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序章

初投稿です。もう少し立ったたら用語集等を上げる予定です


序章 境界線上の獣


 二条律が最初に明確な殺意を向けられたのは、五歳のときだった。

 相手は、二条家に敵対する外部の過激派組織だった。神代の恩寵の完全顕現者であり次代を担う律の存在を恐れ、睡眠中の幼い律の頸動脈を軍用ナイフで狙ったのだ。

 律はその刃を、首を三センチ傾けるだけで回避した。教えられたわけでもない、ただ神代の恩寵による絶対的な生存本能だった。

 直後、寝室のドアが吹き飛び、律の父である当主と護衛たちが雪崩れ込んできた。

「……一族の最高傑作に触れようとは、身の程知らずめ」

 それは、血も涙もない冷酷な野心家として知られる父の、冷え切った怒りだった。護衛が男を取り押さえる間、父は暗殺者に一瞥だけをくれ、そして無傷の律を見て微かに頷いた。

 過激派組織は翌日には文字通り根絶やしにされた。二条家特有の、身内に仇成す者への徹底的で容赦のない報復だった。

 ──この世界は冷酷で、悪意に満ちている。だが、あの刃が自分の内側に届くことは決してない。自分は神の恩寵の体現者であり、完全なる存在だからだ。

 それが二条律の最初の学びであり、彼に鋼のように安定したメンタルをもたらした。他人の悪意など、ただの致死性のない物理現象にすぎない。己の完璧な肉体が傷つくことはないという、絶対的な自己肯定感の源泉だった。


 十一年後。

 灰色の雲海を切り裂き、五機の高速EVTOL機が編隊を組んで飛翔していた。

 中央を進むのは、装甲の継ぎ目すら見当たらない漆黒の流線型フォルムを持つ特別機。過剰なほどの装甲を備えながらも、空飛ぶ高級ラウンジとでも呼ぶべき流麗な美しさを放っている。それをひし形に囲むように随伴するのは、ミサイルポッドと重機関砲を備えた二条グループ機動制圧部隊のガンシップ四機だ。

 中央の特別機内は、外の爆音を完全に遮断する防音機構と、最高級の調度品によって彩られた豪奢な空間だった。

 律はゆったりとした革張りのシートに深く身を沈め、窓の外を気怠げに見下ろしている。向かいの席には、初老の侍従が背筋を伸ばして控えていた。

「──間もなく、目的地『ゲート・ゼロ』上空に到達します」

 操縦席からのアナウンスを受け、五機のVTOL機は空中で静止し、揃ってゆっくりと降下を始めた。

 着地と同時に、護衛の四機から強化外骨格を着込んだ兵士たちが瞬時に展開し、周辺の警戒網を敷く。その物々しい部隊の中央で、漆黒の特別機のハッチが静かに開いた。

 律は、侍従を伴って「ゲート・ゼロ」の上に降り立った。

 二つの空が軋むように接合するその場所。右の空には魔力の残滓が凝結した紫雲が低く垂れ込め、左の空では軍事衛星の反射光が鋭く明滅している。美しいとは思わなかった。律の目には、それは二つの世界が互いの喉元にナイフを突きつけている光景にしか見えなかった。

 匂いが変わる。

 科学位相側は金属と排気と消毒液。魔法位相側からは──甘い。腐りかけの果実のような、濃密で粘りつく甘さ。マナと呼ばれるエネルギーの残り香。通常の人間には感知できないそれを、律の嗅覚は空気中の微量成分のように正確に捉えていた。

 五感のすべてが、人間という種の理論限界値を超過している。

二条家が太古に高次存在から受けた恩寵が、悠久の時を経て完全に発現した人体の極限。魔法にも、ナノマシンにも、外骨格にも頼らない、神の恩寵による人間としての完成形。

「ご当主様は、体躯の仕上がりに大変ご満足であられました。『次期当主として誇らしく思う』と」

 背後に傅く侍従が、厳粛な声で主の言葉を代弁した。

「『魔法位相という未知の変数を観測してこい。そして、決して二条の恩寵の価値を落とすような真似はするな。必ず圧倒して帰還しろ』。……以上が、お父上からの命でございます」

 そこにあるのは、冷徹な支配者としての厳命であり、自らの最高傑作を戦地へ送り出す野心家の期待だった。二条家において、律は息子であると同時に最も価値のある至高の芸術品なのだ。

 律は「親父たちの背中を追ってるだけさ」と、口角を上げて笑い返した。感情が欠落した無機質な兵器というわけではないが、その自然な笑みの中には、最高位の捕食者のような冷たい不遜さが孕んでいた。

「──律様。そろそろ」

 背後から声がかかる。鷹司凛堂。二条グループ機動制圧部隊の元隊員で、現在は律の護衛を務める男。強化外骨格の操縦技術は企業軍の中でも最上位に位置する。

「推薦枠の入学者には、事前面談がある。遅刻は二条の名に傷がつきます」

「傷つくような名か?」

 律は正門に向けて歩き出しながら、呟くように言った。凛堂はその言葉を聞かなかったふりをした。職務として正しい判断だった。



 クロスノード学院。

 正式名称──位相間交流教育機関。設立から六十四年。表向きは「科学と魔法の架け橋を育成する崇高な学び舎」。

 実態は、両位相の勢力が次世代の駒を送り込み、情報を盗み、影響力を拡大するための代理戦争の場だ。律が父からこの学院への入学を命じられた理由も、単なる教育のためではない。

