第四章
ブランデンブルクに戻ってから数日は落ち着いた時間を過ごす事ができた。
流石に二週間以上休みをなしにあちらこちらへ動き回るのは身体的に酷だ。特に今は目の前に進級試験を控えている。体に無理を強いれば充分な能力を発揮できなくなる恐れがあるのだ。
委員会としても安全のための警邏がある。校内保安という表向きといえど歴とした名目に従って、実績は残さなければならない。
そのための休息と考えればこの平穏は妥当だ。
「クラウスさん、このお菓子食べてもいいですか?」
「……それ休憩にフィーナと一緒に食べようと思ってたやつだけど、今食べる?」
「だ、だったら我慢します」
冷暗所の中身を恨めしそうに見つめながら唸る相棒。彼女の食欲は底なしか。
本当一体どこに入っているのか、彼女より大きな食べ物が刻々となくなっていく様は奇妙を通り越してもはや恐怖だ。あれで殆ど妖精力には変換されないというんだから不便な事だ。
手持ち無沙汰に調理場の方を旅行するフィーナの後姿を眺めつつ、一度中断した思考に再び埋もれる。
脳裏に浮かぶのは数日前に別れを惜しんだニーナの幼馴染、ヘレナ。彼女の残した言葉だ。
────だからお願いします。エルフを……ニーナちゃんを助けてあげてください
ニーナがエルフィムであるヘレナを心配に思うように、他国へ向かいそこで学ぶニーナの事をヘレナが心配に感じるのも正しい事だろう。
そもそもエルフという種はその数が少ない。今この世界に生きている生物のうち人間が四割、妖精が三割、エルフが一割。幻想生物や混血などが残りの二割だ。
混血を含めれば約二割程度にはなるがそれでもやはり五分の一。
歴史についても同様で人間や妖精のそれに比べて短い。
それら数的観念や歴史の時間から、この世を長く生きていると胸を張る人間たちがエルフたちを非難する。それが積もって出来上がったのがエルフに対する不信や差別意識で、集大成とも呼べるものがエルフ兵革だ。エルフを非難するものの中には蛮種戦役と呼ぶ者も存在する。
エルフと人間、そこに巻き込まれた妖精達の半三つ巴の戦。
学院で習った無味無臭な文字の羅列から想像できるのはどこまでも無益な戦だったということだ。
戦は本来政治的概念と私欲の混じったものだ。けれどエルフ兵革においては政治的思想はない。
ただエルフを非難したいがために、エルフという存在を否定し、貶めたいがために行われた戦。土地が得られるわけでも勝って経済が極端に潤うわけでもない。ただ私利私欲のために行われた戦だ。
そこに巻き込まれた妖精はいい迷惑で、参加しなかった人間も沢山いる、なくてもよかったはずの争い。
後に残したのは荒廃したいくつかの地域と前より広がったそれぞれの関係の溝。
戦としての本質を見失った子供の喧嘩だとクラウスは思う。
そんなエルフとの関係を後に大きく改善したのが今現在フィーレスト学院の学院長を務めるエルゼだ。
彼女は術式複合、そして複数属性保持という類稀な能力を買われて従軍し、戦に出向いた。誰もが認める負の遺産、第二次妖精大戦。あの戦では大隊の指揮官として千人以上の指揮を執っていたほどの実力者だ。
過去の戦争については口にする事も憚れるため、詳しい事はクラウスにも分からない。個人的にはそんな大人数を、エルフという血筋でどうやって取り纏めていたのか……その統率力に興味があったりはするが。
そんな彼女は従軍時代、戦と並んでエルフのような『種族』への研究に時間を費やしていた。その知識の全てが集約されたものが彼女が書き上げた研究論文の数々だ。
その内容は主にエルフの存在についてで、どこから来ただとか生態など。それまでは中々話題には挙がらなかった──挙げる事を禁忌とされていた──問題ばかりだ。
エルフとの意思疎通を取る試みは随分昔からあったが、エルフ兵革やそれらが齎した溝、それまでの人間たちの言動によって殆どが埋没していた。その溝を取り持ってエルフの歴史を紐解き、世界的に発表する事でエルフへの理解を高めたのが彼女の功績なのだ。
彼女の調べたエルフについての論文は、エルフの根源的な部分に迫る話が多く、中でも幾つかの成果には首を傾げる部分も存在する。
そのため彼女の論文の全てが容認されているわけではない。
今現在は、過去の戦争の火種となったエルフに対する誤解と謂れのない非難に対する糾弾。それから幾つかのエルフの歴史が認知されている。それらは学院で学ぶ妖精史などで取り扱われ、今のクラウスほどの世代には余りエルフを嫌う者は少ない。
ただ一度根付いた思想を払拭するのは難しく、第二次妖精大戦の真っ只中に生きた人たちには未だに根強いエルフへの差別的な感情が残っている。
その差別意識が引き起こしたのがニーナの降級、軍属剥奪の問題だ。
事を冷静に判断して客観的に結論を下すなら、間が悪かったのだろう。
エルゼがエルフの事を公表して数年。まだまだ世間は彼女の研究の成果に混乱と反発に満ち溢れていた頃。エルゼはフィーレスト学院の学院長という席に座った。この頃にもあまり多くは語られない問題があって、エルフの問題に小さな亀裂が幾つも出来上がっていた。
そんな後にニーナが入学してまた問題となった。エルフの入学、それはブランデンブルクにおいてはやはり珍しい事で、スハイル帝国と比べると前例が少ない。国立で、エルフの入学を禁じているわけではないため全く新しい事というわけではないが、大抵の場合はスハイル帝国に移ってそこで入学するのがエルフの中の暗黙の了解となっている。それが彼女たちエルフにとっても一番平穏であるはずだからだ。
通例に逆らうようなニーナの入学にはもう一つ問題があった。それはディルクの存在。
あまり多くを知らないクラウスだが、それでも嫌に耳に入って来る情報は確かに存在する。それが例え他の者の個人的な生き様を表沙汰にするようなことであってもだ。
ニーナがエルフだから……そんな側面も相俟って噂が広まるのは早く、深かった。
ニーナと契約妖精ディルクは入学以前から契約を交わしていたという逃れられない事実。更に、ディルクの前の契約者は彼女の父親だという事実。
個人の侵害も当人の不注意といえばそれまでで、けれどニーナはその事を隠していたはずなのだ。エルフである事、厭われる事を知っている者が対策をしないわけはない。
だからきっとその事実が露見した裏にはニーナ以外の干渉があったことだろう。
それらのニーナに対する不審は段々と積もって、そしてあるとき爆発した。
ニーナが生徒会長になりたった一度の失態を起こした。
失敗など誰にもあることだ。失敗をしない者などいない。
