第一章 遺骸の泥炭地と致死量の祝杯
舞台は魔法と科学が交差する、泥と血に塗れた実力主義の箱庭。
あらゆる異能が飛び交う中、一切の能力を持たない主人公が『ただの物理』で理不尽をねじ伏せる強さを目指しました。
第一章 遺骸の泥炭地と致死量の祝杯
コロセオでの入学式という名の残酷な洗礼から一夜が明け──クロスノード学院の、真のカリキュラムが牙を剥いた。
初日の午後。戦闘科教員たるイザベラが新入生たちを引率したのは、学院の地下深く、厳重な防壁と幾重もの封印指定区画を抜けた先に広がる大分断戦争・激戦区の跡地だった。
そこは、数十年前に魔法と科学の両陣営が文字通り数百万の命をすり潰し合い、死体と呪詛が泥濘と化したままコンクリートで無造作に蓋をされた『巨大な墓標』。今も未起爆の熱核地雷が眠り、死肉を啜って繁殖した旧世代キメラや、倫理規定を無視して造られた自律防衛兵器の成れの果てが蠢く、本物の地獄である。
「初日の課題は『資源回収』よ」
イザベラは、血と泥と鉄サビ、そして腐敗臭が充満する暗底を見下ろし、ピンヒールを鳴らした。赤い唇の端だけをわずかに持ち上げ、その声を新入生たちのうなじへ這わせるように冷酷に告げた。
「この区画に放置されている過去の遺物から、有益なコアを這ってでも持ち帰りなさい。ああ、別に他人の死体から剥ぎ取っても構わないわ。ただし『手ぶらで帰還した者』は、本日の出席点をゼロとする。這い上がる意思のない無能に割く時間は学院にはないわ。また、『途中で死んだ者』の所有権は直ちに学院へと移る。来週の『生体呪詛融合学』の授業に使う『素材』が不足しているから、死体すらも有効活用させてもらうわね」
それは過酷な生存競争であると同時に、敗者の屍や尊厳すらも再利用する公然の実験場だった。
下位の一般生──その多くは、最高峰の教育環境での大成や成り上がりを夢見て、自らの意志でこの名門校の門を叩いた中流階級の秀才やスラムの出身者たちだ──が、思い描いていた華やかな学び舎とは程遠い絶望に顔を引きつらせ、震える足で泥炭地へと降りていく。
そして、すぐに阿鼻叫喚が始まった。
足を踏み外せば過去の呪咀地雷で肉片になり、旧型キメラに生きたまま腸を貪り食われる。スラム出身の強者すら、肩口や脚部の人工筋肉フレームが剥き出しになったジャンク品の『軽装外骨格』を駆動させ、泥水をすすりながら分厚い複合装甲銃を構えて即席の陣地を死守する有様だった。
他の生徒たちも必死だ。出資元の企業が『私兵』として養成したのか、全身を漆黒の重装甲服とフルフェイスの防弾バイザーで隙なく覆い、身の丈ほどもある巨大で無骨な電磁ライフルを乱射してキメラの群れを面制圧する者。あるいは光学迷彩を起動して息を潜める者、致死性のナノ蟲を散布する地雷をばら撒いて迎撃陣を敷く者。さらには、神経を焼き切る覚悟の過剰なドーピング・アンプルを首筋に打ち込み、白目を剥きながら高周波ブレード一本で魔獣との近接戦闘に狂刃を振るう者──それぞれの出自と財力から持ち込んだ多彩な『魔法殺しの兵器』で、必死にこの地獄を這いずり回る。
絶望しているのは魔法陣営も同様だった。安価な触媒を限界まで酷使して炎の防壁を維持しようとする下級貴族の三男坊や、恐怖で嘔吐しながら自身の血液を代償に呪術の槍を編み出す者。さらには、毛皮を血に染めながら爪牙で旧型機械兵の装甲を強引に引き裂こうと咆哮する虎獣人の『亜人種』など──主義主張も種族も関係なく、ただ「生き残る」という一点において、泥まみれの無様な殺し合いを繰り広げている。
その混沌の中にあって、這い上がるための明確な牙を剥く者たちもいる。
「邪魔よ、吹き飛びなさいッ!!」
新興の巨大企業『黒鋼重工業』の本命として送り込まれた少女、黒鋼燐は、自身の義足に内蔵された大口径の重火器機構を展開し、群れなすキメラの頭部を次々と銃撃で容赦なく消し飛ばしていく。
さらにその後方では、象徴・契約型魔法の名門令嬢、灯花ミレーユが、冷徹な紫水晶の瞳で戦場を俯瞰していた。
「……等価交換がまるで合わないわね。最低のカリキュラムだわ」
彼女が虚空に指先を這わせた瞬間、高位の火の精霊との『契約』が即座に発動し、燐の死角へと迫っていた凶悪な呪咀兵器が、一瞬にして極大の炎陣に包まれ灰燼に帰した。
彼女たちのような推薦枠や上位の者たちだけではない。
戦線のあちこちで、本来なら敵対陣営であるはずの生徒たちが、この理不尽な死地を生き延びるために即席で背中を預け合っていた。
魔法側の生徒が編み出した「土の防護壁」の隙間から、科学側の生徒が携行型の多銃身重機関銃の銃身を突き出して弾幕を張り巡らせる。あるいは、水妖の精霊を喚んで魔獣の脚を泥濘に沈め、そこへ光学照準で狙いを澄ました対魔装甲弾が撃ち込まれる。
主義主張も種族もかなぐり捨て、互いの陣営の力すらも打算的に利用して、泥まみれになりながら彼らは必死に生存の道を切り開いていた。
だが。そんな血反吐を吐くような命のやり取りすら生温い悽惨な戦場において、完全に『別次元の静寂』に包まれている絶対的な存在たちがいた。
「特権階級」である。
彼らにとって、この忌まわしい墓標も、泥に塗れて肉を削られている一般生たちも、ただの「風景」でしかなかった。
「……祖先たちが残した、見苦しい粗大ゴミですね」
ノア・アークライトは、足元の血だまりを忌々しそうに見下ろしながらタブレットを操作した。彼が「沈黙しろ」と呟いた瞬間、迫り来る旧時代の自律兵器(かつてアークライト家が乱造した代物)の深層コードが強制ハックされ、『自死プロトコル』を起動した数千体がただのスクラップへと還った。
「ええ。不出来で醜悪なキメラの腐臭で、気が狂いそうですわ」
久遠桜花は、純白のドレスの裾を白い脚が汚れぬ程度にだけ持ち上げ、手にした試験管を無造作に足元へと落とし割った。大気中に散布された「魔獣用に特化調整された遅効性の麻痺毒」が、かつて久遠の研究所が造り出した防衛兵器たちの心臓を、音もなく内部から麻痺させていく。