「魔法位相という未知の変数を、観測してこい。……そして、決して二条の恩寵の価値を落とすような真似はするな。必ず圧倒して帰還しろ」

正門をくぐり、冷たいコンクリートの渡り廊下を進んでいたときだった。


 ──チィィィン、と。


 空気が微かに鳴った。いや、空間そのものが共鳴するような異音がしたのだ。

 律の頭上、高さ五メートルの虚空。

 そこには、紫色の複雑な幾何学模様──魔法陣──を展開し、音もなくふわりと浮遊する一人の少女がいた。

 銀糸のような髪。透き通るような肌。そして、あらゆる感情を綺麗に削ぎ落とした紫水晶の瞳が、見下ろすように律を冷徹に観察していた。

 無言のまま、彼女の指先から見えない魔力の刃が放たれる。

 殺意はない。ただ、相手の力量を測るためだけの、純粋な試しの暴力だった。


 律は足を止めなかった。ただ、首を数ミリだけ傾けた。

 直後、律の頸動脈を掠めるように不可視の刃が通り過ぎ、背後の壁を深く抉って砂煙を上げる。


「……」

 宙に浮く少女の瞳に、計算機のような冷たい分析の光が走った。

 魔力による不可視の刃。それに一切の魔力を持たない『泥と鉄の次元の人間』が、微小な体重移動だけで反応し、しかも歩みを止めることすらなく回避した。

 それは彼女の知る「人間」のスペックを完全に逸脱している。


「おい、上から降ってくるなら声くらいかけろよ。危うく首が飛ぶところだっただろ」

 律は、先ほどまで自分の頸動脈を抉ろうとしていた殺気に対して、まるで『雨粒が落ちてきた』程度のように欠伸交じりで言ってのけた。


「……ありえない。魔力感知なし。外部装置の駆動音なし。純粋な身体能力のみでの回避」

 少女はぼそりと呟き、手元の見えない魔法陣に何かを記録するように指を滑らせた。

「警戒対象に分類する」

 少女の魔法陣が消え、彼女は五メートルの高さから落下した。──いや、落下に見せかけた降下。着地の瞬間、足元に再び魔法陣が一瞬だけ展開され、衝撃を吸収した。

 律との距離、二メートル。互いの間合い。

「灯花ミレーユ。契約型魔法。今のは挨拶だと思って」

「二条律。何も使わない。今の回避はただの反射。ていうか、実家の護衛たちの『朝の近接組手』に比べたら、欠伸が出るくらい遅かった」

 沈黙。

 二人は互いの目を見ていた。少女の目には純粋な測定があり、律の目には面倒くさそうな、だが底知れない野生の余裕があった。

「……変わった人間がいたものね」

「そっちもな。宙に浮く女なんて、映画でしか見たことない」

 ミレーユは律に背を向けた。律はその背中を目で追いながら、頸動脈の位置と歩行パターンの癖を無意識に記録していた。習慣だった。極限まで鍛え上げられた野生の勘と、家族に叩き込まれた生存のための条件反射。

 ミレーユもまた、背を向けたまま──律の足音の間隔、体重移動の癖、呼吸のリズムを契約術式に記録させていた。同じ理由だった。



「──次。二条グループ推薦枠、二条律。入れ」

 無機質なスピーカーの声に促され、律は面談室の扉を開けた。

 正門での遭遇から三十分後。特別棟の地下に設けられたその部屋は、窓も装飾もない剥き出しのコンクリート空間だった。部屋の中央に置かれた鉄パイプの椅子の前に、黒いタイトスカートにピンヒール姿の女が立っている。

 教授・イザベラ・クロウ。

 血のような真紅のルージュと、蠱惑的でありながら捕食者を思わせる鋭く退廃的な美貌。手に持った電子バインダーを気怠そうに眺めながら、彼女は律を一瞥した。

「座りなさい」

 律が椅子に向けて一歩を踏み出した、その瞬間だった。

 ──ズン、と。

 空間の質量が突然、三倍に跳ね上がった。

 物理的な重力波。警報も詠唱も兆候もない。機構・資源型魔法(メカニズム系)における希少な特異点──「重力操作」。

 常人なら膝から床に激突し、内臓が悲鳴を上げるほどのGが、律の全身にのしかかった。

「……」

 だが、律の足は止まらなかった。

「……はあ」

 律は小さくため息をつきつつ、膝の角度を〇・五ミリ修正して重心を落とす。加重された百八十キロ相当の負荷を重心を変化させ処理する。

 律はそのまま、ポケットに片手を入れた変わらぬ歩幅で重力の沼を平然と歩き抜け、パイプ椅子に腰を下ろした。

「……ほう」

 イザベラの目が、初めてバインダーから離れた。その唇の端が、三日月のように歪む。気怠げだった空気が一変し、狩る側の人間の鋭い殺気が放たれた。

「二条の神代の恩寵の完全顕現体。魔法も機械も使わず、ただ恩寵によって肉体が極限化されているだけの無脳児……だと聞いていたけれど。なるほど、ただの自惚れたお坊ちゃんじゃないみたいね」

「事前面談ってのは、随分と物理的なんだな。もっと面接っぽいこと訊かれるのかと思ったぜ」

「私は『選別』と呼んでいるわ」

 イザベラはピンヒールの踵で床を一つ鳴らした。重力が元に戻る。

「私の本業は戦闘科の教官なの。そして私は、死ぬ前提で来た弱者に教えを垂れるほど暇じゃないのよ。弱い人間は自己紹介の時間を奪う咎人。だからここで、最初に振るい落とす」

 彼女は律の顔に顔を近づけた。香水の甘い匂いの奥に、硝煙と血の匂いが微かに混じっているのを律の嗅覚は捉えていた。この女は、殺しを知っている。

「どう? 三倍の重力は」

「歩くのが少し面倒になる。四倍なら、床のタイルが割れるからやめたほうがいい」

「……クック、ハハハハ!」

 イザベラは声を上げて笑った。サディスティックな歓喜があった。

「合格よ。二条律。あんたは私の『オモチャ箱』に入れてあげるわ。──ただし、ここはただの学園じゃない。次会うときは四倍の重力で首を圧し折るかもしれないから、覚悟しておきなさい」

「肝に銘じておく」

 律は淡々と答え、立ち上がった。

 事前面談は三分で終わった。理不尽な重力も、教官のサディスティックな悪意も、律の精神を波立たせることは一切なかった。彼にとって「自分に向けられる悪意」など取るに足らないものだ。ただ飄々と、己のペースを乱すことなくそこを立ち去った。


   


 入学式の前。コロセオ・アリーナの最上階に設けられた「特別観覧ラウンジ」。

 強化ガラス越しに巨大な円形闘技場を見下ろせるその豪奢な空間は、今、ひどく重苦しく、そしてひび割れたような空気に満ちていた。

 ここに集められたのは各陣営の「推薦枠」の生徒たちだ。名家の子女、陣営の切り札、亜人種の代表。ラウンジは入学前の「初顔合わせ」と「腹の探り合い」を行う高位の社交場であり、優雅な服を着た少年少女たちが警戒心とマウントを取り合っている。

 ──だが、その「マウントの取り合い」すらも、空間の片隅で行われている低俗な遊戯に過ぎない。

 ラウンジという同じ空間に居ながらにして、そこには目に見えない、しかし絶対的な「カーストの断層」が存在していた。

 必死に虚勢を張り、自家の権力や魔力総量でマウントを取り合っているのは「新興企業」や「中堅貴族」の子供たちだ。

 彼らから遠く離れた特等席──もっとも優雅で、もっとも静かな空間を領有している一握りの少年少女たち。彼らこそが、両位相の頂点たる『四大創源家』と『四淵王宮』の直系だった。

 彼らの眼には、虚勢や警戒心すら浮かんでいない。あるのはただ圧倒的な余裕と、下位の家柄に対する「同じテーブルに着いているとすら思っていない」という残酷なほどの無関心だ。百年の研鑽を積もうとも決して辿り着けない、血と歴史の特異点。それが最高位の家門だった。

 同時に、特等席にいる彼ら彼女らは完全な初対面というわけではない。両位相のトップ層という極めて狭いコミュニティにおいて、彼らは幼少期から互いの存在を認識し合い、ある時は親同士の腹の探り合いの晩餐会で顔を合わせ、ある時は敵対勢力として殺し合いの盤面で互いの手駒を潰し合ってきた「顔馴染み」の同世代なのだ。

 その断絶された空間の空気が一瞬だけ凍りついたのは、防音扉が開き、二条律が足を踏み入れた瞬間だった。

 ラウンジのちょうど半分を占める『魔法位相』の制服を着た生徒たち──魔力を誇りとする古き貴族の血族たちの視線の一部が、汚れたものでも見るかのような鋭さで律に突き刺さった。

