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魔獣肉の解体職人、首都の路地裏屋台で棘背蜥蜴《とげせとかげ》の白身を焼く  作者: 蒼月よる


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第9話 出資者

 そいつは、路地裏の屋台には場違いな革靴を履いていた。


 昼の営業が落ち着いて、鍛冶職人たちが工房に戻った後の、ぽっかり空いた時間帯だ。七輪の火を落とすか迷っていたところに、一人の男が角を曲がってきた。

 身なりがいい。仕立てのいい外套に、磨かれた銀のカフス。中年で、顔は穏やかだが、目だけが商人のそれだった。値踏みするような、品定めするような——まあ、大市場で何百回と見てきた目だ。品物を見る目じゃなく、人を見る目。この男は肉を食いに来たんじゃない。あたしを見に来たのだ。


「ここが噂の屋台かな」


 男は木の腰掛けに座ると、周囲をゆっくり見回した。屋根もない、壁もない、七輪と折りたたみ台だけの路地裏の屋台。白い石灰岩の壁に囲まれた狭い路地で、見上げれば赤褐色の瓦屋根の間に空が細く切り取られている。男の外套の裾が地面の砂を拾ったが、気にした様子はなかった。


「何にする」

「おすすめを」

「棘背蜥蜴の尾根元蒸し焼きと、装甲猪の塩焼き。蒼酒もつけるか」

「では、それで」


 注文を受けて七輪に火を足す。炭が赤く熾って、空気がゆらりと歪んだ。棘背蜥蜴の尾根元はすでに下処理を済ませてあった。血抜き三度、骨と筋を外し、根元の隙間に張り付いた白身を包丁の先端で丁寧に剥がし取る。この作業だけで半刻はかかる。解体場で何百回とやった手つきだから、手が勝手に動く。白身を集めると片手に乗る程度の量にしかならない。だからこそ価値がある。

 集めた白身を蒼苔の葉で包んで蒸し焼きにする。弱火でじっくり、蒼苔の葉から薬膳の香りがじわじわと白身に移っていくのを待つ。急いだらだめだ。蒼苔の香りは弱火でないと白身の繊維に入っていかない。強火だと表面だけに香りがついて、中はただの蒸し魚みたいになる。

 装甲猪の塩焼きは端材の頬肉を使う。頬肉は脂が適度に入っていて、繊維が細かい。安い部位だが、血抜きを三度繰り返せば臭みが消えて、この脂と繊維の細かさが活きる。粗塩を振って七輪の強火で焼く。表面がぱりっと焼けて、中から肉汁が滲む音がした。脂が炭に落ちて、煙が路地に流れる。


 男は黙って待っていた。路地裏に立ち上る煙を眺めながら、蒼酒をちびちびと舐めている。急かさない客は好きだ。料理は急かされると雑になる。

 蒸し焼きが仕上がった。蒼苔の葉を開くと、ふわりと湯気が立ち、薬膳の香りが路地に広がった。白身はほろりと崩れる柔らかさで、箸で持ち上げると透き通るような断面が見えた。蒼苔の淡い緑色が白身のふちに移り、見た目も品がある。棘背蜥蜴の尾肉は高級食材だが、尾根元は捨てる部位だ。それをここまで仕上げるのは、まあ、あたしくらいのものだろう。自惚れではなく、事実として。


「どうぞ」


 木の皿に盛って出す。装甲猪の塩焼きも横に添えた。蒼酒は陶器の杯で。

 男はまず蒸し焼きを一口食べ、目を細めた。咀嚼がゆっくりだ。味を確かめている。次に装甲猪の塩焼きを一口。脂がじゅわっと口に広がったのが、表情でわかった。蒼酒で流し込んで、男は顔を上げた。


