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フェアリー・クインテット  作者: 芝森 蛍
嵐と砂塵の祝歌(キャロル)
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第五章

「お父、さん…………?」


 驚愕に見開かれたユーリアの瞳。その桜色の唇は恐怖に直面したように震え、紡がれた声は揺れていた。

 彼女の視線の先にはハインツ・クー・シー。ユーリアの父親でありながら国軍総隊長であるこの国の表向きの力の象徴。

 蛇に睨まれた蛙のように立ち竦むユーリアに思考を奪われたのも一瞬。気付けばクラウスの頭は現状を既に把握していた。

 先ほどの話、ユーリアの口から紡がれたアンネという名前。そして手に持った通信具……。それらの示すところはつまり、単純にアンネがユーリアに頼ったという事だろう。あれだけ取り乱しておきながら後の行動はしっかりとしているのが彼女らしいというか……。

 彼女が身につけた服装から察するに、着替える間を惜しんで教室を抜け出してきたことだろう。客足が少なくなっていてよかったと思いつつ今の景色を客観視する。

 クラウスの後ろにはユーリアとの一件で最重要対象であるハインツ。目の前には未だ再起に時間のかかるユーリア。アンネの協力も頼れなくて、今できるのは手元の通信具の先にいるであろうニーナに現状を伝える事だけ。

 ニーナ。その名前が過ぎって思考が再び軋む。そう言えば先ほどハインツが何かを言いかけていた……まずはそこからか。


「……フィーナ、ユーリアのことお願い」

「わかりました」


 零した小声に素直に頷く相棒。こういうとき何よりも先にクラウスの事を信じてくれる彼女には頭が上がらない。後夜祭の相手は少し優遇させてもらうとしよう。

 ユーリアのそばに寄り添うフィーナを視界の端に振り返って、ハインツへと向き直る。

 クラウスの視線に気付いた彼は、それまでユーリアに向けていた視線をクラウスと交えた。


「…………確か、クラウス君だったか」

「クラウス・アルフィルクです」

「あぁ、娘がいつもお世話になっている。父のハインツだ。と言っても改めて名乗る必要は無いかもしれんがな」

「いえ、助けられているのはいつもこちらです。お会い出来て光栄です、ハインツさん」


 言葉を交わして、それから下げられた頭に少しだけ驚く。そこには先ほどまでの威圧感もなく、ただ親として感謝を述べる一人の大人がいた。

 その切り替えの早さにユーリアに似た何かを感じつつ告ぐ。


「それで、先ほどは一体どんな御用で?」

「あぁ、そうだった。実は恥ずかしながらうちの家内と逸れてしまって……絶賛迷子中なのだ」


 後ろに流した頭髪を掻きながら申し訳なさそうに告げるハインツ。少しだけ気の抜ける光景に、本当にこの人が国軍総隊長なのかと疑問が湧き上がるが今は横へ。

 ハインツの零した言葉に背後で動きを見せる気配。どうやらユーリアの方もそろそろ理解が追いついたらしい。

 彼女は緊張した様子でクラウスの横に立ちハインツの顔を見上げて言い放つ。


「……来るのはお父さんだけじゃなかったの?」

「そのつもりだったが、家を出るときにばれてしまってな。仕方なくつれてきたらこの有様だ。あいつの方向音痴は筋金入りだからな」

「そこは遺伝しなくて本当によかったと思ってる……」


 視線を逸らして溜息をつくユーリア。交わされる会話に情報を埋めつつ幾つかの推論を脳裏に描き出す。


「それで、ハインツさんは奥さんの捜索をお願いしたいという事ですか?」

「話が早くて助かる。迷惑をかけてすまない」

「いいえ、仕事ですから。それに一任してもらえれば直ぐに見つかるかと」

「お父さんは……私の教室にいて。クラウス、任せても良い?」

「もちろん」


 呆れたように懊悩したユーリアは、それからクラウスに話をつけると逃げるように一人廊下を歩いて行く。

 彼女の後姿を見送るクラウスをハインツが見ていることに気がついて直ぐにいつも通り振舞う。


「ではこちらに。ご案内と、少しばかりのおもてなしをさせていただきます」

「……お言葉に甘えようか。確か喫茶だったか。丁度喉が渇いていたところだ」

「お口に合うかどうかわかりませんが焼き菓子もご用意してありますよ」


 笑顔で言ってハインツの数歩先を歩き出す。

 後ろを着いてくるハインツの視線には気付かない振りをしながら、クラウスは通信端末でニーナに協力要請を送る。直ぐに人員を割くと言う彼女の即決に礼を述べて後を任せる。

 そんな道中で少しばかりハインツと世間話……主にユーリアのことで会話を交わして目的地へと辿り着く。

 丁度客の列もなく空いていた席に促すと喫茶の人気品を出す。


「よかったらどうぞ」

「ありがたく頂くよ。それにしても随分と力が入っているね。わたしたちの時はここまでではなかった気がしたが……」

「ハインツさんもここの卒業生で?」

「自慢じゃないがフォルト級に在籍していたよ。あの子はどうだろうね……?」

「僕の口からはなんとも。……ただ一緒に過ごしていて今は何かに悩んでいるような印象をここのところは感じましたけど」


 探りを入れつつ彼の望むだろう言葉を口にするとハインツの眉が少しだけ動いた。勘付かれたか?


「……そうか。是非ともユーリアには自分の道を進んで欲しいものだ」


 少しの間を開けて紡がれた言葉にクラウスは全ての靄が晴れていく感覚を覚える。

 これはまた、ヴォルフの退学の時とは違った問題だと。その解決法を、クラウスは持ち合わせていないのだと。

 気付いて少しだけ安心する。


「娘に君のような友人がいてくれて助かった。もし娘が迷うようなことがあれば、力になってくれないだろうか……?」

「もちろんです。何より、僕はユーリアさんの友達ですから」


 言葉にして、その意味に少しだけ胸を痛める。そうして、また一つ答えを見つける。

 いつからだろうか。そんな問いさえも曖昧になるほど昔から……きっと彼女に出会ったその日から────

 口に出す事を憚られる小さな想いは甘く心を焦がして納得を生み出す。

 僕は、ユーリアに────


「クラウス君っ、手が空いたら次お願い」

「ん、分かった。それではごゆっくり」


 そうして脳裏を過ぎった言葉が形になる前に耳は級友の声を捉える。

 ユーリアが抜けたのだ。その穴を埋めなければ。

 一体アンネはどこに行ったのかと少しだけ考えて頭を振る。彼女に突きつける言葉の刃は既に決まっている。未練を感じては彼女への侮辱だ。

 一度裏へ戻ると深呼吸して思考を切り替える。

 今はハインツの……ユーリアの問題が先決だ。そしてそれは、既に道順が限られた。

 先ほどまでのハインツとの少ない会話を思い出す。

 言葉の端に滲んだ親としての愛情。彼のクラウスを値踏みするような視線。

 そこにお見合いの話が入ってきて最後にあの言葉。


 ────是非ともユーリアには自分の道を進んで欲しいものだ


 つまりは、最初から茶番だったのだろう。

 幾つかの想像が過去を描き出し現在へと繋がる。

 ……ユーリアに色々確認したい事が生まれたがそれは後で。焦点を目の前に合わせて身形を整える。

 随分と遠回りをしたがユーリアの問題は一応解決の目処が立った。後はその場を用意してクラウスが道化を演じるだけだ。


「…………クラウスさん」

「うん?」

「何だか、嫌な予感がします」


 順序立てて今までの景色を再構築し結論を導き出す。いつも通りでどうにか対処できた問題に着地地点を見出すのと同時、耳元で相棒が声を上げた。

 見ればフィーナが胸の辺りを握り締めて俯いていた。


「嫌な予感って、どんな……?」

「気持ち悪いです……。クラウスさんの中に、もう一人いるような……そんな感じがします」


 苦しそうに呟くフィーナに思い当たる事を探す。

 フィーナが違和感を感じている先はクラウスだ。彼女との繋がりと言えば……回路。回路が共有するのは妖精力。

 つまりクラウスの中からフィーナでもクラウスでもない別の誰かの妖精力を感じるということだろう。

 少しだけ考えて、それから気付く。

 確かに存在する。クラウスの中にもう一つ、フィーナでもクラウス自身のものでもない妖精力。けれど何故今になって……?