アルベルトは無言のまま、視線一つで「そこにある空間」をごっそりと虚数へと廃棄し、対人地雷ごと地面を抉り取って平坦で静謐な道だけを切り拓く。
シルヴィアは深い侮蔑とともにマナを解放し、戦場に染みついた亡霊の群れと怨念を、強制的に凪へと鎮圧した。
血生臭い悲鳴が響く泥沼の中で、トップ層の五人はいかに服を汚さないか、誰が一番エレガントにこの「ゴミ掃除」を終えるかだけを作業としてこなしていく。弱者の命が虫けらのように消費される現実への、狂気的なまでの無関心。
そんな中。地下の最深部を徘徊していた『対要塞殲滅型キメラ』が、膨大な熱量と怨念を撒き散らしながら、一人の少年に狙いを定めた。魔法と科学の最悪の悪魔合体。大戦期、貧困兵士の肉体を百人単位ですり潰して造られたという、無数の怨嗟の悲鳴を上げる巨大な肉塊のバケモノ。
監視カメラ越しの教員たちですら顔色を変える絶対的な『死』の突進。
だが、二条律は「魔法陣営だから」「科学側だから」というイデオロギーすら持たない。大義も、怨念も、大人たちの理不尽な搾取の歴史も。彼にとってはただの「少し硬い障害物」だ。
「……五月蝿いな」
一切の魔力を持たず、デバイスの駆動音も鳴らさない。
律はただ、神代の恩寵たる肉体だけで、戦車より巨大な肉塊のバケモノの渾身の突進を「片手」で受け止めた。
次の瞬間、彼は腰に佩いた太刀を抜く。煤けた銀の刀身はゆるやかに反り、くすんだ鉄の鍔と、黒糸で荒々しく巻かれた赤い柄、朱の下げ緒を備えた古風な拵えが、戦場の瘴気の中で異様なまでに静かな存在感を放った。
そして、一切の躊躇なく、その怪物を装甲ごと脳天から真正面に断ち割った。
地下区画全体が地震のように揺れ、純粋な運動エネルギーの暴風が戦場の跡地そのものを吹き飛ばした。そこにあるのは大戦への鎮魂でも何でもない、ただの「圧倒的暴力による作業の完了」。無数の悲鳴を上げていた肉塊は反撃の悲鳴を上げる間もなく、一撃で挽肉の山と化した。
──その絶対的で理不尽な蹂躙を、最上階の防弾ガラス越しにモニターで眺めていた生徒会長イライザは、歓喜と狂気の入り混じった笑い声を上げた。
「……見たかい、アーサー? 大陸を枯らした何百人分もの怨念の集合体を、息をするように太刀で真っ二つにした。これだから、あの連中は殺したくなるほど愛おしい。……特に、あの二条律は駄目だ。あれだけは、誰にも壊される前に、ぜひ私の手で味わい尽くしたい」
イライザはワイングラスの縁に唇を寄せ、血のような赤をひとくち舐め取ってから、副会長のアーサーに冷たい声で命じた。
「あの子たちが痛んで血を流しているのを見るのは、とても可哀想で胸が痛むけれど。あれらは別格だ。最高の毒になる。あの五人にだけ伝えなさい。『お遊戯の後は、私との晩餐会だ』とね」
そうして。凄惨な血と排泄物の匂いなど一切纏うことなく、涼しい顔で特権層が地下から戻ってきた夕刻。
特待生ラウンジや個室で寛ぐ彼らの元へ、五通の黒い封筒が届けられた。
密封された封蝋には、生徒会の紋章──交差する『歯車』と『杖』が刻印されている。
しかも、それとほとんど時を同じくして、別の招待状もまた上位寮の扉を叩いていた。
白紫の縁取りが施された上質な封筒。封蝋に刻まれているのは、生徒会の紋章ではなく、絡み合う荊と月桂樹の意匠だった。
差出人は『紫冠会』。学院内部で半ば公然と勢力を張る、魔法サイド保守派の上位貴族子弟たちの集まりである。四淵王宮や四大創源家ほどではないが、それに次ぐ家格と資金力を持つ名門たちが、古き盟約の残り香を纏ったまま、小さな王宮めいた派閥を築いていた。
文面は丁重だった。『今宵、同じく上位に連なる方々と親睦を深めたく、ささやかな茶会を設けました』──そう記されていたが、要するに「会長派とは別口で、誰がこちらへ取り込めるかを見極めたい」という露骨な腹探りだった。
最初の夜に、二つの招待が届く。
それだけで、この学院の権力図がどれほど歪で、どれほど落ち着きなく脈打っているかは十分すぎるほど伝わってきた。
「……随分と悪趣味な真似をする。先ほどの『掃討作業』の慰労会にしては、いささか血生臭すぎませんか」
最上階のVIPルームへと昇る専用エレベーターの中、ノア・アークライトは手元の黒い封筒を忌々しそうに弄りながら不満を漏らした。
「しかも、同じ時間に保守派の茶会まで寄越してくる。あの紫冠会も、ずいぶんと分かりやすい」
「ええ。あちらはあちらで、魔法位相の家格だけを寄せ集めて安心したいのでしょう。上位の真似事をする半端者らしい振る舞いですこと」
久遠桜花が、退屈そうに前髪を弄りながら冷笑する。
「ですが、本命はこちらでしょう。彼女の趣味が悪趣味なのは今に始まったことではありませんわ。魔法位相の『スラム』などという最底辺を這い回りながら、当時の特権階級たちを凄惨な決闘で次々とミンチにして、生徒会長の座を簒奪した怪物ですもの」
「もっとも、私が少々目を覆いたくなるのは、あのアーサー・グランチェスターの振る舞いですわ。四大創源家の直系ともあろう方が、よりにもよってスラムの出自を持つ者の麾下に収まっているだなんて、いささか趣味が悪すぎますもの」
「力で秩序を奪い取るのは一つの真理ですが、血統も恩寵も持たぬ有象無象が、我らの首輪を引こうとするのは不快ですね」
アルベルトがつぶやくように同意すると、隣のシルヴィアも優雅に扇を広げた。
「ええ。ですが、実力と結果は本物です。彼女が会長の座にある以上、あの狂犬アーサー・グランチェスターすらも飼い慣らされているのですから。律様はどう思われます?」
学院の頂点に君臨するバケモノたちについて問われた二条律は、エレベーターの壁に背を預けたまま、あくび混じりに返した。
「生徒会長本人には、さほど興味はない。だが、アーサー・グランチェスターをあそこまで従わせた方法には少し興味がある。」
ほどなくして、エレベーターの扉が開く。
