豚と結婚した方がマシだとおっしゃったので
「クリスティーナと結婚するくらいなら、豚と結婚した方がマシだ」
そんな言葉が耳に飛び込んできたのは、結婚式を一か月後に控えた気持ちの良い晴天の日のことだった。
最近雨続きだった王都の久しぶりの晴天。気分の良くなったクリスティーナは、王都でも屈指の商品量を誇る手芸の大店に足を運んでいた。貴族令嬢としてはあまり褒められたことではないかもしれないが、王都でのショッピングには慣れている。クリスティーナは近くまで家の馬車で送ってもらい、一人歩きを楽しんでいた。
趣味の刺繍用に刺繍糸を何種類か購入し、ほくほくした気持ちで通りへ出る。少し視線を巡らせ、休憩でもしようと最近貴族の子女たちの間で人気のカフェに入ることにした。
評判通り若い子女で賑わう店内にますます気分が向上する。さてどこの席に座ろうかと見回したところで、「あら」と見知った姿を見つけた。
トーマス・ダールマン――ダールマン伯爵家の子息であり、クリスティーナの婚約者。その彼が、友人らしい子息数名とテーブルを囲んでいた。
クリスティーナは彼に気づいたが、彼が座っていたのは観葉植物の影になっている席で、しかも入り口側には背を向けるような位置だった。当然入って来たクリスティーナには気づいていない。
婚約者という立場である以上、やはりここは挨拶に伺った方が良いだろう、と考えたクリスティーナは、そっとしとやかな足取りでトーマスたちの囲むテーブルに近づいた。
そうして、さて声を掛けようと思ったところでクリスティーナの耳に届いたのが、冒頭の言葉だ。
言葉の主はトーマスだった。
その言葉が耳に入ってきた瞬間、クリスティーナは反射的に足を止め、半ば無意識に近くのパーテーションの影に身をかがめた。
――今彼は何と言っただろうか。
意に反して呼吸が浅くなる。
「おいおい、トーマス。あと一か月で結婚だろ? そんなこと言ったら罰が当たるぞ」
「そうだそうだ。クリスティーナ・ブルス嬢といえば社交界でも美人と有名じゃないか。まったく羨ましいよ」
トーマスの言葉を受け、一緒にテーブルを囲んでいた友人らしい子息たちが不満なのか揶揄なのか声をあげている。
「ふん。元々親が決めた婚約だからな。確かにクリスティーナの顔は……まあそれなりかもしれないけど、立場的にもブルス家の方が上だし。いやもちろん家同士の為にもちゃんと結婚してうまくやっていくつもりだけど、ほら、貴族の結婚は個人の感情とかじゃないし、クリスティーナとは長い付き合いだから今更女として見られないっていうか家族みたいなものだし、向こうは俺を慕ってるから無碍にしたら可哀そうだし」
トーマスはその後もごにょごにょと早口でまくし立てていたようだが、まるで素通りするようにクリスティーナの耳には入ってこなかった。
うるさく音を立てる心臓を抑えるように胸元でギュッと手を握り、クリスティーナはトーマスに気づかれないように注意しながら、そっとその場を離れた。
トーマスと婚約したのは五年前。元々父親同士に交流があり、ブルス家とダールマン家は家族ぐるみでの付き合いがあった。長年気安い関係であったこともあり、年頃になると自然な流れのようにクリスティーナとトーマスの婚約が決まったのだ。
クリスティーナには、トーマスに対する恋心というものはない。しかし幼い頃からの長い付き合いもあり、親しみは持っている。貴族の娘としてトーマスの妻となる心構えもきちんとある。この婚約自体に否やはなかった。
けれど。
――『クリスティーナと結婚するくらいなら、豚と結婚した方がマシだ』
トーマスはそうではなかったようだ。