「……近くに来てるのかな」

「…………黒い子、ですか?」

「フィーナにその話したっけ?」

「してないです。でも時々流れ込んで来る事があるので……」

「だったら話しておくべきかな。今フィーナが感じてるそれが、一体何なのか────」


 蒼い瞳を不安に揺らしてクラウスを見つめるフィーナ。その瞳の奥に覚悟を感じ取って記憶の焦点を過去に移す。


「今まで隠しててごめんね。実は────」


 そうして静かに滔々(とうとう)と零す。今まで誰にも話したことのないクラウスだけの過去を言葉にする。

 どれ程時間を有したのかわからない。気付けばクラウスは天井を見上げていて、肩の上ではフィーナが静かに涙を流していた。

 クラウスとしては別段悲しいとは思わない。それはほぼ無くしてしまったのと同義で、出来事としては語れてもそのときの感情も、音にしただろう言葉も、思い出すことの出来ない空白の時間。殆ど何も覚えていないからこそ、殆ど何の感慨も湧き上がってこない。空虚で色も匂いも音もない忘失の記憶。

 そんな何もない時間を、フィーナはクラウスの代わりとばかりに涙を流した。

 それは本来寂しいものだと。それは実際怖いものだと。

 泣き方を忘れたクラウスの隣でクラウスの代わりに相棒は泣く。

 異性の涙は、苦手だ。

 それは自分が泣けないから。そしてその景色があの妖精の輪郭を曖昧にさせるから。

 泣くと言うその感情の意味をわからないクラウスは、だから共有できないその感情を否定したかったのかもしれない。

 洟を啜り上げるフィーナの目元を優しく拭う。指の温かさにか、顔を上げたフィーナはそれからはっとしてクラウスの頭に手を翳す。すぐさま浮かび上がった方陣に、けれどクラウスは静かに首を振った。


「それは何度も考えたよ。けど記憶の錠を反転したところで鍵が開くわけじゃない。錠を反転消滅させれば中に封印された記憶まで消えてしまう」

「でもっ、それじゃあクラウスさんの記憶は……!」

「だから僕は彼女をずっと探してた」

「だったら、何でわたしと契約なんてしたんですか…………。わたしじゃなくてその子と契約をすれば────」

「顔がわからないからね、仕方ないよ」


 達観したような口調にフィーナは悔しそうに表情を歪めた。

 フィーナの感じた違和感は恐らく近くに彼女が来ていて、その波長に記憶の錠が共鳴したものだろう。

 だったら彼女はどこにいるのかと考えて、やめる。

 どこにいたって同じだ。彼女はどこにいたってクラウスの事を憎んでいる。

 そうでなければ、彼女はクラウスに探させたりしないはずだから。


「ごめんね、フィーナ」

「謝らないで、くださいよ…………」


 小さな体でこれ以上ないくらいに怒って。けれどその声はとても小さく聞き逃しそうなほど薄弱で。

 そんなところまで彼女を不安にさせたのは自分だと言う事実に、クラウスはまた一人自分を苛んだ。

 それから教室内を歩き回って。間に幾度かハインツと話をして。そうして少しばかり時間が経ったころに通信具から声が響く。


『クラウス君、見つかったわよ。今そっちにクー・シーさんと一緒に向かってる』

「わかりました。後はこっちに任せてください」

『よろしく』


 通信具越しの少し雑音の混じった声。流石に疲れの感じられたニーナの声に心の内で労いを送りつつ視線をハインツへと向ける。すると彼は一つ頷いてそれから徐に口を開いた。


「では出来る話を今の内にしておこうか」

「……ユーリアさんのことですか?」


 先回りして尋ねるとまた一つ頷くハインツ。

 クラウスの中では既に茶番だと下された結論が彼の言葉で現実となる。


「その様子だと、話を聞いているようだね」

「相談を受けていましたので」

「結論から言おう。あれは虚偽だ。そんな事実はどこにもない」


 そうであろうと、確信へと変わった想像がその先を求める。では何故彼は直ぐにそれを明かさなかったのか……。


「元は言葉だけ、形だけの芝居のつもりだった……。御偉い方にはそれで柔らかく断りを入れる予定だったのだ」

「……けどハインツさんは何か思うところがあってその話を大きくした。そうですね?」

「うむ。……彼女の覚悟を聞きたかったのだよ」


 そうして少しだけ遠くを見た瞳は、ユーリアが盲目に前を見据える時にする眼差しとよく似ていた。


「あの子はいずれクー・シーを継ぐだろう。そしてその内本当に政略結婚に巻き込まれるかもしれない」

「そうなった時の予防線と、そしてそうならない事を、望んだんですね」

「……わたしとしてはあの子にクー・シーを継がせるつもりは無い。ユーリアにはユーリアの人生があるし────あの子は武人にしては優しすぎる」


 それはただ深い親の愛情。ありえるかもしれない未来に直面した際への準備と、そうならないための否定の言葉を欲した、ハインツなりの優しさ。


「クー・シーは武門の家だが、それはわたしが偶然得た地位だ。わたしの築いたものを彼女が誇りに思うのは勝手だが、それが高じて彼女の重荷になっては元も子もない。それは意思の押し付けと何が違うのかね?」

「受け取り方や考え方は人それぞれだと思います。──例えばユーリアさんが本当の意味でクー・シーを継ぎたいと思うことも」

「そうなっては仕方のないことだがね」


 言って、ハインツは頭を掻きながら自嘲するように笑う。

 全く、クラウスの周りはただ普通の愛情に溢れている。親が子を思い、子は親を目指して前へと進む。兄は目標となり、母は越えるべき壁となる。

 ユーリアも、テオも、ニーナも。全ての悩みはきっと思っている以上に柔らかくて暖かい。それに気付くか気付かないかで、景色は一変する。

 テオとニーナは、それに気付いた。気付いて、貪欲にその先を欲した。

 だったらユーリアはどうだろうかと。彼女は今どこに立っているのかと。静かに考えてそれから小さく息を漏らす。


「クラウス君」

「何でしょうか?」

「ユーリア、どうかね?」

「それは彼女が決める事です」


 託された言葉は信頼よりも脅迫の意味を強く持ってクラウスの胸の内に穿たれる。

 下手な覚悟で手を出せば容赦はしないと。だからこそ、任せるに値すると。

 知らぬうちに背負わされた重い思いに思考を一新してまた歩み出す。


「僕はただ、彼女の相談に応えるだけです」

「…………頼んだ。何分、父親というものは年頃の娘に嫌われやすくてな」

「嫌われていたら、こんなに真剣にはなってないと思いますよ」

「そうだといいがね」


 優しく笑ったハインツは、それから一呼吸開けてゆっくり椅子から立ち上がる。見送りに一緒に廊下へと出れば、丁度ユーリアが彼女の母親を連れてこちらに向かってきていた。

 どこか怒った風な口元は、けれど少しだけ嬉しそうで。けれども笑顔とはまた少し違う。

 そういえばクラウスはまだ彼女の笑顔を一度も見た事がないとふと思う。春に言葉を交わしてから既に半年ほどだ。そろそろ警戒心が和らいできても良い頃だとは思うのだが…………。


「……クラウスさん、何かよからぬ事を考えてませんか?」

「さて、何の事だろうね?」


 空惚けるとフィーナは少しの間可愛らしい嫉妬のように睨んで、それから顔を逸らす。フィーナのそれは信頼に満たず、信用にも程遠い、ましてや何故か好意とは対極に存在する興味と独占欲。