彼らが案内されたのは、学院の最上階に位置するVIPルーム。全面を強固な防弾ガラスと魔力障壁で囲まれたその部屋は、ノアが真紅のソファーに腰掛けて見下ろした通り、眼下の中庭を一望できる『特等席』だった。
眼下の中庭では、泥炭地での「資源回収」から生還した一般層の生き残りたちが、無数の救護用無人ドローンと防護服スタッフの手によって、次々とストレッチャーに乗せられ搬送されていた。重傷を負ってうめき声を上げる者も四肢を失った者も、生きて帰還した以上は、科学と魔法の粋を集めた最高峰の医療設備によって完治が確約されている。一方で『物言わぬ体』になった者は、ただのゴミのように別のルートへと仕分けられていく。その生と死の明確すぎる残酷な境界線が、この学院のルールだった。
「それがこの学院のルールですわ。下層の無様なあえぎ声こそが、彼ら教員たちにとっての最高級のワインなのでしょう。趣味が悪いのは同意しますが、徹底した搾取のシステムとしては合理的ですわね」
シルヴィア・ルーセントが、わざと見せつけるようにゆっくりと脚を組み替えながら答える。エルフの姫君である彼女の周囲には、微小な精霊が蛍のように舞い、嫌な血の匂いを打ち消していた。
部屋に集められていたのは、科学位相の特権階級であるノアと久遠桜花。魔法位相を代表するアルベルトとシルヴィア。
そして──部屋の最奥の窓際に、背を預けて立っている二条律の五人だった。
地獄のような泥炭地から帰還した直後だというのに、彼らの制服には一滴の返り血も、泥跳ねすらも付着していない。
「──お待たせしてごめんなさい。この『狂った箱庭』の、真の主役たち」
重厚なマホガニーの扉が音もなく開き、真っ黒な外套を纏った女──生徒会長のイライザが姿を現した。長身で、肉感的な曲線を隠そうともしないその身体は、黒の内側でかえっていやらしいほど輪郭を主張している。彼女の後ろには、歩く軍事要塞と見紛うばかりの巨躯、副会長のアーサーが影のように付き従っていた。
「楽しいお遊戯 だったかな? 先人たちの無様な遺産処理、ご苦労様」
「会長。皮肉は不要かと。私たちをこのような極上の席へ招いたからには、単なる労いではないのでしょう?」
桜花が冷ややかな声で応じると、イライザは静かに、底の知れない笑みを浮かべた。
「ええ。けれど、その前に一つだけ聞いてもいいかな」
イライザは、わざとらしいほど穏やかな仕草で指先を重ねた。
「今夜は紫冠会からもお誘いがあったのでしょう? それでも、あちらの茶会ではなく、わざわざ私の晩餐会を選んだ。どうしてこちらへ来たのか、理由を聞かせてもらっても? 私の方が、少しは口に合いそうだった?」
「簡単ですわ」
桜花は即答した。
「少なくとも、紫冠会の茶会よりは退屈しなさそうでしたもの。だからこちらへ来ただけです」
「少なくとも、紫冠会は最初から答えの見えている席だ」
ノアも淡々と続ける。
「同じ血統と思想を持つ者同士で寄り集まり、互いの正しさを確認し合うだけの茶番に、観測価値はない」
「結構。少なくとも、紫冠会みたいな生温い慰め合いを好む子たちではなさそうだ」
イライザは満足げに目を細め、それから卓上のグラスへ視線を落とした。
「ええ。だからこそ、君たちのような『強者』には、それに見合った本物の洗礼が必要だと思ってね。さあ、まずは我らの同胞としての祝杯といきましょうか」
「……同胞、ですか。便利な言葉ですこと。履歴も教育も流儀も違う人間を、一言で同じ卓に並べたことにできるのですから」
「そう拗ねないで、桜花。私は平等が好きなわけじゃない。ただ、血筋に守られてきた喉も、泥を啜ってきた喉も、裂けば同じ色だと知っているだけ」
「要するに、歓迎ではなく査定の延長でしょう。会長職というのは、ずいぶん手際の悪い暇潰しらしい」
ノアが冷え切った声で吐き捨てると、アルベルトがわずかに顎を引いた。
「品定めの席にしては、悪趣味が過ぎる。礼節の皿に毒を盛っておいて、洗礼と呼ぶのですか」
「ふふ、でも嫌いではありませんわ。礼儀の形を保ったまま、相手の本性だけを剥がすのでしょう? 服を脱がせるより早く、皮の下を見せてしまうやり方としては、ずいぶん教育的ですこと」
シルヴィアが優雅に微笑む。その横で、窓辺にもたれていた律だけが、心底どうでもよさそうに首を鳴らした。
「能書きは結構。飲ませるなら出していただきたい。殺すつもりなら手早くお願いしますよ。長話に付き合うのは得意ではないので」
窓辺にもたれたままの律がそう言うと、イライザはひどく嬉しそうに目を細めた。
「ええ、安心した。やっぱり君たちは、話が早い」
イライザの合図とともに、部屋の隅に控えていた給仕(サイボーグか生ける屍かは定かではない)が、音ひとつ立てずに前へ出た。五つのクリスタルグラスが卓に置かれる。中で揺れる深紅は美しい。美しすぎる、とノアは思った。
節度ある歓待など、この治外法権の隔離領域にはもとより存在しない。だが、問題はそこではなかった。グラスが卓上に並んだ瞬間、部屋の空気は、さきほどまでの毒の応酬すら前座だったと言わんばかりに静まり返る。
「なるほど。これが本物の『洗礼』というわけですか」
ノアが、ほとんど嫌悪に近い手つきでグラスの縁を指先で弾いた。赤い液面がわずかに揺れる。
それは極上のワインではない。遅延性の魔法呪詛と、人間なら一口で内臓から融け落ちる化学毒が、悪趣味なほど丁寧に混ぜ合わされた『致死の美酒』だった。祝杯の顔をした処刑具。礼節のかたちを借りた、あからさまな選別。
「いただきます」
最初にグラスを取ったのは、久遠桜花だった。
生命操作を統べる久遠家の令嬢である彼女の肉体は、遺伝子レベルであらゆる毒素を拒絶するよう設計されている。彼女は一切ためらわず、深紅を喉へ流し込んだ。白い喉が一度だけ静かに上下する。
「下品ですこと。ただの毒で十分でしょうに、わざわざ呪詛まで混ぜるなんて。暗殺にも、最低限の美意識というものはありましてよ」
桜花は濡れた唇を指先でぬぐい、何事もなかったようにグラスを戻した。
イライザは微笑んだまま、その仕草を見ている。
