前奏曲
それは扉の取っ手に手を掛けようとしたところで気がついた。
「全てうまくいってよかったよ」
僅かに隙間の見える扉を前に立ち尽くす。
聞き慣れた声。目を閉じても分かる。そこにいるのは眼鏡の彼だ。
自分にとっては信頼するに足る学友の一人。今となっては、誰よりも心を許せる友人だ。
そんな彼が何故ここに? そんな疑問に辿り着いて今自分がここにいる理由を思い出す。
────放課後……後夜祭暇?
────話したいことがあるんだ。屋上に、来てくれるかな……? そこで、全部話すから
学院祭の最中、友達だった彼女と交わした言葉。
────待ってるから、絶対に来て
明確な答えを返さなかった私の背中に突きつけられた約束の言葉。
彼女のその願いに応えて、私自身が知りたい事を求めて、ここへ来た。
けれどそこに彼がいるとは聞いていない。いや、言ったら来ないかもしれないと考えて言わなかったのかも知れない。
実際、彼がいると知れば私は来なかっただろう。これは私と彼女の問題で、彼は関係がないから。
気付いていて直接関わってこない以上こちらから巻き込むべきではない。そう思って、このことだけは彼ですら巻き込む事を拒んだ。
そんな彼が誰かと話をしている。本来なら去るべきはずの場所を、けれど私の足は頑なに動く事を拒否してその場に留まらせ続けた。
「今このときだけは都合が悪いことばかりなのに?」
「貴女のことを独り占めできるからね。僕じゃあ少し役不足かもしれないけれど」
「その自信家なところこそが、貴方の一番の魅力ですよ」
「それはどうもっ」
続いた声に彼女の存在を確認する。
彼女が居るという事は、つまりは彼と彼女の話なのだろう。やはり自分はここに居るべきではない。
しかしそんな想像とは裏腹に、耳は彼らの声を追いかけることに傾けられる。
「けれど私と貴方は相容れない。近づけば近づくほど互いに傷ついてしまう」
「そうして傷つけたことにまた傷を深くする……。それに僕は、貴女の花に甘んじるつもりは無いし」
「それは失礼」
何て中身の無い会話。あんな恥ずかしい言葉をよく臆面も無く口に出来るものだと感心する。それに応える彼女も随分な事だが。
そうして、ようやく気付く。やはり彼女の気持ちはそちら側だと。
────クラウスのこと、どう思ってるの?
────好きだよ
真実を知りたくて問い掛けた疑問。それはただ事実を認識したいだけで、嫉妬も追求心もないただの確認だった。
その問いに、彼女は飄々とまるで欠伸をするかのようにいつもの調子で答えたのだ。
だからこそ、疑念が強くなった。彼女の想いは本物なのか。
それを聞きたいというのも、ここへ来た一つの理由かもしれない。……知ったところでどうしたいのかは今でも分からないが。
「けれどそれで満足なんて出来ないから、こうしてまた身を寄せ合うの」
「そうしてたった一時の甘言に際限なく溺れていく。 ……いや、溺れていたいだけ」
「それもこれも、こんな嘘くさい芝居で全部終わっちゃうんだよね」
途切れる会話。その空白に知らず緊張を孕む。
ここを離れるのも、出て行くのも今だ。これ以上を聞けば後戻りは出来なくなる。
いや、離れるのは間違いか。自分は知りたいと願ってここにきたのだから。嫌なら耳を塞いでいればいい。防音の妖精術でも使って全ての感覚を遮断してしまえばいい。
そう思うのに、指先は氷のように固まって冷え、胸の奥も息苦しくなる。
そうして躊躇いと葛藤を繰り返していると、やがて耳が悲鳴のような叫びを捉えた。
「ねぇ……何であの時拒絶したの? 何で私を認めてくれなかったのっ……?」
途端、脳裏に彼女の頬を叩いた時の事が蘇って、手のひらに熱を灯した。
違う。彼女の言葉は私に向けてではないっ。
そうは思っても心のどこかで彼女の言葉の矛がこちらを向く事を否定させてくれない。
頭の中の景色に……目の前に眦を吊り上げたアンネの姿を幻視する。
「本気だったのに! 認めてくれれば、こんなに辛い思いをしなくて済んだのにっ!」
本気? 何に?