 一体彼女との関係はどんな言葉が正しいのかと考えて小さく笑う。

 それから見据えた視界で、視線が合ったユーリアは逃げるように顔を逸らした。




 クー・シー夫妻が肩を並べて去ってゆく様を眺めて隣のユーリアに声を掛ける。


「随分と慌しかったね」

「……まだ終わってないわよ」


 彼女の中ではそうか。言葉に気を引き締めなおして紫苑の瞳を覗き込む。


「ユーリア、聞きたい事があるんだけど」

「何かしら」


 じっとこちらを見つめるユーリアの瞳。妖しくも力強い炎を灯した前を見据える瞳。

 纏う雰囲気がいつの間にか抜き身の剣のようなそれになってクラウスに突きつけられる。


「……ユーリア、ハインツさんに抗議した時一度でも嫌って言った?」

「…………どういう意味よ」

「嫌じゃなくて、何でって言ったんじゃない?」


 鋭くなった眼光でクラウスの事を睨んで、それから彼女は考えるような間を開けて零す。


「……だったら?」

「まずはそこをしっかりとしないと。気持ちは思ってるだけじゃ伝わらないと思うよ。遠まわしにじゃなくて、真っ直ぐに」

「……………………」


 クラウスの言葉にユーリアは顔を伏せる。

 きっと彼女は理由を求め続けた。何故お見合いの話が来たのか。どうして相手の名前さえ知らされないのか。

 そんな疑問ばかりを言葉にして、最初に言うべきだった決定的な否定の言葉を言っていなかった。

 だからハインツはユーリアに決断力を求めたのだろう。

 自分の意思で決めてその言葉を伝える曲がらない強さ。ユーリアに足りない最後の一欠片。


「……もし駄目だったら?」

「ユーリアは少し悪い方に考えすぎだよ。それにもしそうなった時は────僕がユーリアを連れ去ってあげる」


 ────私を連れ去ってくれる?


「約束、したからね」


 優しく笑ってそう言うと、ユーリアはクラウスに背中を向けて顔を逸らした。仕草に長く艶やかな黒髪がさらりと揺れる。

 それは照れ隠しだろうか。それとも単に窓から差し込む日差しが眩しかったのだろうか。

 ……素直に言葉にしないのはクラウスも同じか。

 自嘲して救いがないと笑うと、それからいつもの調子で逃げ道を作り出す。


「……着替えて来る?」


 声には頷きだけが返って、そのままユーリアは早足に教室へと入っていった。

 残されたクラウスはフィーナと二人廊下の壁に背を預けて座り込む。


「クラウスさん、今回役立たずですね」

「やっぱりそう思う?」

「はいっ」


 何その良い笑顔。少し傷つくんだけど。


「……でも相談だけで終わりそうだし、良いことだと思うよ。結局個人的な相談の殆どは最後に当人が判断すべき事だからね」

「クラウスさん個人のこともですか?」


 重い息と共に口にすれば、返ったのは焦点を別に結ばさせる声だった。


「…………そうだね。そろそろ、答えを出す頃だよね」


 呟いて天井を見上げる。窓から差し込む陽光によって照らされた朱色の景色が、心の奥の孤独を加速させる。

 その朱色は、彼女の瞳の紅に似ている気がして、また少しだけ記憶の錠前を悪戯に揺らした。

 そんな景色に不意に影が差す。わざわざそんなところに立たなくても声くらい掛けたのにと思いつつ、そこにいる人物に声を掛ける。


「…………さっきは、ごめん」

「ユーリアなら教室の中。着替えてるよ」

「ありがと」


 こちらを見つめる水色の瞳。クラウスを見ていない、クラウスを見つめた瞳。

 彼女は礼を述べた後、しばらく視線を外さなかった。


「────また、後で」


 やがて何かを決心したように言い残して静かにユーリアの元へと向かった。

 歩く仕草に揺れた髪が少しだけ短くなっている事に気がついたのは、彼女の姿が見えなくなってからだった。




              *   *   *




 脱いだ使用人服が輪を描くように足元に落ちる。白い肌を薄い色の下着だけが隠し、僅かに膨らんだ胸元に色気を添える。

 華奢なくせに健康的な体にもう少しだけ女性らしさを求めつつ汗を拭く。

 個人的にはこの動きやすい体は好きだ。体重が軽い分俊敏に動く事ができる。反面、色恋的には少しだけ不利かも知れないが。

 自分と親友たるアンネが並べば半数以上はアンネを選ぶだろう。小動物のような小さく柔らかい体躯に、出るところの出た女性らしい見た目。性格だってユーリアはそこまで女の子らしいとは思わない。元よりあまりそちらには興味は無いが、今回の事もあって意識しないわけにはいかなかった。

 いずれは誰かと結ばれるのだろう。そう考えるほどには見た目は悪くないと思うし、実際幾つかの告白を受けたこともある。

 けれど今の自分にとってそれらはまだまだ興味を抱くには程遠い。誰かを好きになった事も無ければ告白してきた異性をいいと思った事もない。

 信頼、出来ないのだ。隣に立つ姿が想像できない、といえばわかりやすいだろうか。

 それは相手のことを知らないだけかもしれないが、少なくともそうして何もわからない相手の事を恋愛対象とは思えない。

 異性と付き合っていないからと気まぐれに付き合いたくは無いのだ。口にすれば級友には硬いと笑われるかもしれないが、それが自分の恋愛観念であり比べるべき対象だ。

 怖いのかもしれない。何も知らないままに他人と接するのが。何かの拍子に相手の機嫌を損ねてしまう事が。

 そのくせ自分から他人を知ろうとは思わない。夢を見ているのだろう。

 いつか何を言わずとも自分の全てを分かってくれる人が目の前に現れて、隠し事も何もなくただ盲目に自分だけを見てくれるという、子供の戯言のような事を。

 分かっている。そんな人物はこの世のどこにもいないし、もしいるとすればそれは信頼して全てを任せられる契約妖精なのだろう。

 傍らで漂うリーザに視線を向ける。

 頭の横で一つ括りにされた亜麻色の髪。風に属する魂を根源とする妖精。自分の、唯一無二の相棒。

 彼女には助けられてばかりだ。戦闘といった仕事に関することもそうだが、彼女の眩しいほどの陽気さは知らず心を動かしてくれる。

 困った時は力になろうとしてくれるし、壁にぶつかれば一緒に悩んでもくれる。

 まだ出会って半年ほどしか経っていないのが嘘に感じられるほどに、自分は彼女の事を信頼している。

 それは契約によって回路が繋がれているからかもしれない。

 だとしたら人間同士で分かり合う事は難しいかもしれない。特に自分とは全くの対極にいるような彼とでは────

 彼。クラウス・アルフィルク。

 人間と妖精の混血にして今ユーリアの一番近くに居る同年代の異性。

 彼の事を、私はどう思っているのだろう。

 私の事を、彼はどう思っているのだろう。

 不意に言葉を裏返して、その意図に気付く。

 …………それはただの興味だ。恋愛感情ではない。

 だからこそ、信じられる感情がなくて不安になる。彼は私の事を何とも思っていないのではないだろうか。視界から外れてしまえば私の事を思い出しもしないのではないだろうか……。

 そんな不安が考えるたびに込み上げて来る。

 そうして肌を撫でた風が、体を震わせ心の奥底から恐怖の塊を引きずり出す。

 考えなければ怖くなるのに、考えるほど恐ろしくなる。

 そんな事を考えて、ようやく自分がどれほど他人に依存していたかを知る。


「っ────!」


 体を襲った恐怖と震えに肩を抱いて膝を床へと突く。

 そんなつもりはなかった。これは人間としての欲求だ。誰かに繋がっていないと個人は認識されず死んでいるのと同じだから。

 なのに他人を知れば知るほど、その溝は深まっている気がする…………。

 違う、そうじゃない。知れば知るほど、知らない事が怖くなる。全てを知っておきたいと心が叫ぶっ。

 人はこんなにも空虚でちっぽけだと認識せざるを得なくなる。

 孤独を、知ってしまう。


「ユーリア……?」

「──あ、え……何…………?」

「いや、何じゃなくて。服、早く着ないと風邪ひくわよ?」

「…………そう、ね……」


 体の震えは寒さからか。それとも心からか。

 答えた声も震えている気がして唇を噛む。

 考えても答えは見つからず、制服に身を包むと少しだけ安心した。

 それはこの学院というものに繋がっていられるからだろうか。自分は一人ではないと無意識に感じてしまうからだろうか。

 …………分からない。 

 どうしたら、安心できるのだろうか……?


