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王子様に会えなくて

 ——むかしむかし、人間の王子様に恋をした人魚がおりました。

 人魚は人間になるために美しい髪と笑顔を、人間の足と引き替えにして海の魔女と取引をしました……。

「どうしました? 大丈夫ですか」

 ——そうして王子様のいる陸の舞踏会に行ったものの、結局人魚は王子様に会えなかったのです。

「足から、血が出ているじゃないですか」

 気づくと目の前に仕事着を着た男がいて、赤く染まっている踵を見下ろしていた。なんだろうこの人は。

 黙ったまま突っ立っていると、男はおもむろに手巾を取り出して断りをいれてからそれでやさしく踵をくるみこんで言った。

「幸い僕の店がこの近くです。そこで傷の手当てをしましょう」

 男はしゃがみ込んだまま顔だけ上げて、安心させるように微笑んで見せた。

「僕の名前はジェイドです。失礼ですが、あなたのお名前は……?」

 男の言う通り、店は本当にすぐ近くにあり、小さな店は一目で靴屋なのだろうと知れた。質問を受けたのは、店内の奥に設えてある足の低いソファに座らされて傷の手当てを受けている時だった。

「……ミン」

 小さな声で答えると、ジェイドが確認する意味も込めて復唱した。その時はじめて、ミンはジェイドの目をまっすぐ受け止めて見返した。

 固くて足を締め付けるような華奢な靴なんて本当は履きたくなかった。それでも慣れていない靴を履いて行ったのは、舞踏会へ王子様に会いに行きたかったから。王子様に嫌われたくないという純粋な気持ちがあったからだ。でも、結局彼女の想いは届かなかった。

 気づけばミンの目に涙が光り、頬を滑り落ちていった。ジェイドがそれに気づいて狼狽しながらも、そっと手を差し伸べてくれた。ミンは彼の肩に顔をうずめて長いこと、さめざめと泣き続けた。




 ——いつしか靴職人の男に心を開いた人魚ですが、魔女との契約で少しも笑うことができません。どうして笑ってくれないの、と悲しむ男を人魚はひたすら一途に想い、支えるしかなかったのです。けれど、

「これから少し出かけるよ」

「どこに。ジェイド、どこに行くの」

「……帰りは遅くなるから、心配しないで」

 ——ジェイドの心はミンから離れてゆき、夜な夜などこかの女のもとに通うようになってしまったのです。

 固く閉ざされた扉を前に、ミンはただ泣くしかなかった。

 ジェイドを悲しませているのは、笑うことができないミン自身なのだと思うと、どうしても「行かないで」のひと言が言えなかった。

 私に、何の権利があるというの。

 ミンは少しだけ長くなった髪を涙で濡らして、呟くのだった。

「ジェイド……、」

 ——人魚の嘆きは深い海を伝わり、ある日、人魚の前に人の姿をした魔女が現れました。

 紫黒のドレスを身に纏った深海の魔女は妖艶な笑みを浮かべると、首を傾げるようにしてミンの姿を見下ろした。

「海へ帰らぬか」

 少し低めの声が降ってきた。ミンは首を横に振り、断ろうとしてジェイドの顔を思い出す。

「おまえのお父上が我に連れ戻すよう言うて来たのだ。そして見る限りおまえはあの男のことで傷ついているようだな」

 魔女はそこまで言って長く息を吐きだした。

「我は短気だからな。決心がついたらすぐ海に来い」

 魔女はミンの頭をひと撫ですると、その姿を闇に溶け込ませた。

 ——人魚は三日三晩考え続け、ついに海へ帰ると決心しました。

 ミンの荷物は何もない。ただ身ひとつで家を出、海へ向かう。

 空は薄い雲が千切れ千切れに流れてゆき、その雲間から満月が覗いている。

 海は穏やかで、ミンの帰りを待ちわびているようだった。

 海辺に辿り着くと、月光を浴びて濃い闇が浮かび上がる。ミンにはすぐにそれが魔女だとわかった。

 魔女はドレスの裾を海水に浸し、ミンの姿を見つけると両手を広げて迎えた。

 ミンも手を伸ばそうとしたところで、魔女の顔色が変わった。どうしたのだろうかと、首を巡らせて彼女の視線はある一点に縫い止められるようにして離れなくなってしまった。

「ミンッ!」

 あぁどうしよう。うれしくて、切なくて、苦しくて、心が軋む。悲鳴のような歓声が内側から沸き起こる。

 ミンの側まで駆け寄ろうとしてくるジェイドの手に、ミンが家を出てくる前に置いてきた手紙がくしゃくしゃになって握られているのを見た。そして彼のもう片方の手には光る何かが。

「どうして一人でいなくなろうとするんです」

 泣きつこうと思って手を伸ばしていたミンは、怒ったような彼の声にびっくりして、涙をひっこめた。

「どうしてって……」

 ミンが続ける言葉を懸命に探していると、ジェイドに手を取られ、

「僕はただ、ミンの喜ぶ顔が見たかった。けれど少しだってそんな素振りを見せないから」

 と、なぜかいじけられる。

 ミンの後ろで、魔女があきれているのが気配でわかった。しかしジェイドに魔女の姿は見えないのか、または単に視界に入っていないだけなのか、彼は気にした風もなく彼女の掌に小ぶりの指輪をひとつ落とした。

 それは、貝殻を模した飾りの美しい指輪だった。

「これを作るために秘密で修行していたんだけど、寂しい思いをさせていたんだね」

 彼はちらりと皺だらけの紙に視線を送り、ミンは指輪を食い入るように見つめていた。

「嵌めていい?」

「嵌めてあげるよ」

 そう言うとジェイドは少し表情を引き締めて、彼女の左手の薬指に嵌めた。

 しかし、ミンの指には大きすぎて、指輪が指にぶら下がっているように見えた。

 ジェイドとミンは顔を見合わせ、ふいに二人の顔から笑みがこぼれた。

 ミンは思わず目を瞬かせ、ジェイドはとてもうれしそうに顔をほころばせて抱き寄せた。

 彼女の背後で、魔女の帰っていく気配がする。けれどジェイドに抱きしめられているので振り返られない。

「ジェイド、好きよ。あなたのことをこんなにも愛してる」

 二人はこの時そっと口づけを交わし、ミンは涙を流しながら微笑んだ。

 浜辺に打ち寄せる波音に紛れて、声が聞こえる。

 低く、穏やかな、抑揚のついたやさしい歌声。

 二人を祝福する、深海の歌。

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