「旨い」

「そりゃどうも」

「いや、本当に旨い。棘背蜥蜴の尾根元をここまで仕上げる技術は珍しい。血抜きが完璧だ。蒼苔の香りの入れ方も、火加減をわかっている人間の仕事だ」


 肉の話を振ってくるあたり、ただの客じゃないとは思っていた。血抜きの精度を見抜ける舌を持っている。食い慣れている男だ。


「で、何の用だ」


 男は杯を置いて微笑んだ。商人の笑い方だ。取引を持ちかける前の、計算された柔らかさ。


「あたしは遺物商の仲買を生業にしている者でね。名前はまあ、覚えなくていい。それよりも——固定店舗を出す気はないかな」


 心臓が一瞬跳ねた。固定店舗。元パン屋の空き物件が頭をよぎった。石造りの壁、しっかりした屋根、煙突のある焼き窯の跡。この前の雨の日、鍛冶職人に「屋根のある店を持つ気はないのか」と聞かれた日から、頭の隅にずっとこびりついている光景だ。


「資金がない。知ってるだろ、この屋台の規模を見れば」

「だから出資の話だ。全額出す。物件の契約から改装費用、初期の仕入れまで。利息はつけない」


 旨すぎる話だった。旨すぎる話には必ず裏がある。大市場で五年もいれば、それくらいは学ぶ。甘い話を持ちかけてくる仲買人は、必ず甘い分だけ何かを奪っていく。


「条件は」

「月に一度、あたしが指定した客に食事を出してほしい。それだけだ」

「指定した客って誰だ」

「それはその時にならないとわからない。商売というのは、相手が動くまで見えないものでね」

「で、その食事は何のためだ。商談か。密談か」

「どちらでもない——と言いたいが、まあ、人と人が腹を割って話すには、旨い飯がいるだろう?」


 男は笑った。悪い顔ではなかった。だが、嘘をつく顔でもなかった。本当のことを言っていないだけだ。嘘と沈黙は違う。この男は沈黙のほうだった。言わないだけで、隠しているものがある。


 正直に言えば、迷った。


 金額は魅力的だ。あの元パン屋の跡地。石造りで屋根がしっかりしていて、厨房を作るには申し分ない。壁に煙突がある。鍛冶職人に頼めば調理台も作れる。魔石冷蔵箱があれば仕入れの幅が広がる。仕込みを前日に済ませて、朝から焼きに専念できる。雨の日も営業できる。目の前の男が頷けば、それが全部手に入る。


 でも。


「月に一度」ということは、その日だけは自分の料理じゃなくなる。誰かに指定された相手に、指定された状況で、出す。誰が食べるかわからない。何のために食べるのかもわからない。そういう皿は——あたしの料理じゃない。


 大市場の解体場で五年間、肉を捌いてきた。親方の指示通りに、言われた部位を言われた通りに切り分けた。それが仕事だった。今は違う。今は自分で選んで、自分で仕込んで、自分で焼いて、食いたいやつに食わせている。その自由だけが、この屋台の全部だ。それを月に一度でも手放すなら、屋台をやっている意味がない。


「断る」


 男は眉を上げた。


「理由を聞いてもいいかな」

「料理に条件をつけるやつの金は受け取らない」


 言ってしまってから、少し後悔した。もう少しましな断り方があっただろうに。だが、口から出た言葉は取り消せない。そして取り消す気もなかった。


「——ふむ」


 男はしばらく黙っていた。杯の蒼酒を一口飲み、空を見上げた。路地裏の細い空が、午後の光で白く光っている。それから、もう一度蒸し焼きの残りを口に運んだ。


「最後に、もう一品だけ食べさせてもらえるかな」


 断った相手に追加の注文をするのか。変な男だ。だが、客は客だ。金を払って食うなら、誰だって客だ。


「何にする」

「一番自信のあるやつを」


 少し考えた。一番自信のあるやつ。棘背蜥蜴の蒸し焼きは今出したばかりだ。蒼牙狼の煮込みは夕方用に仕込んでいるが、まだ煮込みが足りない。なら——。

 奥の木箱から装甲猪の腿肉を取り出した。腿肉の中でも最上部位——内腿の付け根に近いところ。脂の入りが一番いい部位で、大市場でもなかなか出回らない。今朝、卸商が「余った」と言って安く譲ってくれたものだ。本当は明日の仕込み用に取っておくつもりだったが、まあいい。