「ユーリア、顔上げて」


 気付けば伏せていた顔をリーザの声にゆっくりと上げる。こちらを見つめる黄色い瞳が冷静な色を宿してユーリアを射抜く。


「……何が、不安なの?」

「…………一人になるのが、怖い」


 呟きは少しばかりの沈黙へと変わる。

 やがてリーザは赤子を宥めるように優しく紡いだ


「少なくとも、今ここにわたしがいる」

「……………………」

「それに、しっかりと望んで、友達もいる」

「……友、だち…………」


 友達。級友、親友……。アンネ、クラウス。

 彼女たちはユーリアが望んだ友人だ。


「そんなに不安ならさ、頼れば良いよ」

「……何を…………?」

「全部。ユーリアの全部を背負わせて、全部分かってもらえばいい」


 力強く言い放つリーザ。彼女はどうしてそこまで自信を持てるのか。


「好きなもの、嫌いなもの、楽しい事、不安な事。全部共有して、それから相手のも抱え込めばいい」


 どうしてそこまで強く振舞えるのか。


「そうすればユーリアの中にも、友達の中にも誰かが居て、独りじゃなくなる。…………ユーリア、選ぼうよ」


 選ぶ。

 それは決意で、勇気で、前へ進む力だ。


「子供らしい大人に、今からなろうよ」


 ────気持ちは思ってるだけじゃ伝わらないと思うよ


「ユーリアの周りは……ううん、誰だって。沢山の感情に溢れてる」


 息苦しい呼吸を意識して吐き出す。握り締めた拳をゆっくりと開く。今まで逸らし続けてきた視線に、目を向ける。


「……そうだね。選ばないと、行動しないと何も生まれないわね。悩むのは、失敗した後でいい」

「それでこそユーリアよっ!」


 陽気に爛漫に。どこまでも楽天家な相棒に背中を押されて、叩かれて、蹴られて進み出す。

 自分を見失わないように。他人に期待を向ける自分を信じよう。

 自分の心に嘘は吐かない。




              *   *   *




 仕切り布を引いて中に入る。すると空間の中にはユーリアだけが居て決意したはずの心が少しだけ揺らいだ。


「……いたんだ。音がしないから誰もいないのかと思った」


 繕った笑顔で言葉にすると、そこで気付いたのか彼女がこちらを振り返る。仕草に長い黒髪が流れて、それが自分を拒絶しているようにさえ感じた。


「アンネ……」

「…………うん?」


 すぐさま視線で糾弾される。

 瞳に宿る言葉は……「聞いた?」だろうか。落ち着いていつも通りの笑顔で接する。


「ユーリ、当番は?」

「……抜ける。話はつけた」


 彼女が欲しい言葉を返さないまま話題を変えると問責の色合いが強くなる。

 真実を答えたところでどうなるのかと切り捨ててわざとらしく振舞う。


「そう。…………ねぇ、ユーリ」

「何?」


 服を脱いで皺にならないようにたたみ収納する。隣でユーリアが女中服を綺麗に片付けて身形を正していた。


「放課後……後夜祭暇?」

「……少しなら」

「話したいことがあるんだ。屋上に、来てくれるかな……? そこで、全部話すから」

「……………………」


 返事は無い。それはユーリアの疑問に答えなかったことへの仕返しだろうか。

 随分と歪んでしまった関係だと己を叱咤して、出て行く彼女の背中に投げかける。


「待ってるから、絶対に来て」


 けれど結局最後まで声は返らず、足音だけが遠ざかっていった。

 外に出て、彼女の気配が感じられないほど遠くに行ってから、ようやく被った仮面を外す事ができた。

 …………本当は聞こえてた。いや、偶然聞いてしまった。

 彼女の決意を、前に進もうとするその決断を。だからこそ怖くなって、口にする事ができなかった。

 答えれば、そのときを境に友ではなくなってしまうから。個人的には既に友というより敵ではあるのだが。


「アンネ…………」


 ダフネの心配そうな声音に意味もなく笑う。

 分かっている。私がしようとしている事はただ場を掻き乱すだけだと。彼に苦労を押し付けるだけだと。

 そうして全てを彼に投げて、またあの時みたいに都合のいい結末を作り出して欲しいのだと。

 春の事を思い出しつつ、幻想に浸って笑う。


「私、弱いなぁ…………」


 人に頼って。全てを投げて。他人に解決してもらう事を願っている。

 そうする事で彼のためになるという免罪符を振りかざして盲目に前だけを見ようとしている。

 そんなことしたって自分が道を踏み外した事が消えるわけでは無いのに。


「……だったら、失敗して解決法がわからなくなったら、一体どうすればいいのかな…………」




              *   *   *




 アンネが教室に入ってしばらくするとユーリアが見慣れた制服に身を包んで出てきた。

 慣れというものは恐ろしく、先ほどまでの女中服と比べると込み上げて来る安心感には天と地ほどの差がある。もちろん先ほどの服装もよく似合ってはいたが。


「…………行きましょう」


 クラウスがそうして日常を噛み締めていると、ユーリアはどこか逃げるように先に歩き出す。

 伺うことのできた横顔は先程より少しだけ不機嫌そうで、その原因を考えて察する。

 恐らくアンネと何かあったのだろう。その末に彼女との間にまた溝が深まった……。

 彼女たちの問題は春の時もそうだったが一筋縄ではいかないらしい。解決したいのは山々だが、どうにもそう簡単に都合よくは事を運ばせてはくれなさそうだ。

 裏を返せばそれだけ密接に関わって距離を縮める事ができるわけだが…………。

 そんな事を考えつつ彼女の隣に並んで歩き出す。とりあえずアンネの事を話題に出すのは控えるとしよう。後夜祭で彼女から直接聞くことも出来るだろうし。


「……学院祭ももう終わりね」

「最後にどこか一緒に行く?」

「迷惑料?」

「そういう意味じゃないよ。単純にユーリアと回りたいってだけ」


 いつもの調子で紡げば隣を歩く彼女は黙り込む。ちょっと急ぎすぎたかと距離感を測りかねているとユーリアは溜息を吐いて呆れたように言い放つ。


「……だったら一箇所付き合って」

「分かった」


 行き先も聞かず全てを委ねて頷く。一瞥をくれたユーリアは、それから前を見据えて確かな歩調で歩み続ける。その足に迷いは無い。

 彼女の決意は強い意志に支えられ原動力となって前を向く力を与える。

 その横顔にクラウスができたのだろう助力を頭の中から消し去る。

 最初からユーリアの気持ちは決まっていた。伝え方が間違っていただけ。だからこそ、これ以上彼女は間違えない。

 お見合い騒動を通してまた少しだけ遠くなったように感じるユーリアの存在をしっかりと胸に刻み込む。

 彼女は、選ぶ。だからこそその矛先より逃げる事は叶わない。

 その矛の向く先が、例え親友であろうとも────




 ニーナに通信具を突き出して暇(いとま)を願うと珍しく素直に二つ返事で答えてくれた。

 恐らくそれまでの仕事を認められたのと、テオと何かいい事でもあったのだろう。そうでなければあんな緊張感のない満面の笑みで上の空に頷くはずがない。

 学院祭ももう終わりでよかったと思いつつユーリアと二人校舎を歩く。

 隣を歩くユーリアは窓から差し込む夕日に照らされて儚さを纏っていた。前を向いた紫色の瞳は覚悟を秘め、どこまでも真っ直ぐに目の前を見据える。

 きっとこうなった彼女を止められる人物はそう多くないだろう。できる事ならクラウスの名前を止められる側に連ねておきたいところだが、さて彼女のクラウスに対する評価は如何程のものか……。

