閉ざす。彼女はどこか怯えるようにクラウスの顔を覗き込むと、それから顔をユーリアに。
アンネが何に気付いて言葉を引っ込めたのか、その理由に至って小さく笑うと彼女のあとを継ぐように喋り始める。
「大丈夫だよ。今は三人だけだし、話題に出したからって僕たちは特に気にしないから」
申し訳なさそうに俯くアンネに気負いしない笑顔で語りかける。
「それに今日の弁当も実は二人分作っててね。二人とも寮生活だから作った時は僕があいつの部屋の前に置いておくんだ。で、寮に帰ると大抵あっちが先に帰ってるから部屋の前に空の弁当箱が置かれてたり」
話題は勤めて明るく。言葉を連ねていくうちに次第にアンネの顔から曇りが消えていく。
「あいつはちょっと乱暴で料理が苦手だから大体は僕の一方的なものだけど、僕には無いものを持ってて僕には足りないところを補ってくれる。……そういう優しいやつだよ」
少し身内話っぽい空気で言葉をしめるとアンネは何処か優しい笑顔で笑う。
「いい幼馴染ですね」
「僕の自慢の幼馴染だよ」
笑って言葉を返すと彼女は慈愛のような微笑で答えて、再び昼ごはんを摂取しに掛かる。
一つの話題の終了を見てクラウスも止めていた手を弁当へと伸ばすと頭の横から相棒の催促。そういえば話に夢中で彼女のことが頭から零れ落ちていた。
謝りつつお好みのクリームいっぱいの部分を千切って渡すと白銀の長髪が猫の尻尾のようにふわりと揺れた。
そんな風にアンネとの間に話を紡ぎ、幾つかの時間を会話に割きながら昼食を摂っていると、唐突に影が視界に被さって暗くなった。
空は変わらず雲ひとつ無い快晴だ。影の落ちる余地は無い。
不思議に思いつつ顔を上げてみれば影の元は立ち上がったユーリア。彼女の横顔は顰めっ面の仮面を被り、纏う雰囲気は気高ささえ感じさせる斜めに傾いだ感情で彩られていた。
直ぐに少し悪いことをした、と反省したのと同時、ユーリアが早足にその場を去っていく。
「ユーリっ!」
アンネの呼びかけにも答えず潔癖なほどの足取りは扉を開け放ち彼女の背中姿が校内へと消えていく。
取り残されたアンネとクラウスの間には居た堪れない空気が漂い始め、アンネは不安そうに扉とクラウスの方を見比べる。
「……僕はいいからルキダさんはユーリアさんに着いて行ってあげて。あと、できたらごめんねって伝えてくれるかな」
「えっと、ごめんなさい。と、わかりましたっ」
律儀に謝って寄越すアンネはどれほど心の優しい少女なのだろうか。彼女の暖かさに胸を打たれながら見送り、彼女の背が見えなくなると体に任せて落下防止用の欄干に背中を預ける。
「ばっかだなぁー……」
呟きは戒めへと変わり胸の内に蟠りを落とす。
元はといえば彼女たちの空間だったのだ。そこへ踏み入り荒らしたのは、他の誰でもないクラウス。
優先しすぎた自己の感情は他人に不快感を与えその間に違和感を齎す。そんなこと、今までの経験でわかっていたことなのに。
相棒を横目で確認すると彼女は気がかりそうに閉まった扉を見つめている。
彼女が悪いわけではない。ただ単にクラウスがフィーナとの出会いからこっち、気付かないうちに心が浮かれ、空気を察することが出来なかっただけ。
空気を悪くした責任は、クラウスにある。
「クリームパン、ぼぅっとしてると鳥に食べられるよ?」
「……おいしくないから、いりません」
無意識に共有された感情は彼女の心に不安感を掻き立てる。クラウスは少しの間その場から動くことを躊躇って、彼女の小さな頭を指先で撫で続けたのだった。
目が痛くなるほどの太陽と澄み渡る青色の空を時間を気にせず眺めて。気付けば耳が昼休みの終了の鐘を捉えていた。
視線を落とせば足の上の弁当は四分の一程度が残っており、耳の横からは健やかな小さな吐息が囁いている。
そんなフィーナの奔放で、けれど辺りの空気を巻き込んで癒してくれる魅惑的な振る舞いが今だけは羨ましく感じつつ広げた弁当箱を包んでいく。
その最中で揺れにか目を覚ましたフィーナが寝ぼけ眼で辺りを見回しクラウスと視線が合って数秒後、慌てたように飛び上がり少し離れた場所で身だしなみを整えると、何処か怒った風な口調で声を発した。
「午後の授業、遅れますよっ」
これは妖精全般というか人間の血が混じったフィーナだからなのかもしれないが、彼女は時たま今のように体裁をよく見せようとする節がある。特に寝起きや食事の際はそれが顕著で、人間の生娘がよくする様に身の回りを気にして振舞う事が多く、見ようによってはフィーナがクラウスを異性として意識しているようにも感じる。
妖精従きと契約妖精の間には擬似的な恋愛感情が芽生えるが、その感情と実際の恋愛感情の差は恐らく彼女たちには認識のし辛いものなのだろう。彼女たちがそうであるからして、クラウスたち人間側からもその境界線は曖昧で判断に迷うことが多々ある。
けれど恐らく。フィーナのそれは人間がその異性に抱くような恋愛感情ではないはずだ。
感情の共有は何も妖精従きから妖精に向けてだけではない。その逆もまた存在するのだ。
流入する感情は表層の──強く形になった想いから溢れ出したものがその最たるものだ。恋愛感情などの起伏の激しい心情は、昂れば杯に注がれた神の血のように溢れ、相方へと流れ出ていく。
意識して胸の内に存在する彼女の胸懐を探っても、今のところそう言った本格的な恋慕の気持ちは感じられない。
この感情は──嫉妬にも似た自己嫌悪だろうか。
フィーナはクラウスの相棒であるから、相方であるが故に近しい理解者であり協力者だ。相手のことを知りたいと願うのは当然のことで、妖精従きと契約妖精がそうであるように頼り頼られることを心のどこかで欲している。
感情の源流はきっとその辺りのすれ違いや、彼女の抱える責任感なのだろう。
妖精従きとして伴侶であるからこそ理解をしたいし力になりたい。その為ならば自分の心も着飾ろうとする。けれど頼られなければ、受け入れられなければそれはただの強要になってしまう。そんな鬩ぎ合いの中で生まれた、彼女の小さな願いの形だ。