「美しく死んでくれる相手ばかりなら、私ももう少し趣味よく振る舞うんだけどね」
次いでアルベルトが動く。いや、正確には何もしなかった。ただ一瞥しただけだ。
その瞬間、グラスの内部から毒と呪いだけが切り分けられ、別の空間へと滑るように廃棄されていく。残されたのは、もはやただの果実水にすぎない。
「礼儀の皿に毒を盛って歓迎とは。ヴァレンシュタインの宮廷でも、ここまで趣味の悪い真似はしません」
「客を選別したいのなら、せめてもう少し美しい形式を取るべきでしょう。境界を預かる家の者として、無様な作法は目に障る」
「そう? 私は好きだよ。こういう、最後まで相手に微笑みを要求するやり方」
シルヴィアは、それを聞いて小さく笑った。彼女はグラスの脚をつまみ、まるで貴重な工芸品でも扱うようにその表面を撫でる。
星の記憶を編むエルフの姫君の浄化の波動が、毒と呪いをゆっくりと洗い流し、深紅の液体を澄んだ『霊酒』へと作り変えていった。彼女は目を伏せ、香りだけをひとつ吸い込む。
「ふふ……嫌いではありませんわ。杯ひとつで、その方の育ちも、覚悟も、品の底も透けて見える。卓というのは、時に戦場より残酷ですもの」
「相変わらず、質の悪い愉しみ方をする」
アルベルトが冷たく言い捨てても、シルヴィアはただ愉しげに睫毛を伏せるだけだった。
ノアは「面倒な」と低く呟き、手元のタブレットに視線を落とした。〇・〇一秒。致死毒の完全中和式が演算され、指輪型デバイスから精製された中和剤が一滴、グラスへ落ちる。赤い液体はわずかに色を揺らしただけで、すぐに無害な飲料へと成り下がった。
ノアはそれを飲み干し、空になったグラスを音もなく置く。
「こんな席でまで解答を要求するとは。会長職というのは、よほど退屈らしい」
「解けない問いは嫌い?」
「ええ。特に、出題者の性格だけが下品に透けて見える類の問題は」
彼らはそれぞれの血統にふさわしい手法で、顔色ひとつ変えずに『死』を処理してみせた。
それこそが、命の重さすら違う特権階級に生まれた者の責務であり、当然の生存証明でもある。
そして、部屋の視線がゆっくりと一方向へ流れた。
窓辺から動かない、ただ一人の少年──二条律へ。
彼には魔力がない。精霊も魔法陣も使えない。
ナノアセンブラのような外部デバイスもなければ、毒に備えた機械的改造も施されていない。そこにいるのは、あくまで完全な「生身」だった。
だからこそ、イライザとアーサーの視線には、似た質の緊張が宿る。
四大創源家の筆頭、二条グループの最高傑作。一切の防御結界を持たない彼が、この絶対的な『死』をどう扱うのか。回避するのか。踏み潰すのか。あるいは、もっと悪質な何かで答えるのか。
「ねえ、律君。君は飲まないの?」
イライザの声は柔らかい。柔らかすぎて、かえって喉へ絡みつくようだった。甘く撫でるくせに、息を継ぐ隙だけは与えない類の声だ。
「貴方まで律儀に応じる必要はありませんわよ、律さま。会長の悪趣味に、わざわざ礼を尽くして差し上げる義理もないでしょう」
桜花が、空のグラスを指先で弄びながら薄く笑う。
「いや。見せてもらおう」
アーサーが壁際の律を真っ直ぐ見据えた。
「二条の完成品が、この席のルールをどう扱うのか。踏み潰すのか、それとも従うふりくらいはできるのかをな」
「律君。無理に意地を張る必要はないよ」
イライザは自分のグラスの縁をゆるくなぞり、まるでそこに誰かの唇でも触れているかのような手つきで、艶のある声を続けた。
「飲めないものは飲めないと認めても、私は軽蔑しない。ちゃんと、その答えに見合った席へ座らせてあげるだけ」
「随分と優しい処分ですね」
律は半眼のまま、感心の欠片もない声で返す。
「優しいとも。壊れてから値打ちを量るのは、あまりに非効率だろう?」
「会長。そういう言い方を、世間では脅しと呼ぶんですよ」
ノアが冷たく差し挟む。
「脅しじゃないさ。事前説明だよ」
「下層の流儀は率直で助かりますわね。刃を隠したつもりで、いつも柄まで見えている」
桜花がくすりと笑う。
イライザはその笑いを真正面から受け止め、それでも崩れない。
「それでも席を立たないのだから、君たちも案外、こういう晩餐は嫌いじゃないんじゃないかな。喉元へ刃を当てられたまま値踏みし合う夜というのも、そう悪くはないでしょう?」
律はひどく面倒そうに首の後ろを掻いた。
地下の亡霊を片手で屠った時と同じ、世界そのものに対する退屈がそこにはあった。
そして、無造作にテーブルの上のグラスを手に取る。
一切の小細工を使わず。
外部デバイスの駆動音も鳴らさず。
「解析上、致死量を三桁は超えています」
ノアが低く言う。
「普通の生身なら、口に含んだ瞬間に終わりですわね」
桜花は面白がるでも怯えるでもない、ただ測るような目で律を見た。
「なら、黙って見ていろ」
アーサーが短く言った。
律は答えず、そのまま、ただ喉の渇きを癒すように杯を傾けた。
呪いと化学毒の混ざった深紅が、迷いなく彼の喉を落ちていく。
「──っ!?」
ノアが半ば立ち上がりかける。
アーサーの表情が微かに引き攣り、アルベルトの氷のような双眸が見開かれた。
「正気ですの?」
桜花の声から、初めて余裕がひと筋だけ剥がれ落ちる。
「脈も、呼吸も乱れていない」
ノアが信じ難いものでも観測するような目で律を見つめる。
「馬鹿げていますね。防ぐでも、逃がすでもなく、ただ受け入れるとは」
アルベルトの声には、嫌悪と驚嘆が半分ずつ混じっていた。
数秒後には、致死量の毒が脳髄から内臓に至るすべてを破壊し尽くすはずの劇薬。
だが、五秒が過ぎ、十秒が過ぎても、律の顔色はひとつも変わらない。喉の奥から咳ひとつ漏れず、呼吸の深さすら乱れなかった。
「どうやら私は、お酒が強いようです」
律はグラスをテーブルへコトリと置き、呆気に取られている周囲をひどく退屈そうに見回した。
「アーサー先輩。次は、ただの水をお願いします」
沈黙。
圧倒的で、狂気的な沈黙が、VIPルームの隅々にまで満ちた。