 そんな事を考えつつ彼女の歩みに合わせて辿り着いた先はハウズの教室の一つ。出し物として射的を提供する教室だった。

 列に並んでそこから商品の様子を伺う。

 さすがに時間が遅いこともあって殆ど景品は残っていない。お菓子の箱に玩具の装身具。主に小さな子供に向けての品揃えは少しだけ寂しさを感じさせていた。

 そんな中で唯一存在感を示していたのが、一番の大物である約30セミル程の狐のぬいぐるみだった。一番奥の壇に座ったそれは幾人か挑戦した後なのか、僅かに斜めを向いて客から視線を逸らすという随分と不遜で態度の悪いものだった。


「もしかして、あれ……?」

「……意地悪な事にね、取らせる気がないのよ」


 ユーリアの不満そうな声にそういえばと思い返す。

 ここの射的は一人一回一発限り。一度挑戦した者には再度の機会は訪れない。確か妖精術か何かで来場客の管理をしているのだったか。

 まぁこの仕組みは毎回の事で、毎年ハウズの教室から一つが担当する事になっている。

 厳しい仕組みだがその分景品は少しいいものばかりで、こうして目にするお菓子の箱などもちょっとした有名店のものだったり、早くにここに来れば腕時計や人気の娯楽品を狙う機会だってある。これらの商品は学院が出すもので、一応この学院の目玉の一つであったりはする。


「……遠いでしょ。目算3メイルってとこかしらね」

「普通に狙ったところで到底落とせないね」

「因みに撃った?」

「いいや。可能なら最初に来てる」


 テオと走り回った学院祭の最初を思い出して小さく笑いながら冷静に考える。

 ぬいぐるみの重さを考えるならもっと前の壇に置くべきなのだろう。銃の威力がどんなものか分からないのがまた面倒くさいところだが、ぬいぐるみの動きようを見てもそう強くないのだろう。

 先ほど言った通り普通に狙ったのでは全く歯が立たないはずだ。

 では一体どうするのか……。


「……で、一体僕は何をすればいいの?」

「捨て駒」


 問いに返ったのは清々しい程の分かりやすい一言だった。つまるところユーリアの為にいいように使われろということだろう。

 頷いてしまったものは仕方ない。彼女の言葉に従うまでだ。

 順番が来てユーリアに視線を向けると彼女は首を縦に振る。

 弾を一発と銃を一丁手渡されて感触を確かめる。すると横から小さく声が響いた。


「──SKS系ね。いい趣味してるじゃない」

「どんな銃?」


 構えの練習をしながらユーリアの声に興味を返せば彼女は少し考えてから説明をくれた。

 因みに銃の扱いについては学院の授業で習っているためクラウスも使うだけならできる。精度はユーリアと比べるのが恥ずかしいほどだが……。


「……AKって知ってる?」

「カラシニコフ、だっけ? 確かうちの国でも採用されてたよね」

「同じ弾を使う銃でAKと比べると銃身が長い分命中率がいいの。後、同じ弾を使用する中では一番最初に作られた銃よ。尤もこれは射的用で似てるのは見た目だけだけど」

「型式通りの威力と命中精度なら文句は無いんだろうけどね」


 彼女の言葉に笑って息を吐く。

 射的用の銃は弾を柔らかい瓶の栓とするためにそこまで威力が出るわけでもない。また、銃身を経由もしないので弾はぶれる。経験がある方が的に当てるのは難しいかもしれない。


「で、どこを狙えばいい?」

「その前に一つ。……ねぇ、彼の弾私が込めてもいいかしら?」


 感覚を理解してユーリアの指示を仰げば、彼女は近くに立っていた生徒に声を掛ける。そこでクラウスは彼女の意図に気付く。けれどそれは本当に可能なのかと……。

 そんな事を考えているとユーリアの提案にその生徒は笑顔で頷いた。どうなっても知らないと諦めを抱きつつ銃をユーリアに託す。


「…………じゃあそうね、とりあえず狐の腹を撃ってもらえるかしら?」

「畏まり」


 仰々しく答えて息を整えSKSを構える。

 自分の世界に浸るのはクラウスにとって朝飯前だ。全ての外界の感覚を鈍く曖昧に伸ばして目標と自分以外を感覚情報から外す。

 ユーリアの思惑は簡単だ。クラウスに先に撃たせてその結果から自分が得物を狩る。そのための捨て駒。

 彼女にできるだけ多くの情報を残せるように集中して引き金を絞る。

 少しの反動と共に込めた弾が宙を駆け狐の腹へと突き刺さる。が、当然落ちずに僅かに傾きがついただけだった。


「……どう?」

「多分大丈夫じゃないかな」


 小さな落胆を胸に落とす傍ら、ユーリアとリーザが短く言葉を交わす。まさか本当に今の一発だけでこの銃と目標を分析しきったのだろうか。だとしたらそれは耳がいいとかいう問題では無い気がするのだが……。


「…………見てなさい」


 それから尊大に言い放ったユーリアはクラウスから銃を受け取ると流麗な動作で弾を込め、慣れた呼吸で構える。

 その鮮烈さに、優美な彫像のような狂いのない綺麗な構えに思わず目を奪われた。

 腕を上げた仕草に肩に掛かった漆黒の長髪が僅かに流れ落ちてまた視線を釘付けにする。横顔はどこまでも透き通っていて、真剣な表情はただ一点だけを静かに見つめていた。

 ユーリアの耳元でリーザが囁く。僅かに銃口をずらしたユーリアは、それから静寂に小さな空気の破裂音を刻んで弾を撃ち出した。


「っ────!」


 それは一瞬の出来事で、音さえも置き去りにした景色の中でクラウスは確かに狐のぬいぐるみが壇の奥に倒れていくのをその目で捉える。

 息を呑んだのは誰だったか。そんな感慨も疑問にならないほど教室内は全ての空間から分かたれたように沈黙に支配され、やがてユーリアが溜息と共に銃を下ろすと堰を切ったように歓声が溢れた。


