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フェアリー・クインテット  作者: 芝森 蛍
火蜥蜴の遁走曲(フーガ)
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第一章

 暦は春。桃色の花びらが散る出会いの季節。

 反復作業のように三階生のトーアへと上がった俺は張り出された教室分けの模造紙を見上げて首を鳴らす。


「…………あぁ、一緒じゃねぇのか」


 事実に降りた感慨が胸を小さく焦がして行く先を憂鬱にさせる。

 脳裏に思い浮かぶのは灰被りな頭髪を撫で着けた眼鏡の幼馴染。今年は一緒になるだろうから楽ができると思ったのに。

 ……とりあえず自分の事は自分でしようか。

 納得をどうにか捻り出して溜息一つ。それから踵を返して足を出す。動作に首の後ろで一つ括りにした長い紅色の髪が小さく揺れた。

 国立フィーレスト学院。妖精憑き(フィジー)妖精従き(フィニアン)が通う妖精について学ぶ国立の教育機関。この国、ブランデンブルク王国内の学び舎において最上位に位置する学院。

 十分に行き届いた設備と、充実した学生補助。学ぶという行為に対してどこまでも利便性と効率を求め、伸びやかに学業を修めることの出来る、国唯一の国立学院。

 妖精憑き、妖精従きの監獄とさえ噂されるこの学院には五年の教育機関と、五つの階級が定められている。

 この学院に入れば誰もが一度は籍を置く第一階級。妖精についての基礎知識を学ぶハウズ級。

 ハウズより一つ進み、妖精についてより詳しく応用的な座学を学ぶ階級、ドルフ級。

 基礎過程応用過程を修得し、実技授業に力を込め、初めて妖精と契約を交わす、トーア級。

 トーアで学んだ妖精についての知識、実技能力をより専門的に取り扱い、個々の得意分野を伸ばす、ハーフェン級。

 そして、それら全てを終え、厳しい試験を全てパスした後に在籍を許可される、国一つでさえ動かし得る異能の持ち主の集い場、フォルト級。

 この五つの階級で割り振ることによって、その妖精憑き、妖精従きの持つ能力がどれほどの影響力──被害を齎すかと判断する。

 これらの階級は全ての妖精憑き妖精従きにおいての指標であり、それ以上ではない戒めである。

 その内第三階級であるトーア級になれば歴史の伴侶とまで言われる妖精と契約を交わす事ができる。

 妖精。その存在がこの世界に現れて約700年ほど。彼ら彼女らの登場によって人間の生活は大きく揺るがされ、そして同時に大きく変化した。

 生活水準の向上。浮き彫りになる文化の相違が引き起こす歪み。舞い上がる火の粉──

 どれほどの間そうしてきたのか。はたまたどれほどの間そうしてこなかったのか。

 一言に戦と片付けてしまえるほどに平穏が蔓延っているこの時勢があるのは、そうした争いの歴史があったからこそだ。

 ブランデンブルク王国ではここ十年ほど戦争らしい戦争は起こってはいない。けれどそれは武力的な話で、政治的な抗争は戦後の今もまだその扱いを壊れ物とするように続いている。

 戦後の爪痕も同様に、大地を焼き、干からびさせたその代償は目立った戦がない地域でさえ貧困が聞こえるほどで、口先だけの平和と、法と武力に守られたお膝元で暮らす人間たちには嫌悪の対象とさえ成り下がる。

 そんな平和と言う言葉とあり方に疑問を持たないのは、それが新たな戦の火種になるからと心の何処かで気付いているからだろうか。

 ふと脳裏に一人の先人が残した言葉が蘇る。

 ────平和などなく、その言葉はただの戦の火種でしかない。平和という言葉があるからこそ、戦が起こり()る。なれば平和を知らないことこそが、何よりの平和である

 あれは確か、去年ドルフに在籍していた頃。妖精史の授業で教鞭を執っていた教員がうるさいほどに何度も口にしていた言葉だ。

 ブランデンブルク王国の歴史において、幾人かの英雄と呼ばれる人物が存在する。

 その中に、十数年前にその幕を閉じた大規模戦争の英雄と謳われる人物……。

 第28代国王、ヘンリック・アヴィオール。冷炎の君主と呼ばれたブランデンブルク前国王。

 先ほど脳裏を過ぎった格言は彼が戦の中で言ったとされる言葉だ。

 答えのない答え。幼馴染辺りはこういう捩れた言葉が好きだったりするのだろうが個人的にはあまり理解できない。

 ただ、言わんとしている事は感覚で理解できる。つまり──


「平和のために戦争をするなってことだよな」

「違ぇだろっ」


 口に出してみれば隣を歩く友人が笑って否定を返した。


「何で賢いのにそこだけずれるかなぁ」

「ずれてるつもりはないけど……」

「ずれてんの。そんなに気になるなら愛しの幼馴染様に恋文でも書けばいいだろ?」

「俺にそっちの趣味はねぇよ。純粋に女性に魅力を感じてんの」

「で、テオ。今誰と付き合ってんの?」

「お前の中の俺はどうなってんだよっ。今はいねぇよ」


 どうでもいい会話を交わして足を出す。隣を歩くのはマルクス・アルテルフ。去年ドルフで一緒の教室になった友人だ。今年も運よく一緒になれたため、こうして連れ立って教室へ向かう途中だ。

 話題が飛んで個人的な話へ。呼ばれた名は親しみを込めて呼び捨て。

 テオは変わらずいつもの調子で歩みを進める。


「……とりあえず、これからは余りそっち方面の話はなくなるかな」

「ようやく重い腰を上げるのか?」

「……何の話か知らんが、多分マルクスの思ってるようなことじゃなねぇよ────っと、すまない、お嬢さん」


 惰性で会話を交わして出会い頭にぶつかった女性徒に謝って再び足を出す。

 変わらない景色と変わった階級に少しばかり前進を感じつつ視線を横に。すると隣のマルクスは何処か面白そうにこちらを見つめていた。


「…………どうかしたか?」

「いぃやっ。何でもないよ」


 含みのある物言いに気になりはしたがとりあえず無視。今は考える事が多すぎる。

 そうでなくても数日前に舞い込んできた話で頭が痛いのに…………。

 胸の中には、やるしかないという気持ちとやりたいという気持ちが渦巻いては消えていく。自分はどうしたいと自問する声が響く。


「なぁ」

「うん?」

「今楽しいか?」

「退屈、かな。だからこそ今から次の瞬間に期待してる」


 意味さえ消えてしまいそうな薄弱な言葉に、呟くように返った声はテオの心の内に炎を灯す。

 変わる事を待っている人が居るならば、変えたいと願う人が居てもいいはずだ。

 だとするならば、返す言葉は最初から決まっていた気がした。

 脳裏に浮かんだ幼馴染の姿に小さく笑って目の前の扉を引く。

 今日からここが俺が学ぶ部屋だ。




 進級から数えて三日前。テオの元に一つの手紙が届いた。

 差出人は幼馴染、クラウス・アルフィルクで、内容は至って明快なもの。書かれた文章は一文で、だからこそ不気味ささえ感じる提案にその時のテオはすぐに頷く事を躊躇った。

 またクラウスが何かしようとしている……。

 巡った予感がいつの間にか確信へと摩り替わり、テオの勘を刺激する。

 これは首を突っ込んじゃあいけない類の話だ。

 クラウスとの付き合いは既に十年以上になる。彼と故郷を同じくし、同じ夢を持って故郷を出たあの日より前から彼と一緒の時間を過ごしてきた。

 その長年の勘が告げている。

 この話は歩むべき道を違える。

 テオには夢などといった大層な物は持ち合わせていない。けれどこう生きるべきという揺ぎ無い行動指標はあるつもりだ。

 それはいつしか憧れた兄の背中。五つ年上の兄が背負っていた夢。

 国に仕える騎士になる。そう言って足を踏み出した兄の姿が、当時七歳だったテオの目には童話に登場する英雄のように見えたものだ。

 そんな兄のような存在になりたいと願う気持ちは、きっとその頃から何一つ変わってはいない。だからこそ、兄のように立派になるために勉学を重ね、実技を身に付けて今ここに立っている。