「フィーナは……」
「…………?」
前を行く妖精の背中に語りかける。彼女はその持て余した感情を胸に秘めたまま振り返り、糾弾と取り縋りを混ぜ合わせたような視線でクラウスを射抜く。
彼女を納得させられる言葉を紡げる自信はない。けれど言葉にしないままでは心の奥底に眠った感情は届きはしない。
「フィーナは、僕の相棒だよ。それはきっといつまでも変わらない」
「……………………」
感情を遮断したような硝子玉のような二つの瞳が瞬き、吟味するように不躾に視線を這わせる。
言葉足らずな言葉に、幾秒か視線を交わす間を置いて徐に視線を逸らしたフィーナは変わらず宙を飛んで前へと進みだす。
「だからどうしたんですか?」
次いで放たれた彼女の言葉はどこか優しい響きで持って。その刹那に心のうちに流れ込んできた彼女の心の機微にクラウスは小さく笑みを浮かべる。
色々難しく考えたけれど、事はもっと単純なのかもしれない。
脳裏にそんな事を考えつつ、クラウスは教室へと向けて鼻歌交じりに舞う相方の背を追いかけて足を出したのだった。
教室に辿り着くと殆どの生徒が席に着いて近くの友達と談笑をしていた。クラウスは自分の席へ歩いて行く中で、近くを通ることになるユーリアとアンネの席を横目で見る。
ユーリアは変わらぬ表情の読めない顔で手元の帳面へ筆を走らせ、アンネはそんなユーリアとクラウスの間に視線を行き来させる。目の合ったアンネは何処か申し訳なさそうに目を伏せた。
胸に小さく痛みを落としてクラウスは席へと座る。それとほぼ同時、教員が教室に入ってきて教室内の喧騒は次第に収まっていった。
時間は過ぎて放課後。鞄の中に教材を放り込んで肩に担ぐと無二の契約妖精を頭に乗せて校舎を南から北へ。一階の職員課で『契約の儀』で言い渡された能力査定書を提出すると同じ棟の最上階へと向かう。後ろに一人、途中から距離を開けて着いて来ていた少女には気付かない振りをして目的地へ到達。
辿り着いたのは生徒会室。目的はただ一つ、校内保安委員会の招集だ。
扉を叩く音を響かせて返事を聞くと取っ手を引いて中へと入る。
「来ましたよ、生徒会長」
不躾に踏み入ってこちらに背を向ける人物に声を掛ける。
中庭を見下ろしていた彼女は肩上で切り揃えられた清潔そうな青い髪を揺らして振り返り、穹色の瞳でクラウスとその後ろに立つ少女に笑ってみせる。
「いらっしゃい。好きなとこへ座って。……ヴォルフ、お茶ー」
着席を促して生徒会長──ニーナ・アルケスは自分の定位置であるシックな木製の机付き会長席へと腰を下す。
備え付けのソファー一対を手のひらで示す。クラウスとユーリアがそのソファーに距離を取るように対角線に座ると、クラウスの後ろの扉が開きカップとポット。そして茶菓子を載せた銀色の盆を持った精悍な顔立ちの男性が現れた。
背丈はクラウスより20セミル程高いだろうか。こげ茶色の短髪に薄墨色の双眸を拵えた男子生徒。ネクタイの色は赤だからハーフェン級だろう。
ここフィーレスト学院には五つに分かれた階級があるが、その階級を目に見える形で表したのがネクタイやリボンなどの制服の服飾だ。この装身具には階級別に色分けがしてあり、その五つが次の通りだ。
ハウズ級、青色。ドルフ級、黄色。トーア級、緑色。ハーフェン級、赤色。フォルト級、紫色。
またネクタイやリボンのほかに院章の入ったバッジやブローチなどの種類もあり、ユーリアは首元に学校のバッジとそれから軍属の証である階級章を着けている。これらは国軍や学院では着用を義務付けられているため、クラウスも首の絞まらない徽章を襟に着けている。
もちろんだが妖精には階級制度も規定の服装も無いので、学院内では元々の貫頭衣や妖精従きに与えられた服を着用していたりと自由で色鮮やかな景色を見ることが出来る。
と、そんな事を考えているうちに紅茶と焼き菓子が準備され、部屋の中に茶葉の芳しい香りが漂い始めていた。
「あ、そうそう。クラウス君の幼馴染……だっけ? あの子今日は欠席だから今回はもう始めるわね」
先ほどの物言いからこの茶葉や茶器は私物なのだろうか。などと、どうでもいいことをクラウスが考えているとニーナの口から唐突に今回の会議について告げられる。
クラウスの脳裏を掠めるのは赤髪の幼馴染。元気だけが取り柄の人物だがそれが欠席とは。病欠ではないだろうが少し気になりはする。
「学院自体を欠席してるわけではないでしょう?」
「えぇ。ただ少し込み入った事情があってね。あの子には一足先に校内保安部隊の一員として仕事をしてもらってるのよ」
質問には少しぼやけた、けれど現状の答えとしては妥当な返答をするニーナ。書類上だけの暫定員にはまだ話を詳らかにするつもりは無いということだろう。
となれば幼馴染としての心配から今回の会議を早く進めたくなる。……なんと狡猾な人物だろうか。疑心に彩られた協力を当人の探究心を利用することで恰もその人物が自主的に参加したように錯覚させ逃げ場を無くす言葉巧みな手腕。敵にするのは避けたい人物だろうか。
冷静に思考を巡らせて既に彼女の手のひらの上であることを自覚すると、溜息を一つ吐いて先を促す。
「……それで、今回の集まりは顔合わせとその今起きている事件についてですか?」
「察しのいい子は大好きよ?」
妖艶に片目を瞑るニーナ。彼女の愛嬌を受け流しつつ先ほどから頭の上のフィーナがちらちらと気にしている事柄に触れる。
「ではとりあえず自己紹介ですか? 生徒会長、最初はお譲りしますよ」
「あらありがとう。じゃああたしから。たぶん知ってるだろうけど……知らなかった後でお仕置きね? あたしはニーナ・アルケス。この耳を見てもらったらわかる通りあたしは人間じゃない。純血のエルフよ」
ニーナの鋭い視線にフィーナが少し強くクラウスの髪の毛を掴む。
エルフ。人間や妖精とは異なる種族。彼女たちは妖精と同様の細長い耳殻を持ち、妖精力とは毛色の異なる……人によっては異端と称し嫌悪する精霊術を扱う種族だ。精霊術は妖精術と対照的な特徴を持ち、妖精術が妖精力を行使しものを生み出す事を得意とするのとは逆に、精霊術は既に存在する物質……木の枝や水を操り形を成すことを得意とする技だ。