「──どうよ」

「…………まさか本当に落とすとは思わなかった……」


 後ろに並んでいた客が少し興奮したように賛辞と拍手をユーリアに送る。この場を預かっていた生徒が苦笑いを浮かべながら肩を落とす。

 そんな景色の中でユーリアは当然のようにいつもの無表情でクラウスに告げる。

 どうよ。そんなこと言われたってクラウスには返す言葉は無い。ただ素直に驚きだけを伝える。

 するとユーリアは鼻を鳴らしてどこか楽しげに壇の裏側へ向かうとそこから狐のぬいぐるみを抱えて立ち上がった。


「……一応想像はできてるんだけど確認させて。何をしたの?」

「ユーリアが反動による着弾地点の予測。わたしが風を読んで弾の速さと当たった音でぬいぐるみの重さの計測」

「重さと速さが分かればそこからどれ程の力がどの場所に当たればいいかが大体分かるでしょ?」


 リーザの言葉に補足して何か可笑しいところでもあるかとばかりに首を傾げて告げるユーリア。

 いや、分かるでしょ? で、分かったら苦労はしないんだよ、普通。


「……常識を求めた僕が悪かったよ」

「何よそれ。それじゃあまるで私が常識外れみたいじゃない」


 その技能は常識を逸脱している……。その言葉をどうにか飲み込んで呆れる。

 そうだった。彼女は誤差があるとはいえ銃弾の速度の世界で物事を捉えられるんだった。いや、優れている事が悪い事だとは思わないけれども…………。


「その狐は欲しくて?」

「どちらかというと落とせないという概念を覆したかった方が大きいかしらね。もちろん、可愛いと思うけど────」


 そうして浮かべる、笑顔。

 花が咲いて、空気を変える。蜂蜜のようにはにかんだ甘い微笑みに思わず心を奪われる。

 不覚を取られた。想定外だった。まさかこんな形で彼女の笑顔を初めて見ることになるとは思わなかった。

 思わず高鳴った胸に何かしらの負けを認めつつ彼女の魅力を改めて知る。

 それは今まで頑なに硬い表情しか見せなかったが故の差異なのだろうが、こうして直面するとその破壊力に思わず視線を逸らしてしまう。

 これは普段との違い……ただのきまぐれ。そう思っても早くなった鼓動はどうにも直ぐには収まってくれなかった。


「……何よ」

「…………いや、ユーリアが笑ったところを初めてみたから」

「っ────!!」


 疑問に素直に言葉を返せば、ユーリアはこれまた珍しくあからさまに照れて教室を出て行く。

 だからそういう仕草が一々こちらの心を掻き乱すのだと。


「クラウスさん」

「……分かってる。それだけ心を開いてくれたってことだからね。春と比べたら怖いほどの差だよ」


 そうなるようにこれまで彼女と接してきた。信頼してもらえるように振舞ってきた。それは全て打算の末の言動だ。

 けれどいざその時が訪れてみればこの様だ。覚悟が足りない……。


「でもこれでやっと開始地点ですよ」

「そうだね。ここからだ」


 フィーナの言葉にようやくいつも通りを見つけて取り戻す。

 ここから。クラウスの思惑通りに進めるにはここから更に彼女の領域に踏み込まないといけない。

 そうしないと────ユーリアを守れない。


「責任、取りましょうね」

「あぁ」


 やっと立てた地点から新たな目標を設定して動き出す原動力とする。

 深呼吸して思考を一新すると彼女を追って廊下に出る。するとユーリアは窓から校庭を見下ろしていた。


「…………感謝はしないわよ」

「構わないよ。ただ僕がこうしたいって思ってユーリアに着いてきただけだからね」


 拗ねたような口調に答えれば、ユーリアはこちらを振り返り紫色の瞳でじっとこちらを見つめる。思い違いでなければ夕日以上に頬が染まっている気がした。


「……勘違いしないで…………」

「もちろん。これはただの協力関係」


 いつもの仮面で笑顔で告げる。視線を逸らしたユーリアにぎこちないいつも通りを感じて切り替える。

 そうして僅かに気まずい空気を含んだ雰囲気は、けれど唐突に鳴り響いた放送に全てを掻っ攫われる。


『本日は当学院開催の学院祭に来場いただきまことにありがとうございます。現時刻を持って────』


 校内を駆け巡るのは少し雑音の混じったニーナの声。どうやらこれにて学院祭の出し物の提供は終了らしい。

 ようやく激務から開放される……。何よりも先にそう巡った脳内を小さく笑って、溜息と共に緊張を弛緩させる。


『────つきましてはこの後校庭にて催される後夜祭もお楽しみいただけますと幸いです』


 残るは後夜祭……ボーンファイヤーだけだ。

 後夜祭。クラウスにはそこでやるべき仕事が残っている。彼女に──アンネに突きつけるべき大役と言葉が残っている。

 それを以てクラウスの学院祭は全て終了だ。

 そしてそこから、新たな一歩を踏み出すのだ。

 誰の為でもない、ただクラウスの為の、クラウスが望む野望に向けて。


「行くわよ。後片付けに遅れる」

「そうだね」


 ユーリアの言葉に頷いて足を出す。

 同時に、まるで予感のように脳裏には一つの景色が浮かび上がる。その情景が、唯一つの真実を突きつける。

 彼女との再会の時が、近いと────




 放送の後、後夜祭には参加しない来場者を見送ってクラウス達は簡単な片付けに移る。

 後夜祭のボーンファイヤーは校庭で開催される。炎を囲み、やりたい人間は相手を見つけて踊り狂う。

 クラウスには先約としてフィーナの相手を務める義務がある。今回ばかりは参加をしないわけにはいかない。

 八方美人も疲れると溜息を吐きながら屋台骨を担いで移動する。


「クラウスっ」


 そんな背中に掛けられた声に足を止めて振り返る。視界の先にいたのは我が幼馴染テオ。その表情は顰められていた。


「……どうしたの?」

「足運びって知ってるか…………?」


 随分と苦しそうな声音。その一言で彼が直面している苦悩を察して笑う。


「テオ、踊った事は?」

「こうなる事がやだったからこの時期に相手を作らなかったんだよ。毎年突っ撥ねてた……」

「あぁ、なるほど。贅沢な悩みだね」


 いい気味だと心中で笑って並んで歩き出す。

 単純に言ってしまえばテオは恋愛対象になりやすい。それはつまり複数の女性から視線を向けられることと同義で、元来大立ち回りが苦手な彼にとっては、こうした場所で誰かと一緒に居るという事に慣れていないのだ。

 だから彼は毎年この時期には彼女を作らない。彼の隣を狙ってやって来た好意も特別扱いを避けて全て突き返してきたのだ。

 それが今回はニーナがいる。何の弱みを握られたのか後夜祭で一緒に踊ると約束を取り付けられたのだろう。ならばニーナが上機嫌だった理由も窺える。


「残念だけど僕もそういう経験は無いよ。僕みたいな爪弾き者と好き好んで踊ってくれる人は居ないからね」


 それは自虐というよりは諦めで、今となっては少しばかり感謝をする差別だ。

 嫌われるからこそテオのように面倒事に巻き込まれる頻度は減る。だからこそクラウスの考える理想に巻き込む被害者を最低限で抑えることができると。


「くっそぉ……。誰か知らねぇか? そういうことに精通してる人。 恥は掻きたくねぇからよ」

「……レベッカさんとかは? 経験はそう多くないかもしれないけど簡単になら教えてくれると思うよ」

「なるほど。よしっ、後で見かけたら……」

「早くしないとヴォルフ先輩のところに行っちゃうんじゃない?」

「だぁ、そうだったっ!」


 唸るテオ。からかいがいのある幼馴染だと思いつつ笑う。


「……話してる暇はねぇか。手伝ってやれなくてわりぃ」

「後で惚気でも聞かせてもらえれば充分だよ」

「うっせっ! ぜってぇクラウスには言わねぇからなっ!」


 吐き捨てて先を行くテオの背中に飲み込んだ言葉を思う。

 テオ、その覚悟でもう答えを聞いたようなものだと。彼の真摯さに改めて自慢の幼馴染だと思いつつニーナの豪胆さを尊敬する。

 エルフだからとか、格好いいからだとか。そんな個人の話よりも深いところで互いを思いやる彼らに福音歌を。願わくば炎のように燃え尽きぬ事をと願って彼らの行く末に幸福を願う。