「あれが……二条の……」

「大分断の折、神の恩寵に胡坐をかき、泥と鉄の次元(科学位相)へ逃げた卑しき裏切り者め」

「マナの加護を捨てた野蛮人が、どの面下げて中立空間を歩いているのやら……」

 優雅さを装いながらも隠しきれない、濃密な憎悪と侮蔑の囁きが空間に満ちる。二条家はかつて高次存在に仕えた名門でありながら、魔法という神秘を捨てて科学位相の最高位になった「転向者《裏切り者》」だ。魔法位相の下位・中位の純血主義者たちにとって、彼らへの嫌悪は他陣営へのそれよりも遥かに根深い。

 だが、その無数の敵意と蔑視の視線を浴びても、律の歩幅はミリ単位すら狂わなかった。

 彼には「自分の出自が他人にどう見られているか」というプライドへの執着がすっぽりと抜け落ちている。有象無象の敵意などただの雨のような自然現象にすぎない。律は囁きや痛いような視線を完全に無視し、彼らの輪を素通りして──最高位の特等席群の中央で、一人、一番見晴らしの良いソファに深く沈み込んだ。

「相変わらず、無作法でいらっしゃる」

 ふわりと、消毒液の匂いを完璧に殺した高級な香水が漂ってきた。声の主は、白衣を思わせる純白のドレスを着た少女だった。遺伝子レベルで計算し尽くされたような、人工的で非の打ち所がないシンメトリーな容貌。四大創源家の一角、医療と生命操作の頂点に立つ『久遠くおん家』の令嬢だ。

 彼女の出現と同時、周囲でマウントを取り合っていた下位の生徒の何人かが、弾かれたように言葉を呑み込み、道を開けた。久遠家の最新バイオ技術は軍用兵器より遥かに凶悪であり、彼女の機嫌一つで彼らの実家の寿命が尽きるからだ。

「ああ。久遠の……桜花おうか。昨年の統合企業主催の晩餐会ぶりだな。あの時は、親父同士がずいぶんと腹黒い腹の探り合いをしてたっけな。お前も退屈そうにグラスを回してただろ」

 律は一番見晴らしの良いソファに深く沈み込んだまま、片手を上げて気怠げに応じた。幼少期から何度も顔を合わせている同世代の「トップ層」ならではの、軽口に近い応酬だった。

「お見苦しいところをお見せしましたわね。……ふふ、それにしても」

 桜花は扇子で口元を隠し、遠巻きにこちらを窺う中堅貴族たちを流し見て、薄く笑った。

「推薦枠とはいえ、所詮は『たまたま現在羽振りが良いだけ』の成り上がりや下級貴族たち。彼らには、権力というものを見せびらかして威嚇しなければ自立できない脆弱さがあります。百年かけても、我々のような『世界の仕組みそのものに仕えた』血統には届かないというのにね。……それに比べて、我々は物心つく前から互いの腹の底を見せ合うような付き合いをしてきましたもの。無作法なあなたのお顔を見る方が、よほど安心いたしますわ」

 そう言って親しげに笑った直後、令嬢の瞳に爬虫類のような探りの色が鋭く光った。

「お父様から伺っておりますわ。貴方様が、あの『神体』の恩寵を完全に受肉された至高の完成品であると。我が久遠家のゲノム編集すら児戯に等しいそのお体……もし万が一、怪我病気などございましたら、昔からのよしみで、是非とも当財団の研究室で拝見に──いえ、治療に当たらせていただきたいものですわね」

 幼馴染に近い関係でありながら、油断すれば寝首を掻き切ることを当然の権利として要求してくる。それが科学位相の頂点同士の「付き合い」の形だった。しかし律は、

「生憎ですが、当家直属の医療チームが職なしになってしまう、お気遣いは感謝するが……そもそも俺の体を切り刻んだところで、貴方がたの望む『答え』は出てきませんよ。十年越しの執念にも見切りをつけるべきでは?」

 と、優雅な言葉遣いで相手の技術の限界を遠回しに腐しつつ、権力闘争など面倒くさいという風に冷ややかに笑い飛ばした。桜花は幼い頃から変わらぬ律のペースに一瞬顔を顰めたが、すぐに優雅な微笑を取り繕い、律の向かいのソファに腰を下ろした。

「その狂犬じみた肉体を、医療チームの管理の賜物だと言い切るか。相変わらず、子供のころから吐き気がするほど傲慢な男だ。あの時から全く鼻持ちならない」

 今度は、魔法位相の制服を着た長身の少年が歩み寄ってきた。氷の彫刻のように研ぎ澄まされた冷たい美丈夫であり、銀糸の刺繍が入ったマントは、魔法位相の中立空間を管理する四淵王宮の一つ、『ヴァレンシュタイン家』直系の証だ。

 彼が歩くたび、周囲の空気が物理的に歪むような錯覚が起きた。空間の王族。彼もまた、周囲の下位の魔法貴族たちを「風景の一部」としか認識していない。当然のように彼も律の顔を知っていた。

「貴方が二条律か。五年前の過激派による貴方への暗殺未遂……我が家も次元防壁の管理責任を問われ、厄介な事後処理に追われたものです。まあ、アレを放った愚かな者たちは、手を出した翌日に貴方の父親が差し向けた大軍勢によって族滅させられましたがね。その折の『停戦会談』で、退屈そうに窓の縁に座っていた少年の顔を覚えていますよ」

「ああ、あの時の。そいつは災難だったな。ヴァレンシュタインの次期当主殿……アルベルトも、親父の尻拭いで苦労してるってわけだ」

「ええ。ですが、こうして生きた完璧な恩寵の体現者を拝見できるとは」

 ヴァレンシュタインの少年の瞳には、下位の魔法貴族たちが向けていた「裏切り者への憎悪」とは全く質の違う、底冷えのするような冷徹な観察の光があった。

「物理法則の檻に囚われた科学陣営が、唯一すがる神代の奇跡──我々のような星の理を繋ぐ者以外に、どこまで『本質』を理解できるのか。お手並み、楽しみにしていますよ」

 男は冷ややかな敬礼を残して背を向けた。

 他の生徒たちが向けていた感情むきだしの嫉妬や威嚇闘争は、このトップ連中の間には存在しない。あるのはただ、お互いが「自分と同列に立つ脅威」であるという静かで残酷な認識だけだ。

 律は小さく息を吐いた。

 興味がないのだ。「誰が一番上か」などという世俗のイデオロギーやプライドへの執着が、彼にはすっぽりと抜け落ちている。彼は一人、一番見晴らしの良いソファに沈み込み、眼下で行われている泥臭い「クラス分け実戦試験」をふたたび気怠げに見下ろし始めた。

 アリーナでは、一般入試を突破した約二百人が、入学後の初期クラスと待遇を懸けて乱戦を繰り広げていた。

 鼓膜を揺らすのは、音速を越える携行型電磁加速砲の甲高い飛翔音と、それを相殺すべく展開された魔法防壁が爆ぜる破砕音。宙では自律型のマイクロミサイル群が幾筋もの白煙を引きながら不規則に踊り、地上では泥と血に塗れた魔法使いの卵たちが放つ灼熱の炎槍や、空間を縫い止める拘束陣の淡い発光が暴力的に交差している。まさに、科学の演算と魔法の神秘が一切の洗練なく正面から殺し合う地獄絵図だ。