 兄に向ける理想。それと同じほどに、幼馴染であるクラウスの事は買っている。

 切れる頭に理知的な言動。言葉の端、抱いた感想。その一つをとってもテオとは正反対な彼に、男として魅力を感じている。

 安心して背中を預けられるというのはこういうことなのだろうと思う。感覚で事を語るテオにとってそれ以上の言葉は見つからない。

 敬愛する兄と背中合わせの相棒たる幼馴染。

 天秤にかけてもどちらに傾ぐことない、その片方から突きつけられた話に、テオは大いに揺れていた。

 きっとこの話に頷くと、今まで追いかけ続けてきた兄の生き様に背くことになるのだろう。

 そしていつか、兄の前にクラウスの横に立って歯向かうことになるのだろう。

 逆を選べばその逆に────

 納得のし難い想像が頭を巡って決断の感覚を鈍らせる。

 けれど答えを出さなければいけない。納得の出来る理由をそろえて返さなくてはいけない。

 温厚で、理解のいい彼だからこそ。そういった理由は絶対に欠かない。

 クラウスはその頭の中で信じられる理由に直面しない限り────他人とその言葉を絶対に信用しない。

 どこまでも理知的で、そして利己的なその言動に、思い悩まされる。

 どう答えを返すべきか。今までどう答えを返してきたか。

 思考を一旦外へ向けて小難しい話をリセットする。

 ────自分はどうしたいか

 今までだってそうだった。

 テオはテオのやりたいようにしてきて、その言動がたまたまクラウスと一致していたに過ぎない。

 この学院に入ったのだって、テオの我が儘で、クラウスとの偶然の一致。

 今までクラウスとつるんでいたのだって、テオの我が儘で、クラウスの都合。

 彼は──幼馴染たるクラウスは、きっと彼の理不尽にテオを振り回していると言うだろう。

 けれどそれは違うと否定したい。

 これはただ、テオの理不尽にクラウスが理由を付けて付き合ってくれているだけ。そこにクラウスの意思はほとんど存在しない。

 だからこそ、迷ったのだ。

 この提案は、純粋なクラウスからの意思で、そして意志だ。

 何かを起こしたいから、テオの力を借りる──クラウス風に言えば、テオの力を利用する。

 今までが共依存のそれだったに過ぎない。テオが理不尽に振舞って、それをクラウスが正当化して、正当化されるが故にテオがまた理不尽を繰り返す。

 事が小さくともそれは立派な共依存で、だからこそその暗黙の了解が心地いいと感じていた。

 けれどそれが変わる。この話に頷けば一方的な依存と理由を求めての差添(さしぞ)えに変わる。

 テオがいくらクラウスに依存したところで、クラウスはテオには依存しない。

 きっとその結果に、テオは道を踏み外す。

 そんな悪魔の招待状。

 けれどこうも思ってしまうのだ。今まで迷惑を考えたのはやはりテオだと。理不尽を振りかざしていたのはテオだと。

 自由を奪っていたのは彼の幼馴染たる自分で、その責任に吊り合う誠意を返さなければいけないと。

 …………クラウスよりも、理由を求めていたのはテオなのかもしれない。

 兄に対する憧れも、クラウスとの間に築いた関係も。結局はテオの押し付け。

 その妄信的な関係に区切りをつけるきっかけを、いつからか求めていたのかもしれない。

 だからこそ、自分が信じられる初動の感情が必要だった。だからこそ、その答えを正しく返してくれるだろうマルクスに問うた。


 ────今楽しいか?


 楽しくなかったのは、自分だ。

 その事実に気付いてしまえばこんな簡単な事はなかった。

 やはり最初から答えは決まっていたのだろう。

 必要だったのは勇気で、その言葉に向き合う事が怖かったから感情に身を委ねていたに過ぎない。

 その辺りはこの後もきっと変わらないのだろう。自分の信じる正義に従って、否定と肯定を繰り返す。

 ただ、そこに自分で決断をするという勇気が追加されるだけ。

 この勇気は、あの時兄が背負っていた夢への勇気だったのかもしれない。

 小さく想像して、踏み違える。

 間違いだと気付いても、引き返しはしない。後ろを振り向かない。

 歩き出して開けた道には、テオ一人しか居なかった。ただ直ぐ隣の道に、幼馴染の姿を幻視した。

 そして、自分の傍らにぼんやりと浮かぶ相棒の姿に、小さく笑みを浮かべた。




 『妖契の儀』。トーアに上がった生徒が最初に対面する今後の未来さえ決めかねない祭事。尤も、テオにとってこの先の未来は既に決まったようなものだけれども。

 教員の長ったらしい前説を終えて席を立つ。同時に背中に声が掛けられた。


「テオ、行こうぜ」


 振り返った先に居たのはマルクス。彼はいつもと変わらない様子で少しだけ安心した。


「悪い、ちょいと呼び出し食らってるんだ」

「ん、そっか。分かった」


 理由をでっち上げて言葉を返すとすんなり引き下がるマルクス。今度飲み物でも奢ってやろう。

 別れを告げて教室を出る。するとそこにはテオにとって少し苦手な人物が立っていた。


「お久しぶりです、ブラキウム先輩」

「あぁ……」


 無愛想──寡黙という言葉を人の形にしたらこんな人物になるのかもしれない。

 そんな感想を抱かせる生徒会書記、ヴォルフ・ブラキウムに個人的に苦手意識を加速させつつ言葉を連ねる。


「……生徒会長はどちらに?」

「…………私用だ」


 顔を顰めて短く言い放つヴォルフ。流石のテオでも額面通りには受け取らない。

 恐らく逃げられたのだろう。そちらの方があの人らしいし納得できる。

 先輩の渋面に気苦労を見て少しだけ安心する。


「……着いて来い」


 そう言って踵を返すヴォルフに着いて足を出す。

 これから向かう先はテオでも噂程度しか知らない、この学院に秘密裏に建造されたと言われる場所。

 妖精との歴史で700年。人間だけの歴史で言えば恐らく1000年近く。その間に繰り返されて来た戦は数知れない。

 有名なのは妖精が人類の目の前に現れて数十年経った頃に起きた、第一次妖精大戦。

 妖精の名を冠されたそれは、けれど実際人間が妖精の力を利用して行った版図拡大と周辺地域侵略の武力抗争に過ぎない。

 戦争の結果は言うまでもなく、妖精との関係を著しく変化させ、空虚な終戦を迎えた勝者無き戦争。

 そしてエルフの存在を悪として行われた、蛮種戦役と一部で言われるエルフ兵革。

 ほんの十数年前に終わりを迎えた第二次妖精大戦……。

 それらの戦争で武力として使用され、その多大なる被害を渇望された先は何れも妖精であり、数多の妖精術であった。

 戦争がどれほど愚かしい事なのか。その問いに答えを返せるほど、テオは経験も知識も持ち合わせては居ないが、それでも余り褒められた事でないことくらいは分かるつもりだ。

 戦争は金になる。そう言って、争いを起こそうとする大人や思想の持ち主を批判するつもりはない。もちろん、そこに貫くべき正義があるならば、の話だが。

 そんな戦争で使われた妖精と妖精術。幾多の種類の技に、多大な被害を齎す戦略級妖精術の数々。

 地形さえ変えてしまいかねない戦争は、いつしか落しどころと幕引きのための抗い難い強大な力を求め始める。

 その願望が形になって偶然そこに現れたのが、今の時代で英雄的妖精と呼ばれる四人の妖精と妖精従きだった。

 (フラム)(ウィルム)(フェリヤ)(グラド)。四つの属性(エレメント)に一人ずつ、強大な力を秘めた妖精が現れた。

 大国であるここブランデンブルクに、その内炎を司る妖精が現れたのは運命だったのだろうか。

 当時、国王を務めていた人物。名を、ヘンリック・アヴィオール。炎の属性を扱う妖精従きだった。

 彼は戦の最中で相棒たる契約妖精を失った。その所為でブランデンブルクは他国から攻められ、窮地に陥った。

 そんな折に目の前に現れた炎を司る妖精。名を──ヘルフリート。

 ヘンリックとヘルフリートは利害の一致から契約を結び、妖精従きと契約妖精となり戦場へと向かう。

 そこで彼が残した功績には目を見張るものがあり、他国はいきなり現れたその強大な力に対抗する術を持たず、次第に戦線を押し返されていった。

 ブランデンブルクが最盛期だった頃ほどに領地を拡大した頃に、他国にも別なヘンリックとヘルフリートに劣らない妖精従きと契約妖精が現れた。

 もしかするとその瞬間に、戦争は終わっていたのかもしれない。

 互いが互いの強大な力を恐れ、侵略を自粛していき、やがて戦争は終戦を迎える。

 それが十数年前の出来事で、妖精史の授業でも度々その名前を聞く。

 ────終わらない戦争。

 戦争後の交渉が続き、戦争の舞台となった地域を四分し、それぞれ平等に大国が支配下とする。そうして落しどころを見つけた争いは細く千切れて最初に掲げた理想さえ見失って終わり、歴史へと変わっていく。