精霊術にも妖精術同様に属性の概念は存在するが、エルフ自体の存在が希少なため細かく読み解くには世界に散る文献に頼ることが多く、その術式や構造も妖精術と比べ未だ謎に満ちている。
エルフは歴史の中で幾度も悪魔の烙印を押され、その度にエルフ狩りや断罪裁判などが執り行われたことが現代のエルフの数が少ないことに影響している。現在ではその殆どが無害であるとされているため一昔前までの村や町、果ては国を挙げての戦の火種になったりはしていない。けれど長い歴史を生きる人々にとっては彼らが過去の生き証人であり、彼らの中に根付いているエルフへの断絶や拒否感が今でも少しばかり残っている場面を目にすることもある。
そんな、どこかクラウスの生い立ちにも似た生を送ってきたニーナ。彼女がこの学院で生徒会長という座に君臨している事実はどれほど彼女の身を敵愾の炎で痛めつけた証なのだろうか。
「得意な属性は水……ウィルムね。契約妖精はディルク。特徴はこの豊満な胸よ」
けれど彼女はそんな苦痛を表情や仕草には出さない。疎外される痛みを知っているからこそ、その攻撃的な感情を辺りには振りまかない。
そう固く心に誓ったように明るく陽気に振舞う彼女の姿は似通っていてもクラウスとは重ならない。
「あと気付いてると思うけどあたしはドルフ級の生徒よ。だからクラウス君も
クー・シーさんもあたしが年上だからといって変に気を使わなくていいからね」
そう告げるニーナに曇り顔は似合わない。そう思わせるような笑顔で優しく、けれど大胆に自分を紹介すると視線を彼女の相方へと移す。
彼女が顔を向けたその先には小さな妖精が。群青色の長い後ろ髪に金色の目。目鼻立ちのすっきりした男の妖精。
「オレはディルクだ。御嬢の契約妖精で得意なのは水系統。あとはまぁ、口調通りこんないい加減な性格してるからあんたらも適当に接してくれ。よろしくな、クラウス殿、ユーリア殿」
人間がそうであるように妖精にも性別は存在する。ただどういうわけか妖精には女性が生まれる確立のほうが高いらしく、男の妖精は数が少ない。
またエルフでも妖精との契約は行える。人間の場合は妖精力が使えれば妖精が見えるし、契約も波長さえ合えば可能だ。けれどエルフの場合は妖精が見え妖精術が扱えても精霊術との相性で契約を行えないエルフも居るらしい。
目の前の二人はそんな数少ない種族と数少ない性別。そして偶然の波長の一致から生まれた妖精従きというわけだ。
「え……? あれ……?」
と、そこで上がった声はクラウスの頭の上から。不思議に首を傾げるフィーナにクラウスは声を掛ける。
「どうかした?」
「あ、いえ……。その、わたしの記憶なんであまり当てにならないんですけど……ドルフ、の方なんですよね? どうして妖精と契約をされてるんですか?」
その疑問は少し考えてみれば尤もなことで、そしてクラウスとユーリアも知っていて敬遠していた話題。
妖精との契約、『妖契の儀』はドルフ級からトーア級に上がった最初の春に行われる行事だ。つまりトーア級以上の生徒が妖精を持つことを許され、それより下の階級の生徒は契約妖精を持たないはずだ。
しかし目の前の女生徒、ニーナはドルフ級の生徒だ。生徒会長という特殊な肩書きとエルフという特別な血を持つ彼女だが、そのどちらにも例外的に妖精との契約を許可するといった特別措置が付随するわけではない。
ドルフ級でありながら妖精従き。そこを読み解けば彼女がどうしてクラウスやユーリアよりも下の階級に属しているのか、その理由を明らかにすることになる。
彼女の内情に干渉する話題。だからこそクラウスもユーリアも話題にするのは徹底して避けようとした。
「……フィーナ、それは────」
「クラウス君? 勝手に人の生き様を言い触らすのはのは感心しないよ、お姉さん」
「……………………」
契約妖精の不始末は妖精従きの不始末。いつでも一心同体であるが故の当然の報い。
『妖契の儀』からこっち、色々とあったとはいえその理屈を話す時間は確かにあったはずだ。それをしなかったのはクラウスの責任。
いくら諌めようとしたとはいえ、普通に考えればこれはクラウスの問題だ。
「……まぁ、隠してることじゃないんだけどね」
「……すみません」
静かに謝るとニーナは手を振って答える。それから一口紅茶で喉を潤して話し始める。
「別に終わったことだから、今更掘り返してどうこうしようって気は無いけど。少し前に……フィーナちゃん、かな。君たちが契約を行った『妖契の儀』をより前。まだ前年度の時にね、あたしが少し馬鹿をやらかしたことがあってね」
彼女の語りはどこか懐かしむような語調で紡がれる。
「その前からずっと陰で言われてて……由緒ある学院の生徒会長をエルフがしてるってね。最初は囁き程度……それこそあたし自身が口にするほど冗談の話だったんだけどね、その話を真に受けた生徒も中には居て。あたしが失敗を犯した時に火の様に糾弾した生徒たちが職員を相手にとって抗議をしたんだ」
寂しく揺れる穹色の瞳は一体何を思い浮かべているのだろうか。彼女はざらつく傷跡を舐めるようにゆっくりと続ける。
「『ニーナ・アルケスを生徒会長の座から引きずり落とせ!』。『ニーナ・アルケスは穢れたエルフの血を引く悪魔の末裔だ!』。……とかね。あたし自身は別に何とも思わないよ。そんなの昔から言われ慣れてるから」
──ハーフィーと呼ばれる生き物は均衡を保ち妖精にも人間にも、好かれ、厭われる
──けれどその子孫たるクォーターはその均衡を保てない
──均衡ではないが故に、歪み、捩れ、そして厭われる
──世界は均衡でないものを嫌う
一層深く沈む瞳の色はクラウスの灰色の視線と混ざって共感するように見つめあう。