けれど無意識に積み重ねられた距離感は、事態を拡大解釈して必要以上の矛先を向けることとなった。
結果それはニーナに事実以上の罰を背負わせる事で終息していった。
それが彼女の身に起こった理不尽とも呼べる悲劇であり、幼馴染たるヘレナが気遣う要因なのだろう。
彼女はきっとニーナの一番の理解者だったから、自分の傍を離れたニーナの事を何よりも案じていた。
そしてこの前ニーナと再会して、その瞳の奥に蟠るものに気付き、彼女はクラウスに託したのだ。
きっと彼女は知らずに頼んだだけ。彼女の願望とクラウスのおかれている状況が偶然に重なっただけ。
思っても、少しばかり疑ってしまう自分は他人不信だろうか。
ゆっくりと息を吐いて心を落ち着ける。他人を信じないのはいつもの事だ。信用するのは自分と確かな情報だけでいい。
「クラウスさーん……」
そんな風に思考を外した直後、耳にフィーナの声が飛び込んでくる。
顔を向ければ目の前に彼女の姿があってその近さに少しだけ驚いた。
「どうかしましたか?」
「いや……ただ中々うまくいかないなって」
「…………?」
蒼色の綺麗な瞳に疑問符を浮かべて首を傾げるフィーナ。
少しの間クラウスの目を見つめていた彼女だったが、その内疑問さえも霧散して消えていく。
「あ、そうだ。そろそろお昼ですって言おうとしてたんでした」
「もうそんな時間か。それじゃあ簡単に作っちゃおうか。何が食べたい?」
「何か冷たいものがいいです」
尋ねながら調理場へ向かう途中、部屋の扉が叩かれる。次いで響いたのは聞き慣れた声だった。
「クラウス、いるかー?」
扉を開けてそこにいたのは想像通り幼馴染のテオ。また昼飯を集りに来たのだろうか。
「どうかした?」
「借りを返してもらいに来たんだが……これから飯か?」
「テオはもう食べた?」
「いいや」
どの借りだろうか。少しだけ考えつついつも通りな幼馴染の入室を促す。
フィーナに飲み物を渡して運んでもらいながらクラウスは流しの前に立つ。
「それで、何の借り?」
「あれだ、妖精弾の嵐の」
「あぁ」
少しだけ悩んで麺と魚介類を取り出す。簡単に食べられるし和えてしまおう。
「あれはこっちに非があるからね。何を返せばいい?」
「食い終わったらちょいと練習に付き合ってくれ」
「……試験の?」
「おう」
準備の傍らに交わした会話に今後の予定を組み上げる。
テオにはフォルト級を目指してもらう予定だ。それはクラウスに必要な事で、彼にとっても損にはならない提案。こちらに拒否する権利はないし最大限手助けをさせてもらうとしよう。
それに午後からはクラウスにも一応仕事がある。それと一緒にこなせるなら暇を持て余すよりはいいだろう。
幼馴染と共に昼ご飯を食べて、クラウス達は寮を出て校庭へと向かう。
今は試験前と言うこともあって校内の幾つかの場所が妖精術の訓練や練習のために開放されている。クラウス達が向かった校庭にも幾人かの姿が見え、それぞれに準備運動をしていた。
クラウスの仕事は彼らの監視だ。校内保安委員会として危険な行為は未然に防がなければならない。そのためこうした期間中は日替わりで見回りを行っているのだ。今日はクラウスの番。
ただし通常は見て回るだけで特に何かがあるわけでもない暇な警邏だ。その為時間を潰す手段を探す方が面倒ではあるのだが、今回に限って言えばテオに協力をしつつでいい。……というかそちらにある程度集中しないと彼を相手では怪我をしかねない。
「それじゃあ俺たちも始めるか」
「そうだね」
四分の爪弾き者とは言え、行内保安委員会の一人であり、代理の副会長も任されている身。避けられてはいるが肩書きは本物で、ここにいる彼らにしてみれば不必要に相手にしたくないただのきっかけだ。
監督役のクラウスが来た事でそれぞれが練習に取り掛かり始める。
見渡すが、わざわざクラウスを目の敵にして突っかかってくる短慮な者はいなさそうだ。試験への準備という目標がある間は、クラウスにも平穏が訪れるということだろう。
邪魔されないならそれに越したことはない。クラウスも目の前に集中させてもらうとしよう。
簡単に体操を行ってから、幼馴染に向き合い問い掛ける。
「どんな想定訓練がいい?」
「対遠距離個人戦」
「ん、分かった」
方向性を定めると、距離を取って一呼吸。合図を入れて妖精弾を撃ち放つ。直後、彼に迫った弾はいつの間にか作り上げられていた炎の大剣に両断されていた。
炎で形作られた武具。副武装すら既にその手の内かっ。
心の内を歓喜で震わせながら思考は冷静に次を追っていた。
日も随分と傾いた頃、長く伸びた木陰に腰を下ろし幹に背を預けるクラウスは、視界の先で演舞を行う幼馴染の姿を見つめながら期を伺う。
今日の場所開放もそろそろ時間だ。彼の練習が終わり次第解散としよう。
肩の上に腰を下ろし持ってきていた間食を頬張るフィーナ。彼女のそんな気の抜けた光景を目端に捉えながら、茜色に染まりつつある空を見上げる。
と、視界の中に見覚えのある影を見つけてそちらを注視する。学院の屋上、そこに立っていたのはニーナ。個人的な見回りだろうか。
そういえば今回は彼女も参加するんだったか。元々ハーフェンにいた彼女の事だ、よほどの事がない限りトーアに進級できることだろう。
けれど彼女の進級試験への挑戦は、今回が最後。この次の冬の進級試験は彼女にとっては卒業試験になるはずで、冬の進級試験は受けられない。そのため彼女は一度ハーフェンまでに上り詰めたにも拘らずトーア、もしくはドルフ級のままこの学院を卒業する事になってしまう。
それはあまりにも不平等ではないかと。彼女が降級した理由はその殆どが彼女の所為ではないと。クラウス個人としては言いたいが、言ったところで過去が覆るわけではない。
進級試験一度につき上がる階級は一つまで。それは生徒を考慮しての事なのだ。
だったら彼女はそれに甘んじるのか。自分に嘘をついたままでいいのか。
それを決めるのは彼女自身で、だったらクラウスが勝手に期待をしてもいいのだろう。
風に揺れる穹色の短い髪が背を向けて去っていく。その後姿にはしっかりと彼女を象徴するエルフの長耳が見て取れた。
「ごちそうさまでしたっ」
小さい手を合わせて食事の終了を告げたフィーナが一つ息を吐いて飛び上がる。
「さて、今日はここまでかな」
「見張り役お疲れ様です」
相棒の労いを貰い、校庭やその他開放場所に出向いて練習時間の終了を告げる。それからテオの休息にしばらく付き合って、報告にフィーナと二人で生徒会室へと向かう。
あとは彼女に活動書類を渡して、判を貰ったら教員に提出し、今日の仕事は終わりだ。