「……面白い」

 律の視線は、その地獄の中で一際異彩を放つ男に釘付けになっていた。

 赤毛の長身。油と鉄の匂いを染み込ませたような野性味のある風貌と、ぎらつく肉食獣のような鋭い瞳。廃材を寄せ集めたような無骨な強化外骨格を着込んだ男が、大手企業の最新鋭装備を持った科学位相の生徒たちや、魔法使いの卵たちを、次々とスクラップにしていく。

 美しい洗練など全くない。ただ生存と勝利だけに特化した、スラムの野犬のような暴力だった。

「──なんだ、ここは。ひどく獣臭いな」

 ふいに、ラウンジの中央で甲高く苛立った声が響いた。

 声の主は、科学位相の高級な制服を着たエリート公家の少年だった。彼は露骨に鼻をつまみ、魔法陣営の「亜人種推薦枠」として窓際に固まっていたエルフや獣人の生徒たちを冷笑と共にねめつけた。

「野蛮で騒々しいことですわね」

 律の向かいのソファに座っていた久遠の令嬢が、扇子で口元を隠して冷ややかな視線を向けた。

「あれはたしか、最近エネルギー産業で飛ぶ鳥を落とす勢いを持つ新興の巨大企業──『黒鋼重工業』を束ねる黒鋼家の……ご子息でしたか?」

「いや」

 律は眼下のアリーナから視線を外さず、気怠げに応じた。

「あそこの本命は、確か男女の双子だったはずだ。だとすると、あれはそのおこぼれに預かってるだけの分家か、手柄を焦ってる出来の悪い身内ってとこだろうな。本物の虎は、あんな場所でキャンキャン吠えない」

「ふふ、辛辣なこと」

 そんな二人のひそやかなやり取りをよそに、中央の少年はさらに声高に吠え立てた。

「おい、動物園の檻と入園ゲートを間違えたんじゃないのか? ここは人間(われわれ)のラウンジだ。それとも魔法位相は、いまだにケダモノにテーブルマナーを教えられずにいるのかい」

「──誰がケダモノだ、泥と鉄の次元の野蛮人がァッ!!」

 その瞬間、亜人種の集団から最も体格の良い竜人の生徒が激昂し、床を蹴った。

 分厚い鱗に覆われた剛腕が、少年に向かって大木のような裏拳を振り抜く。直撃すれば首の骨など容易くへし折れる一撃。少年はあまりの速度と迫力に反応すらできず、悲鳴を上げて目を閉じた。

 だが、その裏拳が少年の顔面を粉砕することはなかった。

 ──ガキィンッ!!!

 硬質な金属の衝突音が、ラウンジ全域に甲高く鳴り響いた。

 いつの間にか、少年のすぐ目の前に見知らぬ小柄な少女──『黒鋼家』本命の双子の一人、黒鋼 燐が割り込んでいた。一般生徒と同じ標準の制服を着こなした彼女は、制服のスカートの裾から覗く「機械化された右足」を真っ直ぐにカチ上げ、竜人の凶悪な腕力による裏拳を、刃のような足技一つで完全に受け止めていたのだ。

「……なっ」

 竜人が驚愕に目を開いた、その時だった。

 ガカカッ、と少女の右足の装甲がスライドし、凶悪な大口径の銃身が展開された。義足そのものが近接戦闘用の重火器機構を内蔵していたのだ。

「うちの出来の悪い身内が失礼したわね、トカゲさん。でも──」

 ズドンッ!!!

 至近距離から火を噴いたスラッグ弾の爆炎が、竜人の巨体を数メートル後方へと吹き飛ばした。鋼のように硬い鱗が砕け散り、焦げた血の匂いがラウンジに立ち込める。

「先に手を出したなら、『過剰防衛』で撃ち抜かれても文句は言われないわよね?」

 白煙を上げる右足の銃口を向けたまま、氷のように冷たく言い放つ少女。

 即座に、古き盟約の魔法貴族の一人が杖の柄に手をかけた。

「……無作法な。魔法陣営に対する宣戦布告と受け取るぞ、科学の犬共!」

 怒号と共に、魔法陣営の数名が詠唱を始め、室内のマナが不穏に膨張する。同時に、科学陣営の生徒たちもスーツの下の小型武装や掌底のナノポートを起動し、迎撃態勢を取った。

 先の大戦で数億を失った両陣営の対立──特に、かつて亜人種を核兵器で焼き払った科学位相と、魔法位相との消えない遺恨。その縮図のような一触即発の空気が、ラウンジを最悪の温度で満たした。

 その殺気立った殺し合いの円環のわずか斜め上空。

 紫の魔法陣を展開し、地上五十センチの虚空にふわりと浮遊したまま、一人の少女がその光景を無表情で見下ろしていた。

 灯花ミレーユ。

 魔法陣営の「名家」に連なる血筋でありながら、彼女は同調して杖を構えようとはしなかった。紫水晶の瞳は完全に感情を排し、展開された科学側の武装の数、魔力反応の規模、そしてそれが衝突した際の「自身の被害に対する回避コスト」を計算機のように弾き出している。彼女にとってこの場は陣営の誇りを示す場所ではなく、単なる有害な損益分岐点に過ぎない。

「双方、そこまでにしろ」

 凍りついた空気を、さらに冷徹で透明な声が切り裂いた。

 声の主は、黒鋼の燐と魔法貴族たちの間に立つように歩み出た、一人の少年だった。色素の薄い金髪と、透き通るような碧眼。仕立ての良いスーツを着こなし、手にはタブレット端末のみを持っている。

 科学位相の『四大創源家』の一角──情報と因果律の支配者、アークライト家の子息・ノアだ。

「このラウンジは初顔合わせの場であると同時に、各陣営の『有用性』を推し量る観測点だ。入学前に流血沙汰を起こせば、お互いの陣営の利益と生産性を著しく損なう結果を招く。……その銃を収めろ、黒鋼。貴女の射線上にいる魔法使いの心臓より先に、貴女の義足の制御AIを焼き切るぞ。感情の発露で自己のリソースを無駄にするのは非効率だ」

 ノアの声には一切の抑揚がなかったが、タブレットに表示された演算コードが燐の義足の周波数をすでに特定しているのが見て取れた。燐は舌打ちと共に、銃身を足の装甲内へとスライドさせて収納した。