……知っている。いや、知っていた。彼女はいつだって私の事を気に掛けてくれていた。
春の悪戯騒ぎの時だって、全ては私のためだった。
「誰よりも近くに居た……誰よりも遠くに居た……。誰よりも肯定して、誰よりも否定したっ。あの時から……ううん、委員会ができるより前から私はアナタを見てたっ」
私だってアンネの事をずっと見ていた。
だってアンネはこの学院に入ってから出来た初めての友人で、彼女は他に友人の作れなかった私に気を回していつも一緒にいてくれた。
クー・シーである事を知って尚、ただの友人として特別視をせずに隣にいてくれた。
そんな彼女の優しさに、私はいつも甘えていた。
「心のどこかでおもってたんだ……。夢見てたんだ。子供らしい、女の子らしい、ただの夢……。けど現実は残酷で、私の目の前に現れた王子様は悪魔だった。そんな悪魔に、私は恋をした────」
そんな彼女と共通の友人ができた。彼はいつも傾いた視線で物事を穿って見て、どこか疲れたように人の間を揺れていた。
他人に興味以上の信用も信頼も抱かない彼。そんな彼に、いつからか私は友人として接するようになった。
それはきっと彼の隣が心地よかったから。飾らない自分でいることに理由が要らなかったから。
私は彼女だけでなく、彼にも甘えていた。
「悪役に惚れた正義は、どうなるんだろうね……。私は、きっとどこかで……踏み違えた。アナタの望む私になれなかった。正義を、貫けなかった」
私がそう感じたように、彼女もまた変わったのだろう。
二人で共謀して裏から表から物事を潜り抜けて。きっと私以上に彼と彼女はお互いの事を認識していた。利用して、利用されて。そうして自分を見失った。
だから振り翳すべき気持ちをどこかに忘れてきてしまった。
けれど私から見れば彼女は理想だった。
自分で選んで、自分の求めるままに振舞う。豪胆さと強かさを兼ね備えた……彼女は私の正義だった。
だからこそ、気付いた。彼女は私に何かを隠していて、それは正義という言葉からは逸れていると。
「戦う事を放棄して、悪に染まったんだ。一番進んじゃいけない道に、私は踏み違えたんだ」
それはまるで彼のようだとも思った。
複数の顔を使い分けて言葉と情報と、それらで構成される現実という時間の中をどこか他人事のようにすり抜けて。
自分というものを置いてきたかのように振舞う彼女に、私は心のどこかで忌避した。
らしくないと。危険だと。
いつしか想像は拭いきれない違和感となって行動へと昇華した。
「なのにアナタはそんな私を許容した。認めた上で、突き放した。……使えないからって、見限ったんだ」
そうして得た彼女の事実に、私は言葉を──遣り切れなさをぶつけた。
それは間違っていると。踏み違えれば怪我では済まないと。今ならまだ間に合うから、私の理想として、正義として正しい道を歩んで欲しいと。
けれど告げた思いに返ったのは、否定だった。
それは私の為だと。誰かがやらなければいけないことだと。尤もらしく大義名分を振り翳して、彼女は私を否定した。──違う、私の押し付けを跳ね返したのだ。
その事実に、私は彼女の頬を叩いた。私の思った通りにならなかったから、子供の我が儘の様に徒に力で捻じ伏せようとした。
そんな私を、彼女は許容した。認めた上で、突き放した。……失望して、見限った。
友達である事を、否定した。
「酷い事押し付けられて、捨てられて……。なのにまだ消えないんだよ…………。私は一人になったはずなのに、私の中からアナタだけが消えてくれないっ」
そうやって、私にとっての悪役を演じたのだ。
全ての理由が彼女にあると認めて、その上で憎ければ憎めと。私の思い通りにはならないと。
彼女は私の玩具では無いと、否定して見せたのだ。
だからこそ、私にとって彼女は唯一無二になった。違えた関係を戻す方法を幾つも考えては、それではいけないと自分の無能さに歯噛みして、最終的に変わる事を望んだ。
彼女に悪役を押し付けて、彼女のなれなかった正義になろうとした。
私にとって彼女は最大の悪であり、最大の理解者だった。
「滑稽な事だよっ。協力と対等を演じてたはずなのに、いつの間にか尽くしてて。剰えそれが恋愛感情っ。反吐が出る!」