「けれど一度燃え上がった糾弾の炎を消すのは教師陣も手を焼いたみたいでね、結果として二階級降級と軍属の剥奪を代償に鎮静化を図ったんだ。……けどもちろん生徒会長から降ろすのが目的の生徒たちはあまり納得しないままでね。そのうちに時間が経って幾人かの生徒は学院を辞め、勢いを失った生徒たちは少し落ち着いたみたいで。そうして危うい均衡の上に成り立ってるのが今現在の状況ってところかな?」
最後に弱々しく笑って首を傾げたニーナの言葉に、空気が重く沈む。フィーナは自分が何に触れたのか、彼女の心の錠に触れ何を開けさせたのか。その自戒に小さな胸を痛め、うな垂れて顔を隠す。
「けどあたしはこうして生徒会長をやってるし、今はもう悩んでも居ないから。だから悪いことをしたなんて自分を責めて謝らないで。……えと、フィーナちゃんの疑問の答えは、だから……元々あたしはそこのヴォルフと同じハーフェン級にいて、馬鹿だったあたしは罰としてドルフ級になっちゃったって話」
クラウスやユーリアはその現場や空気に直接触れていた人物だ。だから事の詳細はもっと知っているし、彼女を糾弾する言葉ももっと卑劣で苛烈なものだったことを知っている。
けれどそれを話題に出すのはこれ以上彼女を侮辱することだし、なによりそれをニーナは望んではいない。
「……フィーナ。教えてもらったことにはお礼を言わないとね」
「…………あ、りがとう……ございました」
「いえいえっ」
無理やりに笑って答えるニーナ。細められた瞳の奥は過去に何を願って今の境遇を受け入れたのだろうか。
その当時にも思った疑問をまた思い出して考えつつ、口は流れを読み取って間を埋めて声を発する。
「えっと、ブラキウム先輩、でいいんですよね。次お願いしてもいいですか? 終わったら僕たちが自己紹介をしますので」
「あぁ……」
話題を向けるときっちりと背筋を伸ばして立つ男子生徒は一言声低く答えて慣れない様子で喋り始める。
「……ヴォルフ・ブラキウム。年は17だ。得意属性は地。ハーフェン級……。生徒会の書記をしている。妖精は、クラウディア……」
「もうっ、だから暗いって。あれだけ明るくって言ったのに」
事務的に自己紹介をするヴォルフが言い終えると、その後ろからキャラメル色のツインテールを揺らした妖精が姿を見せる。
どうやら彼女がクラウディアらしい。橙色の瞳がくるりと光り、好奇心を秘めた安楽な雰囲気を振りまく。
「あ、アタシはクラウディアよ。クリスって呼んでくれると嬉しいですね。ご主人様の契約妖精で、属性は地よ。あと付け加えるとしたら妖精寄りのハーフィーって事かな」
それまでの空気を塗り替えるようにふわふわと陽気な声で宙を舞うクラウディアことクリス。彼女の暖かい声質にそれまで沈んでいた空気がようやく持ち直し、いつも通りで流れ始める。
「…………ブラキウム先輩は普通の人間で?」
「うむ」
クリスの最後につけた言葉にヴォルフへと疑問を向ける。頷く彼に少し珍しく思いながらクリスへと視線を戻す。
通常、妖精との契約においては妖精が契約する相手を選ぶ。その際に重要となるのはその相手が発する妖精力の波長だが、これは属性の波長のほかにその人物や妖精の生い立ちも関係する。
まともな人間はまともな妖精と。ハーフィーはハーフィーと。クォーターはクォーターと言う様に対になる形で契約をする事が、二人の間に安定を齎す。その為、クラウスはフィーナと出会った時にその偶然に彼女の涙を見たのだ。
しかし目の前の二人はその関係には当てはまらない、人間とハーフィーの関係。その間には恐らく属性での安寧しか存在しないはずだ。
「言いたいことはわかりますよ。でもそれを我慢するだけの理由があってもいいと思いませんか?」
契約によって得られる恩恵というのは回路を形成するからこそのものだ。回路が形成されれば双方に相手の妖精力の波形が直接流れ込み続ける。
人間の側にとってそれは言語の共通化や感情の流入という形になって表れるが、妖精の方はそれに加えて存在に必要な妖精力を直接受け止めることになる。ハーフィーにとって真人間の波形というのは半分に対し許容し、半分に対し拒否反応を示すはずだ。
体を引き裂くほどの苦痛という訳ではないが、小さい頭痛が鳴り響いているものと考えれば簡単だろうか。
そんな違和感を抱えたままで居ることを飲み込めるほどの得。それはきっと──
「だってこの気持ちは何物にも代え難いじゃないですか!」
彼女がヴォルフを真に愛してしまうほどの深い欲求なのだろう。
頬を赤く染めたクリスが宙で心を抽象化した形を描いて飛び回る。対するヴォルフの方は何処か達観したように無表情を貫き通しているが、妖精従きとしては契約妖精に慕われるのは悪い事ではない。
顔色一つ変えない彼が抱える懸念は幾つか想像できる。
例えばの話、二人の間に子供が出来ればその子供はクラウスと同じ血を持つクォーターになることだ。
ハーフィー……クリスは妖精寄りのハーフィーと言ったが、ハーフィーには血筋的な妖精寄りも人間寄りもない。この場合の妖精寄りというのは母親が妖精と言うことだ。人間寄りというのは母親がその逆である人間であるということ。
因みにクォーターはその身に流れる血の偏りで妖精寄り、人間寄りという言葉をつけることがある。この場合クラウスは人間寄りのクォーター。フィーナは妖精寄りのクォーターだ。
妖精寄りのハーフィーであるクリス。そして真人間のヴォルフ。その間に生まれる子供は人間の血が多くなる人間寄りのクォーターだ。
クォーターは忌み嫌われる。クラウスやフィーナが今までそうであったように、もし彼らの間に子が生まれた場合はその将来に苦痛を背負わせることになるのだ。
もちろん、ヴォルフにその気が無ければクリスの気持ちを跳ね除け続ければいいだけのことではあるのだが……。
どちらにせよ、少し行方の気になる二人ではあるが野次馬根性を剥き出しにして茶化すのは無粋というものだろう。
ヴォルフへ向けて同情的な視線を送るとクラウスは立ち上がり口を開く。
「では次は僕ですね」
そうして空気を壊さないままに掻い摘んで自己紹介をしてユーリアへと言葉を振る。その中で、フィーナだけはどこか影を落とした声で小さく呟くようにしていたのだった。