確かに、昔からトーマスはクリスティーナに対して冷たかった。可愛いリボンをつけていれば『虫みたい』だと評し、着飾れば『似合わない』と鼻を鳴らす。婚約してからも、隣のトーマスを見上げれば『こ、こっち見んな』としどろもどろにそっぽを向いてしまう。そのたびにクリスティーナはどうしてトーマスに冷たい態度を取られてしまうのだろうと首を傾げたものだったが、トーマスがクリスティーナを嫌っていたのなら当然の反応だったのかもしれない。
とはいえ、まさか豚の方がマシだと言われてしまうほど嫌われているとは思わなかったけれど。
急いでカフェを出たクリスティーナは、うるさく鳴る心臓に急き立てられるように乗合馬車を拾い、自宅へと戻った。
急な帰宅に目を丸くしたメイドを曖昧な笑みで躱し、駆け込んだ自室でほうっと息を吐く。
トーマスの本心を知ってしまった今、クリスティーナは考えなくてはならない。今までのこと、そしてこれからのことを。
――『妻とは夫に従うものです』
クリスティーナに淑女のなんたるかを教えてくれた家庭教師は、そう言っていた。
クリスティーナはまだ妻ではないけれど、婚約者だ。あと一か月でトーマスの妻になる身だ。つまり、暫定『妻』とするならば、やはり夫であるトーマスに従うべきである。
トーマスは『クリスティーナと結婚するくらいなら、豚と結婚した方がマシだ』と言っていた。つまり、トーマスはクリスティーナよりも豚と結婚したいと思っているということになる。
そして、クリスティーナのことは『女として見られない』とも言っていた。
「なんてこと……!」
二つの言葉が表す事実に気づき、クリスティーナははっと口元を押さえる。
「トーマス様の恋愛対象は………………豚なのね……!」
思い返してみれば、符合する出来事はあった。
昔から、トーマスはパーティーや会食で豚肉を食べない。牛肉は好んで食べているので、肉が嫌いというわけではない。だが豚肉は食べないのだ。
クリスティーナは単純に「トーマス様は豚肉がお嫌いなのね」と思っていたのだけれど、今なら分かる。
トーマスにとっての恋愛対象である豚を食べるなんて、そんなことできるはずがなかったのだ!
なんということだ。パーティーや会食で豚肉料理が提供される度、トーマスはどれほど胸を痛めていたことだろう。彼の目の前の皿に鎮座するのは、彼の愛しい豚だったもの。それを彼の周りの人間たちは美味しい美味しいと食している――それはなんとおぞましい光景だろうか。
自身もまたトーマスの隣で豚料理を平らげていたことを思い出し、クリスティーナは強い後悔の念に襲われた。きっと彼は「愛しい豚を食べないでくれ!」と訴えることもできず、まるで地獄のような時間を必死に耐えていたに違いない。
いずれ妻になるはずのクリスティーナは、本来ならそれに気づかなければならなかったのだ。それなのに愛しい豚を次々胃におさめていくクリスティーナは、トーマスの目にはまるで悪魔のように映ったに違いなかった。そんなクリスティーナがこのまま結婚してトーマスの妻として生きていくことができるだろうか、いや、できるわけがない。
――『殿方には様々な愛の形がございます。時には、妻はそれを受け入れることも必要なのです』
クリスティーナに男女の機微についても教えてくれた家庭教師は、そうも言っていた。
当時は言葉の意味がよく分からなかったクリスティーナだったが、ようやく理解した。人間よりも豚に愛を抱く――そんな愛の形もあるのだ。それは険しく厳しい道だろうけれど、きっと愛する心は止められないのだろう。
トーマスに対して恋心はないけれど、親愛の情はある。クリスティーナに対して意地悪なトーマスだけれど、間違っても苦しんで欲しいなどとは思わない。
婚約者として今のクリスティーナにできることは――。
クリスティーナは自室を出て、決意を込めた足取りで父の書斎へ向かった。
◇◇◇
雲一つなく晴れ渡った空。まるで世界がこの結婚を祝福しているようだ、とトーマスは思った。