毒を無効化したのではない。
律の身体──『神の恩寵』と呼ばれる異常なまでの消化器官と免疫機能が、致死量数千人分の毒素群と呪いすら、ただの「栄養」として瞬時に処理してしまったのだ。
防ぐ必要すらない。逃がす必要すらない。無効化という手続きを踏むことすらせず、ただ食って終える。
それは物理法則と生物の限界、その両方に対するあまりにも露骨な侮辱だった。
「……なるほど。これが、二条の最高傑作ですか」
桜花が、わずかに震える声で呟いた。
技術や魔法で防ぐことを前提に組み立てられている彼らにとって、「猛毒を真正面から浴びて、無傷で立っている」という事態は、論理そのものを踏み外した異常でしかない。
微笑んでいたイライザの顔から、一瞬だけ綺麗に笑みが消えた。
次いで、それを取り繕うように、けれど取り繕いきれない歓喜を滲ませて、彼女はかつてないほど激しい笑い声を漏らした。
「ふふ……あははははっ! 素晴らしい。本当に、素晴らしいよ君は!」
イライザが見つめるのは、ただの「強力な生徒」ではない。泥炭地で見た地下の亡霊どころか、学院のルールやカーストそのものを物理的に破壊しかねない、完全なる超越者。
副会長のアーサーは露骨な殺意と闘争本能を膨れ上がらせ、ミリ秒単位で全身の筋肉を硬直させている。
表向きは優雅な同胞の晩餐会。
だが、イライザはそこで満足しなかった。手元のグラスを軽く揺らし、まだ笑いの余韻を喉に残したまま、ゆっくりと五人を見渡す。
「さて。せっかく同じ卓についたのだから、乾杯のついでに一つだけお願いしておこうか」
お願い、と彼女は言った。
だが、その声音には、命令と通告と愉悦が綺麗に混じっていた。
「この学院で、くだらない派閥遊びはしないでほしい。科学だ、魔法だ、家格だ、血統だと、犬を集めて小さな王国ごっこを始められるとね。下の子たちが無駄に死ぬ」
「ずいぶんと殊勝なことを仰る」
ノアが薄く笑う。
「君たち五人が本気で手駒を集めれば、この学院は明日にも五つの私兵養成所に変わる。そんな安っぽい盤面は見飽きているんだ。私は、もう少し質のいい地獄が見たい」
「お願いにしては、趣味が悪すぎますわね」
桜花が扇のない指先で顎を支え、冷ややかに言った。
「つまり『私の許可なく勢力を持つな』と。随分と慎ましい独裁ですこと」
「けれど、私たちにだけ釘を刺して満足なさるつもり? 上位気取りの半端者どもこそ、家名と数だけで群れたがるものですのに。あちらには何も仰らなくてよろしくて?」
「構わないよ」
イライザは、桜花の視線を正面から受け止めたまま、柔らかく笑った。
「あの子たちは放っておいても群れるし、放っておけばその群れごと腐る。数だけなら、今の学院で一番大きいのは紫冠会だろうね。君たち好みの保守派の子たちだ。」
「誤解なさらないで。私たちだって、改革そのものを嫌っているわけではありませんわ」
シルヴィアが、花が綻ぶような笑みを浮かべて口を挟んだ。
「へえ。それは、ずいぶん都合のいい言い分だね。改革を武力で叩き潰してきた憲兵の言葉とは、とても思えないよ」
イライザの声音はやわらかい。やわらかいまま、刃先だけが冷たい。
「皆さん、いつだって勝手に進めますもの」
シルヴィアは肩をすくめる。
「知らないところで、自分たちの力や椅子を少しずつ削がれるのを愉快に思う人間なんて、そう多くはなくてよ」
「……つまり、こちらの許可なく改革を進めるな、という警告かしら」
イライザの微笑みは崩れない。だが、その声音には、薄絹の下で刃を撫でるような冷たさが滲んでいた。
「ええ。近いわね」
シルヴィアは、微笑みを崩さないまま頷いた。
「でも安心してほしい、少なくとも私は、奪う前に奪うと教えてあげている。君たちの言っている言葉が真実なら、君たちが嫌うのは改革そのものじゃない。自分たちの知らない手つきで、自分たちの椅子が削られることだ」
「ふふ....耳が痛いこと」
シルヴィアが、わずかに目を細めた。
「でも、そういう率直さは嫌いではありませんわ。毒を盛る前に杯を見せてくれる相手のほうが、まだ誠実ですもの」
「防壁の外でどれほど高い椅子に座っていようと、この箱庭の内側では君たちはただの学生だ。家の名で胸を張るのは自由だけれど、その姓が首を守ってくれると思うなら、あまりに教育が行き届いていない」
空気が、一瞬で、火種ひとつ落ちればすべてが吹き飛ぶ火薬庫のような緊張を深く吸い込んだ。
「思い上がるな、ということですか」
アルベルトが静かに問う。
「ええ。特に、最初から上にいた人たちにはね」
イライザの視線は柔らかい。柔らかいまま、相手の喉元へ正確に触れる類の視線だった。
「君たちは自分の価値を知っている。だから厄介だ。でもね、その価値を履き違えた瞬間から、ただの高価な廃棄物になる」
「ずいぶん高く買ってくださるのね」
シルヴィアが愉しげに目を細める。
「では、もし私たちが貴女の可愛らしいお願いを無視したら?」
「簡単だよ」
イライザは、あまりにも自然に答えた。
「派閥の芽ごと、根から焼く。見せしめは一度で足りるでしょう? 優秀な子ほど、焼ける匂いが長く残るから」
桜花の唇から、かすかな笑みが消えた。
ノアの指先がテーブルを二度、静かに叩く。アーサーだけは何も言わない。言葉の代わりに、その沈黙そのものが会長の暴力を肯定していた。
「……それは忠告ですか、それとも宣戦布告ですか」
ノアが問う。
「どちらでも好きな方で受け取ればいい」
イライザは、今度は律へ視線を向けた。
「ただし、一つだけ保証しよう。群れずに立てる者には、それに相応しい席を用意する。逆に、姓と家来の数でしか自分を測れない子は、いずれ床に膝をつく。私は、そういう順番が好きなんだ」
「要するに」
沈黙を破ったのは律だった。
「雑魚をけしかけて盤面を濁すな。やるなら自分の手でやれ、ってことですね」
イライザの口元が、ゆっくりと吊り上がる。
「そう。話が早くて助かるよ、律君」
「乱暴ですが、嫌いではありませんわ」
シルヴィアがくすりと笑う。