「……そちらも、いい加減に引っ込めてはどうかな。灯花も、同陣営の暴発を抑える気がないなら、そこから退いてもらおう」

 ノアに名指しされ、空中に浮いていたミレーユは僅かに魔法陣の高度を下げた。

「無駄な契約と出費は避ける主義だから」

 それだけ言い残し、彼女は音もなく特等席の窓辺へと後退して、興味を失ったように目を伏せる。

 今度は魔法陣営の中から一人の令嬢が進み出た。

 新緑の衣を纏ったエルフの少女だ。その周囲には微小な精霊が蛍のように舞い、マナの波乱をたった一言で凪のように鎮めていく。

 魔法位相の『四淵王宮』、星の記憶を編纂する最古の血統──ルーセント家の姫君・シルヴィア。

「その竜人は、うちの末席が失礼をしたようね。でも、科学の方々もこれ以上の無防備な威嚇はご遠慮いただきたいわ。精霊たちが、怯えてしまうから」

 シルヴィアが優雅に微笑むと、展開されかけていた魔法使いたちの術式が、彼女の周囲の圧倒的なマナの密度差によって完全に霧散させられてしまった。

 科学位相の頭脳アークライトと、魔法位相の深淵ルーセント

 それぞれの頂点に立つ家の者が場を制圧したことで、先ほどまでの熱狂的な敵意は強制的に冷却され、生徒たちは渋々ながらも武装を解き始めた。

「あいつらもご苦労なこった。あんな有象無象のヒステリーの仲裁なんか、ノブレス・オブリージュに満ちている人格者なことだ。」

 その制圧劇の顛末を、最も優雅な特等席のソファから欠伸交じりに眺めながら、律が気怠げに呟いた。

「同感ですわ。所詮は下等な争い、放っておけばよろしいものを」

 向かいの席に座る桜花も、扇子で口元を隠しながら全く同じ冷ややかな目つきでその光景を品評していた。

「ノアもシルヴィアも、立場上『場を弁えろ』とご立派に窘めてはおりますが……あれらもまた、我々と同じ穴の狢。心の中では、眼下の泥人形たちが何十人死のうが欠伸一つ出ないでしょうに。優等生を演じるのも大変な労力ですこと」

「全くだ。俺だったら、あそこで面倒な重火器をぶっ放した義足の女ごと、そのまま首根っこ掴んで床板に叩き伏せてるところだがね」

「ふふっ、本当に野蛮なお方。そういうところは、昔から嫌いではなくてよ」

 二人にとって、目の前で起きた一触即発の危機も、そしてそれを制圧した同格のトップ層すらも、安全圏から眺める退屈な三文芝居でしかなかった。

「相変わらず、外野から品評して楽しむのがお好きなようだな。二条、それに久遠も」

 ふいに、静止した空間に澄んだ足音が響いた。

 先ほどアリーナの暴発を完璧に抑え込んだノアが、タブレット端末を片手に二人の座る特等席へと戻ってきたのだ。

 その背後には、同じく魔法の暴走を鎮めきったエルフの令嬢・シルヴィアが、ふわりとした足取りで付き従うように──いや、互いの背後を取り合うような絶妙な距離感で続いている。

「ご苦労だったな。風紀委員長殿」

 律はソファから立ち上がることもなく、片手をひらひらと振った。

「やれやれ。うちの情報収集AIが下位の生徒たちの『闘争心』と『暴発確率』を監視していなければ、今頃このラウンジは血の海だったよ。君たち創源家や四淵王宮が、誰一人として状況を収拾しようとしないからだ」

「あら、ノア様」

 桜花が扇子をパタンと閉じた。

「我々のような特権階級が、下級貴族や成り上がりの喧嘩の仲裁にわざわざ首を突っ込むなんて、それこそ『位負け』というものでしょう? 貴方こそ、情報の支配者たるアークライトの御曹司が、随分と泥臭い真似をなさるのね」

「情報を支配するからこそ、無駄な資源の損失は事前にカットするだけのことだ」

 ノアは薄い色の瞳で桜花を一瞥し、そして律へと視線を移した。

「二条。君がわざわざあのような挑発的な態度で歩き回り、魔法陣営のヘイトを買ったのも計算のうちだろう? だが、その『遊び』の余波で無駄な演算リソースを割かされたこちらの身にもなれ。感情に基づいた行動は、ただのノイズだ。もっと効率よく動けないのか」

「買い被りすぎだ。俺はただ、一番座り心地のいいこの特等席に一直線に歩いてきただけさ」

「ふふ……本当に皆さん、相変わらずですのね」

 鈴を転がすような笑い声とともに、シルヴィアが会話に割り込んだ。

「科学の方々の計算高いところも、野蛮なところも、幼い頃の『平和構築会議』で拝見した時からちっとも変わっていらっしゃらない。特に二条の君」

 彼女の深い森のような瞳が、律の極限まで完成された肉体を興味深そうに舐め回す。

「我々ルーセントの『星の記憶』の書庫にも、貴方のような神の恩寵の完成形は数名しか記録されていませんわ。もしこの学院で傷つくようなことがあれば、どうか私に一番にお知らせくださいね。私が直々に『編纂』して差し上げますから」

「星の記憶ねえ。久遠のゲノム解剖の次は、魔法のホルマリン漬けのお誘いか。モテる男は辛いね」

 律の露悪的な軽口に、シルヴィアはくすくすと上品に笑い、横で聞いていたアルベルトが呆れたようにため息をついた。

「君という男は、神の恩寵を持ちながら、その価値の重さを微塵も理解していない。やはり君たち科学の連中とは、星の裏と表を見ているような気分だ」

「違いない。まあ、仲良くやろう? せいぜい『世界を壊さない程度』に」

 律は獰猛な笑みを浮かべたまま、目の前に揃った四人の「世界最高位」の少年少女たちを見回した。

 二条、アークライト、久遠。

 ルーセント、ヴァレンシュタイン。

 科学位相の『四大創源家』と、魔法位相の『四淵王宮』。

 両陣営の歴史と因果関係の頂点に立つ彼らが、この狭い特等席で薄ら笑いを浮かべながら牽制し合う光景は、眼下で行われていた泥臭い実力行使など児戯に思えるほど、濃厚で致命的な毒気をはらんでいた。

 彼ら全員が理解している。この場で最も警戒すべき敵は、喚き散らして銃火器を持ち出す下位の者たちではない。

 今、目の前で優雅に笑い合っているこの生き物なのだと。

 その歪で強大なプレッシャーに、ラウンジ内の空気が恐怖で凍りついていた。

 先ほどまで口角泡を飛ばして派閥争いやマウントを取り合っていた中堅貴族や新興企業の生徒たちは、特等席を中心とした半径十メートルに誰も近づけず、青ざめた顔で壁際に張り付いている。

 同じ部屋の空気を吸っているだけで、致死量の放射線か呪詛を浴びているような圧迫感があった。言葉の端々に「星の記憶(記録)」や「ゲノム解剖」といった、物理的に一族が一つ消し飛ぶような権力のスケールが混じっており、彼らのような常識的な(・・・・・)下位の人間には、とてもではないが会話の輪に入ることなど不可能であり勇気すらもなかた。

 次期生徒会の要人たちが頭を抱える中、部屋の最奥の特等席で、二人の「超越者」がその光景を静かに見下ろしていた。


 一人は、超高精度のナノアセンブラで構築された巨大で無骨な強化外骨格を軍服のように着崩した大男。科学位相の重工業を牛耳る四大創源家『グランチェスター家』の長男にして、力と法で学院を支配する**生徒会副会長・アーサー**。

