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薄紅

作者: 中原純軽
掲載日:2026/04/11

「僕」の体験談。

短編ホラーです。

 僕には一人の友人がいた。

 彼はショウゴといった。

 彼と出会ったのは、ある春の日のことだった。

 朝夕にはまだ薄ら寒さが残る三月の下旬の頃だった。

 僕は今でも良く覚えている。

 僕が転がり込むようにこの部屋に引っ越してきた、その頃の出来事だ。

 まだ開かれていない段ボールが積み上げれられている部屋から出ると、彼も隣の部屋からちょうど出てくるところだった。

「おはようございます」

 と、どちらからともなく会釈をする。

「あ……この前引っ越しされてきた方ですか?」

 彼は「線」を踏み越えないように、言葉の端々がほんの少しだけ何かの力によって引き延ばされているような声で、遠慮がちに僕に聞いた。

 僕は、そうです、と答えた。

 あいにく僕は、遠慮や一線を引くなどという、思慮深さとでも言うべき知性を備えていなかったので、何も考えていないような大きな声で挨拶をしたのだった。

「クサマと言います。これからよろしくお願いします」

 僕が笑うと、彼も控えめに笑顔を見せた。

「……こちらこそ。何かあったら聞いてください」

 目がなくなる種類の笑い方だった。

 ショウゴという名前を知ったのは、それからしばらく経ったある日のことだった。


 僕がこの部屋に決めたのは、全くの偶然だった。

 東京の美術大学に受かった僕は、大学に近いアパートを探していた。

 僕の家は貧しかったので、家賃の安い部屋が最有力候補だった。

 僕が町の不動産を訪ねると、真面目そうな担当者は首を振った。

 これ以上安い部屋はそうそうないですよ。

 そこを何とかと、僕は実家での貧困自慢を交えながら粘ると、彼は折れて、ある部屋を紹介してくれた。

 本当は紹介したくないのですが……。

 そう言って彼は、僕の通うことになる大学にほど近い、一軒のアパートを紹介してくれた。

 そこはその近辺の部屋より、二万円も安かった。

 ここにします。

 僕がそう言うと、彼は言った。

 この部屋は心理的瑕疵物件ですが大丈夫ですか?

 聞きなれない言葉に僕は聞き返す。

 要するに事故物件というわけです。

 過去にここで人が亡くなっています。

 彼の言葉に、僕は笑顔で言葉を返す。

 そういうの信じていませんから。

 僕は幽霊という存在を信じていない。

 生まれて今まで見たこともない。

 目に見えないものは「ない」のと同じことだ。

 本当に大丈夫ですか?