赤色の強くなった陽光差し込む廊下を目的地に向かう。と、前から一人の女性徒が歩いて来る。
軽く波打つライトブラウンの頭髪に、綺麗に透き通った水色の瞳。アンネだ。
彼女の服装はいつもの制服と異なり、黒い儀式用の礼装。どうやら何かお国とのやり取りがあったらしい。
アンネはクラウスの姿を見つけると、頬にほんのり朱を差して目の前で足を止める。彼女が見上げる10セミルの身長差。その上目遣いは計算から来るものか。
「……あぁ、見回りお疲れ様」
クラウスが何故こんな時間に学院にいるのか。その理由を見つけて心のない労いの言葉を口にする。
「今日はどうしたの? 委員会絡み?」
「残念。そうだったらもう少し着飾ってきたんだけど」
毛先を指で弄りながら言葉を返すアンネ。どうやら彼女は本当に身を引くつもりらしい。それでも言葉遊びはやめないつもりなのだろうが。
「上の人に呼び出されて、それから使いとして確認に学院長と話をしてきただけ」
「大変そうだね」
他人事に言うとアンネは少しだけ口を結ぶ。元々そういう関係だろうに。固執してるのはやはり彼女の方だ。
「で、走り回った結果これを託されたの」
そうして面倒くさそうに一枚の書類をクラウスに向けて差し出す。どうやらクラウス宛のものらしい。受け取って目を通す。
そこに記されていたのはブランデンブルク城の資料室を自由に閲覧できる権限を付与するという認可状。文頭にはクラウスの名前が綴られていた。しかし最後まで目を通しても差出人の名前がない。
一体誰が何のために。胡散臭く思いながら手元の書類の出所を探る。
「……これは誰からの?」
「あれ、署名無かった?」
「無いから聞いて────あぁ、いや……言わなくても分かったからいいや」
頭痛がした気がして頭を抱えつつ唸る。こんな杜撰な書類を寄越す輩は一人しか知らない。
同時に彼女が何のために許可したのかも察する。そんなに心配なら他人に任せず自分でどうにかすればいいのに。
溜息一つ。それから具体的な目的を抱きつつ、アンネに別れを告げる。
「……とりあえず連絡ありがと」
「何かあったら声掛けてね?」
「気が向いたらね」
肩越しに手を振ると背中に突き刺さる視線。気付かない振りをしてその場を後にする。
とりあえずこの後する事は決まった。行って確認すれば着地地点も見えて来るだろう。
成り行き任せな道のりに身を委ねつつ目的地の扉を叩く。しばらくして返った入室を促す声に、一つ息を整えてから扉を開けた。
「報告書持って来ました」
「その辺りに置いといてくれる? 後で目を通すから」
「分かりました」
こちらに視線を向けないまま答えるニーナ。どうやら色々な書類と格闘中らしい。あまり邪魔をするわけにはいかないか。
この様子だと教員への提出は彼女が変わってくれそうだ。
「それでは僕はこれで……」
「ちょっと待ってなさい。ヴォルフ」
「……話があるらしい」
そう思って口にすると、ニーナは少し険のある声でクラウスを呼び止める。振り向けばヴォルフが飲み物を既に用意していた。
有無を言わせないような低い彼の声に少しだけ考えて「わかりました」と答え腰を下ろす。
クラウスが一息ついた頃にヴォルフの気まぐれか焼き菓子が一皿出てきた。幾つかの果物が宝石のようにのった芸術品のような一品だ。
「レベッカから貰ったものだ。一人一つずつある、よかったら食べてくれ」
「いただきます」
諸々の変化を口には出さず飲み込んで大人しく貰っておく。
彼らの関係も順調そうで何よりだ。それでもやはり大勢の前で口に出すのは避けているようだが。それは仕方ないと思うべきか。
あまり深くは追求せずに口へと運ぶ。生地は柔らかく凝乳は甘く。果実も十分に熟れていて、薄く掛けられた明るい茶色の粉が口の中で香りを立てていた。どうやらどこか良いお店の焼き菓子らしい。さすがコルヌ家。
隣のフィーナの瞳も蜂蜜のように蕩け、目の前の甘味に注がれ続けている。口元に差し出すと頬を桃色に色付かせて目にも留まらぬ速さで体の中に収めていく。
食べ終えるや否や次を求めたフィーナに小さく笑って欠片を差し出す。彼女たちにとっては嗜好品。だからこそその情熱は誰よりも強いのかもしれない。
気付けば半分以上彼女のお腹に持っていかれていて、思わず笑みが零れた。
平和な時間だと、砂糖菓子のように甘い時を過ごして出された紅茶まで飲み干すと、知らず息が漏れた。
ヴォルフと繋がりをもてたのは役得だっただろうか。
「美味しかったです。レベッカさんに会ったらありがとうございましたと伝えておいてください」
「あぁ」
どこか嬉しそうに答えるヴォルフ。どうやらもうクラウスの出る幕はなさそうだ。
レベッカの一件に自分が納得できる理由を見つけた気がして肩の荷を一つ降ろす。このまま次の荷物が来なければ良いのに。
ちらりとニーナの方を伺うと、いつの間にか彼女は筆記具から手を離し、カップに口をつけていた。そろそろ彼女からの話があるだろうか。
「……とりあえず今日はお疲れ様」
「会長こそ、お疲れ様です。その他については順調ですか?」
ニーナからの話を聞きたくないからか、咄嗟に口から別の話題が出る。
「例えば、進級試験とか……」
「…………誰に聞いたのよ」
「やっぱり出るんですね」
唸った彼女に告げると、眉根を寄せる。鎌をかけたことに気がついたらしい。しかし言ってしまった後ではもう遅い。
面倒くさそうに視線を外したニーナはそれからカップを置いて告げた。
「あまり人には言わないで」
「……分かりました」
非難よりも差別よりも、彼女は同情を嫌うのかもしれない。そんな事を考える。
「もし何かお手伝いする事があれば声を掛けてください。可能でしたらお助けいたしますよ」
「……借りだ何て思わないでよ?」
「もう少し信用してください」
「クラウス君がその言葉言わないでよ」
据わった瞳でクラウスの事を射抜いて溜息を吐く。
「……今回グライド君も出るんでしょ」
「そうですね」
「当たる可能性があるわよね」
「もしかして一つ飛ばして受けたんですか?」
「許可は貰ってるわよ」
一枚の書類を振って答えるニーナ。少しだけ驚きつつそれならばと脳内の情報を少しだけ書き換える。
通常、進級試験は今いる階級の一つ上に上がるために受ける。試験方法は簡単で、受験者を二人一組にして実戦を行わせるのだ。
それを五回行い、進級の基準として三回以上勝てばいいとされている。そこに座学の成績や学院での態度等を加味されて結果が出る。
試験は通常未知の階級に向けてのものだ。ニーナは一度ハーフェン級まで経験している。そのため、トーアの階級を飛ばす手続きを踏めたのだろう。