「最初からそう言えばいいのに。血統と取り巻きを剥がしたあと、誰がまだ立っていられるのかを見たいのでしょう?」
「ええ。だって、その方がずっと綺麗でしょう?」
イライザは何でもないことのように頷いた。
「家の名を剥ぎ、従者を剥ぎ、逃げ道を剥ぎ、それでもなお立っているものだけを、私は強者と呼ぶ」
「興味深い基準だ」
アルベルトが、氷の刃のように静かな声で差し挟んだ。
「では会長。貴女からその地位を剥ぎ、権限を剥ぎ、今そこにいる忠実な猟犬まで剥がしたあとでも──なお同じ言葉を口にできますか」
部屋の空気が、また一段だけ細く張り詰めた。
アーサーの双眸がわずかに細まり、シルヴィアは愉しげに目を伏せる。ノアは沈黙したまま、イライザの返答を待った。
「もちろん」
イライザは一拍も置かなかった。
「その時は、今度こそ一人で噛み千切るだけだよ。私は上に立つ資格があるから立っているんじゃない。立っていた者の喉を最後に裂いたから、そこにいるだけ」
穏やかな声音だった。
だからこそ、その言葉は虚勢ではなく、実際にそうしてきた人間の告白として場に落ちた。
「もっとも」
シルヴィアが、花の蜜でも舐めるような甘い声で口を挟んだ。
「いくら貴女が一人で噛み千切れると仰っても、今この卓だけを数えるなら五対二ではなくて? もちろん、私たちに仲良く手を繋ぐ趣味はありませんけれど……貴女があまり上手に煽るものだから、一瞬くらいは利害が揃うかもしれませんわね」
その微笑みは優雅だった。
だが、言葉の中身は、喉元へ細い針を差し込むように正確な脅しだった。
「ええ、そうかもしれない」
イライザは微笑みを崩さない。
「でも、その一瞬で最後まで立っているのがどちらかまでは、まだ分からないでしょう?」
その言葉は依頼の形をしていながら、実際には選別だった。
従うか、逆らうかではない。どちらを選んでも、すでに彼女の視線の上に載せられている。
そこで、張り詰めていた空気がほんの少しだけ緩んだ。
いや、緩んだように見えただけだった。卓上の会話は次の瞬間には、毒を薄めた世間話の顔をして、別の方向から律の周囲を囲み始めていた。
「そういえば、明朝の合同講義は地下第二講堂だったかしら」
シルヴィアが何気ない調子で言う。
「席順が決まっていないのなら、律様のお隣はぜひ譲っていただきたいものですわ。貴方のような規格外が、どのように講義を聞き流すのか、すぐ隣で眺めてみたいの」
「観察なら僕も希望したい」
ノアが即座に被せる。
「君が魔法理論をどう処理するのかには価値がある。無駄な取り巻きに囲まれるくらいなら、こちらの演算室へ来るといい。静かだし、馬鹿が少ない」
「あら、露骨ですこと」
桜花がくすりと笑った。
「でも、確かに人混みに埋もれるのは勿体ないですわね。律さま、もし授業のあとでお手すきなら、医療科の上層研究室へいらして? 毒の感受性と代謝機構について、少しお話を伺いたいの。もちろん、最初は採血程度で済ませますわ。大人しく腕を差し出してくだされば、痛みも最小限で済みましてよ」
「済ませる、の定義が世間と違いすぎる」
ノアが即座に切り捨てる。
「失礼ね。解剖台に乗せると言っているわけではありませんのに」
「今は、と付け忘れておられますわよ」
シルヴィアが楽しげに混ぜ返した。
そのやり取りを聞いていたアルベルトは、グラスの残り香すら嫌うように指先を払ってから、律へ視線を向けた。
「興味があるなら、明日の講義が終わったあと、境界塔の上層へ来るといい。貴方が立っているこの箱庭が、どれほど歪な綱渡りの上に載っているかくらいは見せてやれる」
「魔法も科学も、どちらも自分の盤面だけを世界だと思い込みすぎている。君のような外れ値なら、その滑稽さくらいは退屈せずに眺められるはずだ」
「勧誘が雑になってきましたわね」
桜花が皮肉ると、アルベルトは眉ひとつ動かさなかった。
「君たちのように、甘い匂いをつけて誘う趣味がないだけだ」
イライザは、その一連のやり取りを、いかにも愉快そうに眺めていた。
「ほらね。派閥は作るなと言ったばかりなのに、もう唾をつけにいってる」
「派閥と会話の区別くらいはついていますわよ、会長」
桜花が肩を竦める。
「有望な同級生と親しくすることまで禁じるほど、貴女も野暮ではないでしょう?」
「もちろん。手を繋いで行進しなければ、多少の個人的な接触は見逃してあげる」
イライザはそう言ってから、わざとらしいほどゆっくりと律へ顔を向けた。
「それに、こちらへ来た理由はもう一つありますわ」
桜花が、思い出したように付け加える。
「あちらには、所詮『それに次ぐ程度』の家柄しか揃っていない。同じ卓につく以上、話す相手は同じ最高位の方がよろしいでしょう? 少なくとも、グランチェスターの嫡流たるアーサー先輩がこちらにいらっしゃる。そのうえで、貴女のような異物がどう振る舞うのかにも、少し興味がありましたの」
「買い被るな。俺は会長の監視役であって、貴様らの茶会を格上げする飾りじゃない」
アーサーが、いっそ不機嫌なほど平坦に言い捨てた。
「ふふ、失礼。けれど、席に誰が座っているかで、卓の温度まで変わるのもまた事実でしょう?」
「で、律君はどうする? せっかく皆がこんなに熱烈なのに」
視線が集まる。
それは歓迎ではなく、品定めだった。親しげな声色の下で、それぞれが自分の陣営、自分の理屈、自分の美学に、二条律という異物をどう組み込めるかを測っている。抱き込むのか、飼い慣らすのか、噛みつかれる前に檻へ入れるのか。言葉にされない選択肢だけが、卓上に粘ついていた。
「どうもしませんよ」
律は、ひどく素っ気なく答えた。
そうして、その次の瞬間には、もう動いていた。
予備動作はなかった。
腰の太刀が、音より先に鞘を離れる。
ひと息の間に詰められた距離。白刃はまっすぐ、イライザの喉笛だけを狙って走った。
「──っ!」
だが、イライザもまた凡百ではない。