トーマスはいよいよやってきた結婚式当日を、実に誇らしい気分で迎えていた。そわそわと落ち着かないお尻をもぞもぞと動かし、着慣れない式典用の礼服に身を包んだ体を控室のソファに沈める。
新郎の準備は、新婦のそれに比べれば簡素だ。いつもより丁寧に磨き上げられてはいるが予定より早く身支度を終えたトーマスは、新婦の訪れを今か今かと待っていた。
この一か月、結婚式の準備が忙しいということでクリスティーナとは全く会えていなかった。寂しさはあったが、これも結婚式までの我慢だ。焦がれる気持ちを宥め、結婚式を指折り数えた日々だった。
そしてついに今日。幼い頃から思いを寄せていたクリスティーナと結婚式を挙げることができる。
クリスティーナは幼い頃からそれはそれは可愛らしかった。くるんとした好奇心の溢れる瞳。艶やかなまっすぐの髪。白く透き通る肌。そして屈託なく向けられる無垢な笑顔。そのどれも、トーマスの心を掴んで離さなかった。
けれど、その好意を素直に示すことはできなかった。クリスティーナのことが好きすぎて、顔を合わせればついつい悪態をついてしまったり冷たい対応をしてしまうのだ。それどころか、友人にクリスティーナとのことを揶揄されれば、つい「好きで結婚するわけじゃない」とか「豚と結婚する方がマシだ」とかひねくれたことばかり言ってしまう。
そのたびに後悔するのだが、なかなか素直になれないこの口は、クリスティーナへの好意を表に出してくれない。
しかしそれも今日で終わりにするつもりだ。これからはクリスティーナにたくさんの愛を囁き、自分との結婚を幸福なものだと思ってもらえるように努力しようと思っている。
だって自分たちは今日この日をもって晴れて夫婦となるのだから。
夫婦。なんて甘美な響きだ。
うっとりとその言葉を噛み締めているとまた落ち着かなくなってきて、トーマスは意味もなくソファの上でもぞもぞと身じろぎをする。
同じく控室で新婦とその両親であるブルス夫妻を待つダールマン夫妻も、期待と緊張で頬を紅潮させるトーマスを微笑ましそうに見守っていた。
新婦の身支度が済めば、この控室で両家で合流する。そして結婚式の会場である教会へ向かう段取りになっている。
そろそろ予定の時刻になるな、とダールマン伯爵が懐中時計を確認したその時、控室の扉が外側からノックされた。
トーマスの体がびくりと跳ね、その勢いのままばね仕掛けの人形のように勢いよく立ち上がる。
「は、はい!」
上擦る声で応答すると、控室の重厚なウォールナットの扉が開かれた。
「やあ、トーマス君。待たせてしまってすまない。新婦の支度に時間がかかってしまってね」
まず入ってきたのは、クリスティーナの父であるブルス伯爵。張り付けたような完璧な笑顔でにこにことトーマスを見る。
「いいえ、新婦の支度には時間がかかるものですから。それでその、クリスティーナは……」
期待を隠しきれない瞳ではしたなくブルス伯爵の背後を覗き込もうとするトーマスだったが、ブルス伯爵はさりげなくその視線を遮るように立ち位置を変えた。
「そんなに逸るものではないよ、トーマス君。君の花嫁は準備万端だ」
その言葉にトーマスの瞳はますます期待で煌めく。花嫁衣裳で着飾ったクリスティーナはどれほど美しいことだろうか。早くその姿を目に収めたくて、思わずごくりと唾を飲む。
じっくりとその様子を観察するように見たブルス伯爵が、もったいぶるように背後の扉へ向かって声をかけた。
「さぁ、入っておいで。君の花婿がお待ちかねだ」
ついに、トーマスの待ちに待った花嫁がやってくる。
そうして、ブルス伯爵と同じように張り付けたような完璧な笑顔の夫人に白いヴェールを持ち上げられながらしずしずと控室に入ってきたのは、真っ白な花嫁衣裳を身に纏った、くるりとしたつぶらな瞳に艶やかな黒い毛並みの、豚だった。
豚。
……豚。
…………豚?