 けれど終わらない戦争……そう言われる通り、今でもその火種は消えていない。

 原因は、きっとこれからテオが対面する真実だろう。

 ブランデンブルクのお膝元。国立という名を冠して、国の監視の下に設立、運営されているこのフィーレスト学院。

 妖精憑き、妖精従きの監獄と噂される国唯一のエリート学院。

 その実態。


「準備はいいか?」

「……いつもでどうぞ」


 大層な運営方針の裏に隠された真実。

 先代国王、ヘンリックが亡くなり、強大な力を秘めた妖精は次の戦に備えて幽閉される。

 英雄的妖精の、末路。


「始めましてだ、ヘルフリート。俺はテオ・グライド。一緒に来てくれるならば、貴方を再び外へ出してあげよう」


 それは、ただ無意味に妖精力を半永久的に供給させられ、命を絶つこともままならず監禁されている姿だった。

 妖精一人を閉じ込めるには大きすぎる、随分と開けた部屋。その真ん中に宝玉のように存在する赤色の宝石玉。台座に置かれたその宝珠からは断続的に妖精力が指向性を持って放出されていた。

 その妖精力が向かう先──宝珠の上、そこに彼は居た。

 赤錆色の短い頭髪を後ろへ流し、エメラルドグリーンの瞳に縦長の瞳孔を拵えて。二対四枚の虹色の翅は背負った尊厳を具現化したように事実以上の威圧感を発していた。

 彼の左目の上の額には生々しい裂傷が走り、戦の爪痕をありありと見せ付ける。


「どうだ。俺と契約しないか?」


 先の戦争で大きな爪痕を幾つも残した、封印指定の妖精。その気になれば、きっとテオ如き一瞬で灰に出来るだろう異能を秘めた彼に対して、けれど自然と恐怖は感じなかった。

 それよりも、言葉に震えた肩が少しだけ儚く感じて彼の心に巣食う戦の傷を垣間見る。

 手を差し伸べて、受け取られなかったどうしようか。

 そんな事を考えていると、人肌に暖かい感触が指先を包む。


「…………あぁ、そうだな。それも、悪くない」


 それは諦めか。それとも共感か。

 この身に宿る炎の波長が彼の胸の火を揺らしたのなら、それ以上言う事はない。


「……ただ、君──テオに負担はかけるだろう」

「気にするな。きっとあいつに比べたら軽いもんだ」


 笑顔で答えて足元に方陣を描き出す。

 七色の煌き。温度を持たない暖かさ。

 照らし出される無機質な室内が、炎の渦に巻かれて紅色に染まり上がる。

 舞い散る火の粉に胸の奥を焦がして。紅蓮の竜巻が消え失せれば、ヘルフリートとの間に確かな繋がりを感じた。


「これからよろしく、ヘルフリート」

「あぁ、よろしく頼む、我が主」


 呆気ない契約に達成感はなく、ただ事実だけが厳然と存在して心の内を満たす。

 こうして英雄的妖精と呼ばれる秘蔵の妖精、ヘルフリートとテオは人知れず契約を交わしたのだった。


「…………それでテオよ。早速だが外の奴を燃やしても構わないだろうか?」


 唐突な言葉。相棒の声に入り口を振り返って確認する。

 人影は見当たらない。隠れているのだろうか。

 隠れる必要性を少しだけ考えて、そこにいる存在に小さく笑う。


「敵じゃないから物騒な事はしないでくれ。暴れたいなら俺が付き合う」

「ふむ、そうか」


 これは、テオやヘルフリートのような炎に愛された波長の持ち主だからなのだろうかと少しだけ疑問に思う。

 今の一言で分かる通りヘルフリートはあまり気の長いほうではないのだろう。それはテオにも言えることで、横に幼馴染がいれば顕著に映る。

 炎は燃える。燃え盛って、燃え尽きる。だからこそ、一時の感情が膨れ上がりやすく、物事を自分の都合だけで語りたくなってしまう。

 テオの経験上、この性格は炎を繰る人物や妖精に多く見られ、逆に水を得意とする者はあまり感情に頼らない傾向にあるように思う。

 もちろん例外もいるし、全てがそうだといい切れはしないが、それに順ずる何かが確かに存在するのだ。テオの偏見かもしれないが。

 で、あるならばと思う。属性に愛されないクラウスのようなクォーターには、一体どんな傾向があるのだろうか。

 珍しく深く考え込んでみるが納得のいく答えは見つからない。クラウス自身なら、何か答えを知っているだろうか。

 そうして少しだけ時間を費やして考える傍ら、胸の奥に蟠る違和感に小さく息を吐く。


「……これは、弊害か?」

「であろう。ここにいる刻が長すぎたのだ」


 集中して胸の中の回路を手繰り寄せる。そこを流れ出ていく妖精力を意識する。

 確かに存在するヘルフリートとの回路。けれどそれはとても微弱で、細く。そして何より小さかった。

 いくつか考えて零した言葉にヘルフリートが頷く。

 彼は戦争が終わってからずっとこの部屋に閉じ込められていた。そうして、あの紅色の宝珠から断続的に妖精力の供給を受けて存在し続けていた。

 その弊害。

 妖精従きと契約妖精は共に長く一緒にいることでそれぞれの妖精力の波長が変化する事がある。

 これは突然変異という話ではなく、単に妖精力の行使によって効率のいい波長を生み出すという適応反応だ。

 先人が残した記録から言えば、波長の変化には十年単位の時間が必要となりそこにあまり意思といったものは関与しない。

 簡単に言えば仲がよくなれば妖精力の行使に無駄な妖精力の余剰が必要なくなり、得をするということだ。

 これらの変化は契約の破棄後急速に変化し、その人物、妖精が持つ元々の波長へと戻る。

 つまり、何かの原因で一度契約が解けてしまえば、同じ妖精と二度目の契約を交わしたとしてもすぐには前の契約の時ほどに効率的な妖精力の運用ができなくなる。

 これは全ての妖精従きと契約妖精の間で起こる事象ではない。ごく一部での変化だ。

 その変化が、ヘルフリートに起きていた。

 テオの記憶の限りだと彼が回路を繋いだ相手は先代国王、ヘンリック・アヴィオール。彼の死後は、この部屋の中央に位置する宝珠。

 確かあの宝珠は古代の遺物といわれるこれまた封印指定の古代の産物だ。

 秘められた能力は単純で、空気中の妖精力を変化させて、繋がれた回路に供給するものだ。

 用途は多種多様で、ヘルフリートのように妖精の延命に使われたり、大規模妖精術の行使における妖精力供給の補助などが主だが、その異能は半永久的ということもあり、そう軽々しく使用できるものではない。