長身の身体をあり得ない角度で後方へ引き、紙一重でその軌道から首を逃がす。だが完全には躱し切れない。切っ先は喉元を深々と切り裂き、あとほんのわずか踏み込みが深ければ、首は本当に落ちていた。
首の皮一枚。
本当に、それだけだった。
アーサーの殺気が爆ぜる。
一歩で床を砕きかねない勢いで踏み出しかけた巨体を、しかしイライザが片手だけを上げて制した。
声は出ない。
深く裂けた気道からは、言葉の代わりにひゅう、と湿った空気の漏れる音だけが洩れた。喉元の断裂からはどくどくと血が溢れ、呼吸のたびに赤い泡がかすかに膨れては潰れる。
それでも、その制止の意志だけは十分だった。
アーサーの全身を満たしていた暴力が、辛うじて形を保ったまま踏みとどまる。
律は切っ先を下ろし、イライザの喉元からどくりと溢れる血を眺めてから、つまらなそうに呟いた。
「これが、ほんとの首の皮一枚ってやつですか」
ノアが息を呑み、桜花の目がわずかに見開かれる。シルヴィアだけが、唇に浮かべた笑みを深くした。
「一方的に選ばれる趣味はないんで。こっちも少し、会長の値打ちを見たかったですから。」
「それで?」
喉元の血を指先で拭い、その赤を親指の腹でゆっくりと潰しながら、イライザは笑った。
怒りではない。むしろ、傷口から熱が入り込んだみたいに、目の奥の色だけが濃くなる。
「椅子に座るだけの女ではなさそうだ。少なくとも、あの紫冠会よりは面白い」
「比較対象が紫冠会という時点で、随分と手加減の利いた評価ですね」
アルベルトが、切っ先より冷たい声で差し挟んだ。
「その程度の集まりと同列に置かれて、会長はむしろ侮辱されたと解釈するべきでしょう」
「ふふ……それは光栄だよ」
イライザは、喉元の赤を見下ろし、濡れた唇の端に愉悦を滲ませて目を細める。
「安心した。やっぱり君は、きちんと自分の手で相手を量る子なんだね。そういう子は、嫌いじゃない」
「つれないどころか、随分と情熱的ですこと。あんなふうに喉元へ触れられたら、たいていの人間は勘違いしてしまいますわ」
桜花が冷たく言った。
「安心しましたわ。少なくとも、誰か一人に尻尾を振るほど可愛げはなさそうですもの」
「そういうところも含めて、厄介で価値があるんだろうね」
イライザが、今度こそ隠しきれない愉悦を滲ませて言った。
しかし、この瞬間から、大人たちの代理戦争すらも児戯に等しい、真の特権階級同士の「二条律という規格外を、いかに値踏みし、警戒し、あるいは自陣へ取り込むか」という、静かで凄惨な水面下の探り合いが幕を開けた。
「面倒くさいことになりそうだな」
特等席(VIPルーム)から、自らが引き起こした戦慄になど欠片の興味も持たず。
二条律はただ一人、窓の外の狂って絶望的な人間たちの夜景を、ひどく退屈そうに見下ろしていた。
コツ、と。
背後で、硬質な足音がひとつだけ鳴った。
振り返るまでもなく分かる。副会長アーサー・グランチェスターだった。軍靴めいた重いブーツの音が、この部屋の厚い絨毯の上ですら、鈍い圧として床に残る。
「注文の品だ」
短く言って、アーサーは未開封の硝子瓶をテーブルに置いた。中には、曇るほどに冷やされた透明な水が満ちている。
「律儀ですね」
律が片眉を上げると、アーサーは鼻で笑った。
「会長の客を毒で潰し損ねた挙げ句、水の一杯も出せないと思われるのは不本意だ。それだけだ」
律は瓶を取り、封を切って一口だけ喉へ流した。先ほどの毒酒に比べれば、驚くほど輪郭のない味だった。
「一つ、聞いていいですか」
「内容による」
「先輩は、どうしてあの会長の下にいるんです?」
空気がわずかに変わった。
アーサーの無骨な横顔から、先ほどまでの露骨な闘争心だけが一段沈む。代わりに浮かび上がったのは、鉄よりも乾いた事実への諦観と、そこにだけ通じる納得だった。
「単純な話だ」
彼は、窓の外の防壁を見たまま答えた。
「あの女は、俺を正面から叩き潰した。血統も、装甲も、家名も、その場では何の担保にもならなかった。俺の骨を何本か折り、喉元を踏みつけたまま、それでも笑っていた。だから従っている」
「強かったから?」
「半分はな」
アーサーは冷えた目で律を見る。
「もう半分は、勝ったあとも壊すだけで終わらなかったからだ。あの女は、奪った秩序をちゃんと使っている。気に食わんが、それは本物だ」
律は、少しだけ面白そうに目を細めた。
「なるほど。先輩を従わせた方法が気になっていたんですが、ずいぶん分かりやすい答えですね」
「単純な結末ほど覆しにくい。貴様も、そのうち分かる」
「じゃあ、俺がその秩序を壊すと判断したら?」
「その時は、俺が潰す」
あまりにも迷いのない返答だった。
脅しではない。宣言でもない。ただ、未来にあり得る処理手順を口にしただけの声。
「楽しみにしています」
「そういう顔をするから、会長に気に入られるんだ」
アーサーはそれだけ言い残し、踵を返した。
重い足音が遠ざかる。入れ替わるように、学院全域へ向けた深夜放送のチャイムが、薄い防壁の向こうから滲むように鳴り響いた。
『第一学年の生徒へ通達。明朝六時、全員を対象にした初回合同講義を開始する。遅刻、欠席、無断離脱は減点対象とする』
機械音声とも、生身の声ともつかない無機質なアナウンス。
それは休息の告知ではなく、この箱庭の次なる暴力の予告にしか聞こえなかった。
律はボトルの水をもう一口飲み、窓の外に広がる青白い防壁を見上げる。
外界を断ち切る隔絶の壁は、どこまでも静かで、どこまでも傲慢だった。
「……少しは、暇潰しになるといいんですが」
そう呟いて、二条律は夜景から目を離した。
だが、その夜は、彼に休息という名の猶予を与えるつもりがないらしかった。
部屋の入口脇に埋め込まれた来訪表示灯が、音もなく淡い青に変わる。
直後、機械的なチャイムすら鳴らさず、扉の向こうから事務的な声が届いた。
「起きているだろう、二条。入るぞ」
返事を待つという礼節だけを辛うじて備えた声音だった。