それでも何の問題も無くとはいかないはずだ。恐らく彼女は別途で筆記試験を受けるか、実技試験の基準を上げられる。
彼女の降級も含め前例の無い事だ。きっと教員陣も図りかねているのだろう。
また、夏の試験は毎年受験者数自体が少ない。六人に満たない場合も存在する。そうなれば必然相手の戦力が限られ難易度が増すはずだ。
その中には今回テオもいる。ヘルフリートとの契約、そして強制的な波長の調律によって今の彼は同級内に敵はいないことだろう。そんな彼とぶつかれば負けるということになるかもしれない。
試験内容については彼女は既に知っているはずだ。という事はテオと戦いたくない理由も自ずと見えて来る。
トーア級以上の生徒と対戦し、五試合全部に勝利する事────
きっとそれが彼女に課せられた進級試験の内容だ。
そんな難題突きつけなくとも彼女の実力なら普通に受けても文句はないはずだ。けれど対外的な意見を気にしてこういうことになったのだろう。
融通の利かなさはさすが公的機関といったところか。そんな扱いで自由を語る学院も、被害側なのかもしれない。加害側はきっとそんなことに気付かない。こうして歪んでいくのかと。
この世の摂理を垣間見た気がして胸の内に遣り切れない思いを募らせる。
「……まぁ、もし何かあれば頼らせてもらうわよ」
「分かりました。無理をしないでくださいね」
クラウスの言葉に少しだけニーナが睨む。どうやら本題を切り出す空気ではなくなったらしい。話題逸らし成功。
頼むからこれ以上面倒事を増やさないでくれと願いつつ逃げるように生徒会室を後にする。
来た道を戻りつつ更に赤みの増した太陽を視界の端に捉える。
予想では試験当日は晴れるとのことだ。夏らしく暑い一日になりそうだ。
休憩所を増やす必要があるだろうかと考えながら、視界を絞っていく。
とりあえず試験終了までの道程は見えた。後は時間を見つけて過程を順に埋めていくだけだ。
飽くまで傍観者。その姿勢を崩さないままに今回の話を反芻していく。
最初の接触は委員会のことでニーナに相談した後だった。あの頃はまだ副会長としての仕事が忙しくて自分のしようとしている事の線引きが曖昧になっていた。だからきっと彼女のいいように扱われたのだろう。
────ワタシの頼み事を聞いてくれるかしら?
委員会の話を学院長に持って行った時、交換条件として提示された彼女の頼みごと。冷静に考えれば彼女の頼みに頷く必要は無く、首を突っ込む理由も無かったはずだ。
けれどさすがはエルゼと言ったところで、クラウスの言いたい事を汲んで最も違和感のない方法で自分を委員会に組み込んできた。
今思えばあの頃から彼女には何か確信のようなものがあったのかもしれない。もし事実なら先見の明というより一種の予知能力ではないかと。それとも先の大戦で培われた何かだろうか。
人間は持てる力を全て使えば未来を予知する事ができると何かの本で読んだ気がする。
エルゼなら──これまでいくつもの不可能を可能にして来た彼女ならそれもありえるのかもしれないと、半ば逃げるように理由のない暴論を振りかざす。
そんな彼女からの頼みに頷いて、幾つかの便宜を図って貰い、校内保安委員会は軍や国の繋がりをもって出来上がった。
あれからはクラウスの知らないところで力を貸してくれていたはずだ。悪戯事件でも噂を流す事の最終許可をくれたのは彼女だろうし、ヘルフリートの一件では自分の欲を満たすために表立っても動いてくれた。クラウスが殆ど何も出来なかったヴォルフとレベッカのことでもアンネに頼んだ無茶をどうにか無理を通してくれた。
委員会における本当の陰の立役者はきっとエルゼ学院長だ。彼女の協力なしでは今この場所にクラウスはいない事だろう。
そんな大きな貸しを、一つの頼み事を請け負う事でなしにしてくれると言った彼女には頼ってばかりだ。
けれど蓋を開けてみればその頼み事はクラウスが首を突っ込むような話ではなかった。
それはヴォルフやレベッカの時の話と似通った、禁忌にも似た薄い硝子のような問題。クラウスにとっては関わらなくともどこかで帳尻を合わせられた問題。
どうしてクラウスに、と問えば幾つか答えは返る。けれどそのどれもが観測的希望の末の結論で、クラウスには信頼の押し売りのように思えた。
いくつもの疑問。それを内包した答えはきっと彼女の指し示す先にあるのだろう。
解決するべき問題はどこかに絶対的な道標があるものだ。もし答えられないのであれば、それは出題者の失策だ。彼女が、教育機関の長たるエルゼがそんな初歩的な間違いを起こすはずがない。彼女はどこまで行っても今回の話の出題者であり回答を待つ者なのだ。
そしてその答えは、クラウスが望む野望の一つの答えでもあるのだろう。
クラウスの理想に通ずる一つの回答。
それを求めて翌日フィーナと二人ブランデンブルク城へと向かう。
城門に立つ衛兵に訪問の理由を告げるとしばらくの後に案内がやってきた。城に仕える使用人の女性だろう。彼女の後に着いて行くと小さな部屋に通された。出されたカップに口をつけてまたしばらく、フィーナの我慢がそろそろ危なくなってきた頃に扉が叩かれる。
続いて開かれた向こうにいたのは、随分と顔の広い人物だった。
「……お久しぶりですハンス・クルサ殿」
「あぁ、腰掛けたままで構わないよ」
柔和な笑みに彩られた言葉に姿勢を正す。忙しい中で時間を割いてもらえたのだと貴重に思いつつ、いきなり本題を告げる。
「これをエルゼ学院長から」
受け取って、書類の文面に目を通したハンスは顎を一撫でして、それから小さく笑った。
「これまた随分と突飛な事を。彼女も変わらぬ」
「学院長とは昔から?」
どこか懐かしむような声に尋ねると顔を上げた彼は一つ頷いて答える。
「彼女がこの国に来てからだよ。彼女は掴み所のない飄々とした物腰でね」
「……そうでしたか」
言葉以上にエルゼについては知っている様子だ。今回は彼に応対してもらえて助かったかもしれない。
そんな事を考えていると、慣れた手つきで署名したハンスは、書類をクラウスへと返しながら問う。
「資料室の場所は覚えているかね?」
「大体は。もし迷ったら使用人の方に聞いてみます」
「すまないね。こちらも少し慌しくて」
「大丈夫です。ここに来たのは僕の意思ですから」
どうやらエルゼの認可状は彼女の独断だったらしい。それでも彼女の持つ権威は本物というべきか、後付だがハンスの方でも権限の付与を後押ししてくれるようだ。本当他人を振り回す事を苦に思わない彼女の資質は、色々な意味で尊敬する。
同時、ハンスの口から零れた言葉に少しだけ邪推する。