 もう一人は、真っ黒な外套を纏い、威圧的なアーサーとは対照的に薄暗く温和な笑みを浮かべている女性。170センチ代後半の長身と肉感的なプロポーションを持ちながら、魔法位相の最下層スラムから純粋な実力と狂気だけで這い上がり、かつてアーサーを一対一の決闘デュエルで完膚なきまでに叩き潰して服従させ、この狂った学院の頂点に立つ**生徒会長・イライザ**だ。


「……野蛮な新入生どもだ。自由主義を履き違えている」

 アーサーが、地鳴りのような低い声で吐き捨てた。

「俺が副会長(風紀統括)である以上、この学院の泥臭いルール違反は一切容赦しない。特にあの二条の『恩寵』……機械ではなく生身のみで完成された存在などという非科学的なバグは、俺の部隊で合法的にミンチにしてやろうか」


 アーサーの全身から漏れ出す圧倒的な暴力の気配に、周囲の上級生たちが息を呑む。

 しかし、生徒会長であるイライザは、モニターの中の二条律を見つめたまま、ただ優しく──酷く冷たい眼差しで微笑んでいた。


「構わないよ、アーサー。君の力と法で彼らを『適度に』間引いてくれるなら、私は大歓迎だ」

 イライザの足元で、彼女が使役する名もなき悪霊たちが泥のように蠢き、薄暗い呪詛の気配を吐き出している。

「私はただ……この下劣な殺し合いのサイクルを綺麗に終わらせたいだけなの。あの子たちの未来のために、ね」


 血統も財力もない泥水の中から這い上がり、自らが最大の劇薬になることでこの異常な特権階級の箱庭を変革しようと企図する心優しき怪物。

 アーサーは鼻を鳴らし、かつて自分を正面から叩き潰した、この美しい長身の女の異常な自己犠牲精神を横目で一瞥した。


「相変わらず虫唾の走る綺麗事だ。己の手を一番血と呪いで汚している女のセリフとは思えん」


「君のような分からず屋がいるから、私も苦労しているのよ」

 イライザはくすくすと笑い、『神代の最高傑作』という自分とは真逆の強さを持つ怪物の歩みを、モニター越しに静かに見据えた。


 彼ら上級生もまた理解していた。

 あのラウンジで笑い合っている五人の『バケモノ』たちが合流した瞬間、この学院はもはや教育機関としての限界を迎え、巨大な爆心地へと変貌することを。

 そして、それを自分たちの法と呪詛でいかに御するかが、これからの彼らの至上命題であることを。





 一時間後。クラス分け実戦試験が終了し、コロセオ・アリーナの中央に巨大な壇上がせり上がってきた。

 ここにおいて、新入生約三百名は「学院の洗礼」を座席という形で如実に突きつけられていた。


 絶望的なまでのヒエラルキー。


 すり鉢状のアリーナの最底辺──泥と硝煙と血に塗れた「グラウンドレベル」には、パイプ椅子すら用意されず、実戦試験で醜態を晒した下位から中位の一般生たちが、手当てすらされずに満身創痍で立たされている。

 そこから一段高い「中層の観客席」には、実戦試験で圧倒的な戦果を上げた上位の一般生(や、中堅貴族・新興企業の推薦枠たちが、支給されたクッションの効いた座席にふんぞり返っていた。


 そして、そのすべてを見下ろす最上層の「特注席」。

 無傷のままラウンジから涼しい顔で降りてきた『四大創源家』と『四淵王宮』の直系たち。

 律、ノア、桜花、シルヴィア、アルベルトといった生まれながらにして持つ者たちは、ふかふかの革張りソファに深々と腰掛け、執事や従者が用意した冷たいグラスを傾けながら、見世物小屋の動物でも観察するように眼下の一般生徒たちを見下ろしている。


 入りたくても入れなかった者がいる。力で這い上がった者がいる。そして、生まれながらにしてすべてを優雅に見下ろしてきた者がいる。


 ここが、平等などという綺麗事が通用しない「自由と結果の檻」であるという最も残酷な証明だった。


 静寂の中、一段高い壇上に真っ黒な外套を纏った長身の女性が進み出た。

 生徒会長──イライザ。一切の後ろ盾を持たぬまま、前年度の頂点たる特権階級たちを血祭りにあげてこの狂った学院の頂点に立った怪物だ。

 彼女はマイクも魔法の拡声器も使わなかったが、その口元から零れた優しく温和な声は、呪詛のように三百人の新入生全員の耳元に直接こびりついた。


「──新入生の皆さん。クロスノード学院へようこそ」


 イライザは薄暗く、しかし慈愛に満ちた笑みを浮かべて会場を見渡した。


「傷の痛みはどうかな? 魔法で焼かれた者、銃弾で四肢を吹き飛ばされた者、無様に泥水を啜った者もいるね。……でも、安心してほしい。君たちは素晴らしい。あの地獄を生き延びて、今この場所に立っているのだから。私は君たち全員を、心から歓迎し、誇りに思うよ」


 その言葉は、表面上はどこまでも優しく、労わりに満ちていた。

 しかし、底辺に立つ一般生たちは誰一人として安心できなかった。むしろ、その言葉の下に潜む絶対的な温度差──殺虫剤を撒かれた虫を観察するような冷徹な眼差しに、背筋を凍らせていた。


「ただね、一つだけ可哀想な事実を教えよう」

 イライザはふわりと笑った。

「君たちが今感じているその『死の恐怖』と『理不尽な痛み』は……今後この学院で生活していくための、単なる『日常の始まり』に過ぎないんだ」


 壇上の生徒会長の足元で、彼女の影が生き物のように蠢いた。


「この学院は、世界を平和に導くための神聖な箱庭。だからこそ、ノイズは許されない。もし君たちが、私の愛するこの箱庭の存続を脅かすような愚行を犯せば──その時は、私が責任を持って、君たちの存在を綺麗に消去してあげる。……どうか、私の手を煩わせないで、良き生徒として生き抜いてね」


 イライザは優雅に一礼し、ゆっくりと壇上から退いた。

 その温和すぎる、しかし暴力以上の死の恐怖を孕んだ『歓迎の辞』に、闘技場は水を打ったような完全な沈黙に支配された。


 イライザの退場と入れ替わるように、今度は重装甲のブーツが金属の床を激しく叩き割るような足音と共に、巨大な男が壇上の中央へと進み出た。

 科学位相の重工業を牛耳る『グランチェスター家』の長男であり、この学院の風紀と法を力でもって執行する男──生徒会副会長・アーサーだ。


「……虫唾の走る無能どもの集まりだ。だが、聞いておけ」


 アーサーの声は拡声器を通し、雷鳴のようにアリーナ中へと轟いた。新入生たちの体に物理的な振動を伴って圧し掛かる。


「会長は『存在を綺麗に消去する』などと詩的な言葉遊びをしたが、俺が副会長を務めている以上、俺の管轄でそのような甘い逃げ道は用意されていない」


 彼の纏う軍用規格外の強化外骨格が、ミリ秒単位で威嚇の駆動音を鳴らした。


「この学院は自由だ。それは真実だ。しかし、自由とは『法という絶対的な鉄の壁』の内側でのみ許される娯楽だ。貴様らが互いに殺し合おうが、泥水を啜ってトップに這い上がろうが構わん。だが──学院の存続に関わる『秩序』を一つでも逸脱した場合、俺の部隊が貴様らの肉体と思想を物理的に粉砕してミンチに変える。法治主義の恐ろしさを、その脆弱な髄まで叩き込んでやる」