それぞれに自己紹介を終えて腰を落ち着ける。出された紅茶や茶菓子を食んで、ようやくフィーナの顔が茶菓子のお陰でいつも通り程に戻り始めたころ、カップを置いたニーナが肘を立て手を組んで口を開いた。
「さて……。あまり無駄話ばかりしてても時間は勝手に過ぎていっちゃうからね。そろそろ本題に入ろうかと思うよ」
彼女の言葉に空気が引き締まり、各々が聞く体勢をとる。こうして言葉に力が見える辺り、彼女が生徒会長の座を担うに値する人物だということが伺える。
「皆は今、学院内で起きてる悪戯騒動について耳にしたことは?」
クラウスは首を振って他の人物を見回す。ヴォルフは前もって書記として聞かされていたのか変わらぬ無表情。ユーリアは顎に手を当てて思案面。どうやら何か知っているらしい。
「……それは、やはり悪戯と気付かない程度の?」
「えぇ」
ユーリアの問いにニーナは頷いて続ける。
「それほど深刻な問題ではないの。それこそ蛇口から出た水が弾けて周りの人が水に濡れただとか、どこからともなく妖精弾が飛んでくるだとか……。個人が気をつけてればそう大事になることばかりじゃないし、起こっても不思議じゃないことばかりよ」
妖精というのはこの世界どこにでも存在する。一匹で存在するもの、複数で存在するもの、妖精従きの契約妖精となるもの。形は違えどそれは全て妖精の中から派生した姿だ。
だからこそ契約に縛られない自由な妖精が学院内に紛れ込むこともよくあるし、そう言った妖精が悪戯にちょっかいを出してくることもしばしばあることだ。そういう事象は妖精従きにとって悪意ある悪戯の域には達しない。そういう現象だという暗黙の共通認識が存在するだけだ。日常と言い換えても差し支えはないだろう。
「けど問題はその悪戯に人の影が存在するって事……」
しかしニーナの推論は異なるようだ。
「確証って言えるほどのものではないけど、そう仮定しても……いや、しないと説明がつかないことが幾つかあるの。その確証を、今クラウス君の幼馴染の子に探ってもらってる」
クラウスにとっては今日始めて耳にした話ばかりだ。けれど少し記憶を遡ったところ、クラウスはその悪戯に該当する事象を一つだけ見つける。
「そこで、皆にはその悪戯を行っているであろう人物の捜索をしてもらいたい」
「……! まさかっ……!」
「そう、二人でね」
ニーナの言葉にユーリアが勢いよく立ち上がり視線で反抗する。ニーナが笑顔を添えて言葉を返すと今度はその鋭い目をクラウスへと向ける。
……どうやら彼女はクラウスのことを快く思っていないらしい。
「どうしてっ────」
「よろしくね、ユーリアさん」
抗議しようとするユーリアに笑顔で手を差し出してみる。が、彼女はじっとその掌を見つめて、それから視線を外す。
「どうして私がコイツと…………」
呟きは小さく室内に木霊して。
その後、幾つか詳しい話をしたニーナは笑顔のまま会議を終えると、最後に特注の校内保安委員会のロゴの入ったバッジを渡してクラウスたちを送り出した。
廊下へ出るとユーリアは静かに足を出す。
「あの、ユーリアさん」
慌ててクラウスが追いかけると彼女は溜息を一つ零して足を止め、前を向いたまま突き放すように言葉を発する。
「気にしなくても、委員会の仕事はしっかりこなすわ。足さえ引っ張らないで居てくれればそれでいいから」
「……そのことも、なんだけど」
詰まりかけた喉からどうにか声を絞り出して背中に喋り掛ける。
「昼休みは、気分を悪くさせたみたいでごめん。ただそれを謝りたくて」
「そうやって──終わったことを掘り返して! あんたみたいな後ろばかり気にしてる人って大っ嫌いっ!」
唐突に、肩を震わせて怒るユーリア。気付けば彼女はこちらを振り返り、先ほど生徒会室で見せた鋭い視線を再びクラウスへと向けていた。
そんなアツく冷たい彼女のまっすぐな眼差しと言葉に、クラウスは心臓を鷲掴みにされた気がして思わず頭に血が昇りかける。
けれどそれより先に目の前のユーリアがはっとして表情を戻して逃げるように視線を背けた。同時に、クラウスが気がついて後ろに振り返ると、そこには胸の前で手を握ってこちらを見つめていたアンネが立っていた。
「……そろそろ、集まりも終わったかなって、迎えに……」
気を回して笑顔で間を埋めるアンネ。彼女の今にも泣き出しそうな顔を見て、クラウスも一度落ち着くと口を開く。
「うん、今さっき終わったんだ。ルキダさんはこれから帰り?」
「……うん」
頷く彼女に笑顔を向けて足を出す。
「僕もこれからだから。それじゃあ、また明日」
「また、明日……」
別れの挨拶を口にして静かにアンネの横を通り過ぎる。アンネがユーリアに駆け寄っていくのがわかったが、振り返る気はしなかった。
* * *
彼が去った後、友達と二人肩を並べて廊下を歩く。
隣には俯いた親友が居て、彼女は自分の行いを悔いるように掌を握り締めていた。
そんな顔はしないで。そんな顔は似合わない。
いくつも掛けたい言葉は脳裏を巡るのに、その一つでさえ声にはならない。そんな情けない自分が嫌で仕方ない。
そうして自己嫌悪をしたのが顔に出たのか、彼女は心配そうにこちらを覗き込んで笑ってみせる。
「そんな顔しないで。いつもみたいに笑ってよ。ね?」
そんな彼女の気遣いが胸に染み渡る。その役割は自分のものなのに。
こんな風に自分を押し殺す彼女を救いたかっただけなのに。
胸を突く衝動はいつの間にかベクトルを変えて。
「うん」
言葉ではそう答えつつ心に灯る感情は一人の少年の姿を描き出す。
今を変えたいと彼に頼ろうとしたから彼女が心の底から笑わなくなってしまったのだろうか。彼が居るから彼女の心が不安定になってしまったのだろうか。
だとしたら、その責任は誰にあるのだろうか。
彷徨う感情は答えを求めて暴れだす。やがて彼女と校門を抜ける頃、胸に芽生えた感情は私の心を黒く塗り潰す。
耳元で楽しげに嗤う妖精の囁きを、私は耳にした気がした。