城内が賑やかなのはいつもの事。今回は主に前の外交の件だろうか。あれ以降委員会に話は回ってきてはいないので彼らの方でどうにかするのだろう。今は進級試験のこともある、集中できるならそれに越した事はないか。
「一応言っておくが、用のないところには立ち入らないように。怪しい行動をしていると幾ら君でも厄介になってしまうからね」
「分かりました。極力ご迷惑をおかけしないようにします」
ハンスと一緒に部屋を出て、彼の姿を見送ってからクラウスも目的地へと歩を進める。記憶に頼って城内を歩けば問題なく資料室へと辿り着く事ができた。扉の両脇で監視をする兵士に書状を見せると簡単に中に入る事ができた。学院長と陛下の右腕の名前の影響力は絶大だ。
部屋の中は多数の棚に整然と書類の束が並べられ、潔癖さすら感じさせる空気に満ちていた。ここはそう人の出入りはないのだろう。掃除は綺麗にされているが紙の匂いが充満していた。
順に棚を追って目当てのものを探し出す。しばらくして研究論文の棚を見つけ、その中からエルゼの名で記された束を取り出す。
全五冊。背表紙に書かれている名前にはどれにもエルフの文字が見て取れた。流石に一度で全部を読むのは目が疲れる。何度かに分けるとしよう。
書かれた日付を確認して一番古いものを選び、椅子に腰掛ける。紙の劣化を防ぐため窓のない部屋。天井につけられた人工灯の明かりを頼りに中身を追っていく。
そこに書かれていたのはエルフの出自、歴史に対するいくつもの考察と、彼女の導き出した幾つかの結論。
受け取り方によっては禁忌として扱われる彼女の研究内容に、時折眉根を寄せながら最後まで読みきる。本を閉じれば少しの間を空けて溜息と共に声が上がった。
「…………あの、クラウスさん。これって」
「フィーナ、これは一応機密文書だよ。他言は禁止だ」
「は、はい…………」
彼女の言いかけた言葉を笑顔で遮る。けれどうまく笑えている気がしなかった。
深呼吸をしてから思考に耽る。
ここに記してあること全てが真実だとは思わない。けれど斬新な視点の内容はクラウスの知識を幾つか書き換える。
仮にもしここに書かれている事が本当だとすれば、それはエルフの存在を覆す事だけに留まらない。今の世界を崩す引き金にだってなりえる。
この世界に皹を穿つ。そう思って始めた長い道のりの旅だが、その道の途中に無視できない問題を積み上げる。
エルフ。その存在がこの世界に齎す影響。
どうして彼女はこの研究論文をクラウスに見せたのか。それはきっと期待よりももっと大きな、信頼よりも尚強大な。ただ自分のための知識欲。
自分には出来なかったからと、その役目をクラウスに押し付けるために。クラウスが描く景色を見たいという果てのない欲求。
踏み出した足は前に進む事を厭わない。それは過去より少しも変わってはいない。けれど今この瞬間、退路すらも断たれたのだろう。
「これが前に進む事の手助けになるんだから、余計に面倒くさい」
零れた鬱憤は胸の中の蟠りを少しだけ取り払ってどうにか焦点を合わせる。
「でもこれで、学院長さんのお願いは叶える事ができますね」
「それが彼女の手のひらの上で無ければもっとよかったんだけどね」
小さく笑うとフィーナは難しい事を言われたという風に曖昧に笑う。流石に利用するされると言う感慨は人間特有のものか。彼女にはあまり理解ができなかったらしい。
重く感じる腰を上げて棚に戻すと一つ伸びをする。
「もう一ついってみる?」
「っ、今日はやめときましょうっ」
提案に、どこか焦ったように答える相棒。その答えを待っていたのかもしれないと意地悪に考えて部屋を後にする。
入る時にお世話になった兵士とは別の人がいて、どれだけの時間資料室にいたのかという小さな恐怖に襲われた。
そんな風に数日に分けてブランデンブルク城に赴き、エルゼの研究論文を読んでは考察を重ねる日々を送って。資料室の見張り役の人と顔見知りになった頃、クラウスの部屋に二つの手紙が届いた。
中を見てみれば差出人は幼馴染と生徒会長。何かの予兆かと思いつつとりあえず幼馴染の方へ向かう。
場所の指定は練習にと解放された校庭だった。
果たし状でも待ち受けるように立ち尽くす幼馴染の傍によれば、開口一番純粋な覚悟を突き付けられる。
「反転術式使っていいから相手になってくれないか?」
それは自信と僅かの躊躇が隠れる提案。どうやら試験を前に最終調整をしたいらしい。
「相手が僕でいいの?」
「あぁ、もしこの予感が当たるならそれに近いのはクラウスの反転術式だからな」
覚悟と共に頷くテオ。
クラウスの反転術式は反撃術式ではない。相手の技を無力化するだけであって、それが直接相手に被害を与えるわけではないのだ。
その術式が役に立つという事は、彼の中で炎が届かない相手がいるということ。その対策が取りたいといったところだろうか。
脳裏に彼女の姿が過ぎって小さく笑う。彼も彼女も互いを意識している。心のどこかで当たると確信して相手の事を考えている。
それはまるで好敵手のように。はたまた惹かれあう異性のように────
今回の試験を何人が受験するのかはクラウスにもまだ知らされていない。だから必ず当たるという未来があるかどうかもわからない。けれど彼と彼女はそう信じて疑わないように盲目に勝利を求める。
「……分かった。フィーナ、準備して」
「はい」
クラウスの怖いほどのいつも通りに、フィーナも雰囲気を正して手を出す。その意味に気付いてクラウスも握り返して集中する。
「調波……」
フィーナとの回路を意識してその中に流れる波長を互いが分からないほどに同調していく。そのうち張り詰めた一本の糸のように裏も表もなくなって二人で一つを作り上げる。
次いで、フィーナの頭の上に方陣が煌く。七色の光。不定形な輝きを纏って彼女の体が人間大まで大きくなる。
風にたなびく銀糸の長髪。遠くを見据える蒼く澄んだ瞳。その形容に、全ての言葉が届かないままに彼女を形作る。
「クラウスさんはこの頃わたしをのけ者にしすぎです」
「確かにね」
「反転術式も、無駄が多すぎるんですっ」
思わぬ反論に返す言葉を見失う。確かに妖精術、その命令式、妖精力単位での扱いについては妖精の方が比べられない程秀でている。けれど知らぬ間にクラウスの編み出した反転術式を自分用に組み替えているとは思わなかった。
「わたしだってクラウスさんのはんぶんです。だからもっとわたしを頼ってください」
前を向いたまま、背中で語るフィーナは怒った風に告げる。
クラウスが他の誰をも信用していないのは彼女のよく知るところだ。だからこそ彼女は誰よりも傍にいられる事を誇りに思っているのだろう。