スライドしたドアの向こうに立っていたのは、ノア・アークライトだった。整えられた金髪も制服の襟元も乱れていない。まるで今しがた晩餐会の席を立って、そのまま一切の寄り道なくここへ来たような無駄のなさだった。
片手には薄いタブレット端末。もう片方の手には、封も切られていない小さな黒箱がある。
「ノックくらいは覚えた方がいいですよ」
「必要性を感じないな。君は、どうせ眠れない」
ノアは部屋へ足を踏み入れたが、客として入ってきた気配はまるでなかった。
整ったリビングも、高級な調度も、彼の目には最初から背景でしかないらしい。視線が拾っているのは、監視術式の癖、盗聴器の混線、窓際に立つ律の呼吸の間隔。部屋の価値ではなく、部屋に置かれた「もの」の価値だけを測るような見方だった。
「それで、こんな夜更けに何の用です?」
「挨拶」
ノアは短く言った。
「正確には、確認と先回りだ。今夜のうちに誰かは君の部屋へ来る。なら、最初は僕であるべきだと思った」
「ずいぶん熱心ですね」
「熱心というより衛生管理に近い」
ノアの声は低く平坦だ。
「桜花は血を採りたがる。シルヴィアは記録したがる。会長は君を舞台の中央へ立たせたがる。どれも騒々しい。僕は、もう少し静かな取り扱いを好む」
露骨な悪口だった。
しかも、本人たちの前でもそのまま言いそうな種類の率直さがあった。
「僕は君に味方になれとは言わない。ただ、馬鹿な連中の玩具になる前に、話の通じる位置へ置いておきたいだけだ」
律はソファへ腰を下ろし、テーブルの上の硝子瓶を指先で軽く転がした。
「それを世間では取り込みって言うんじゃないですか」
「そう呼びたいなら、それでも構わない。だが、僕は甘い餌をぶら下げて手を引く趣味がない」
ノアは持っていた黒箱をテーブルへ置いた。
蓋が開く。中には、学院内の立体見取り図を投影できる薄い投影板と、金属製の小さな認証キーが収められていた。
「初回の挨拶としては、悪くない手土産だろう」
投影板に触れると、学院の主要施設が青白い光で空中に組み上がる。教室棟、研究区画、医療科上層ラボ、境界塔、地下防壁区画。新入生へ配られる簡易マップより一段深い、選ばれた者だけが覗ける階層の情報だった。
「内部ネットワークの閲覧キー。最上位ではないが、新入生に配られる玩具よりは役に立つ。講義室の変更、教員の移動履歴、一部研究区画の出入り記録くらいなら追える」
「親切ですね」
「君のためじゃない」
ノアは即答した。
「君が無知なまま動くと、周囲に余計なノイズが増える。僕はそれが嫌いだ」
そこで初めて、彼はわずかに眉を寄せた。
「今夜の晩餐会で分かっただろう。君は、放っておいても目立つ。目立つ異物は観測される。観測された異物は、遅かれ早かれ分類される。利用価値があるか、危険物か、いますぐ壊すべきか。君はもう、その棚に載せられた」
「棚から落ちたら?」
「落ちる前に誰かが拾う。拾えなければ、踏み砕く」
律は空中に浮かぶ学院の立体図を眺めた。
便利そうだった。便利そうであることそのものが、この男の品の悪さだった。真正面から首輪は見せない。代わりに、鍵の顔をした細い鎖だけを差し出してくる。
「見返りは?」
「二つ」
ノアは指を二本立てる。
「一つ。君が何かを見つけた時、僕に最初に流せ。すべてでなくていい。取捨選択は君に任せる」
「もう一つは?」
「死ぬな」
あまりに平坦だったので、律は一瞬だけ黙った。
「……随分と乱暴な条件ですね」
「乱暴じゃない。極めて合理的だ。君が死ねば、今夜ここで起きたことの検証機会が永遠に失われる。それは損失になる」
ノアはそこで、ほんのわずかに目を細めた。
感情の起伏というより、観測機器の絞りを一段だけ開いたような、微細な変化だった。
「それに、君は生きているだけで盤面を少し壊してくれる。壊れ方を記録する価値がある」
「つまり、面白いから見ていたい?」
「そういう言い方は下品だな」
「違うんです?」
「否定はしない」
夜気より冷たい沈黙が、数秒だけ二人の間に落ちた。
先にそれを終わらせたのは、律の方だった。
「他の連中も、似たようなことを言いに来ますかね」
「来るだろう」
ノアは即答する。
「桜花はもっと露骨に身体へ触れたがる。シルヴィアはもっと柔らかく首輪をかける。会長は……君自身に選ばせる顔をして、最初から舞台に立たせるつもりだ」
「貴方は?」
「僕は首輪の代わりに、鍵を渡しに来ただけだ」
「大差ない気がします」
「そこは趣味の差だよ」
ノアは端末を閉じた。青白い立体図が空中でほどけ、何事もなかったように消える。
「忠告しておく。君が誰とも組まないと決めても、それで観測の外へ出られるわけじゃない。むしろ価値は上がる。手に入らないものほど、連中は値札を吊り上げたがる」
「難儀な学校ですね」
「今さらだろう」
ノアはドアの方へ向き直り、それから思い出したように付け加えた。
「明日の朝、講義棟へ向かう最短ルートは東回廊だ。西回廊は、今夜のうちにどこかの馬鹿が私闘でも始めれば封鎖される」
「予測ですか」
「期待値だ」
そこで初めて、律はほんの少しだけ笑った。
「なるほど。やっぱり少し面白いですね、あなた」
ノアは肩を竦めるでもなく、ただ静かに返す。
「褒め言葉として受け取っておくよ。君ほどではないが」
扉が開き、彼は来た時と同じ温度のまま部屋を出ていく。
最後まで靴音ひとつ無駄にせず、余計な情緒も置いていかなかった。残されたのは、卓上の認証キーと、静かな部屋の中に確かに差し込まれた一本の細い楔だけだった。
律はしばらくその黒い認証キーを指先で転がし、それからテーブルに置いた。
誰が最初に来るかと思っていたが、最も厄介そうな相手が、最も無味乾燥な顔をして一番乗りを果たしたらしい。
「……本当に、暇はしなさそうだ」
窓の外では、青白い防壁が変わらず世界を閉ざしていた。
だが、その内側ではもう、静かな夜の顔をした探り合いが始まっている。
最後までお読みいただきありがとうございます。
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