左腕に十九の聖痕を持つ聖女 〜ただの蚊刺されです〜
「……で?」
真っ白な神域で、神は引きつった笑みを浮かべていた。
「どのような奇跡をお望みでしょうか、異世界より至りし愛しき子よ。魔王を打ち倒す聖剣か、あらゆる傷を癒やす神聖魔法か。どのような力を――」
「蚊を滅ぼす力を寄越せ」
「はい?」
「蚊を。この世から。一匹残らず絶滅させる権能を寄越せと言っている」
主人公――アラフィフの一般女性、アヤは神に向かって腕を突き出した。
正確には、左腕を。
そこには赤く腫れた痕が、点々と残されていた。
「……あの、お戯れを。生態系の一角を担う種を滅ぼすなど、いくら神とて世界の均衡が――」
「刺されたんだよ」
「は?」
「昨日の夜、異世界の森に放り出されてな。寝ている間、左腕だけ草むらから出てたんだよ。結果がこれだ」
アヤは左腕の腫れを指で数え始めた。
「一、二、三……十九」
「……十九?」
「十九箇所だぞ、神様」
左腕を突き出す。
「右腕は無傷! 脚も無傷! 顔も無傷! なのに左腕だけ集中的に十九箇所! 私の怒りが分かるか!? 痒いんだよ!! 絶滅させろ!!」
「数字の圧がすごい!!」
「十九!! 十九だぞ!! 蚊を殺せ!!」
「無理です!! 生態系が崩壊して、巡り巡って人類にも影響が出ます!!」
「じゃあ人を刺す奴だけ!!」
「そういう問題ではありません!!」
「十九!!!!」
「数字で追い詰めるのはやめなさい!!」
しばらく押し問答が続いた。
しかし神も、さすがに生物一種を消滅させる権能を渡すわけにはいかなかったらしい。
代わりに「生活を少し便利にする程度の雑多な魔法」をアヤへ押しつけると、逃げるように彼女を人里近くの村へ送り出した。
絶滅魔法が却下された。
ならば仕方がない。
自力でやる。
「おい、村長!!」
「は、はい!?」
「なんだ、この排水路は!」
アヤは村の中を流れる排水路を指差した。
泥や落ち葉が詰まり、ところどころに水が溜まっている。
「ボウフラの温床になってるじゃないか! 掃除! 今すぐ!」
「ぼ、ぼうふら?」
「蚊の子供だよ!!」
「蚊に子供が!?」
「そこからか!!」
どうやらこの世界では、蚊がどこで増えるのかすら広く知られていないらしい。
アヤは頭を抱えた。
「いいか! 水を溜めっぱなしにするな! 雨水桶には蓋! 排水路は定期的に掃除! 池には魚!」
「聖女様……」
「誰が聖女だ」
「これはもしや、疫病を撒き散らす悪魔の眷属を、その発生源から断つ秘術なのでは……?」
「蚊を減らしたいだけだよ!!」
村長の目が輝いた。
「なんという先見の明……!」
「話を聞け!」
こうして村を巻き込んだ、アヤの蚊殲滅作戦が始まった。
細かいことは省く。
蚊帳を作った。
網戸も作った。
虫が嫌う草を使った防虫香も作った。
排水路を掃除し、水溜まりを減らし、雨水を溜める容器には蓋をさせた。
とにかく蚊が増えにくく、家へ入りにくく、人を刺しにくい環境を作った。
「いいか! 扉を開けっぱなしにするな! 寝る時は蚊帳! 水を溜めっぱなしにするな!」
「はい、聖女様!」
「聖女じゃない!」
「はい、聖女様!」
「聞けよ!!」
だが。
結果は出た。
蚊が減った。
そして、それまで暑い季節になると村で流行していた原因不明の熱病も、目に見えて減った。
「聖女様! 今年は熱病で寝込む者がほとんどおりません!」
「そりゃ良かった」
「隣町から蚊帳の作り方を教えてほしいと!」
「教えてやれ」
「領主様から排水路の整備方法を聞きたいと!」