 血抜きは三度やってある。一度目で表層の血液を押し出し、二度目で深層の毛細血管に残った血を抜き、三度目で繊維の間に染み込んだナノマシン含有液を塩水で引き出す。この手間を惜しまないのが、旨い肉と臭い肉の境目だ。三度の血抜きにかかる時間は合わせて半日。その半日をかけるかどうかで、肉の味は天と地ほど変わる。

 室温に戻した肉を七輪の上に載せる。強火で表面を焼き固める。じゅう、と脂が七輪に落ちて煙が立つ。肉の表面が茶色く色づいていく。焦がしすぎてはいけない。表面に焼き色がついたら位置をずらして弱火に移す。じっくり、ゆっくり、中まで火を通す。急がない。肉が教えてくれる。指先で触れて弾力を確かめる。まだ硬い。もう少し。指の腹に伝わる弾力が、じわりと柔らかくなっていく。もう少し——今だ。

 七輪から下ろして、粗塩だけを振る。他に何もいらない。この肉にはこの肉の味がある。ソースも薬草も余計だ。素材が良ければ、塩だけでいい。それがあたしの料理だ。


 木の皿に載せて、男の前に出した。断面はうっすら桃色で、縁だけが香ばしく焼けている。肉汁が皿の上にじわりと広がった。湯気が立ち、焼けた脂の甘い香りが漂う。


「装甲猪の腿肉。血抜き三度、粗塩のみ」


 男はナイフで一切れ取り、口に入れた。


 噛んだ瞬間、脂が溶けるのがわかったはずだ。装甲猪の脂は融点が低い。舌の上で蕩けて、肉の旨味と混ざり合う。繊維はしっとりと柔らかく、噛むたびに肉汁が溢れる。粗塩が甘い脂を引き締めて、後味にかすかな鉄の風味——血抜きが完璧なら残らないはずの、ぎりぎりの風味が走る。あれは肉そのものが持つ味だ。血の名残じゃない。魔獣の筋繊維が持つ、独特の深み。これがわかる客は少ない。


 男は二切れ目を食べた。三切れ目を食べた。ナイフを動かす手が丁寧だった。味を逃さないように、一切れずつ向き合っている。最後の一切れを口に入れて、長く咀嚼して、飲み込むまで一言も喋らなかった。


「……ごちそうさま」

「銅貨八枚だ」

「安いな」

「屋台だからな」


 男は銅貨を十枚置いて立ち上がった。外套の裾の砂を払いもしなかった。蒼酒の杯を最後にひと口だけ飲んで、静かに台に戻した。


「考え直す気になったら、大市場の北口にある遺物商組合で名前を聞いてくれ。いつでも待っている」

「考え直さない」

「そうか」


 男は肩をすくめて、路地の角を曲がって消えた。革靴の足音が石畳に反響して、だんだん遠くなって、聞こえなくなった。


 七輪の火を落とした。


 銅貨十枚を数えて、仕入れ帳に書き込む。今日の売上。昨日の売上。明日の仕入れ。帳面の数字を見つめていると、自分がどれだけ馬鹿なことをしたのかがよくわかった。全額出資。利息なし。それを断った。経営センスがないというのは、こういうことを言うのだろう。まともな商売人なら、条件を交渉して落としどころを見つけるところだ。あたしは交渉もせずに一発で断った。


 でも、あの装甲猪ステーキは旨かった。条件なしで出した、あたしの料理だった。あの男が最後の一切れを飲み込むまで黙っていたのは、旨かったからだ。それだけでいい。


 翌日。


 昼過ぎに鍛冶職人がやってきた。いつもの時間より少し遅い。革の前掛けに火花の焦げ跡がついている。午前中に大きな仕事をしたらしい。


「聞いたぞ」


 煮込みの鍋を掻き混ぜながら振り返ると、鍛冶職人が腰掛けに座っていた。無口な男のわりに、今日は先に口を開いた。


「何を」

「金の話を断ったらしいな。遺物商の出資」


 噂が早い。この路地裏は声が筒抜けだ。隣の通りで話したことが、二刻もすれば工房街全体に広まる。


「ああ。条件が気に食わなかった」

「そうか」


 鍛冶職人は黙って煮込みを食べた。蒼牙狼の肩肉を蒼酒で煮たやつだ。箸で崩れるまで煮込んである。蒼酒の甘みが肉に染みて、煮汁にコクが出ている。いつもと同じ味、同じ量。この男は毎日同じものを頼む。それが信頼だということを、あたしは最初の頃は知らなかった。毎日来るということは、毎日旨いということだ。それは何よりの評価だ。