 その供給先が、先の大戦で大きな戦禍を齎した英雄的妖精、ヘルフリートであるからこその運用。

 その間に繋がれた回路は、戦が終わってから既に十数年に及ぶ。

 早ければ、波長の変化が起きていても不思議ではない時間だ。

 その変化。どうやらそれはヘンリックから宝珠へ。そしてテオへと繋がる流れの中で歪みを起こしたらしい。

 テオの胸の奥に蟠るのは、テオとヘルフリートの波長。そして────もう二つの別な波長。

 今回の契約は宝珠との回路を切ってすぐテオと回路を結ぶことになった。

 変化した妖精力の波長がいくら急速に元に戻るといえど、陽がほんの少し傾くほどの時間ではその変化は無いにも等しい。

 だからこそ、ヘルフリートの妖精力の波長は殆ど戻る事はなかったのだろう。

 回路を流れる妖精力。その波長を繊細に読み取る。

 一つは恐らく宝珠のもの。宝珠は個別の波長を持たないため、その変化が顕著だったのだろう。そこはあまり違和感にはならない。

 もう一つは──ヘンリック・アヴィオールの波長。

 ヘルフリートの前の契約者である、彼の波長。その波形が、流れ込んでくるヘルフリートの妖精力の中に混じっているのだ。

 もちろん、テオ自身はヘンリックと面識がない。ただ事実として存在する違和感と、目の前の彼の生い立ちから導き出された結論が、避けられない真実というだけだ。


「ヘルフリート、もしかして君は彼が──ヘンリック前国王が亡くなった直後に、この宝珠から妖精力の供給を受けていたのか?」

「…………あぁ、そんな気がする。何より十数年前だ。景色も変わらないこともあって随分昔に感じられて、記憶が曖昧なのだ。許せ」


 問い掛けに返って来たのは曖昧な答え。けれどヘルフリートの言葉を疑う気は、テオには一寸もありはしかった。

 そうでなければ説明がつかないからだ。

 ヘンリックの死後、直ぐに宝珠と回路を繋いだのなら、今回のテオとの契約のように波長が元に戻る時間がなかったことになる。

 その結果、ヘルフリートはヘンリックとの間で変化した波長を維持したまま宝珠と回路を繋ぎ。さらに宝珠が供給する妖精力の波長と、変化したヘルフリートの波長が更に混じって歪んだ波形となる。

 その波形をまた維持したまま、テオと契約をしたのだろう。

 だからこそ、ヘルフリートから流れて来る妖精力の波長には、彼本来のものの他に、ヘンリックと宝珠の二つの波形が混ざっており、更にそこにテオの妖精力が混ざって、拭いきれない違和感を齎しているということだ。


「…………悪かった。英雄的妖精と謳われる貴方と契約できるという話に舞い上がってそこまで考える事を忘れていた。知っていたなら、波長が戻る時間を空けて契約することも────」

「それは無理だ」


 後悔を口にして、許しを得たかったのかもしれない。

 妖精力を受け入れるのは妖精の方で、人間の側には妖精術の行使の際に少しばかり違和感が出るに過ぎない。だからこそ、テオが感じている以上に、ヘルフリートはその違和感を感じざるを得ないはずだ。

 我慢を重ねるのはヘルフリートで、そうなった責任は契約を急いたテオにある。

 そう感じて口にした言葉に……けれど返ったのは否定の言葉だった。


「我輩は既に人の暦で二十年も生きてある。戦で力を酷使した所為か、とっくにこの体を構成する妖精力はなくなってあるし、外からの供給なしにはこの身を維持はできぬ」


 二十年。普通の妖精ならばそろそろ消滅が脳裏を過ぎる頃だが、彼の場合はその常識から逸脱しているらしい。

 言葉の裏に、彼の見てきた景色を垣間見て少しだけ想像を暗くする。


「それ故、その珠と回路を断って、元に戻る時間など我輩には残されてはおらぬのだ。テオよ、気に病むな。お主だけの所為ではない。呪うなら、何も残さなかった先の戦場を恨め。我輩を、憎め」


 何処か寂しそうに瞳を曇らせるヘルフリートの顔に、やはり後悔が浮かぶ。

 何処かに可能性はあったのかもしれないのだ。方法はわからないが、憂いなくテオと共に新しい妖精従きとして歩む道が、あったはずなのだ。

 その可能性を潰したのは他の誰でもないテオであり、我慢を強要したのはテオなのだ。


「…………それでも、俺の所為にさせてくれ」

「……それで主の気が晴れるならそうしておこう」


 少しの間を開けて、先に折れたのはヘルフリートだった。

 彼は変わらない、けれどやはり何処か寂しい表情でそう括って視界を外へ外す。

 相棒のその視線に、思考を切り替えて口にする。


「外に出るか?」

「……あまり人目にはつきたくはないが、そうも言ってられぬか?」

「傷のことか」


 不安定に翅を揺らして腰掛けていた珠の上から飛び上がり、ようやくといった様子でテオの肩に降り立つ。

 回路が不安定な所為で飛ぶことも一苦労かと、頭の片隅に思い残しながら足を出し、ヘルフリートとの距離を測って言葉を継ぐ。


「その傷は前の戦のときに?」

「あぁ……ふふっ、今にして思えば懐かしいものだ。確かこれは我が仇敵に刻まれた古傷だ」


 残る傷跡をざらりと撫でながらヘルフリートは懐かしむような優しい表情で答える。そこに再び戦を臭わせる闘志は感じられない。


「随分昔だな……あの時は互いに戦う意味を見失っていたのかも知れぬ」

「戦う意味?」


 思わず聞き返して歩みを止める。

 戦の理由なんてものはその場の指揮を執る者の方便ではないかとテオは思う。

 戦う理由、戦わなければいけない理由。そうして求めた末の自己解決という名の正当化された尤もらしい建前。それがテオにとっての戦争の理由だ。

 話を具体的にすれば侵略だとか支配だとかという話になるのだろうが、それも全て建前ではと結論付ける。

 その建前を、見失う。それは今を生きるテオからしてみれば目的を見失うことと同義だと思うが、一度決めた心持をそう簡単に変えていては戦は長続きしないのではと邪推を重ねた。


「────平和などなく、その言葉はただの戦の火種でしかない。平和という言葉があるからこそ、戦が起こり()る。なれば平和を知らないことこそが、何よりの平和である」


 考えて、過ぎった持論に首を傾げた瞬間、彼の口から零れた言葉にテオはいつの間にか息を止めていた。

 その言葉は、先の戦争でヘルフリートの前の契約者だった、ヘンリック・アヴィオールが残したとされる言葉。

 平和という言葉は、戦の道具に過ぎない。


「……戦が終わって、この言葉の意味にようやく気付かされた。結局、我輩もまた戦は平和のためだと偶像を抱いていたに過ぎない。その偶像に縋って、多くの命をこの手で散らしたに過ぎない、ただの殺戮戎具(さつりくじゅうぐ)だ」


 ヘルフリートの言葉に胸がきりきりと締め付けられ、氷の手で心臓を鷲掴みにされた気分に陥る。

 確かに、彼の語った言葉は正しいのかもしれない。

 戦は命を散らし、市場を活性化させる。後に残るのは、戦が終わったという虚無感だけ。

 だとするならば、いくつもの命の灯火が目の前で消えていく光景を……自分の手でその火をかき消す事は、彼にとっては異能に英でた英雄などではなく、大量虐殺なのかもしれない。