* * *
翌日は少しだけ空に雲が掛かっていた。天気予報では降水確率はそこまで高くなかったし、もし降っても寮生活のクラウスは数分も走れば雨風凌げる寮へと駆け込める。そう思って傘は持ってきてはいなかった。しかし──
「フィーナぁ……?」
「だって風邪を引いたらどうするんですかっ」
学院に着いて鞄を開けてみれば、そこにあったのは入れた覚えの無い折り畳み傘。こんなことを出来るのはクラウスの身の回りではフィーナしかいない。
唸るように目を向ければ彼女は怒った風な口調で反論を寄越す。彼女の目は真剣だ。けれどそれとは別の感情を瞳の奥に灯してこちらを見つめていた。
その感情が何なのか、少し考えて納得がいくとクラウスは意地悪に口端を歪めてからかう様に尋ねる。
「フィーナは濡れるのは苦手?」
「え? あ、その……服が透けますし、苦手といえば苦手、ですけど……」
布に巻いた刃を突きつけると彼女は先ほどまでと打って変わって視線を逸らしながらしどろもどろに答える。
「まぁ雨が降れば気持ちがちょっと沈むしね。太陽の光も無いから薄暗いし」
「そ、そうですね……」
どこか逃げるように逸らした視線はちらちらと窓の外を窺い、機嫌を伺うように灰色の雲を盗み見ている。
「豪雨ともなれば雷も落ちることもあるし」
「かみ────!」
何気なしに話の中に混ぜながら言葉にすると、途端彼女の表情が引きつる。
そんなフィーナの反応に小さく笑うと、彼女は先程よりも視線を強くしてクラウスを睨む。どうやらからかった事に気がついたらしい。
「……それで傘か。でも傘くらいじゃ雷が落ちてきてもどうしようもないよ?」
「も、もう言わないでください……本当に落ちてきたらどうするんですかっ」
涙目になり始めたフィーナ。やりきれない気持ちを声にしてクラウスにぶつける様にかわいい以外の形容は無い。
が、やりすぎたつもりは無いのだが、彼女にとっては由々しき問題だったらしい。これ以上からかうと今度は大声を上げて暴れだすかもしれない。
そう思ったクラウスは彼女の頭を優しく撫でて柔らかく声を掛ける。
「……大丈夫だよ。雷は背の高いものに落ちるから傘よりも先に木に落ちたりするんだ。だから人間が雷に打たれることは殆どないよ」
「…………本当ですか?」
「嘘を言うとフィーナが本当に泣いちゃいそうだからね」
目の端に溜まった珠の雫を指で拭うと、彼女は鼻を鳴らして小さく睨む。
彼女の苦手なものを頭の中に記録しつつ、罪滅ぼしにとクラウスの苦手も口にしてみる。
「それに苦手なものは誰だって存在するよ」
「クラウスさんも、ですか」
「そりゃあね」
「……何ですかそれ?」
「…………女の子の涙、かな」
途端フィーナの頬が薄桃色に色づく。軽率な言葉だったかなと思いつつ胸の内を抉る記憶の中の彼女の涙に、クラウスは小さく寂しさを落としたのだった。
朝一の授業が終わってその休み時間。鐘が鳴り、教員が教室を出て行くのと同時、フィーナがクラウスの袖を引っ張る。
「クラウスさん、行きましょう」
「行くって?」
「犯人探しに決まってるじゃないですか」
クラウスの問いかけにフィーナが口にしたのは昨日ニーナより言い渡された悪戯の件だ。どうやらフィーナの中では既に悪人が出来上がっているらしい。クラウスもその線は否定しないが、だからといって怪しい人物を見つけて問い質すと言うのも骨の折れる作業だ。そんな事をしていれば下手をすると全校生徒が容疑者になってしまう。
そうなる前に、幾つか考えていたことを言葉にしてフィーナに伝える。
「僕は行かないよ」
「……何でですか?」
「そっちはきっとユーリアさんがやってくれる……って言い方は悪いかもしれないけど、ユーリアさんがやってることと同じ行動をしてもその効率は二倍になればいい方だよ」
「でもしないよりはいいんじゃないですか?」
「確かにね。それを全部ユーリアさんに任せるのは僕だって嫌だよ。だからその作業量自体を減らす」
怪訝な表情のフィーナ。彼女は首を傾げてクラウスの言いたいことを分かろうとしてくれる。
「闇雲に探すんじゃ無くて人や場所を特定するんだ」
「けどそんなの難しくありませんか?」
「そうだね、僕がやったところで高が知れてる。だから協力者に頼んでる」
「協力……あ、もしかして今朝のお弁当の時のお手紙ですか?」
「フィーナは察しがいいね」
笑顔で褒めると彼女は照れくさそうに笑う。
フィーナの言った手紙とは今日の朝いつものように幼馴染の部屋の前に弁当を届けに言った時のことだ。その時、弁当と一緒に手紙を一通置いておいたのだ。
「あの手紙の中って何を書いてたんですか?」
「…………僕には出来ないこと、かな」
少し考える間を空けて、あえてぼやかした言葉で答える。フィーナは眉根を寄せて唇を尖らせたが、今ここで口にして噂話程度でも話が広がるのは避けたい。
クラウスのそんな気持ちに気付いたのか、はたまた考えても詮の無いことだと思い至ったのか、彼女は尖らせた唇を引っ込めて別の疑問を口にする。
「……それじゃあクラウスさんは何をするんですか?」
「そうだね……僕は──犯人になってみようかな」
時間は過ぎて昼休み。早めに昼食を食べ終えて、フィーナと二人クラウスは校内をぶらぶらと歩き回る。
耳を傾けるのは生徒達の雑談。発売したばかりの雑誌の内容から午後一の授業の予習。そんな益体も無い会話の中に役立つ情報が無いかを聞き漏らさないように注意しつつ校内を散策していく。
辿り着いたのは北棟。
「ここには人はあまり居ませんね」
「その分目撃者も少なくなるけどね」
冷静な視線は段々と鋭くなり、想像の中に浮かぶ犯人の目線と重なり始める。
「……となると次は屋上に」
「屋上?」
なんとなくそう呟けば、クラウスの背中に掛けられる声。
振り向けばそこにいたのは黄色のリボンを首元に着けたドルフ級の女性徒だった。
「あの、屋上は今日は人が入るから立ち入り禁止って聞きましたけど……」
「そう、ありがとう」