それが彼女の原動力であり、ここまで努力を積み重ねるまでに至ったのだろうか。だとするなら妖精とのこんな歩み方は間違っている。
「さて、痴話喧嘩はそろそろいいか?」
「ち、違いますっ!」
叫ぶように答えて、同時にフィーナが気を引きしめる。
こちらを見つめる不敵なヘルフリートの目。そこに宿った怖いほどの自信に戦闘の物語を組み上げる。
「戦闘の開始は、これでいいな?」
「もちろん」
手のひらに炎の弾一つ。それを宙に投げて構える。
刹那に、辺りの温度が上昇していく。妖精憑きや妖精従きが妖精術を使うとき、その属性に呼応して空気中の妖精力が共鳴反応を起こす。その殆どは人間が感じられないものだが、稀に大規模なものを使うと人間でさえその変化を感じる事ができる。
属性のうち一つ、炎における変化は妖精力の活性化。それに伴う温度の上昇。
衣服の上からでも熱さが感じられるという事は、それだけ密度の濃い妖精術を使うという証。
戦闘の開始時間を彼に任せたのは失敗だったかもしれない。始まる前から不利な状況に立たされつつ頬は知らず吊り上る。
妖精弾が地面へ落ち、弾ける──その瞬間。
「極炎闘衣ッ!」
テオの体表を黄色い炎が甲冑を形作る。
クラウスの脳裏を直ぐに情報が過ぎる。極炎法衣は、先の大戦でヘンリック・アヴィオールが使った炎の絶対防御だ。その法衣は七色に変化したとされる。
では何故法衣と呼ばれたのか。それは彼が極炎法衣を防御的な役割でしか使わなかったからだ。
身を守る事に特化し、生きて他の勢力を圧倒する。
第二次妖精大戦においてブランデンブルクは専守防衛の戦略を崩さなかった。相手に攻め込ませ、こちらに有利な状況で戦う。その最前線で敵の的となり注意を引いたのがヘンリックの極炎法衣だ。
攻めて倒すのではなく、守って鎮圧する。だからこそ、不沈の要として炎の絶対防御と呼ばれたのだ。
対してテオの纏うそれは法衣を捨て攻める事に特化した炎の甲冑。手の中にはしっかりと炎の槍が握られ、どこまでも真っ直ぐにヘンリックの対極とも取れる攻めの姿勢。
きっと彼には守って闘う事が似合わなかったのだ。元々が短気で、じっとしている事が苦手な性格。彼にとってはその方が性にあっているのだろう。
また、彼の纏う炎の色。ヘンリックの頃と同じなら黄色い炎は第三段階目の変化。外交に行く前頃はまだ第二段階目の変化を身につけたばかりだった事を考えると、今は第四か五辺りまで掌握していると見た方がいいだろうか。
そこまで急ぐ彼の前向きさの裏にはクラウスの期待があって、彼はそれに応えようとしているのだろう。
信頼は嬉しいが練習とはいえその矛先をクラウスに向けるのは何か違う気がする。
釈然としない現状を少しだけ憂いて火の粉舞う彼の甲冑を正面に据える。
「いくぜぇっ!」
大きく前傾。深い踏み込みからテオは一足飛びにクラウスとの距離を詰める。そんな彼の後ろに隠れるようにヘルフリートが遅れてついて来る。
上げた顔は豪快なまでの笑みに彩られ思わず彼の呼吸に巻き込まれそうになる。
「どぉぉおらぁっ!」
勢いそのままに、いつの間にか水平に振り被った炎の槍を横薙ぎに振るう。
よく誤解されているが槍は突いて攻撃するだけが使い方ではない。長い柄で叩けば打撃になるし、平べったい刃は切りながら相手を薙ぎ飛ばす事もできる。そうして距離と取れば後は槍の間合い。一気呵成に攻めればいいだけだ。飛び道具として投げることも奇襲の一策だろう。
距離を開ける事は愚策。教導通りに懐に潜り込んで彼の腕を掴み投げ飛ばす。そのまま続けて妖精弾を数発形成。着地目掛けて嗾けた。
「っ、ぬるいっ」
しかし炎の鎧に当たる寸前、展開された防御方陣によって防がれる。その事実に思考を重ね、幾つかの確証を得る。
テオの極炎法衣……極炎闘衣は攻撃に特化している。それは即ち極炎法衣の時ほどの防御力を有していないという事だ。
きっと彼にとっては極炎闘衣の展開と維持だけで精一杯のはずだ。そこから余剰した妖精力の制御に連結術式を使って副武装へと作り変えているのだろう。つまり、彼の槍は鎧と同一の制御で維持されている。
そんな維持の仕方ではいけないと彼自身も気付いてはいるはずだ。
「フィーナ!」
「わかってます!」
言うが早いか。今度は二人でテオに向かって距離を詰める。
接近戦はテオも避けたかったのだろう。咄嗟に下がって出来た隙を見落とす理由も無く、足元に妖精弾を炸裂させる。
巻き上がる噴煙。瞬時に視界を遮った土煙の中、飛来する妖精弾を見てそれを叩き落とす。当たって爆発しなかった事にか驚いたテオの顔が目の前に現れて、彼が振り上げた槍を視界の端に捕らえた。
防御、してもその上から叩き潰されるのだろう。元よりその反撃を許容するつもりはない。
槍が対象を捉えるより早くクラウスの手のひらが彼の腹部に伸びる。その刹那、それまでテオを覆っていた黄色い炎の鎧が霧のように空気中へと溶けていく。
その理由にいち早く気付いたのはヘルフリートで、直ぐにテオの背中に回ったフィーナ……彼女の展開する反転術式を妨害しに掛かる。けれどもう遅い。
「はっ!」
超至近距離での妖精力の爆発。手のひら大にまで凝縮された炸裂は、テオの体を後ろへと吹き飛ばす。その寸前、フィーナは妖精の姿に戻って彼の背中から離れていた。
驚いたように目を見開くテオを見やって、晴れた土煙の後クラウスは一つ息を吐く。
「テオ、そのやり方だと鎧が消されたら槍が使えないよ」
「……ってて…………。流石に急拵えじゃあ無理があるか……」
尻餅をついたテオは起き上がりつつ言葉を返す。クラウスの予想通りさっきのは進級試験に向けて急遽作り上げた代替案であるらしい。
「それからテオはなんでも一人で抱え込みすぎ。もう少し相棒を信頼してあげたらどう?」
「クラウスにそれを言われるとは思わなかった」
悔しそうに零して彼はヘルフリートの方を見る。先ほどの一連の流れで分かったが、彼らは自分の事が精一杯でまだ外まで気が回せていないらしい。
テオは極炎闘衣に、ヘルフリートは妖精である事にまだ慣れが足りていないのだ。
ヘンリックの遺産と言い換えてもいい極炎法衣。テオはその言葉の重さを量りかねているのだろう。
ヘルフリートもその居住まいから妖精の形を取ってまだ日が浅いのだろう。
ヘンリックの傍らにいた頃は彼の翼として空を駆けていたらしい。妖精初心者といったところか。
そんな二人に互いを気にする余裕は殆どない。結果生み出されたのは先ほどのようなちぐはぐな立ち位置。
テオが走り、ヘルフリートが戸惑う。その戸惑いには戦のような争いに対する忌避感もあるのかもしれない。