 英雄的妖精と呼ばれる彼だが、それは周りの声がそう仕立て上げただけで、彼にとってはただの立て看板ということだろう。

 ヘルフリート自身は、自分の事をきっと英雄だ何て思ってはいない。


「……ならそれでいいんじゃねぇか?」


 相棒の伏せた顔に、少しだけ考えて言葉を返す。

 頬に突き刺さる視線には振り向かず、前を向いたまま再び足を出す。


「言わせたい奴には言わせておけばいいだろ。気にするからいけないんだ。俺にとってヘルフリートは契約妖精である事に変わりはないっ」


 少しだけわざとらしく。けれど誇らしげにそう言い放って、笑いかける。

 するとテオのその言葉に気を持ち直したのか、ヘルフリートは何処か嬉しそうに「あぁ」と短く返したのだった。




 『妖契の儀』。英雄的妖精と謳われるヘルフリートと契約した日の翌日。テオの元には一枚の手紙が届いていた。

 内容は幼馴染からの命令のような何か。書いてある文章は簡潔で、少し前より彼との間で交わされている連絡。


「例の幼馴染殿からの信書か?」

「ん、あぁ。……なぁヘルフリート…………」


 声に相棒が顔を上げる。突き刺さる視線を頬に受けつつ、一つ息を整えて秘めていた気持ちを言葉にする。


「お前は俺に負担をかけると言ったけどな、逆だよ」

「ふむ…………」

「きっと俺がヘルフリートを振り回す。そうするために、俺はヘルフリートと契約したんだ」


 さらりとした発言。視線を前へと向けたヘルフリートは先を促すように口を閉ざす。


「あいつに変な入れ知恵されてな。悪い話じゃないからヘルフリートと契約をしてくれって」

「我輩を戦力として扱うつもりか?」

「どうだろうな。ただ戦力ってよりは駒の一つって感じかな」


 禁忌に触れるような話題。けれど避けては通れない流れに逆らって、真っ向から向き合う。


「ただ、俺個人としては自由をある程度許されてる。だから同様にヘルフリートにも自由がある」

「……その自由で、主は何を望む?」


 問い掛けに息を詰まらせる。言ってしまえば、後には引けなくなる。共有をする事で、互いを縛り付ける目標…………。


「全員、助けたい。英雄的妖精と呼ばれる残りの三人にも、ヘルフリートと同じように戦のない今の世界を見せてやりたい」

「くふっ……!」


 それは含み笑いだろうか。小さな体躯を揺らした相棒は何処か懐かしそうに視線を上げる。


「あぁ、それはいい。だが我輩が何も知らないのでは戦を治めた者として示しがつかぬ」

「それじゃあ週末にでも町に出ようか」


 口にして、思いのほか話題に棘がなかった事に気がついたのは話を終えてからだった。

 恐れていたのはテオだけだったのかもしれない。

 戦の世に生き、戦を嫌う妖精。そんな彼との会話に、戦いの匂いを仄めかせる事に忌避していた。

 それは本当の戦を知らない世代だからこその被害妄想なのかもしれない。

 ヘルフリートにしてみれば終わった話で、覆しようのない過去。過去に触れる事は彼の生き様を暴きたて、無粋に逆撫でする事と変わらない。

 幼馴染に勘の鈍いとよく言われるテオではあるが、そのあたりの心の機微には敏感だ。

 だから変に想像を重ねて悪い方へと考えてしまっていたのだろう。

 現実は想像よりもずっと薄弱だ。


「…………それじゃあ行って来る」

「あぁ、契約者でありながら営為を共にしないとは情けない限りだが」

「気にすんな。体がまともに動かせないんじゃ仕方ないからな」


 律儀な相方の声に小さく笑って肩越しに手を振ると部屋を後にする。

 契約から一日、色々試しては見たがやはり直ぐに彼との間に効率の良い回路を組む事は難しそうだった。

 まず前提として前任者ともう一つ別の波形、それを維持したまま契約をするという事が殆どないような事例なのだ。

 極めつけに契約相手があの英雄的妖精ともなればそう簡単に手を出していい話ではない。

 現状、テオからの供給はヘルフリートが体を維持できるほどにしか受け渡しができない。

 時間が経てばその量も増えていくだろうが、どうやら事はそう待ってはくれない様子だ。

 封を開けた便箋の中身。そこに書いてある一文に眉を顰める。


 僕がいいって言うまで僕の目の前に姿を見せないで。


 言葉の真意を見失いそうなほど曖昧で不可解なお願い。

 テオがクラウスに会わない事でクラウスは有利になる。その説明できないからくりに頭を悩ませるほどテオは馬鹿ではない。

 それが必要だから全うする。

 幼馴染との間に築いた関係は無駄な詮索をしないことでどうにか保っている。実際、聞かされたところでその実態を三割も理解できないだろう。

 けれど感覚では理解しているつもりだ。優れた直感はもはや未来予知と変わらない。少し前に読んだ本に書いてあった一文を反芻して確かにと頷く。

 クラウスの考えている事は分からないが、彼のしようとしている事は漠然とだが理解しているのだ。

 だからこそ、その動き出したという事実に、テオは心の奥底で焦燥を感じ始めていたのだった。




              *   *   *




 閉まった扉を見つめて小さく息を吐く。

 (おもむろ)に手のひらを見つめてそこに存在する魂の檻に歯噛みする。

 どうして自分はこんな姿になってしまったのだろうか。いつからこんな姿になっていたのだろうか。

 過ぎた時間は随分長く、その中で訪れた変化を知覚出来ないほどに磨耗した精神はいつの間にか心から牙と爪を取り除いていた。

 戦など、起こらないほうがいい。幾度そう考えて、我が身を呪っただろうか。

 そんな呪いが願いとなって、形を求めたのか。それともただの適応反応だろうか。

 不憫だと嘆いたところで元に戻る事はないのだろうが、それでもこの魂を収める小さな棺を鬱陶しく思う。

 人に、憧れを抱きすぎた報いか。

 我が身一つでは目の前の扉を開ける事もできないほどに非力な体躯を今一度呪って背中に意識を集中させる。

 そろそろ飛べるだろうか。飛ぶというよりは跳ぶに近いのかもしれないが。

 体の中を巡る契約者からの妖精力を精一杯に練ってみる。

 頭の中に思い浮かぶ想像に従って、彼らの口にする異能を発露させる。

 鈴の音のような細く透き通った振動音を響かせて小さな体が宙へと浮かんだ。同時に、過去の感覚が蘇って力任せに翅を揺らした。

 途端体を襲ったのは、強烈な浮遊感覚。数瞬の間に、頭上に天井を感じて制動を掛ける。

 そこまで力を込めなくてもいいのか。やはりこの体は慣れぬ。

 今までに感じたことのない屈辱。人はそれを失敗と呼ぶのだろうが、この身には理解のし難い感覚だ。

 人の殻を模したからそんな事を思うようになったのか。それとも彼との間に繋がれた回路が齎す副産物か。

 大方、今まで負けや失敗というものを経験してこなかったつけなのだろうが、やはり慣れないものは慣れない。

 ただ、胸の内に蟠る後悔は、戦を憂いた頃と似ている気がして小さく胸を痛める。

 今一度、気持ちを整理するべき時だろうか。

 今まで振り替えることのしてこなかった過去に少しだけ目を向けて、それから至る。

 これもまた、人がよく頭を悩ませる一因か。…………悪い事ばかりではないのかもしれない。

 どうしてこの体が小さなそれへとなってしまったのか、その詳しい事情は察する事はできないが、この身ならではの生き方というのもあるのかもしれないと気付く。

 それも一興。小さな楽しみを一つ見出して笑みを浮かべる。

 あぁ、笑えるというのも存外に悪くない。

 知らず浮いた気持ちに問題はとりあえず棚上げして先ほど主が放った言葉に思考を落とす。

 三人。

 そういえばと思い返す。彼は初めて会ったときから一人二人と数えていた。

 それはただの彼の気まぐれなのだろうか。それとも何か訳あっての事なのだろうか。ただ人型をしているからそう数えているだけなのかもしれない。

 ヘルフリートの記憶の中には彼の事を人扱いした人間など殆どいなかった。もしあったとしても、それは定まらない呼称の一つであって、徹頭徹尾一人、二人と言っていたのはヘンリックただ一人だ。

