第8話 雨の日の客
朝から雨だった。
灰色の空から落ちてくる雨粒が、路地裏の石畳を叩いている。屋台の木の台に水が溜まって、仕込んだ肉を覆っていた油紙が湿気を吸って重く垂れ下がった。
七輪に火を入れようとしたが、炭が湿っていてなかなかつかない。団扇で煽ると、白い煙ばかりが出て、火が安定しない。
雨の日の屋台は、こうだ。何もかもが濡れて、何もかもがうまくいかない。
昼になっても客は来なかった。
当たり前だ。この雨の中、わざわざ屋根のない路地裏の屋台に飯を食いに来る酔狂はいない。工房街の職人たちは、雨の日は仕事場で弁当を食う。通りがかりの人足は、そもそも通りがからない。
仕込んだ蒼牙狼の煮込みが鍋の中で冷めていく。棘背蜥蜴の尾根元も、蒼苔で包んだまま使われずに置いてある。朝四時から仕込んだ食材が、そのまま無駄になりかねない。
トビには休みにしてある。雨の日に手伝いを呼んでも仕方がない。日当を払えるだけの売上が見込めない。
七輪の前に座って、雨を眺めた。
レフカの雨は横から降る。斜面に建つ街だから、風が坂を駆け上がってきて、雨粒を斜めに叩きつける。白い石灰岩の壁が雨に濡れて、いつもより白く光っている。赤褐色の瓦屋根から水が滝のように流れ落ちて、路地の排水溝に吸い込まれていく。
屋台には屋根がない。
油紙を張った簡易の覆いはあるが、横殴りの雨には役に立たない。あたしの手拭いは濡れているし、前掛けも水を吸って重い。足元は水たまりだ。
これが屋台の限界だ。
天気が良ければ客が来る。悪ければ来ない。これが三日続いたら赤字だ。一週間続いたら、仕入れの金が回らなくなる。
雨季は毎年やってくる。レフカの雨季は十日から二十日は続く。その間ずっと、こうやって石畳に座って雨を眺めているのか。
昼過ぎ、仕込みの食材を傷ませるわけにはいかないので、煮込みの鍋に蓋をして弱火で保温しながら、少し歩くことにした。
旧市街の路地は入り組んでいる。あたしの屋台がある通りから二本奥に入ると、さらに狭い路地がある。普段は通らない道だ。
雨に煙る路地の奥に、空き物件が見えた。
石造りの建物。一階が店舗で、二階が住居。入口の上に看板をかけるための金具が残っているが、看板はない。窓には板が打ち付けてあった。
近づいて、壁に貼られた紙を読んだ。「借り手募集。詳細は管理局まで」。紙の端が雨で濡れて、インクがにじみかけていた。貼られてからしばらく経っているらしい。借り手がつかないのだ。
窓板の隙間から中を覗いた。
埃だらけだが、広い。奥にはかまどの跡がある。石造りの立派なかまどだ。天井は煤で黒くなっている。ここで長い間、火を使っていた。
「元パン屋だよ」
声に振り返ると、隣の建物から顔を出した老婆がいた。
「前の店主が歳で畳んだんだ。もう三月前かね。いい人だったよ。パンは堅かったけどね」
元パン屋。道理でかまどが立派だ。パンを焼くには安定した火力が要る。このかまどなら、肉を焼くのにも使える。改修すれば、煮込み用の竈も並べられる。
中は思ったより広い。屋台の十倍はある。仕込み場と調理場を分けられる。食材の保管場所も確保できる。客席も——四つか五つはテーブルが置ける。
「家賃はいくらだ」
「さあね、管理局に聞きな。でもこの辺りは安くないよ。旧市街の路地奥とはいえ、石造りで屋根がしっかりしてるから」
屋根。
屋根がある。
雨が降っても、風が吹いても、雪が降っても、ここなら関係ない。
管理局に寄って、家賃を聞いた。
銀貨二枚。月に銀貨二枚。
あたしの屋台の場所代は月に銅貨四十枚。銀貨に換算すると四分の一枚にもならない。銀貨二枚は、場所代の八倍以上だ。
今の売上では払えない。頭の中で数字を並べてみた。一日の平均売上が銅貨七十枚前後。仕入れと場所代と炭代を引くと、手元に残るのは銅貨二十枚がいいところ。月に銅貨六百枚。銀貨に換算して一枚半。家賃を払ったら、仕入れの金が残らない。携行食の大口注文のような仕事が毎月あれば別だが、そんな保証はない。固定費が上がれば、仕入れを削るか、値段を上げるかしなければならない。
無理だ。今の自分には。
雨の中、屋台に戻った。
誰もいない路地裏。七輪の火はかろうじて生きている。煮込みの鍋は温かいまま。棘背蜥蜴の尾根元は仕方がない、明日の仕込みに回す。塩を追加して、布に包んで保管する。
今日の売上は銅貨ゼロだ。仕入れと場所代と炭代で赤字。雨が憎い。
日が傾き始めた頃、路地の向こうから足音が聞こえた。
重い足音だ。革靴が石畳を踏む、ずしりとした音。聞き覚えがある。
鍛冶職人だった。