「道化ですよ、クラウスさん」


 そうして願えるのに、自分自身はどうなのかと。

 フィーナの指摘に感情を欠落させて笑顔を浮かべた。

 やがて片づけが終わり、校庭を見下ろしていると息をするように隣を埋めた友人に声を掛ける。


「……お疲れ。これからもう一仕事?」

「そうね」


 肩を揺らす仕草に長い黒髪の先が僅かに揺れる。この距離も春の頃から考えると随分と縮まったものだと思う。

 そんな事を考えていると隣の彼女がこちらを見据えて口を開いた。


「…………ねぇ、クラウス」

「何?」

「時間があったら、付き合ってくれる?」


 何処へ? と尋ねようと向けた視線でその答えを見つける。

 決意を秘めた紫色の瞳。覚悟を宿し闘志を背負った前を見据える瞳。

 綺麗だと思った。

 妖しい中に確固とした意思が宿り、見る者を惹き付けて放さない魅惑の瞳。

 呼吸さえも奪われた景色の中で口は考えるより先に答えていた。


「分かった」


 きっとその場にクラウスが居る必要は無い。だからこそ、彼女にとってクラウスが隣にいる事が何よりも重要な意味を持つのだと。直感的に悟った頭はその景色に終止符を見る。


「来て」


 彼女の声に頷いて着いて行く。

 そうして辿り着いたのは校庭外れの校舎の陰。そこには彼女の──ユーリアの父親、ハインツ・クー・シーが立っていた。

 クラウスの中ではもう既に答えの出た問題。けれどそれはクラウスの中だけであって、ユーリア個人にとってはまだこれからの話だ。


「……一体何の話だ」


 単刀直入。真っ直ぐな物言いにユーリアが一度開きかけた口を呼吸へと変える。

 深く吸い込み、吐き出す。深呼吸。

 人間が気持ちを入れ替えるために取る一番簡単な方法だ。クラウスもよく溜息を吐いて思考を切り替えている。


「お見合いの事。お父さんから言われる前に聞いて欲しい言葉があって」

「そうか。何だ?」


 抜き身の刀のように飾らない言葉。ユーリアがユーリアたる根源の一つで、それは父親譲りらしい。


「……私、お見合いをする気は無いっ。それに私は自分で選びたい。だから、嫌」


 明確に率直に。他の誰にも侵されるべきではない、ユーリアの気持ち。

 彼女の決意。


「親の決めた都合でもか?」

「うん。そこだけは、引けない」


 不意にユーリアの手がクラウスの手を握る。それはきっと安心と、期待。

 クラウスがそこにいるという事実。だからこそ彼女は逃げる事を切り捨てられる。


「私は、クー・シーを継ぐ気は無い」


 ────わたしとしてはあの子にクー・シーを継がせるつもりは無い


 ハインツの言葉が脳裏を過ぎる。彼の手のひらの上だ。だから、クラウスにはそれを見届ける義務がある。

 知ってしまった秘密を闇に葬るために。


「…………そうか。ならば言うべき事はない。方々にはわたしから取り直しておこう」

「……いいの?」

「いいも何も、ユーリアが決めた事だ。わたしの言葉は提案であって決定ではない。違うか?」


 ユーリアにとっては肩透かしな返答に聞こえるだろうか。

 ユーリアにはハインツのお見合いの話は頭ごなしな否定に聞こえていた事だろう。そう聞こえるように言葉を選んだのだろうし、そうする事で彼はユーリアの覚悟を聞きたかったのだから。

 逆らう力。否定する力。自分を見失わない意志。

 どこかで受動的だったユーリアが自分の意志で決めて行動する力を知りたかった。だからハインツはユーリアを追い詰めてまでそのきっかけを作った。


「クラウス君には迷惑をかけたかな」

「いえ、大丈夫です」


 何に対してか分からない返答をして、それからハインツの瞳に輝く好奇心に背筋を凍らせる。

 まだ何か、彼は隠している。クラウスにも言っていない、最後の爆弾を────


「話はそれだけか?」

「え……あ、うん…………」

「だったら次はユーリアの選ぶ男を見てみたくはあるな」

「…………っ!? いや、これは違くてっ!」


 なるほど、これは酷い茶番だ。これほどまでに意味のない会話は久しぶりだ。

 ちらりとユーリアが握るクラウスの手を見やって笑うハインツ。その視線に気付いたユーリアが今まで見せたことないほど焦ってクラウスの手を振り払った。

 そこまで拒否されると流石にへこむんだけど……。


「いい子だと思うが?」

「そう言うのじゃないっ! クラウスも、勘違いしないでよ!?」

「分かったから、そんなに怒らないでよ」

「怒ってないっ!」


 だったらそんなに一所懸命叫ばないで欲しい。耳が痛い。

 それまでの空気を見事破壊してくれたハインツに心の中で恨み節を送りつつ、豪快に笑う彼の思惑に溜息を吐く。

 きっとそんな彼こそが本来のハインツ・クー・シーで、今までのはユーリアのための演技なのだろう。随分と演技派な総隊長だことだ。


「とりあえずっ、クラウスはもう関係ないから帰していいわよね?」


 呼んだのはユーリアだろうと、少しだけ理不尽さに嘆きながら彼女に背中を押されてその場から離れる。

 強引な退場だ。後もう少しユーリアの反応が見たかった。

 そんな事を考えて笑いながら、ハインツの元へ戻ったユーリアに少しだけ考える。

 ここからは彼女個人の問題。どうやってハインツの誤解を解くかだろう。個人的には誤解を現実にしても問題は無いとクラウスは思うのだが。

 何にせよ、これで目下の問題は終了か。あとは屋上で彼女に付き合うだけだ。




 夜の帳が下りて辺りが闇に包まれていく。殆ど灯りの点いていない僅かばかりの人の温もりが残る校舎を、フィーナと二人歩いて屋上へと辿り着く。

 校舎はしんと静まり返り、響くのはクラウスの足音だけ。不意に壁に立て掛けた看板が倒れようものなら、フィーナと二人して肩を跳ねさせる覚悟はある。

 娯楽としての恐怖体験は嫌いではないが、それが現実へと変わる想像は豊かな分だけ被害妄想を掻きたてた。

 個人的に教室を見て回って火の元の確認をし終えると、その足で屋上へと続く階段を登る。途端、足を掛けた場所から空気が一気に冷えて少しだけその寒さに体を震わせた。

 無断持ち出しの屋上の鍵。ばれたら流石に怒られるかと怖いもの見たさを発揮させつつ扉を押し開ける。

 刹那に冷たい夜風が頬を撫で、澄み渡った空気を胸の奥に注ぎ込む。気温の違いはやっぱり寒くて、それから少し寂しい。

 それはこの場所にフィーナと二人きりだからかも知れなければ、見上げた夜空が何物にも遮られない広大なものだからかもしれない。

 屋上には光がない。だからこそ、そこから仰いだ景色は群青の天井に幾つかの輝きを散りばめた自然の天蓋だった。

 外気にか震えた体を心細く感じて、目の先の星へと手を伸ばす。その指先を、フィーナが優しく掴んで、それから温かく笑った。

 山の向こう、昇りかけの欠けた月を背に、七色の翅を揺らして幻想的に微笑むフィーナ。彼女は桜色の唇の隙間から温かい息を零して紡ぐ。


「踊りましょう、クラウスさん」


 言葉と共に彼女の体を七色の方陣が通過して人間大に変化する。フィーナの力のみでの不完全な人化。薄翅四枚を背負ったこの世の伴侶のもう一つの姿。

 思わずそんな彼女の美麗さに見とれて時を忘れかける。その時、耳が下の方で大きな歓声を捉えた。

 視線を向ければ校庭の真ん中では燃え盛る火の柱。どうやらボーンファイヤーが開始されたらしい。

 遅れて陽気な音楽が流れ始める。


「足運びは知ってる?」

「……いざとなったら飛んで誤魔化しますっ」


 ボーンファイヤーを囲んで行われる踊りは炎(フラム)の妖精……エルフにとっては炎の精霊、サラマンダーへの奉納だ。

 それを誤魔化して切り抜けようなどと、何ともまぁ軽薄な納め物だ。

 小さく笑って彼女の手を取り直す。


「よろしければ僕と一曲踊っていただけませんか、淑女殿?」

「はい、喜んでっ」


 芝居掛かった台詞と行動はこの場限りの照れ隠し。

 頭一つ分小さいフィーナと身を寄せて足を運ぶ。

 遠くには小さな喧騒と炎の灯り。耳に響くのは足音とフィーナの慌てた声。けれどそんな景色も絵になって、気付けばフィーナの足取りは順調に上達していた。


「妖精の踊り……フェアリーリングか」

「確か茸とかが輪っかになって生えるものでしたっけ?」

「よく知ってるね」

「……あれ、何で知ってるんだろぅ…………」


 呟きは小さな疑問。恐らく親か誰かに教えてもらったのだろう。妖精たちとしては人間のその日の欠伸の数ほどに有り触れた話、一々気にはしないことだ。

 フィーナの言う通りフェアリーリングとは別名菌環と呼ばれ菌類が輪のように生える現象だ。妖精たちが輪になって踊った跡に生えるものとされ、妖精の踊り、妖精の輪などの別名がある。