 だからヘンリックと同じように呼ぶ彼に興味が湧いて、契約を交わしたのかもしれない。

 今にして思えば随分と軽率で、けれど何処か安心を引き寄せる契りだったのだろう。

 そうでなければきっとこうまで深く考え込んだりはしなかったはずだから。

 脳裏に先ほど出て行ったテオの姿を思い浮かべて小さく胸の内に暖かい炎を灯す。

 こんなに丸くなってしまえば、姿形が変わる事も──否、戦を欲さないからこその変化なのかもしれない。

 先ほど棚上げした疑問に答えを見つけた気がして少しだけ落ち着く。

 それでも見つめるべき景色は随分と遠く多い。

 考える事は沢山だ。けれどその時間を待ってくれるように目の前には沢山の猶予が横たわっていた。




              *   *   *




 ヘルフリートと別れて学院へと向かう。

 隣にいない相棒の心細さに少しだけ後ろ髪を引かれつつ、けれど止まらない足は目的地へ。

 生徒会室と銘打たれた扉を前に立ち止まり一つ息を整える暇を挟まずノックする。


「会長、失礼しますよ」


 答えを聞かずに開け放って視界の先に目的の人物を見つける。

 肩上で切り揃えられた穹色の溌剌とした頭髪。波打ち際のように透き通ったマリンブルーの瞳。

 顔の横からは尊敬と畏怖を纏う妖精の様な長い耳殻が飛び出し、当然のように瞳の奥には愚直なほどに勝気な意志の強さが宿っている。

 彼女こそがこの学院の生徒代表であり、異種族たるエルフの血を引く純血にして、妖艶なる才女──ニーナ・アルケスだ。

 その美貌は目を引くところで、彼女の魅力を詰め込んだ豊満な胸部は今もまたテオの目の前に差し込む陽光の光を反射して瑞々しく────


「…………あら。いらっしゃい」


 着替え中でしたか。


「す、すみません会長っ。着替え中だとは知らず」


 健康的な薄桃色の肌が際限なく露出され、一糸纏わぬ姿のニーナが少し驚いたように目を見開く。

 男の性に逆らえず思わず視線を走らせて、慌てて目を瞑る。


「…………見てく?」

「いえ、結構ですっ!」


 挑発的な言動は照れ隠しか。

 顔に血が昇りつつあることを自覚しつつ、急いで開けた扉を閉める。大きな音を立てた扉に背を預けて、そのまま廊下に座り込むと手のひらで顔を覆った。


「あ、朝から運動でもしてたんですか?」

「ちょっと公式の呼び出しがあっただけ。流石に黒尽くめで授業受けるわけにはいかないでしょう? ……それで、どこまで見たの?」


 投げた話題に返答一つ。続いて返って来たのは避けたはずの言葉。接続詞って素晴らしい。


「正直に言えば不問にしてあげるわよ」

「…………横からしか見えてません。背中側は丸見えでした」


 恥ずかしさを堪えて正直に告白する。

 クラウスならこんな修羅場笑顔一つで切り抜けるのだろうが、テオはそこまで器用でも神経が図太いわけでもない。あれは人外の所業だ。感情というものが欠如しているのかもしれない。


「素直でよろしい。…………よし、入っていいわよ」


 扉一枚隔てた会話がようやく終わる……。

 そんな安堵を原動力にして立ち上がると再び扉を開く。

 刹那、視界の端から猛烈な速度で襲ってきた平手打ちがテオの頬を横殴りに引っ叩いた。


「……不問にしてくれたのでは?」

「問題にはしてないわよ。今のはただのあたしの八つ当たり。女性の肢体拝んでその上ぶって貰えるんだから感謝したら?」

「俺はそっちの性癖の人ではないんですけど……」


 赤くなった頬に手を当てて言外に理不尽だと嘆くと、ちらりとこちらを振り返ったニーナの視線がテオを射抜いた。


「男が一々口答えしないっ。……グライド君、会長命令よ。悪戯犯を捕まえて」


 話の流れ丸々無視ですか。

 ここまでのやり取りで気概を半分以上持って行かれつつどうにか話に追いつく。

 その中で、不意に目についたニーナの長い耳が仄かな桃色に色付いている事に気がついて少しだけ安心した。


「……詳しい話を聞かせて貰えない事には頷く事はできませんよ。情報開示を求めます」

「焦らなくたって話すわよ。…………今学院内で悪戯問題があるのは知ってる?」

「……軽く耳にする程度ですが」

「その犯人を捕まえて欲しいの」


 簡潔な命令に少しだけ理由を尋ねてみる。


「別に今でなくてもいい気がするんですけど」

「その必要があるからよ。それ以外に理由が要る?」


 何事も疑わない真っ直ぐな声音。彼女の言葉にあまり湧かなかった興味が刺激される。

 ニーナの言葉には力がある。それはきっと人を動かす組織の長としての力だ。

 彼女が自信に溢れてそう紡ぐ時、彼女の中には確固とした曲げられない行動指針と理由がある。

 きっとその辺りが感情となって言葉の端に滲み出ているのだろうとテオは思っているが、クラウスに言わせればただ無鉄砲なだけらしい。

 信じるものを信じきって、行動に起こす。

 有限実行、不言実行。何事にも臆さないニーナの生き様は抗い難い説得力を持って言葉に力を纏わせる。

 だからこそ彼女は生徒会長であり、何よりもニーナ・アルケスたりえるのだろう。


「…………犯人の目星は?」

「ないわよ。それじゃあよろしく」


 刃物のように鋭い言葉に思わずこけそうになる。

 流石のテオでも悪戯という言葉だけで犯人を探し当てられるほど直感が優れているわけではない。

 情報が少なすぎる。

 やり場をなくした感情が答えを求めて彷徨って頭を掻いた。


「会長……? さすがに────」


 言いかけて、後ろに気配を感じて振り返る。そこに立っていたのは生徒会書記であるヴォルフ・ブラキウムだった。

 屈強な体の放つ存在感に今回もまた気圧される。


「あぁ、ヴォルフ。他いないけど会議始めるわよ」

「わかった」


 短い呟きは重く響いて越えられない線を引く。

 気づいた時には既に遅し。抗議するタイミングを逃したテオは一人廊下に閉め出されて唸る。


「だぁっもう! どいつもこいつも勝手すぎるわっ!」


 空しい残響が余計に心を悲しくさせて大きく一つ溜息を吐く。

 とりあえずクラウスに……あぁ顔見せるなって言われたんだった。何これいじめ?

 抱えたくなった頭をどうにか上げて足を出す。

 どこから手をつければいいんだか。過ぎった感慨は目の前の景色に靄をかけて足首に重い鉄球を繋がれた気がした。




 それからの日々は変わったと言えば変わった。けれど殆ど変わり映えのしない日常がつらつらと続いていった。

 幾度か幼馴染からは手紙で話をつけて、ニーナの提案とクラウスの暗躍。どちらにもいい顔をしつつテオもまた自分の都合を推し進めていく。

 それはヘルフリートとの回路。

 自由を見つけてはいくつか文献を読み漁ってみたが、どうにも収穫は芳しくなく、授業で習った事とこれまで個人で積み重ねてきた知識以上の新しい発見はあまり見つからなかった。

 ただ回路とは別に、英雄的妖精についての書物は流石に沢山あり、そちらの知識については十分に得る事ができた。

 まず英雄的妖精と呼ばれる妖精はヘルフリートのほかに三人居る。これは妖精史の授業でも取り扱う事なので一般教養として身にはついているが、それ以上はあまり語られない。

 例えばここブランデンブルク王国に現れたヘルフリートは、当初は戦事には関わっていなかったという話だ。

 教科書ではヘルフリートが戦場に登場した頃から名前が出始める。それ以前のヘルフリートに関する歴史については詳しくは語られていない。

 どこに住んでいた。どこから来た。どうして戦争へ身を投じた──

 何でどうしての問答地獄には今でもまだ答えの出ていないものは多い。

 過去に何度かヘルフリートに直接対話を試みた事例もあったそうだが、その時は口を開かなかったらしく、真相は未だ闇の中だ。

 彼から今までに聞けた話は、ヘルフリート個人の記憶よりもヘンリックと一緒の記憶が多い。

 それは彼がヘンリックとの思い出を大切にしているからなのか、それとも自身の過去の話を拒んでいるのか。

 どちらにせよ、ヘンリックから伝わった話とヘルフリートの口から聞いた話にそれほどの差異はなく、今までの歴史に真実味が増しただけで深みは得られていないというのが現状だ。

 ヘンリックから伝わった話は幾通りもの伝承があり、その殆どが彼の武勇伝を書き記して富を得ようとした眉唾物の歴史書と、誰かが残した史実より違えない幾つかの童話があるだけだ。

 ヘルフリートの話と照らし合わせて幾つかの真実は浮かび上がったが、それもまた質の悪い話ばかりで、眉唾物とされる歴史書の中にも類似点が見つかったりと混乱を極めている。

 誇張表現だと思っていた話が真実味を帯び、面白みもないけれど落し所としては十分に納得できる話が実は虚像のようであったり──

 戦乱の世は読んで字の如く戦に乱れた歴史であり、生き証人であるその時代を生き延びた人たちも災いや呪いを恐れてか真実を口にしない。そのため、真実と虚偽が錯綜しているのだ。