その点クラウスとフィーナは日頃から益のない事を言い合って互いの事を確認している。それは無意識下で相棒がどういった行動を起こすかを想像できるほどに、空気のように理解した唯一無二。
クラウスは彼女と契約してから妖精従きと契約妖精としての力よりも、その関係の構築に時間を割いてきた。
クラウスにもフィーナにも、テオやヘルフリートに敵う個の強さは持ち合わせていない。けれどその差は別のもので埋められるのだ。
「妖精力の供給は十分なんだから炎の鎧の維持はヘルフリートに任せればいいよ。テオは副武装を操ればいい。連結術式は副武装に繋げて余った維持を他の妖精術にすればどうかな?」
「言うのは簡単だな」
「そうだね。だから最も理想となる形を口にした。目指すべき地点があった方がやりやすいでしょ?」
問い掛けに言葉を飲み込んだテオは自分の手のひらを見つける。そこにあるはずの道を再度確認する。
「…………クラウス、ちょっと時間くれ。また後で手合わせ頼む」
「分かった。フィーナ、行こうか」
「はい」
「ヘルフリートも、今は自分以外のことだけを考えるといいよ」
「……うむ」
難しい提案だろうか。そう思いつつ別れを告げて足を出す。
背後では地面に座り込んだテオがヘルフリートと面を突き合せていた。
テオとヘルフリートに投げやりな助言を提示して、クラウス達は学院の中を進む。目的地は生徒会室。もう一人の呼び出し、ニーナの元だ。
その最中、先ほどの相棒の言葉を思い出す。
「フィーナ、迷惑かけててごめん」
「わたしは自分が感じた事を言っただけですっ」
怒った声に返す言葉が見つからず口を閉ざす。
「クラウスさんは丁寧すぎるんです。自分の中に無数の鉄則があって、それらを組み合わせて最後まで走り抜ける。他の人はそれを臨機応変というのかもしれません」
続いた彼女の評価の言葉に思わず足を止めた。
前を行くフィーナが止まって、人化を使いながら振り返る。彼女がこちらを向けばそこには絹のように柔らかく揺れる銀色の長髪を頂いた人間大の糾弾が存在した。
「けれど細かいところまで考えすぎていて無駄な工程が多すぎるんです。連結術式だってもっと簡単に出来るはずです」
それはもし術式が漏れた時の事を考えてという部分も存在する。けれど彼女に言わせればそれこそが無駄な考えなのだろう。
「クラウスさんだってさっき使ってたじゃないですか」
「……そうだね」
先ほどのテオとの戦闘を思い出す。
クラウスに向かって飛んできた妖精弾。それをクラウスが手で弾いた時、反転術式の運動の反転を使わずに、妖精弾の起爆という命令式だけを無力化した。
結果それは爆発して炎を振りまくはずだった妖精弾が、クラウスの手によって何事も無く叩かれたように見えただろう。
これは反転術式の命令式の殆どをなくした、クラウスが考え得る最も発動の早い反転術式だ。あの術式については単純に発動の速さだけを突き詰めている。
「妖精術は、妖精が使う術なんです。相性が悪かったらわたしたちが貰う妖精力も気持ち悪く感じてしまいます……。命令式だって無駄があればむずむずするんですっ。遠回りするだけ無駄な妖精力を使うんです」
彼女の意見の根底は何よりもクラウスの為であり、クラウスの為を思う自分の為だ。
彼女も先ほどのテオとのことでどれほど自分たちが優れていたかを知ったはずだ。だからこそ、今度彼らと相対すれば負けるのはこちら側だということにも至る。前を行くということは、追いつかれる可能性と戦い続けるということだからだ。
それにテオの望みである無力化も、時間が掛かれば無駄な労力を費やす事になる。
フィーナの今まで飲み込んできた鬱憤の数々。だからこそ、その言葉は何よりもクラウスの事を射ている。
「…………悪かった。ただ時期が来たら色々変えていこうとは思ってたんだ。それを先延ばしにしたのは僕だし、責められてしょうがないと思う」
「だったら変えてください。変わって下さいっ」
蒼色の瞳の奥に強く燃える怒りの炎が揺れる。
「わたしの知ってるクラウスさんは──悪役なんですっ。早くその善人の仮面を取ってください」
本当、いつからその仮面をつけていたのだろうか。そんな覚えはなかったのに。
フィーナに気付かされて鞘にしまわれた刃を抜く。丸くなった矛を研ぐ。誰よりも正義を振りかざす正義に彩られた悪役を意識する。
────そうしたら貴方が王様になるのよ
不意に脳裏に彼女の声が蘇って。小さく笑った。
それは幼い頃に彼女と交わした約束。
彼女の夢を叶え、自分は彼女に請われて王となる。
とても陳腐で子供らしい夢だと笑って、彼女の姿を思い出す。
闇に解ける漆黒の頭髪。その中で妖しく光る紅玉の瞳。背中に二対四枚の虹色の翅を拵えた、浮世離れした姿。
これは彼女の夢を探す旅。その序章に過ぎない。
そして最後に僕は王となるのだ。
「王様、か……。目指してみようかな」
「クラウスさんみたいな王様のところにわたしは居たくないですけどね」
どこか拗ねたように笑って先を歩き出すフィーナ。もしかして感情流入でもあっただろうか。それがこちらに分かれば苦労しないのに。
幾つかの言い訳を考えつつ予定を付け加える。
クリームパンを持った王様とはどれ程間抜けな光景だろうか。
「それで、どうやって王様になるんですか?」
「そうだね……それじゃあ最初は────」
フィーナの問いに答えながら廊下を進む。
クラウスが計画を口ずさむその隣で、フィーナは終始笑顔を絶やさないまま静かに耳を傾けていた。
少し遠回りをしつつフィーナと言葉を交わして。気付けば目的地に到着していた。
そういえば彼女も進級試験を受験するわけだが、練習はいつしているのだろう。今回の呼び出しも時間指定はなかったし会えないということもあるのだが……。
扉を前に不安になりつつ隣のフィーナを見る。
「フィーナ、人化解いて」
「あ、そうですね」
もしかして無意識だったのだろうか。感情が昂って妖精力が溢れ出すと言う話は聞いた事があるが、それが術にまで昇華した例はないだろう。
まぁ恐らく変化していた事を忘れていたのだろうが。
虹色の燐光を辺りに振りまいて彼女の姿がいつも通りに戻る。
フィーナを肩に座らせて入室確認。不安は杞憂に終わり中から声が返る。
「どうぞ」
「失礼します」
入って、視界を回すがヴォルフの姿が見つからなかった。そういえば今日の監督役は彼だったか。
同時に彼がいないから招いたのかと気付く。……どんな話しなのか大体察しがついてきた。可能なら情報の取捨選択はこちらに委ねていただきたい。
「ヴォルフがいないからお茶も何も出さないわよ。美味しくないもの飲んでも仕方ないでしょ」