「…………え?」
「…………ん?」
トーマスだけでなく、ダールマン伯爵夫妻もぽかんと口を開ける。わけがわからない、その瞳は雄弁にそれを物語っていた。
「ええと、ブルス伯爵。これは一体……?」
伊達に伯爵を名乗っているわけではないダールマン伯爵が、ごほんと咳払いをしてブルス伯爵に向かって首を傾げる。その顔は笑顔ながら引きつっている。
「何をおっしゃる。どこからどう見ても花嫁でしょう?」
「……は?」
ますますわけがわからず、ダールマン伯爵はからかわれているのかとわずかに表情に怒りを滲ませた。
しかしブルス伯爵は焦る様子もなく、わざとらしく首を傾げた。
「いやいやなんとも……豚を花嫁に望んだのは、トーマス君、君じゃあないか」
「へぁ?」
突然矛先を向けられ、固まっていたトーマスが間抜けな声を漏らす。
「俺が望んだ……?」
「なんでも、『クリスティーナと結婚するくらいなら、豚と結婚した方がマシだ』と言っていたそうじゃないか」
「あ、いや、それは」
「ああ、言い訳はいらないよ。君がそう言っていたという証言はきちんと得ているからね。優しいクリスティーナは、君は人間より豚と結婚したがっていると思ったようだ。君の幸せの為に、どうにか豚と結婚させてあげる方法はないかと相談されたよ」
「はい!?」
「いやあ、さすがに豚との婚姻を整えるのはなかなか大変だったよ。しかし安心したまえ。この豚は、ブルス家の所有する牧場で丹念に育てられた最高級の黒豚だ。きちんとブルス家の養女として正式に認められているからね。この婚姻によってダールマン家とブルス家に不利益が生じることはないよ。さあ、君が待ち構えていた花嫁――最高級黒豚『ティナ』だ。大事にしてやってくれ」
そう言ってトーマスにぽんと手渡されたのは、結婚の為の書類一式だ。ちらりと目をやれば、新婦の部分には『ティナ』と記されている。クリスティーナとティナ。名前は似ているかもしれないが、その実態は似ても似つかない。そもそも生物としての種族自体違う。哺乳類であるという点しか共通するものはない。
呆然としているトーマスを押しやり、ダールマン伯爵が「ブルス伯爵!」と抗議の声をあげた。
「これは一体どういうことです! こんな話、ダールマン家として受け入れるわけにはいきません!」
「受け入れるわけにいかないと言われましても。既に経緯は証拠書類や嘆願書を添えて貴族院に通達し終えて承認を受けていますからなあ。今更婚姻を反故にすることは不可能ではありませんかな」
「なんですと……!?」
この国の貴族の婚姻は貴族院によって管理されている。その貴族院に正式に承認されてしまっていては、白紙撤回することは難しい。たとえ相手が豚であっても。
つまり、なんであれ今日のところはおとなしく豚との結婚式を挙げるしかないのだ。
ぐうの音も出ないとはこのことだった。手も足も出せずに歯ぎしりするしかない。
怒らせると怖い――それがブルス伯爵だ。長い付き合いでそれをよく知っているダールマン伯爵は、どんなに不本意であっても、事態を受け入れるしかなかった。
「……トーマス。式の時間だ。この豚……いや、『ティナ』を花嫁として式を敢行しろ」
「どうしてですか! 俺はクリスティーナと結婚するんです!」
「それをみすみす手放すようなことをしたのはお前だろう!」
「そんな……!」
父であるダールマン伯爵の決定に、トーマスは絶望に顔を歪める。
そんな二人とは裏腹にブルス伯爵は「はっはっは」と朗らかな笑い声をあげた。
「納得していただけたようで何よりです。トーマス君も嬉しいだろう? 君の望んだ花嫁を手に入れることができて。なにせ君にとってクリスティーナは豚以下のようだからね。私としても、君の恋を応援しているんだよ。これからも親族として仲良くやっていこうじゃないか。ああそうそう、クリスティーナから伝言だ。どうぞ末永くお幸せに、だそうだよ」
それまでまるで事の成り行きを見守るように行儀よくしていたティナが、自身の伴侶が決定したことを喜ぶように「ぷぎっ」と一声、高らかに鳴いた。
この日、教会の鐘の音が鳴り響く空の下、晴れてダールマン伯爵家のトーマスとブルス伯爵家のティナは夫婦となったのだった――。
◇◇◇
ふと遠くで鐘の音が聞こえたような気がして、クリスティーナは刺繍の手を止めて窓の外に目をやった。外は快晴。どこまでも続いていそうな青空が広がっている。
ブルス伯爵家の別荘の一つである邸の一室。クリスティーナは三日前にこの別荘に到着し、それまでの慌ただしい日々の疲れを癒すようにゆったりと過ごしていた。
部屋に置かれた時計を確認する。今頃、丁度王都ではトーマスとティナの結婚式が行われているはずだ。
「……トーマス様、喜んでくださったかしら」