 幾つかの書物に目を通して、これまであまり信じられなかった歴史が更に誤認性を深める。

 一体この世界の何が正しいのか。

 そんな疑いさえ抱きそうになったテオは、一度思考を外すために町へも出た。

 そういう小難しい話は幼馴染の領分だ。

 答えの出にくい問いかけを押し付けてテオはテオの道を歩く。

 隣にはヘルフリートが居て、彼との間に交わされた回路も最初の頃に比べれば随分と安定してきている。

 このまま順調に時が経ったところで、周りにいる今の妖精従き達と同じ場所に立つには、やはり十年以上の歳月が必要なのだろうけれども。

 憂うような期待のような。そんなどっちつかずの気持ちを胸に抱えて日は巡る。

 いくつか耳に入ってきた話では、クラウスとユーリアがようやく手を取り合って悪戯犯探しに乗り出したのこと。

 異性に慣れてるようでクラウスも随分と慎重だからなあ。やっと距離の取り方を覚えたという事だろうか。

 距離を取るというその行為自体に共感の出来ないテオだが、それこそが幼馴染という人物を語る上で欠かせない情報だという事も確かに知っている。

 そんな彼と、それに対抗するようにテオを振り回す生徒会長と。その間に挟まれては揺られるテオは自分の目的だけを視界に収めて盲目に前へと進む。

 今できることを胸に灯して、その篝火を掲げて迷いを振り払いながら。



 生徒会長の無茶をこなしつつ数日を経て、その中でヘルフリートと幾つか言葉を交わしながら。

 何日か置きに届く幼馴染からの手紙の内容に従って情報を集めれば、テオの中でも何となくの枠組みが見えてくる。

 とはいえそれを上手く使ってことを解決しようという気にはならない。……できそうにないというのが理由の一つ。もう一つはニーナ・アルケスからの下命である悪戯犯の確保が思った以上に大変だったためだ。

 トーアに上がり、契約してすぐの妖精従きに色々押し付けすぎではなかろうかと。

 どうにか悪戯犯を特定した自分を褒めて、愚痴らしい愚痴を零す相手も見つけられないまま、黙々とやるべきことへと邁進すれば、ようやく幼馴染から求められて一つの問題から解放される。


 ────彼女の動機は親愛なる友のため


 この言葉が幼馴染の求める最後の鍵でありますように。

 願いはテオの与り知らぬところで成就され、変わりに目の前に最後の命令が提示される。


 ────悪戯犯が捕まったって情報を流して


 ────それから明後日の放課後、誰よりも早く屋上に来て、そこで茶番に付き合って


 あぁ、終わるのか。

 心に芽生えたのは寂しさだろうか。それとも安堵だろうか。どちらともかもしれない。

 吐き気を催すほどの停滞の日々がようやく終わりを告げる。彼はこんな景色を毎日見ているのかと思うと気が狂いそうになる。

 やはり彼と自分では生きる世界が違う。

 恐ろしいほどに感情を押し殺した彼は、辺りの空気に流されずいつまでも恐怖とも言い変えられる彼の時間を生きる。

 その時間に、駒として名を連ねた自分はただ道化のように利用されるだけ。

 ……それでいいと思ってしまうのは、やはり自分が今まで彼を振り回してきたからだと知っているから。

 何れにせよ、今の問題が終われば彼に相談する機会があるかもしれない。

 そうすれば──あの幼馴染なら、ヘルフリートとの問題にも何か妙案を出してくれるかもしれない。

 ────あぁ、縋り続ける事はそう簡単には変わらないか

 冷酷に下した判断は再び思考を暗く閉ざす。

 …………もう少しの間は、自分ひとりで考えてみようか。




 幼馴染から手紙を貰った翌日。午前中を普通に過ごした後、昼休みにテオは生徒会室へと向かっていた。

 ちょっとした勘で今日は雨が降るかと思っていたが、天気予報は快晴で空には雲が殆ど見当たらない。この調子なら放課後も綺麗な夕焼けが拝める事だろう。

 心中とは裏腹な天上の幕を窓から見やって、隣にいない相棒の存在に少しだけ心細く思う。

 この孤独感も、回路が齎す影響なのだろうか。

 あまり前例のない事だけにどうにも結論が下しにくいが、それも一興と納得して足を出す。

 深く考えるのは頭でっかちな幼馴染に任せればいい。

 そうしてどこか落ち着いた気持ちでどうでもいい事を考えつつ目の前の扉を叩く。


「会長、ちょっといいですか?」


 ノブに手をかけて、脳裏に少し前の事が鮮明に蘇って少しだけ躊躇った。

 今でもあの一糸纏わぬ裸体が生々しく記憶に焼きついて離れない。男って情けない……。


「どうぞ~」


 間延びした声に許可の意味合いを読み取って扉を開く。

 少しだけ覚悟したのは条件反射。続いて目に入った変わらない室内の様子に少しだけ安心した。

 会長席に腰掛けたニーナが一つの便箋に向かってしわを寄せて唸っているのを見つける。どうやら何か悩み事らしい。


「何かあったんですか? もしかしてまたクラウス絡みですか?」


 備え付けの長椅子に腰を下しつつ尋ねる。同時に目の前に飲み物が用意されて、そこに立っていた人物に初めて気付いた。

 生徒会書記ヴォルフ・ブラキウム。テオにとっては苦手を意識する部類に入る彼は、どうにも存在感が薄い。

 巨体は城壁のように頑強で、相対すればその纏う雰囲気に威圧さえされるが、寡黙を通り越していっそ石像の様な彼には何故か体に見合った個性がないのだ。

 それはまるで熟練の戦士が気配の殺すが如く。意識して押さえ込んだように薄弱な存在感に、テオは違和感と同時に忌避感を抱いているのだろうか。


「……どうもです」


 反射的に礼を言って、クラウスの仮面が移ったかと錯覚する。

 尊敬する幼馴染であるが、どうにも彼のようにはなりたくない。なれる気はしないというのが本音かもしれないが。

 脳裏に幼馴染の雰囲気を思い浮かべて、知らずそれと目の前の先輩を比べてしまう。

 …………拒否感は先輩のほうが少し強いか。

 そう言えば何かを比べて二択しか出せない考え方が窮屈ではないかと幼馴染に聞かれた事があったと思い出す。


「当たらずとも遠からずよ……。それでどうしたの?」


 あれはいつだったかと記憶を遡ろうとし始めた頃、先ほど向けた疑問に答えが返って現実に引き戻された。


「会長から教員の先生に一つ融通して欲しい事があるんですけど」

「………………苦労してるわね」


 その言葉は本心のようで、顔が少し引き攣っているように見えた。


「今日の最終授業、欠席の手引きをして貰えませんか。引き合いには悪戯騒ぎの終結報告でも出してもらえればいいので」

「嫌な取引……。分かったわ」

「ありがとうございます」


 悩みの種が増えたようにマリンブルーの瞳が少しだけくすむ。また今度クラウスのことも兼ねてお礼でもしておこうか。

 良くも悪くも幼馴染は損得勘定でしか動かない。取引に見合った得があれば、話を売りもするし買いもする。その取引さえ完結してしまえば、それ以上幼馴染の中に必要がない限り接点をもたない。彼の中に迷惑という感情は殆ど存在しないのだ。

 その為、物としてではなく形として結果を礼とする。

 言葉だけの礼といえばいいだろうか。だからその後始末をするのは大抵テオなのだ。


「……よかったらそれ手伝いましょうか」


 ちょっとした出来心。ニーナの手元に視線を向けて提案をしてみる。

 けれど返って来たのは遠慮だった。


「違うのよ。これはあたし個人の問題。だから気にしないで。仕事は全部終わってるから」


 書類を一枚振って小さく笑うニーナ。

 少しだけ気になりはしたが、とりあえずは思考の外に外す。今は他人のことに首を突っ込んでいる場合ではないのだから。

 小さく息を吐いて紅茶を飲み干す。長椅子から立ち上がりまた一つ言葉を残して部屋を後にする。

 見据えた廊下の先は、随分と長く続いているように錯覚した。




 午後最後の授業の前。早めに教室へ来た教員に話を通すと二つ返事で欠席を許してくれた。

 心の内でさすが生徒会長と要らぬ評価を下しつつ教室を後にする。

 向かった先は自室で、扉を開けて中の相棒を探す。


「ヘルフリート、いるかー?」


 声には小さく翅音。鈴の音を響かせて奥の部屋からヘルフリートが顔を出す。


「早かったな、主よ」

「最後の授業抜けさせてもらったんだよ」

「うむ?」


 疑問の瞳はその先を求めて突き刺さる。どうやらこの後何かあると回路を通してか理解したらしい。手間が省けて助かる。


「放課後クラウスに呼び出し食らってるんだ」

「例の幼馴染殿か」

「その前にいくつか試しておきたい事とかあるからな。良かったら付き合ってもらえないか?」

「丁度暇を持て余していたところだ」


 小さく笑みを浮かべた相棒は空を飛んでテオの肩に降り立つ。

 ここ最近では普通に飛行も可能になったようだ。それでも長くは飛び続けられないし、滑空ならまだしも高度を稼ぐような飛び方をすれば直ぐに力尽きてしまう。

 ただ、少しずつではあるが進展はしているのだ。


「じゃあいこうか」

「あぁ」


 部屋の鍵を掛けて校内を案内も兼ねて少し探索。途中で飲み物を二つ買ってから屋上へと向かう。時間はまだたっぷりとあるし出来る事は早めにしておくとしよう。

 階段を上り扉を押し開ける。どうやら鍵に関しても手回しをしていてくれたらしい。屋上に出てようやくそんな事に気づく辺り、やはり無鉄砲といわざるを得ないのだろうか。否定はしないが。