私が抱いた正義と悪。その気持ちに気付いていたのかそうでないのかはわからない。けれどその押し付けが彼女の最後の歯車を狂わせて、理性を崩壊させた。
きっとずっと否定し続けてきた気持ち。彼への想い。その錠前を開けたのは、紛れも無く私なのだ。
だから彼女の言葉は、私の罪でもある。彼女の言葉は私に向ける矛でもある。
その言葉を私は甘んじて受けるほかありはしない。
受け止めて、その上で許容するしかない。
必要以上の痛みを背負わせたのは、私なのだから。
「私はただ自分の居場所が欲しかっただけなのに。それが恋する事だなんて馬鹿げてるっ!」
気付けば彼女の独白に俯いていた。
体の横で握り締めた手のひらは痛いほどで、唇は切れそうなほどに強く噛み締められていた。肌は外気に冷え、体は恐怖と後悔に震えていた。
そんな手に小さな暖かさが重なる。見ればそこにいたのは相棒たるリーザ。
彼女の心配そうな顔にまた悔しさが込み上げて来る。
私は一体何がしたかったのだろうか。どんな景色を求めていたのだろうか。
自分の意見も中途半端に他人に甘えて、後悔ばかりを積み重ねて。前を向いていたはずの視界は足元を見つめ、立っている場所さえも曖昧な感覚に陥っていく。
私は何一つ望んで手に入れてはいない。手に入れたものでさえ、手のひらから零して落としてしまった。
向こうからやってきた友達を、私の手で突き返してしまった。差し出されたその手を握り返す事ができなかった。
「馬鹿げてるのに、貴方の事しか考えられないっ。貴方以外に世界にいないっ! だったらもう、全部投げ出すしかないじゃない……。認めるしかないじゃない…………!」
誰よりも他人を信用する事が出来ていなかったのは私だ。
向けられた好意を拒絶していたのは私だ。
ここまで自分が不器用だなんて思ってもいなかった。呆れて怒りすらも湧いてはこない。
けれどだからこそ、気づけた事に意味があるのだと。ここまで落ちに落ちたのだから後は登るだけだと。
自分を奮い立たせてどうにか再起を図る。
私が馬鹿な事は知っている。馬鹿なりに努力して今があるのだということも理解している。
それはきっと無意識に自分へと科せていた戒め。
何事にも諦めない前を向く意志。それを捨ててしまっては、私は私でなくなってしまう。
だから諦めない。
全てを投げ出してでも彼女を取り戻す。
友達として、やり直す。
決意して、彼女の気持ちを心に刻み付ける。
「私は、クラウスが好きなんだって」
知っている。知っていた。
だからこれ以上は必要ない。
息を一つ置いて、それから踵を返す。
「ユーリア……?」
「大丈夫。アンネに聞きたい事は聞けたから。だから今度は私がアンネに伝える番だ」
リーザの声に答えて気持ちを整える。
彼女の矛を受け止めて、それをばねに前へと進む。そうでないと、彼女に押し付けた悪役の意味がなくなってしまうから。
今度はこちらから。彼女が知りたい……知るべき私の意見を全て揃えて一方的に突きつける。それが彼女への何よりの仕返しだ。
────私の友達をアンネが勝手に決めないでよっ!
そうして、やり直すんだ。ただの友達として……今度は対等に。遠慮もなく否定もぶつけて。私が選んで手にするんだ。
そうやって、互いの隠し事を全て打ち明けられて、私は胸を張って彼女と友達だと言えるから。
「リーザ、先に謝っとく。ごめんっ。私に着いてきて」
「…………分かった。だから、困った時はわたしを頼って」
「もちろん。期待してるっ」
階段を下りた足で廊下を歩み、相棒の言葉に笑顔で答える。
そうして踏み出したことのない道へと歩き出す。
この道はきっと彼の元へも繋がっている。だから信じて前へと進む事ができる。
…………だったら、今この胸に燻る気持ちも、その時に理解ができるだろうか……?
そんな事を益体も無く考えて頭を振った。
それはその時考えるべきことだ。今は関係ない。
私はただ私として歩むだけ。
ただ盲目にそれだけを胸の中に灯して未来を見据える。
そうして意識した景色には、自分と相棒のほかに、まだ誰もいなかった。