トーマスの本心を知ったあの日、決意を込めた足取りで向かった父の書斎で、クリスティーナは父に願い出た。トーマスを彼が愛する豚と結婚させてあげてほしい、と。
娘からの唐突な願いに最初は目を白黒させていたブルス伯爵だったが、クリスティーナがその日の出来事とそこから導き出した答えを告げるうちに、血管が浮き出るほど強く握った拳を震わせ始めた。彼もまた、トーマスが抱く障害の多い恋に強く胸を打たれたようだ。
人と豚の結婚。それは普通に考えれば決して叶わないものだ。けれど妻となる予定だったクリスティーナ本人がそれを望み、貴族院への顔も立つブルス伯爵が尽力すれば不可能ではないはずだ。
そう強く訴えたクリスティーナに、感激に打ち震えるブルス伯爵は全面的に協力することを約束してくれた。
そこからは忙しかった。
ブルス伯爵はトーマスの発言の裏付けを取る為にトーマスの友人たちから証言を得て、それを元にトーマスとクリスティーナの婚約の解消、そしてこれから養女として迎える豚との結婚誓約書の作成に奔走した。
その間、クリスティーナはトーマスの抱える辛い恋への憐憫と彼に幸福を手に入れる権利を与えて欲しいと記した嘆願書の作成に勤しんだ。
それと並行し、ブルス伯爵家の所有する牧場へ赴き、トーマスの妻に相応しい豚を選んだ。豚をこよなく愛するトーマスの妻となるのだから、やはり最高級の豚が相応しいだろう。ブルス伯爵や牧場主とも相談し、最高級の黒豚の一頭を選び出し、『ティナ』と名づけた。
『ティナ』という名前にしたのは、ブルス伯爵からの助言を受けたからだ。クリスティーナと似た名前の方が、結婚関連の書類を作り変える際にスムーズに事が運ぶらしい。クリスティーナにはそのあたりのことはよく分からなかったが、父がそう言うなら間違いない。自分に似た名前をつけるのは少し気恥ずかしかったが、これもトーマスの恋の成就に必要なことだ。思い切って『ティナ』と名づけた黒豚は、つぶらな瞳でクリスティーナを見上げて「ぷぎ?」と鳴いていた。
ティナの為のウエディングドレスも超特急で作らなくてはならない。元々準備していたクリスティーナのウエディングドレスのデザインを参考に、ティナの体に合わせたデザインに変更する。針子たちには報酬を上乗せして、時間がないながらも最高の仕上がりにしてもらうことができた。ドレスを着たティナはとっても愛らしいに違いない。きっとトーマスも喜んでくれるだろう。
全ての準備を終えると、クリスティーナは王都を出た。
クリスティーナ自身も結婚式に参列してトーマスとティナを祝福することも考えたが、ブルス伯爵から反対された。きっと式場にクリスティーナがいるとトーマスも参列者も混乱してしまうだろうから、その前に王都を出て別荘でのんびりしてはどうか、と。
なるほど、確かにそれもそうだ。
クリスティーナは納得しているしトーマスとティナの門出を心の底から祝っているが、周りから見れば、トーマスはクリスティーナを捨ててティナを選んだ不誠実な男に見えてしまう可能性もある。二人の門出の邪魔をしてはいけない。
父からの助言の通り、クリスティーナは別荘にやって来ることに決めたのだった。
「お嬢様、お茶が入りました」
ぼんやりと窓の外に広がる空を見ていたクリスティーナは、別荘に勤める侍女の声に物思いから現実に戻ってきた。
気が付けば室内に芳醇な紅茶の香りが漂っている。クリスティーナの好きな銘柄の香りだ。
「ありがとう、いただくわ」
トーマスとクリスティーナの道は別たれた。けれどこれで良かったと思う。
互いに恋情のない関係だったのだ。きっとあのまま結婚してもぎくしゃくしてしまう未来が待っていたに違いない。
これまでクリスティーナには恋というものがよくわかっていなかった。だからきっとトーマスとも夫婦としてそれなりにうまくやっていけるのではないかと思っていた。
だけど、違うのだ。もちろん貴族だから愛のない結婚をする夫婦はたくさんいるし、それでもうまくやっていける人たちもいる。けれど、豚に恋するトーマスと恋がわからないクリスティーナでは、足並みを揃えることはきっとできない。それは不幸を招くだけだ。
トーマスとの結婚が白紙になった以上、クリスティーナは別の結婚相手を探さなくてはならない。父であるブルス伯爵が良い相手を見つけてくれると言っていたけれど、クリスティーナは、できれば今度は恋心を抱ける相手であれば良いと思っている。
トーマスが豚を愛するように、その存在の全てを愛しく思えるような、そんな相手。
恋に恋するというのはこういうことなのかもしれない。けれどその想像は、どこか心を浮き足立たせるものだった。
クリスティーナはなんだかおかしくなって、ふふっと笑みをこぼした。
手元の刺しかけの刺繍に目を落とすと、刺繍枠の真ん中でつぶらな瞳の愛らしい黒豚が今にも鳴き出しそうにこちらを見つめ返していた。