「それで、何をするのだ? 迂遠な話は苦手なのだが……」

「────極炎法衣(ラーヴァ・スケイル)……」


 問い掛けに答えると見開かれた視線が横顔に突き刺さる。宿った感情は疑い。

 極炎法衣(ラーヴァ・スケイル)。ヘルフリートの前の契約者たるヘンリック・アヴィオールの代名詞であり、彼が冷炎の君主と呼ばれるようになった一つの所以(ゆえん)

 彼が戦の中でその身を彩った七つの色に輝く炎の衣。


「あれは、ヘルフリートと契約したから使えるようになった技、だよな。文献にそう書いてあった」

「…………正気か?」

「正気だ。必要なんだ」


 真摯に返すとヘルフリートは黙り込む。

 否定しないところを見るに真実なのだろう。つまりは極炎法衣はテオにも使える可能性があるということだ。


「…………今は無理だ」


 呟きはヘルフリートの口から。それはヘンリックとの記憶を宝物のように思い、その不可侵の領域を留めておきたいが故の建前だろうかと邪推する。


「まともな回路も繋がれていない今、術式の展開ですら困難だと──」

「それでもっ。俺の価値はそこにしかない」

「履き違えるなよ小僧ッ!」


 叫び声は空気を震わせて響き渡る。

 気がつけば目の前にヘルフリートが浮いていた。


「我輩の力は貴様の物ではないっ! 契約をしたからと言って、全てが思い通りになるなどと自惚れるなっ! 貴様の価値は、貴様自信が決めるものだ」

「妖精と人間が力を合わせてこその妖精従きじゃねぇのかよっ」


 言い返して、口を噤む。

 何をしているのだ。こんな事をしても何の意味もありはしないのに。

 失態を呪って奥歯を噛み締める。


「……悪かった。ただ妖精従きの姿も昔と変わってるって──」

「それが契約妖精に溺れると言う事か?」


 険のある声に下がった溜飲が再び競り上がってくる。

 どう変わろうと、この性格が変わるわけではない。けれど少しでも変化すればと努力はしてみたがどうにも難しそうだ。


「極炎法衣に挑戦してみようって言う気持ちまで否定すんのかよ!」


 降りたのは沈黙。二人の間に横たわった静寂に継ぐべき言葉を見失って黙りこむ。

 あぁ、くそっ。だから違うってのに。

 言いたい事は言葉にならず、何を言うべきかも渦巻いては消えていく。

 やがて沈黙は亀裂へと変わり深い溝を穿つ。


「────人間は面倒くさい」


 それが相棒の口から零れた言葉だとは思いたくはなかった。

 炎のように燃え盛り、氷のように冷酷に冴え渡り。そうして出来上がった言葉の刃がテオの胸を刺し貫く。

 本心、ではないはずだ。そう思ってはいても否定ができない自分が恨めしかった。

 言い残したヘルフリートは一人屋上から欄干の間を抜けて宙へと体を躍らせる。そうして風に任せるまま空を舞い、寮の方へと消えていった。

 一人になって、ようやく思考が落ち着く。

 彼に向けて放った言葉。それらは本心であると共に、何処か捩れた言葉たちだった。

 それはヘルフリートがテオに心を開いてくれていないからなのかもしれない。テオがヘルフリートに不満を感じているからかもしれない。

 それらを全て、回路のせいにしているからかもしれない。

 理由を求めて彷徨った思考は優柔不断に答えを出せないまま沈む感情の奥へと消えていく。

 この頃、考える事が増えすぎた。そういうのは苦手分野なのに……。

 脳裏に思い浮かんだのは幼馴染の顔で、同時に彼からの言葉を思い出す。

 瞬間、授業終了の鐘が鳴り響いて、慌てて思考を再起動させた。

 とりあえず、どうしよう。貯水槽の上にでも陣取って事を静観でもしていようか。

 考えが纏まればすぐさま行動。

 はしごを一段飛ばしで昇り、そのままの勢いで貯水槽の上に胡座をかいて腰を落ち着ける。

 まずは目の前の事を片付けない限りヘルフリートに会う事も出来はしない。

 靄の掛かった焦点をどうにか目の前に合わせて自我を保つ。

 そんな事をしていると、音を立てて屋上の扉が開かれ、一人の少女が息を切らせた様子で姿を表した。彼女は肩を揺らして考えるように遠くを見据える。

 砂糖菓子のように甘く柔らかそうに波打つライトブラウンの後ろ髪が夕日に照らされて輝く。横顔は怯えと覚悟を綯い交ぜにして水色の瞳を彩り揺らしていた。

 彼女が、例の少女だろう。

 クラウスに言われるがまま行った工作活動の中で幾度か目にする事のあった女性徒。小柄で可愛らしい子だが、人は見かけによらないという事だろうか。

 第一印象からいくつか推察しながら時間を潰す。

 先ほど屋上へ来た少女が息を整え終わった頃、階段を上って来る音が二つ耳に届いた。

 クラウス…………ともう一人は誰だろうか。

 まだ立会人を増やすのかという危惧も数瞬、開いた扉から顔を見せた人物を目に収めて納得する。

 そういえば彼女も委員会の構成員だったか。

 安堵はいつからか緊張へと摩り替わり時間を加速させる。

 幾つかの幼馴染らしいやり取りを耳に聞いて、振られた紹介に立ち上がって応える。

 貯水槽に位置取ったのは少し間違いだったかと思い至ってとりあえず合流するために降りる。

 …………空気を見計らってクラウスに声でも掛けようか。それまでは再び静観と結論付けて、建物の影の中で事の経緯を見守る。

 どうやら話はニーナ会長の言っていた悪戯騒ぎの裏で起きていたらしい。

 クラウスの隣の少女──名をユーリア・クー・シー。実技教科においてはテオの技量を上回る程の女性徒だ。彼女と先ほどの可憐な少女……アンネ・ルキダとの間に起こった問題が、クラウスの追っていた話らしい。

 大方その問題を足がけにユーリアとの関係も築こうとしたのだろう。クラウスらしいなんとも遠回りな接触方法だ。

 今後テオとも行動を一緒にするであろう少女、ユーリアの人となりに注目しつつ話に耳を傾ける。

 そうしてしばらくして、どうやら話に区切りがついた頃、一人安堵の溜息を零す幼馴染の背中に声を掛ける。

 クラウスは少しだけ疲れたように答えた後、再びアンネへと歩み寄り幾つかの会話を紡いだ。

 最後に、意地悪く指摘したクラウスの言葉に怒る様にアンネが飛び出して行き、その後をユーリアが追いかけて。屋上に取り残されたテオとクラウスはその空虚さを噛み締めつつ空気を共有する。


「おつかれ」

「あぁ……いや、その言葉は僕のものだろう?」

「価値観語るのはいいがあんまり押し付けんなよ?」


 少しだけ気になった点を指摘しつつ既にぬるくなり始めた飲み物を手渡す。

 小さな慰安会と思いつつ喉を潤して、空になってから静かに紡ぎ始める。


「……今回は悪かったな。大変な役割押し付けて」

「いいってことよ」


 この分ならとりあえず一件落着だろうか。ならあまり深く考えるのはよそうか。

 無粋な疑念は持ち前の楽観さで思考の外へ。

 そうして、幼馴染と惰性で会話を紡ぐ間だけ、ヘルフリートとの事を忘れようとしていた事に罪悪感を芽生えさせていた。

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