親切な進言に笑顔で感謝を述べて壁に掛かった時計で時間を確認。針が数字を二つ移動すれば昼休みの終わりの鐘がなることを確認すると足を教室へと向けた。
「…………順調ですね」
「フィーナ、悪い顔してるよ?」
「クラウスさんに言われたくありませんっ」
肩上の相棒がくすくすと笑いながら言葉を零す。
午前中、授業の合間を縫って彼女には筆談である程度の流れを説明してある。クラウスの広げた索敵の網は徐々に収縮して行っている様で、その噂は先ほどの女性徒を鑑みるに階級を超えて広がり始めているようだ。
一つ、屋上は落下防止の欄干の立て付けが悪く危険なため立ち入り禁止。
一つ、その欄干が落下する恐れがあるので必要時以外校舎の近くをうろつかないこと。
そう言う強制力の無い、けれど無意識に胸の内に潜伏する注意事項が少し噂の流れを操作することによって風邪の感染のようにじわじわと蔓延していく。
更に言えばこの噂は生徒会、そして教員陣も軽く噛んでいる。この作戦を提案したのは一生徒だが、その後ろ盾……もとい噂の出所は力を持った一枚の分厚い壁だ。
こうして日常に有り触れた噂話が何れ狐の尻尾を発見させる手がかりとなる。
「もっとも、他にも色々同時進行はしてるけどね」
「えっ、あれで全部じゃなかったんですか?」
にやりと笑うとフィーナはクラウスの頬をその小さな手で押す。
そんな噂話が広がっていけば、翌日には必要時以外屋上へ近寄る人物は居なくなっていた。
翌日は狭まった捜索範囲と幾つかの釣り針を確認しつつ犯人探しを着々と行っていった。
午前中、噂に踊らされて立て付けが悪いと噂の鉄柵の下に行ってみると、偶然にも屋上近くで鉄柵が軋む音が聞こえた。しかし幸運だったのか鉄柵は落ちてこず、クラウスが怪我をすることはなかった。大方風か鳥が鳴らしたのだろうと考えつつすばやく思考をめぐらせる。
…………これで誰かが故意に悪戯を起こしているのだろうという推論の現実味が濃くなった。
それから放課後へと時間は過ぎ、掃除当番だったクラウスはごみ箱を抱えて北棟校舎裏の焼却場へと向かった。溜まったごみを可燃性とそうでないものに分けて処理するとごみ箱を抱えて教室へと戻る。
その道中、クラウスの背後に花の鉢植えが落下して、辺りに破片を撒き散らした事件とも呼べないクラウスにとっての幸いがあった。頭の上に落下しなくてよかったと思いつつ、すぐに上を見上げてみたが窓は閉まって噂のせいで人影も見当たらない。
今日は風も吹いておらず、自然に──を装って──植木鉢が落下するには流石に首を傾げざるを得ない。
鉄柵にしても植木鉢にしても過激な犯人からの訴えはどこか明確な被害者を選んでの行動とも取れる。裏付けとして、校内で起こる悪戯は変わらず悪意の欠片を殆ど伴わない、言葉通りの軽い悪戯ばかりだ。
その悪戯と比べると随分と直接的な嫌がらせだと思いながら、クラウスは頭の中に描く事件の全容を少しだけ書き換えつつあった。
『契約の儀』からこちらの一週間は随分と息の詰まる予定だったこともあって、週末はフィーナと共に町へと出かけた。
……本当は町へ出ずともどこか気のまぎれる場所にいければよかったのがクラウスの本音だったが、校内保安委員会の一件でクラウスの誕生日が近いという事がフィーナにばれてしまい、彼女の指が差すまま町へと出向いたわけだ。
特筆して記すことも無く日も落ちて、何気ない休日も静かに幕を閉じる。因みにフィーナがクラウスに選んだのは割れて壊れてしまった代わりの新しい手鏡だった。流石に同じものはなかったが、機能性が損なわれるわけではないので問題は無し。
そうして休む時間を連れ添う相方に奪われ開けた翌週は、変わらない日程の通常授業の合間を盗んで眠る作業と、休み時間の度に廊下へ出て足で犯人を探す事の繰り返しだった。
昼休みには、一人での捜索に行き詰まりを感じたのか、ユーリアの方から渋々といった様子で協力を申し出てきたので是非も無く一緒に歩き出す。
そんなフィーナが来る前と打って変わって多忙な日々の中で、進む時間は大変ながらも何処か充実感をクラウスに齎していた。
……と言う現実逃避をするクラウスの横では、行動を共にするユーリアがクラウスの横顔に視線を突き刺し、猜疑の瞳で無言のうちに糾弾を続けていた。
「……そんなに見つめられると流石に照れてくるんだけど」
「何変な風に解釈してるのよっ」
一度そうして呟いてみれば彼女から返って来たのは怒りの含まれた棘のような言葉だった。
こうして一緒に隣を歩く中で不謹慎にも彼女との関係改善も考えていなかったといえば嘘になるが、クラウスの側から出来ることは殆ど無い。ただ幸いこうして一緒に居る時間が増えたので、その内彼女とも友好的な関係が築けるといいなぁと思ったりはするわけで。
時間が掛かるのはこちらも同じかなと考えつつ、偶然人の目が途切れた廊下に居合わせたクラウスは隣を歩くユーリアを屋上へと誘ってみる。
少しの沈黙を挟んで、ユーリアは返事を返さず先に立って階段を上り始めた。が、すぐに踊り場で立ち止まってこちらを睨むとスカートの裾を押さえて、
「早く先に行ってっ」
聞き慣れた尖った口調でそう言い放ったのだった。
屋上へ辿りつくとそこは立ち入りを禁止された一昨日から時間が止まったように寂れ、人の持つ温度がどれほど環境に影響を及ぼすのかが目に見えるほどに寒々しく感じられた。
後ろから上がってきたユーリアは後ろ手に扉を閉めると顔を上げないまま声を発する。
「……それで、何?」
「……ユーリアさんは僕に訊きたい事があるんじゃないかなと思って」
振り返って言葉にすると彼女は小さく息を呑む。それから意を決したように顔を上げて喋り始める。
「……悪戯のこととか屋上のこととか。あれ全部、あんたの仕業でしょ?」
「…………そうだよ。僕が噂を流した」
悪びれないクラウスの言葉にユーリアは目を吊り上げて奥歯を噛み締める。握った拳は体の横で震え昂った感情を溜めていたが、やがて行き場を失った感情は霧散して溜息へと変わった。
「……犯人の当ても、ある程度は付いているんでしょう」