「教えてやれ」
「王都から使者が!」
「何でだよ」
蚊帳は隣町へ。
網戸は領都へ。
排水路の整備法は王都へ。
防虫香は商人の手によって国境を越えた。
数年後。
各地で夏になるたび猛威を振るっていた熱病の患者数は、大きく減少した。
働ける人間が増えた。
子供の死亡率も下がった。
兵士も農民も病に倒れにくくなった。
国力まで上がった。
「聖女様!」
「違う」
「あなたは世界を救ったのです!」
「蚊を減らしたかっただけ」
「その深き慈愛に感謝を!」
「自分が二度と刺されたくなかっただけだよ!!」
誰も聞いていなかった。
アヤの動機は最初から最後まで一つ。
左腕を十九箇所も刺された。
腹が立った。
ただ、それだけだった。
――数百年後。
大陸中央の広場には、一体の銅像が立っていた。
凜と前を見据える女性。
その左腕には、小さな丸い印が刻まれている。
一つ。
二つ。
全部で十九。
二人の歴史学者が、その像を見上げていた。
「見なさい。これこそが歴史上最大の衛生革命を起こし、数え切れぬ民を熱病から救った『聖女アヤ』の御姿だ」
「素晴らしい……」
若い学者が銅像へ近付いた。
「あっ、先生。左腕をご覧ください。小さな印が十九個あります」
「ふむ」
年嵩の学者が深く頷く。
「『十九の聖痕』だな」
「これが……!」
「古文書によれば、聖女様は異世界へ降臨した最初の夜、左腕に『赤く腫れ、耐え難き苦痛を伴う十九の痕』を受けられたという」
若い学者が息を呑む。
「十九もの苦痛を……」
「ああ。そして左腕であることにも意味がある」
「まさか」
「左は心臓に近い側」
年嵩の学者は胸へ手を当てた。
「つまり聖女様は、人類が背負うべき十九の災厄と病の苦しみを、その身に引き受けられたのだ」
「なんという深い慈愛……!」
二人は銅像へ頭を下げた。
「だからこそ、我ら聖痕教団では左腕を胸に当てて祈るのですね」
「左様」
年嵩の学者は満足そうに頷いた。
「そして明日は年に一度の聖痕祭」
「はい!」
「聖女様への感謝を込め、左腕に十九の赤い印を描き、祈りを捧げよう」
「はい!」
二人は左腕を胸に当てた。
深く。
深く。
頭を下げる。
その光景を。
天界のモニターから見ている者がいた。
「……」
アヤだった。
こめかみに青筋が浮かんでいる。
「だから」
拳が震える。
「蚊に刺されただけだって言ってんだろ!!!!」
隣にいた神が肩を跳ねさせた。
「聖女様、お鎮まりください」
「誰が聖女だ!! あと聖痕祭ってなんだよ! なんで蚊に刺された日が祭りになってんだよ!」
「しかし、人々にとっては大切な――」
「銅像の左腕をぶつぶつにするな!!」
「忠実な再現を――」
「いらん!!」
アヤはモニターを指差した。
「宗教画もだ! なんで左腕だけ神々しく光ってんだよ!」
「十九の聖痕から放たれる慈愛の光を表現したものかと」
「掻きすぎて赤くなってただけだよ!!」
「ですが、聖女様のおかげで世界は平和に――」
「だから私は!」
アヤは左腕を擦った。
とっくの昔に腫れなど消えている。
なのに十九個の赤い印を見ていたら、なんとなく痒くなってきた。
「あああああ!! 思い出したら痒くなってきた!!」
「聖女様?」
「蚊だっつってんだろ!!」
数百年後も。
後世の人々は知らない。
大陸史上最大の衛生革命。
十九の聖痕。
聖女の慈愛。
その始まりが。
ただの――。
「十九箇所は刺しすぎだろうがぁぁぁぁ!!!!」
――蚊への私怨だったことを。
他サイトにも掲載しました。