 不安そうに念を押す担当者をねじ伏せて、僕は二つ返事で契約をした。

 僕自身にはまずお金もないし、親にも迷惑を極力かけたくなかった思いもあった。

 安く住めるのであれば、僕にとってそれは何よりも嬉しいことであった。


 しかしながら人間とは矛盾を抱えた生き物である。

 僕はそれからの日々、画材と、近所のスーパーマーケットで特売日に大量に買い込んだ安い酒を家に運び込むと、毎夜のように飲み明かした。

 うまく眠ることができなかったのだ。

 東京の友人も少しはできたが、僕は大体は一人で飲んだ。

 買ってきた画集を眺めながら、前後不覚になるまで飲み続けるのが常だった。

 酩酊した頭は、何もかもを「二重」に見せた。

 僕が見る世界は、そのすぐ後ろに違う世界を隠していた。

 画集の女は、極彩色の影をその身に纏っていたし、黒い線の後ろには黄色い線が隠されていたし、赤い線の後ろには青色の線が隠されていた。

 僕は白紙にその景色を正確に写し取ると、一つひとつ丁寧に吟味した。

 これを大学の課題で使おうと僕は本気で思っていた。

 大学の授業と長時間のアルバイト生活からの逃避行で始めた遊びだったが、僕はいつしかこちらこそが本物ではないか、などという妄想に取り憑かれていたのだ。

 ある程度描き写したところで、僕はふと外に出たくなった。

 僕は酒の入った缶を片手に玄関を出る。

 僕がこの部屋に決めたもう一つの理由が、僕の顔にはらはらと落ちてきた。

 綺麗な夜桜だ。

 薄紅色の桜の花を咲かせた木々が、街灯に照らされている。

 この近辺は都内でも有名な桜の名所だった。

 小さな川沿いに、ずっと向こうまで植えられた桜の木。

 その桜街道とでも言うべき通りに、このアパートは建てられていた。

 僕は玄関の前の塀にもたれかかって、視界いっぱいに咲き誇る桜を見上げた。

 冷ややかさを帯びた風が、ほてった体を心地よくなでて、空へ帰っていく。

 僕が桜を酒の当てにして、この夜を楽しんでいると、隣でがちゃりと、鍵が開く音がした。

 隣の部屋から彼が出てきた。

「……あれ、こんにちは」

 彼は桜を見上げている僕を見ると、軽く頭を下げた。

「晩酌中ですか?」

 そんなところ。

 そう僕は言って、酒の入った缶を振る。

「君も飲む? 家にまだいっぱいあるんだ。安酒だけどね」

 彼は笑った。

「いえ、俺は酒は弱いもので。気持ちだけ受け取っておきます」

 彼は首を横に振りながら、僕の隣まで来た。

「しかし、気持ちは分かります。これは酒を飲まないともったいない」

「そうだろう? 金もかからないし最高だ」

 僕は底の方に残っていた酒を飲み干す。

 そして酒を持っていない方の手で、小さな丸を形作ると、僕はまるでカメラのファインダーでも覗き込むようにして桜を見た。

 お手製のカメラの中で、桜は滲み、僕に新しい姿を見せた。

 その薄紅色に重なるように、極彩色の層が現れた。

 黒い下地、薄紅、黄色、赤色、緑色、何か。

「何か見つかりましたか?」

 彼が僕に尋ねた。

「違う世界だよ」

 僕は芸術家にでもなった気分で、怪しい呂律で彼に返事をする。

「僕には見えるんだ。隠された世界がね」

 そう言って彼へ顔を向ける。

「違う世界……。なるほど」

 彼は考え込むように俯くと、手で顎を触った。

「実は俺にも見えるんですよ」

 彼は顔を上げて僕の方を見る。

 どことなく遠くの方を見ているような、焦点の合っていない彼の目を見て、

「ねえ、君も実は飲んでいるんじゃないか?」

 と僕は笑って言った。

「……いえ、酒は苦手ですから」

 あはは、と目を細めて彼は笑った。

 彼には薄紅色の影がぴったりとくっついていた。

「でも誰かと話すのは好きです。良ければもう少し会話に付き合ってもらえませんか?」

「ああ、何だって良いよ。そうだ、この道を散歩でもする?」

 風に吹かれながら夜桜を見るのは、中々に気持ち良さそうだ。

「良いですね。行きましょうか」

 僕と彼は連れ立って、夜の桜街道へ繰り出した。


 その川沿いの土手で遺体が見つかったのはそれから数年後のことだった。

 全てが腐敗し切って、男の骨だけが残されていた。

 僕はそのことを今朝の朝刊で知った。

 その住所には見覚えがあった。

 僕の住んでいたアパートの目の前の、あの道だった。

 大学を卒業した僕は、あのアパートを引っ越し、違う街で暮らしていた。

 出社する前のわずかな朝の時間、僕の右手はふと動きを止めた。

 行き場を失ったコーヒーカップがいつまでも宙に取り残された。

 僕の視線はその写真から離れることができなかった。

 フクシマショウゴ。

 その男の写真の下には、そう書かれていた。

 隣に住んでいた、あの男だ。

 彼はあの後、亡くなっていたのか。

 僕は深い悲しみに襲われた。

 僅かな時間だったけれど、僕は確かにそこに友情を感じていたのだ。

 目のなくなるような優しい笑い方をする男。

 僕はあの頃、きっと彼に助けられていたのだ。

 僕は記事を読み進める。

 被害者が亡くなったのは二十年以上前と推測されており……。

 二十年以上前……。

 背筋を何か冷たいものが流れていった。

 二十年以上前に亡くなっている?

 僕と彼が過ごしていた時間。

 あの時すでに彼は亡くなっていたとしたら、彼は一体何者だったのだ。

 僕は激しい眩暈に襲われた。

 ふとあの真面目な担当者の言葉が頭に浮かんでくる。

「要するに事故物件というわけです」

 あの部屋では「何も起こらなかった」けれど、僕は毎日得体の知れない何かに会っていたというのか……。

 僕は目を閉じる。

 瞼の裏には、あの日の桜が咲いている。

 まるで違う世界に迷い込んだかのような薄紅色の世界。

 黒い下地、薄紅、黄色、赤色、緑色。

 何か。

 どこかを見つめる彼。

 しかし、不思議と怖さは感じなかった。

 ショウゴ。

 彼は確かに僕の友人だった。

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