「……………………そうだね。僕の見立てではもうすぐ犯人は自ら悪戯を認めるよ」
「どうして捕まえないの?」
「…………その方が大事にならないから」
ユーリアの問いに嘘を吐かずに答えれば、彼女はどういう反応を示すだろうか。
数瞬の内に巡った想像は一つの答えを導き出して、クラウスの感情を寂しくさせる。
「ユーリアさんは──」
「それ。その『さん』っての……もういらない。気持ち悪いから、とって」
「……分かった。……ユーリア、は僕が犯人はこの人だって言ったら捕まえるの?」
「当たり前でしょ。こんなこといつまでも続けさせていい訳が無い。その内やることが派手になって、怪我人が出るかもしれないっ。そうしたらその犯人は今より重い責任を負わなければいけないじゃないっ!」
ユーリアの考えはよく分かる。その可能性も既に考えた、考えた上で今の状態をよしとした。もし何かあった場合は全てを喋ってクラウスが責任を取るつもりだ。今でもその考えは変わらない。
「何のための校内保安委員会よっ。誰の為の、組織なのよっ」
誰の為。その答えはこの学院に通う人物であれば口を揃えてこう答えるだろう。
生徒の為。
クラウスだってそうだ。だがクラウスの考えは、その一歩先だ。
「……例えば、犯人を捕まえて。それからは?」
「それ、から……?」
「その犯人は捕まった後教員や生徒会の人に怒られるんだろうね。それで今までして来た罪を全て調べられるんだろう。それはよく分かるよ」
それはきっと生徒や教員たちが正義を振りかざしている場合だ。正しい行いは規範となり、悪い行いを断罪する。
「その犯人の悪戯の経歴はどうやって調べると思う?」
「そんなの、被害にあった生徒に聞けば…………」
「それは本当に真実ばかりかな?」
「────っ!」
クラウスの言葉にユーリアの顔が強張る。
「人はいいことばかりをしても敵を生む。今回は悪戯犯だ。悪気は無くとも悪事は存在する。正義感の強い人はその正義を振りかざすだろうね」
脳裏に浮かぶのはニーナの降級の一件。
あれだってニーナに悪気は無い。ただエルフと言うだけで糾弾されたのだ。
そんな悪意の無いニーナを裁こうとしたのは燃え上がった嫌悪────エルフを非難する『正義感』だ。
「……別に悪戯犯を擁護するわけじゃないよ。ただ公平な認識をするための時間を、もう少しだけ取りたいってだけ。それでも教えて欲しいって言うなら教えるけれど」
「……………………」
クラウスの言葉にユーリアは黙り込む。彼女の頭の中にはどれほどの葛藤と考えが渦巻いているのだろうか。
可能であるならば、その苦痛でさえも和らげてあげたいとクラウスは思う。
人の悪事を裁こうとしているのだ。その善悪の大きさが今回は小さいとはいえ、下手に状況が悪化すればニーナの時の二の舞に……いや、今回は被害の範囲が広いだけにニーナの時以上の処罰が下ることもありえる。それに事はその人物だけでは収まらない。クラウスの推論が当たっているとすれば犯人は妖精従きだ。片翼を妖精が担うとなれば、話は学院にまで飛び火する恐れがある。
妖精憑き、妖精従きの監獄と噂されているこのフィーレスト学院。その内部で今回のような問題があったとなれば外からの風評は少しばかり悪くなることだろう。
そう言った今後に起こりうるであろう可能性を考えていけばきりが無い。
軍属の彼女だ、きっとそういう話にも遠くない。すぐに行き着く考えだ。
犯人が捕まれば捕まえた方には功績と名声が集まるだろう。ただ捕まった方は今回の場合において事実以上の罰を受けるかもしれないのだ。いくら悪い者を捕まえてもそうした冤罪の上に処罰を行い、その功績の大きさを讃えられたところで捕まえた人物はあまりいい気はしないだろう。
長い沈黙。やがて俯いていた顔を上げたユーリアは覚悟の瞳でクラウスを見つめ、口を開く。
「犯人は、どんな生徒?」
そういう質問で我慢する。考え抜いた末の答えだ。だとすればこちらも彼女の問いに誠実に答えなければならない。
「犯人は──風……フェリヤの属性を持つ人物だよ」
音を立てて閉まった屋上の扉をじっと見つめて、クラウスは息を一つ吐き出す。
そんなクラウスの肩の上から神妙な声音のフィーナが問いかける。
「あの、一つ質問いいですか?」
「何?」
「生徒会長さんは蛇口の水が暴れだすって言ってましたよね。そういうのって普通水の方々が得意とするんじゃないですか?」
彼女の疑問は尤もだ。けれどそんなことは簡単に偽ることが出来る。
「……例えば、風で透明な空洞の道を作ったとするよ。その中に水が流れ込んだら空洞を通って思い通りに水を操作できるよね。周りから見れば水が勝手に暴れたようにも見えるよ」
「あ、そうですねっ」
「もっと自然にしたければ空気を水の近くで爆発させるといいかもね。広がった衝撃で水飛沫が辺りに飛び散るから」
空気は目に見えず、しかしどこにでも存在する。だからこそ手を触れずに遠くから物を動かしたりすることも可能だ。
クラウスがこうして風の属性を持つ生徒が犯人だと割り出した理由は幾つかある。その際たるものが妖精力行使後の周りへの被害だ。
妖精力の属性には炎、水、地、風の四種類がある。その中でも最もその形跡が残りにくいのは風だ。風は目に見えず遍在し応用力に富む。
属性にはそれぞれ得意な分野が存在するが、風はその応用力……術者の想像を特に具現化しやすい属性だ。
そういった属性を持てば、その可能性を試したくなる。今回の場合はその探究心が少しだけ悪い方向へ作用した話に過ぎない。
「そういえばユーリアさんも風の属性ですよね」
「そうだね」
彼女はクラウスの話を聞いてどう思ったのだろうか。それを考えてしまうのはクラウスがまだ犯人側の思考から抜け出せていないからだろうか。それともただ彼女が心配なのだろうか。
胸を巡る感慨を探ってみるが答えは出ない。
「午後の授業、始まりますよ」
「戻ろうか」
「はいっ」
ただ小さく、彼女がクラウスと同じように感じていてくれればと思うのだった。