 アーサーの全身から放たれるのは、イライザのような底の見えない呪詛の恐怖ではなく、ただ眼の前にあるものを問答無用で押し潰す「圧倒的な純粋暴力」の圧政だった。


「規律を守れ。強者であれ。それができない弱者は、今すぐこの場で腹を切って死体となって退場しろ。……以上だ」


 アーサーが踵を返し、重々しい足音と共に壇上から降りる。

 イライザの呪詛のような恐怖と、アーサーの圧倒的な暴力による抑圧。アメとムチどころか、種類の違う猛毒を立て続けに注射されたような地獄の歓迎に、三百人の新入生たちは誰一人として声すら出せずに立ち尽くしていた。


 その異様なまでの沈黙の中。

 三番目に壇上へと上がったのは、老教員だった。


 白髭。単眼鏡。この時代のどの位相の流行にも属さない、意図的な時代錯誤。


 教授・クラウディウス・ノヴァ。学院の設立メンバーの一人。経歴の大半が黒塗り。二条グループの最高機密データベースをもってしても、この男の出自と年齢は特定できなかった。


「諸君」


 声が届いた。拡声技術でも伝達魔法でもない方法で、三百人全員の鼓膜を等しく震わせた。律の五感がその異常を正確に検知した──音が空間を伝播していない。各個人の聴覚野に直接、情報が挿入されている。


 科学でも魔法でもない。あるいは、その両方の上位にある何か。


 律の背筋を、入学以来初めての緊張が走った。


「歓迎の言葉は省く。君たちはそれを聞きに来たわけではないだろう」


 クラウディウスは壇上の校章──歯車と魔法陣の紋章──を一瞥した。


「この学院には二つの掟がある。一つ──**何を学び、何を捨てるかは、すべて君たちの自由だ**。出自による制限はない。科学の人間が魔法を学んでもいい。魔法の人間が銃を撃ってもいい。ただし」


 彼の声のトーンが、一段下がった。


「自由には値札がつく。選んだ結果の責任は、すべて君たちが負う。ここには庇護者はいない」


 会場の空気が冷えた。推薦枠の生徒──名家の子弟たち──が特にその言葉の重さを受け止めたはずだ。


「二つ──**結果を出せ**。血統も財力も種族も、ここでは何の意味も持たない。君たちの価値を決めるのは、何を成し遂げたかだけだ。成績下位者には退学勧告が出る。再挑戦の機会は与える。だが、三度目はない」


 三度目はない。


 その言葉の重みを推し量ろうとした新入生たちに「これより、貴様らの半年間の生活が始まるわけだが……その前に、一つだけ絶望的な事実を伝えておこう。諸君が今日、この学院の敷地に足を踏み入れた瞬間から、学院全域を覆う『隔絶防壁』はすでに完全稼働している」


 その言葉の意味を理解し、頭の回転が早い生徒たちの顔色がサッと変わる。


「そうだ。すでに防壁の『中』に入ってしまった以上、外部との物理的、および情報的な接触は完全に遮断されている。親の権力を笠に着ることも、企業に泣きつくことも一切不可能だ。夏と冬の長期休暇まで、この檻が開かれることは絶対にない。期間中に外へ出る手段は、退学処分になって追放されるか、あるいは……死体袋に包まれて搬出されるかの二つに一つのみだ」


 クラウディウスの容赦のない宣告が、アリーナを重く押し潰す。


「これより半年間、貴様らは完全な密室で己の価値のみを頼りに生き抜くことになる。ここは自由と結果の檻だ。存分に這い上がり、引きずり落とし合え。学院は、最期まで立っていた者だけを評価する」クラウディウスの表情からは一切の感情が読み取れなかった。


「最後に一つだけ、忠告しておく」


 老教授は会場全体をゆっくりと見回した。律は、その視線が自分の上で一瞬──ほんの〇・二秒だけ長く止まったことに気づいた。


「**君たちの常識は、世界の半分しか見ていない**。そして半分しか見ていない人間は──」


 片方の目のモノクルが、光を反射した。


「──半分しか生き残れない。Welcome to CROSS NODE」


 沈黙が、闘技場を満たした。



   ✦ ✦ ✦



 入学式の後。


 三百人の新入生たちはそのままアリーナに残され、今度は上級生たちによる「オリエンテーション」が行われていた。

 教員たちは早々に姿を消し、壇上に立っているのは生徒会腕章をつけた数名の二年生たちだ。その中心でマイクを握っているのは、眼鏡をかけた温和そうな小柄な男子生徒だった。先ほどの狂気じみた副会長や生徒会長とは違い、ひどく常識的で柔らかい雰囲気をまとっている。


「──ええと、新入生の皆さん。本当にお疲れ様でした。僕は生徒会で書記を務めている、ルカと言います。実戦試験でひどい怪我をした方は、後ほど医療の専門区画へ案内しますからね」

 ルカは困ったように笑いながら、手元のタブレットを操作した。

「先ほどの試験のスコアと、推薦枠の評価に基づき、皆さんの『初期クラス』と『寮の階層』は既に決定されています。上位の方は設備設備の整った最上層へ、下位の方は……ええと、基礎的な設備のみの下層へ割り当てられます。ご自身の支給端末(PDA)にデータが送られているので、後で確認してください」


 その言葉に、ボロボロになっていた下位の一般生たちが絶望の表情を浮かべた。

 ルカは少しだけ申し訳なさそうに言った。

「でも、落ち込まないでください。この学院は完全実力主義です。明日にでも『デュエル(査定戦)』を申請して下克上を果たせば、すぐに待遇は逆転します。……まあ、奪われた側は下に落ちるわけですが」


 そこでルカは区切るように咳払いをした。

「さて。各施設の案内などは端末のマップを見ていただくとして……何か質問のある方はいますか?」


「はい!」


 勢いよく手を挙げたのは、科学位相の一般生だった。「下層」への割り当て通知を見て青ざめている。

「あの、先ほどクラウディウス教授が『防壁はすでに稼働していて外部との連絡は物理的に不可能』と言っていましたが……それ、マジなんですか? 俺ら、これから半年間、家族や実家の企業と一切連絡が取れなくなるってことですか!?」


「あー……それは事実です」

 ルカは苦笑しながら頷いた。

「学院を覆う『隔絶防壁』は、両位相の不可侵領域を疑似的に作り出すものです。電波も、量子通信も、魔法の念話も、使い魔も、すべて弾かれます。特待生だろうが最上位の貴族だろうが、いかなる例外もありません」