 また妖精のほかにドラゴンの休息の後で、吐炎によって焦がされた後にできるものという話もある。

 自然科学的にはただ単に茸が放射状に広がっただけと言われているが、そんな言葉を信じているのはほんの一握り。

 クラウスだってフェアリーリングの名で、妖精の踊りの跡と思っている。常識としての認知度はこちらの方が上だ。


「ま、いいです。今は踊っている事が楽しいですからっ」


 右へ左へ。かすかに聞こえる音楽に合わせて足を運び、曲の終わりまで踊り切ると思わず笑みを浮かべた。

 合わせて足を止めると、フィーナも吐息を落として微笑み俯いた。それから人間がそうするように、白銀の月を背景に貫頭衣の裾を軽く摘んでお辞儀する。

 仕草に絹のような銀髪がさらりと揺れる。

 絵になる光景だ。この景色を切り取って絵画に出来たなら、どれ程綺麗だろうか。

 精緻な人形のように振舞うフィーナは、顔を上げた後、上気させた頬でこちらを見つめる。

 どうやら満足してもらえたらしい。妖精の好奇心は結構即物的だ。

 そうして、踊りを堪能した彼女はその場でくるりと一回りして妖精の姿へと戻る。結局、彼女が飛んで誤魔化す事はなかった。


「…………さて、それじゃあそろそろ気分を入れ替えようか」

「愛憎入り乱れる大立ち回りですねっ!」

「……何処で覚えたの、そんな言葉」

「クラウスさんのいつも読んでいる本をちょっと盗み見ただけですよ~」


 視線を逸らして楽し気に答えるフィーナ。

 確かに少し前に読んだ本にそんな事が書いてあったような……。ある種の親心として彼女の前で読む本を少しだけ改めようか。

 そんな事を考えていると、屋上の扉が音を立てて開かれた。あえて振り返らずにそこにいる人物に声を掛ける。


「いい景色だね」

「あの時の再現?」


 返った言葉は糾弾と愉悦を綯い交ぜにしてクラウスへと突き立てられる。


 ────夕日、綺麗ですね


 思えば彼女との始まりはここからだった。単に人気のないところを選んだつもりだったが、この偶然には笑いが込み上げて来た。


「全てうまくいってよかったよ」

「今このときだけは都合が悪いことばかりなのに?」

「貴女のことを独り占めできるからね。僕じゃあ少し役不足かもしれないけれど」

「その自信家なところこそが、貴方の一番の魅力ですよ」

「それはどうもっ」


 役者を入れ替えて、あの時交わした言葉に重ねて続ける。


「けれど私と貴方は相容れない。近づけば近づくほど互いに傷ついてしまう」

「そうして傷つけたことにまた傷を深くする……。それに僕は、貴女の花に甘んじるつもりは無いし」

「それは失礼」


 過去をなぞって未来へと紡ぐ。

 あの時始まった物語を、今ここで一度綴じる。


「けれどそれで満足なんて出来ないから、こうしてまた身を寄せ合うの」

「そうしてたった一時の甘言に際限なく溺れていく。 ……いや、溺れていたいだけ」

「それもこれも、こんな嘘くさい芝居で全部終わっちゃうんだよね」


 少しだけ声質を変えて紡がれた言葉にようやく振り返る。

 そうして、そこに立っている彼女に目を奪われた。

 風が、空気を全て奪い去って景色を揺らした。

 少し短い緩く波打つライトブラウンの髪が風に靡き、こちらを見つめる透き通った水色の双眸からは珠の雫が拭われる事もなく、絶え間なく頤(おとがい)を撫でていた。


「ねぇ……何であの時拒絶したの? 何で私を認めてくれなかったのっ……?」


 震えた声に涙が混じる。

 濡れた瞳はこれまでにないほど懇願と非難の色を灯す。


「本気だったのに! 認めてくれれば、こんなに辛い思いをしなくて済んだのにっ!」


 紡がれる言葉はただクラウスの胸を貫く刃として降り注ぐ。


「誰よりも近くに居た……誰よりも遠くに居た……。誰よりも肯定して、誰よりも否定したっ。あの時から……ううん、委員会ができるより前から私はアナタを見てたっ」


 彼女の言葉は狂わない。何処までも真実で、何処までも正義だ。

 だからこそ、クラウスは彼女にその正義を振りかざしクラウスを否定する事を願った。

 そうして、責め苦を与え続けた。


「心のどこかでおもってたんだ……。夢見てたんだ。子供らしい、女の子らしい、ただの夢……。けど現実は残酷で、私の目の前に現れた王子様は悪魔だった。そんな悪魔に、私は恋をした────」


 近づいてはいけないと。結ばれてはいけないと。

 彼女はクラウスの物語に招かれざる客だから。彼女の役割はクラウスにとっての敵でなくてはならないから。

 悪の視点から見た偽善を振りかざす敵。それは一般論で言えば正義の味方。

 クラウスはただ自分を悪役に仕立て上げるために、招かれざる彼女を正義へと仕立て上げた。


「悪役に惚れた正義は、どうなるんだろうね……。私は、きっとどこかで……踏み違えた。アナタの望む私になれなかった。正義を、貫けなかった」


 独白。告白。

 自らを曝け出して、全てを壊すために紡ぐ物語。それは彼女が白紙へと戻る前奏曲。


「戦う事を放棄して、悪に染まったんだ。一番進んじゃいけない道に、私は踏み違えたんだ」


 俯いた仕草に頬を滑り落ちていた雫が足元へと滴り落ちた。

 そんな光景を、クラウスは静かに見つめていた。


「なのにアナタはそんな私を許容した。認めた上で、突き放した。……使えないからって、見限ったんだ」


 渦巻いた思いの塊はいつの間にか彼女一人では抱えきれなくて、彼女は他人へと縋った。

 そうしている間だけ自分を強く感じられたから。自己の居場所を見つけてそこに耽溺した。


「酷い事押し付けられて、捨てられて……。なのにまだ消えないんだよ…………。私は一人になったはずなのに、私の中からアナタだけが消えてくれないっ」


 恋と言うには歪み過ぎていて、愛と言うには深すぎる。憎んでもいるだろうし、恨んでもいるだろう。

 全てクラウスが求めた通りで、だからこそこの光景も甘んじて受け入れるほかない。

 その上で、彼女が求める、用意された言葉を突きつけるしかない。


「滑稽な話だよっ。協力と対等を演じてたはずなのに、いつの間にか尽くしてて。剰(あまつさ)えそれが恋愛感情っ。反吐が出る!」


 きっとそれは彼女の根底に蟠る最大の否定。

 クラウスが他人を信じないように、誰かに恋する事を、彼女は肯定できない。

 恋や愛を、理解できない。


「私はただ自分の居場所が欲しかっただけなのに。それが恋する事だなんて馬鹿げてるっ!」


 だから彼女は不安に苛まれ、自分を見失った。クラウスに縋って、自分を保とうとした。

 彼女の他人への依存性は、常軌を逸している。


「馬鹿げてるのに、貴方の事しか考えられないっ。貴方以外に世界にいないっ! だったらもう、全部投げ出すしかないじゃない……。認めるしかないじゃない…………!」


 それは報復。

 クラウスが見捨てたから、クラウスの望まない結末を手繰り寄せて、クラウスの世界を打ち砕く楔。

 そうしてクラウスの記憶に刻み込んで、クラウスが最も利用できる武器とする。それが彼女の最後の目的。

 彼女が想いを告げることで成就する計画────

 そこまで考えが至って、クラウスは気付く。

 これは、クラウスに向けた言葉では、ない。


「私は、クラウスが好きなんだって」


 そうして思いの丈を支離滅裂に叩き付けたアンネは、涙を流しながら笑っていた。


 ────私を今すぐ殺してよっ!


 この屋上でそう告げたアンネの姿と、目の前の彼女が重なる。

 きっとあの時から、全てが狂っていた。

 その景色を白紙に戻して、戻せない関係を前にだけ進めて、彼女と一からやり直す。

 望んだ景色は何処までも澄み渡り、彼女の言葉は黒く赤く濁って。

 喉元に突きつけられた刃に、クラウスはただいつも通りに冷静に答えだけを返す。


「僕はアンネが嫌いだよ」


 その言葉に、アンネはただ優しく笑っていた。

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