「必要なら自分で淹れさせていただきます」
筆記具を走らせるニーナの声に答える。どうやら今日も今日とて書類仕事が残っているらしい。因みにクラウスの分は既に朝のうちに自室で終わらせた。
「それで、今日はどういった用件ですか?」
「この前可能な事なら手伝うって言ったわよね」
「そうでしたっけ?」
「誤魔化さないで」
とぼけるのは失敗だっただろうか。着地地点を模索しつつニーナの言葉を引き出す。
「で、何に協力すればいいんですか?」
「同じ方法で距離が縮まるとは思わないから戦闘は無しの方向で。……情報提供。これくらいなら平気でしょ?」
クラウスが何を考えているか、そこを汲んで提案するニーナ。
彼女が考える通り今回の相談はニーナとテオから受けている。片方に肩入れするのは簡単で、そうすれば理想とする未来がどちらか片方になってしまう。クラウスの望むものはテオとニーナ、二人の進級だ。
それにどちらか一方に肩入れをするというのは不平等だ。試験は平等でなくてはならない。
「……分かりました。その代わり情報の選定はこちらに任せてもらいますよ」
「いいわよ」
彼女の口から出なかったので強引に約束を取り付ける。特にその辺りは気にしてなかったのかいつも通りの返答を聞きつつ、彼女の準備が整うのを待つ。
しばらくして、手を止めたニーナが腕を組み息を吐く。
「さて、クラウス君はどんな情報を提供してくれるの?」
どうやら立場は彼女が上で行くらしい。まぁ手伝うのはこちらなのでいいのだが、彼女が胸を張っていると少しだけむかつくのは何でだろうか……。
「そうですね……テオについては何か必要ですか?」
「一々聞かないでよ、面倒くさい。大体それ以外に提供できる話があるの?」
「ありますよ」
即答するとニーナは驚いたように目を見開く。尤も知っているのは誰が受験するという彼女でも分かりそうなものだが。隠すだけで武器になるのだから情報は面白い。
「……聞きたくないわよそんなの。勝つのはあたしだもの」
「その自信があれば情報なんて必要なさそうですけどね」
遠回りしつつ脳内で情報を分類する。テオが知っているニーナの情報、それと同等の情報を選び出す。
「極炎法衣。テオはもうあれを使えますよ」
「っ、そう……」
恐らく彼女が一番量り兼ねていたであろう話題。受け取り方を幾つも残しながら事実だけを口にする。
「……使えるからといって絶対に使うってわけじゃないでしょう?」
流石に彼女も気付いたか。答えるべきか迷って口を開く。
「僕に聞かないでください。教えるのは事実だけです」
想像をするのは簡単だ。それから対策を立てることも可能だ。それはクラウスにとってはいつもの事。
だからこそ、確証のない言葉を言うつもりはない。事実を与えるのはクラウスで、それを判断するのはニーナの役目だ。
「後はそうですね……会長は注目される事になりますよ」
「その程度で狼狽えるなら今ここに座ってないわよ」
毅然と言い放つニーナ。本当クラウスが心配する事はないのではないかと思うほどに真っ直ぐな瞳に確信する。
彼女には勝利しか許されない。だからこそ、組んだ指に貼られた絆創膏は彼女の一部なのだろう。
無駄な時間だとは思わず、これ以上も必要ないと悟る。
「僕から言えるのはここまでです」
「そうでしょうね。だから見ておきなさい。生徒会長ニーナ・アルケスの勇姿を」
「会長は充分に僕の理想ですよ」
それはきっと真実の一部。だからこそ、それに気付いたニーナは言葉をなくして黙り込んだ。
彼女の目的が済んだことを確認し、生徒会室を後にする。
珍しく罵倒が飛んでこなかったと思いつつ未来を見据える。
流れは理解した。後はクラウスにできる事をするだけだ。
「いよいよ始まりますね」
「そうだね」
フィーナの呟きに答えてテオの元へと戻る。
窓から差し込む陽光は少しばかり赤味を帯び始めていた。
* * *
月明かりの下。僅かに照らされた大地の上に彼女は立って異能を繰る。
逆巻く水流。形作る水塊。
流動的で、そのくせ強かな芯を持った彼女の水。
過去に隣で見続けた彼のものとよく似ていると思いながらその光景を眺め続ける。
幾つもの理不尽と現実に抗って存在する、確固たる意思を持った現在。
人知れない努力を重ね続けるその背中に声が掛けられる。
「調子はどうかしら」
振り向けばそこにいたのはこの学院の長であるエルゼ。彼女も忙しいはずで、となるとこの出会いは偶然だろうか。
「……順調ですよ」
声には振り返らず答えて、手の中の水を武器の形に変える。
彼女が……自分の半身が学院長の事を意識しているのは知っている。それが特別視を超えた一種の敵視だということも。
どうして彼女がそこまで固執するのか。その理由を知る自分にはただ唯一無二に従う他ない。
「学院長は見回りですか」
「そうね、明日からだし最後は自分で見て回ろうかと。そしたら随分熱心な生徒を見つけたから」
どこか嬉しそうに紡ぐ学院長。
その声に気付いて尚反応は返さずいつも通り冷たくあしらう。
二人の間に蟠る溝を、どうにかしたいとは思う。けれど自分は彼女の契約妖精で、どうあっても彼女の肩を持つしかないから。
そう決めて彼女と契約を交わしたのだと呪うように思い返す。
「……それで、あたしに何か用ですか?」
「いいえ。ただ随分と気を張ってるものだと思ってね。背中を見ても分かったわよ」
「そうですか。気に掛けてくれるのはありがたいですけど今は練習に集中させてください」
まるで互いの距離感を図りかねているような会話だ。本当ならこうはならなかったはずなのに。
エルゼがこちらを見て薄く笑う。その笑みはとても悲しく、こちらの胸まで締め付けられる。
どうしてこんな事になってしまったのか。その原因を求めて記憶の海を彷徨う。
同時に、エルゼが一言残して踵を返す。
「あの子をよろしくね」
「ディルクッ」
答える前に彼女の呼びかけがあって、視線を向けるだけしか出来なかった。
少しだけ心配になって彼女の顔を覗き込む。そこにあったのは後悔と悲しみに満ち溢れた苦渋の表情だった。
まるで親に怒られた子供だと思いつつ、自分にだけ許された特権を振りかざす。
「……見返すんだろ。そのときになって考えればいい」
全てを知って、彼女を肯定する。彼女が動き出すための燃料となる。
それが自分だけに許された、自分以外には誰にも出来ない役割。だからきっと今回は彼もニーナの力にはなれない。
「…………そうね。始めましょうか」
手のひらの武器を握り込んで顔を上げる。それから彼女は目の前の木に向かって全力で振り被った。
さながらその姿は八つ当たりする子供のようだった。