 ルカは片目を瞑ってみせた。

「親の権力にすがることも、実家からの助けを呼ぶことも一切不可能です。すでに皆さんは完全に隔離された密室の檻の中にいます。自分の力と知恵だけで半年間生き抜いてください」


 会場に「半年間の完全な隔離」という現実が改めて重くのしかかり、重苦しい空気が漂う。

「他に質問は? ……無いようなら、これにてオリエンテーションを終了します。各々、自分の部屋でゆっくり休んでください。……くれぐれも、夜間の私闘で死体を増やさないようにね」


 最後だけ、ルカの声は少しだけ冷たかった。どれだけ温和に見えても、彼もまたこの狂った学院を生き抜いている上級生なのだ。


 その光景を、最上層のバルコニー席から見下ろしながら、五人のトップ層たちは退屈そうに会話を交わしていた。


「……完全な通信の遮断。それに寮の階層分け、か」

 ノアが支給された端末に視線も落とさず、自身の情報端末で学院のネットワーク基盤を解析しながら呟いた。

「この防壁による物理的・論理的遮断……呆れたな。歴代の管理者が代替わりのたびに異常なアレンジを加え続けた結果、極悪な多層暗号になっている。過去に何人も頭のおかしい天才どもが防壁の構築に関わったせいで、僕のアークライトの演算をフル稼働させても、バックドアを作成して外部と常時接続するのは不可能に近い」


「あら、全知を誇るアークライト家でも無粋なハッキングは不可能ですのね。せっかくの『箱庭のルール』なのですから、大人しく従っておくことですわ」

 桜花がふかふかのソファで足を組み、グラスの縁を指でなぞりながら優雅に笑う。彼女の言葉の裏には「我々でさえ突破できないのなら、誰も破れない絶対の箱庭として楽しめる」という、悪びれない傲慢さが張り付いている。彼女の支給端末には当然のように『最上層の一人部屋(研究用設備付き)』と表示されている。

「それにしても……眼下で這い回る一般生たちへのアナウンス、実に耳障りですわ。どうせ我々には無関係な『下層の首輪』の使い方の説明なのに」


「まったく同感だ。魔法に対する無知と恐怖から生じた、滑稽なまでの管理体制だな」

 アルベルトが腕を組み、冷ややかな視線を眼下のアリーナに向けた。

「我がヴァレンシュタインの空間魔法を用いても、このイカれた結界をすりぬけるのは骨が折れる。……まあ、星の崩壊を防ぐための『緩衝地帯』という名目を立てて、学生のうちは大人しくしてやるつもりだがね」


「あら、アルベルトも随分と丸くなったのね。でも、あまり無理をして『人間のルール』に縛られると、精霊たちが窮屈がってしまいますわよ?」

 シルヴィアが花が咲くように微笑みながら、手のひらで光る魔力の残滓を戯れに空へ放った。


 彼ら四大創源家・四淵王宮の直系にとって、学院が用意した「絶対のルール」や「過酷な環境」など、初めから存在しないも同然だった。彼らは最初から最高級の待遇を保証されており、その気になれば学院のシステムそのものを技術や魔法で容易く凌駕できる。

 だからこそ、血眼になってルールの詳細を聞き入る一般生たちの姿が、檻の中の鼠のように滑稽に見えるのだ。


「……お前ら、通信のハッキングだの防壁の突破だの、初日から退学処分になりてえのか」

 律はソファの背もたれに深く体重を預けたまま、呆れたようにため息をついた。

「親父からの小言が増えるから、派手な真似はよしてくれよ。俺はしばらく、この静かな『密室』で暇潰しをするつもりなんだから」


「ふふ、一番派手に暴れ回りそうなあなたに言われるとは心外ですわね」

「違いない」


 五人は顔を見合わせて、不気味なほど楽しげに笑い合った。

 同じ頂点に立つ者同士にしか通じない、世俗のルールを逸脱した者たちだけの暗い連帯感。

 眼下では泥まみれの一般生たちが過酷な現実に震える中、最上層の特等席だけは、これから始まる『盤上の遊戯』を心待ちにする神々のような余裕と傲慢さに満ちていた。



   ✦ ✦ ✦



 学生寮の最上層。

 そこは、一般生たちが押し込められている地下の独房とは別次元の空間だった。


 高級ホテルのスイートルームを思わせる広大なリビング。科学位相の最新鋭の環境制御システムが完璧な温度と湿度を保ち、特注の防音壁が外の喧騒を完全に遮断している。壁一面の巨大な窓ガラスからは、クロスノードの人工的な夜景と、学院をドーム状に覆う薄青い『隔絶防壁』の光がうっすらと見えていた。


 律は制服の上着を脱ぎ捨て、革張りのソファに深く身を沈めた。

 外部のノイズを完全に遮断された密室。この防壁の内側にいる限り、二条グループの巨大な権力も、あの過保護すぎる家族たちの愛も、一切届くことはない。


「通信は完全に死んでる、か」


 手元のPDAや、持ち込んだ個人の情報端末を確認するが、当然ながら外部ネットワークへの接続はすべて物理的に弾かれている。

 本当に自分の足だけで立たなければならない。他の一般生であれば、家族や実家と連絡すら取れないこの状況に恐怖や心細さを抱くかもしれない。だが、長年あの『愛という名の異常な過保護』の波状攻撃を受けてきた律にとって、この絶対的な情報隔離空間は、ある種の奇妙な安堵と解放感をもたらしていた。


「親父からの小言もない。母親からの過剰な体調確認もない。……悪くない環境だ」


 律はぽつりと呟き、広すぎるリビングの天井を見上げた。

 そして、窓の外──自分と同じように最上層を与えられているであろう、いくつかの部屋の灯りへと視線を向ける。


 ノア、桜花、シルヴィア、アルベルト。

 共にラウンジで顔を突き合わせた、法則外のバケモノたち。血筋も背景も違うが、皆同じように最初からこの異常な箱庭の頂点に放り込まれた同類たちだ。


「……明日から、本格的にカリキュラムが始まる」


 律は静かに目を閉じ、コロセオ・アリーナで交わされた冷酷極まりない演説の数々を思い出す。

 ここは教育機関ではない。世界を維持するための巨大な実験場であり、生存競争の檻だ。

 上位陣であろうと、いつ足元を掬われるか分からない。


「まずは、同じ階層の連中と情報交換だな。あいつらなら、このイカれた学院の裏のルール(仕組み)についても、何か噛み砕いてくれるかもしれないしな」


 敵か、味方か。それはまだ分からないままだが、あのラウンジで嗅ぎ取った異常なまでの同類の匂いだけは本物だった。


「せいぜい、最高傑作の名に恥じないように、暴れさせてもらうか」


 泥濘のように蠢く下層の欲望と、天上で輝く最上位の白き閃光。

 神代の最高傑作は、期待と警戒の入り混じった獰猛な笑みを浮かべると、防壁に完全に閉ざされた初日の夜の闇へとゆっくりと意識を沈めていった。



  【第一部・序章 終わり】

閲覧ありがとうございます。初投稿です。ライブ感で書いてあるので進行につれ改変される可能性があります。テセウスの船にならないよう鋭意努力します。  

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