「で、店はどうする」

「当分は屋台だ。金が貯まるまで」

「何年かかる」

「……さあ。計算は苦手だ」


 鍛冶職人は鼻で笑った。笑ったのは二回目だ。最初に笑ったのは、棘背蜥蜴の尾根元蒸し焼きを初めて食べたときだった。


 煮込みの最後の一口を食べ終えて、蒼酒を飲み干した。杯を台に戻す。それから、革の前掛けの内ポケットから小さな布袋を取り出した。


「なんだそれ」

「工房街の連中で集めた」

「は?」

「お前の屋台で飯を食ってる職人は、鍛冶屋だけじゃない。革の加工場のやつら、糸染めの工房、石工の兄弟、荷運びの連中。みんな少しずつ出した」


 布袋を台の上に置いた。どさり、と重い音がした。口が少し開いていて、中から銅貨と銀貨が覗いていた。


「……何の金だ」

「店の頭金だ。足りるかは知らん。足りなければ、もう少し声をかける」


 袋を手に取った。ずしりと重い。銅貨がほとんどだが、銀貨も何枚か混じっている。銅貨の一枚一枚が、誰かの日当から削り出された金だった。鍛冶屋の親方が鉄を叩いて稼いだ銅貨。革職人が革を鞣して稼いだ銅貨。石工が壁を塗って稼いだ銅貨。その中に、銀貨が混じっている。銀貨を出せる職人は多くない。誰かが無理をした。


「なんで」


 声が掠れた。自分でも驚いた。


「なんでって、旨い飯を食わせてくれる店が雨で閉まるのが困るからだ。理由はそれだけだ」


 鍛冶職人はそう言って立ち上がった。銅貨を台に置いて——今日の飯代だ——路地を歩いていった。大きな背中だ。革の前掛けが揺れている。角を曲がるまで、あたしは袋を握ったまま動けなかった。


 銅貨を数えた。銀貨を数えた。合わせて——元パン屋の跡地の敷金と、最初の月の家賃。ぎりぎり届くかどうかという額だった。改装費には足りない。でも、大家への手付けにはなる。


 泣くなよ、と自分に言い聞かせた。泣いてどうする。肉の匂いが染みついた手で目を擦ったら、明日の仕込みに差し支える。肉に涙が落ちたら塩分が変わる。そういう問題じゃないのはわかっているが、そういう問題にしておかないと泣いてしまう。


 布袋の中の銅貨と銀貨が混ざった音が、やけに耳に残った。じゃら、と鳴る。一枚一枚が人の手を通ってきた音だ。


 あの遺物商の金は受け取れなかった。条件がついていたからだ。でもこの金には条件がない。ただ「旨い飯を食わせろ」というだけだ。それなら、受け取れる。受け取らないわけにはいかない。受け取って、返す方法は一つしかない。旨い飯を出し続けること。それだけだ。


 七輪の火が赤々と燃えていた。炭の爆ぜる音が路地に響いた。


 明日、あの元パン屋の跡地を見に行こう。大家に話を通して、中を見せてもらおう。厨房をどうするか、動線をどうするか、考えることは山ほどある。鍛冶職人に焼き台の相談をしなければ。バイトの少年にも伝えなければ。


 布袋を懐にしまって、仕込みに戻った。明日の蒼牙狼の煮込み用の肉を塩水に漬ける。棘背蜥蜴の尾根元の血抜きを始める。装甲猪の端材を選り分ける。いつもの作業だ。手が覚えている作業だ。


 手を動かしていれば、余計なことを考えずに済む。


 手を動かしていれば——泣かずに済む。


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