革の前掛けが雨で黒く濡れて、腕を組んだまま大股で歩いてくる。頭から水が滴っているが、傘は差していない。この男はいつも傘を持たない。
「客が来ないだろうと思ってな」
それだけ言って、いつもの木箱に腰を下ろした。木箱も濡れている。構わず座る。
「蒼苔スープはないのか」
「……蒼苔スープ?」
メニューにはない。蒼苔は棘背蜥蜴の蒸し焼きに使っているが、スープにしたことはない。
だが、蒼苔はある。仕入れた分が余っている。蒼苔は日持ちがいいから、多めに買い置きしてある。
「体が冷えた。温かい汁物が飲みたい」
「……待ってろ」
蒼苔スープ。作ったことはないが、知識はある。辺境の定番汁物だ。大市場にいた頃、辺境から来た冒険者が「蒼苔のスープが恋しい」と言っていたのを覚えている。
乾燥させた蒼苔を水で戻す。蒼い苔が水を吸って、ゆっくりと広がっていく。指で触ると、ぬるりとした感触。蒼苔のナノマシンが水と反応して、独特の粘りを出しているのだ。あたしはそう理解しているが、大抵の人間は「苔の粘り」としか思わない。
戻した蒼苔を鍋に入れ、水を張る。ここに根菜の薄切りを加える。芋と、人参に似た赤い根菜。大市場で安く手に入る、ありふれた野菜だ。
「蒼苔は煮出しすぎると苦くなる。かといって、短すぎると風味が出ない」
独り言のつもりだったが、鍛冶職人が木箱の上から鍋を見ていた。雨粒が鍋の中に落ちないよう、あたしは体で覆いを作りながら火加減を調整する。
弱火でじっくり。蒼苔の蒼い色が煮汁に溶け出していく。根菜から甘みが出て、蒼苔の苦味と混ざる。湯気が立ち上って、鼻をくすぐる。苦い、でも不快じゃない。薬膳的な、体に効きそうな苦み。
十分ほど煮て、味を見た。苦い。もう少し甘みが欲しい。
蜂蜜。
棚の奥に、小さな壺がある。蒼酒のつまみに使う薬草香味油を作るときに少量使う蜂蜜だ。これをひとさじ、鍋に落とす。
かき混ぜる。蜂蜜の甘さが蒼苔の苦味を丸くして、根菜の甘みと合流する。もう一度味を見る。
「……悪くない」
苦味と甘みのバランスが取れている。体の芯に染み込むような、温かい味だ。辺境の冒険者が恋しがるのも頷ける。
木の椀に注いで、鍛冶職人に渡した。
「蒼苔スープだ。即興だから保証はしない」
「いただく」
鍛冶職人が椀を両手で包み、湯気を吸い込んだ。蒼苔の煮汁は薄い蒼色をしていて、湯気と一緒にほのかな苦味の香りが立ち上る。
一口飲む。
黙っている。二口目を飲む。まだ黙っている。三口目。椀の中で根菜の薄切りが揺れた。鍛冶職人の大きな手が、椀を包んだまま微かに力を込めたのがわかった。温かさが手から染みているのだ。
椀を下ろして、息をついた。
「……温まるな」
「蒼苔には体を温める効果がある。薬膳料理の定番素材だ。辺境では冬場の汁物に必ず入れる。煮出す時間で苦味の出方が変わるから火加減が重要で、蜂蜜を入れるのはあたしの工夫だが、辺境では蒼実の絞り汁を入れることもあるらしくて——」
「ニナ」
「……なんだ」
「旨い。それだけでいい」
雨の音が路地裏に響いている。鍛冶職人がスープを飲み、あたしは七輪の前で火の番をしている。客は一人だけ。売上は銅貨三枚。赤字だ。
でも、蒼苔スープは旨かった。雨の日にちょうどいい。体が冷えて、気持ちも沈んでいるときに、苦くて甘くて温かい汁物を飲むと——少しだけ、元気が出る。
「そういえば」
あたしは蒼苔の残りを見ながら言った。
「この蒼苔の仕入れ元、卸商に聞いたら辺境の灰枝経由だと言っていた。灰枝の市場を通って、レフカまで来ているらしい」
「灰枝か。遠いな」
「辺境の小さな交易拠点だそうだ。そこを経由していろんなものがレフカに入ってくる。蒼苔も、薬草も、辺境の食材はだいたい灰枝を通る」
鍛冶職人は頷いた。辺境の地理にはあまり興味がなさそうだった。あたしも、流通経路に興味があるわけではない。ただ、自分が使っている素材がどこから来ているのかは、知っておいたほうがいいと思っただけだ。
椀が空になった。鍛冶職人が立ち上がりかけて、座り直した。
「ニナ」
「なんだ」
「屋根がある店を持つ気はないのか」
不意打ちだった。
元パン屋の空き物件のことが、頭をよぎった。石造りの壁、立派なかまど、雨が降っても濡れない空間。
「金がない」
正直に答えた。
「だろうな」
それだけだった。鍛冶職人はそれ以上何も言わず、銅貨を置いて立ち上がった。
「蒼苔スープ、雨の日にまた出せ」
「……考えておく」
鍛冶職人の背中が雨の中に消えていく。重い足音が石畳を叩いて、やがて聞こえなくなった。
一人になった路地裏で、鍋に残った蒼苔スープを自分の椀に注いだ。
温かい。苦くて、甘くて、体の芯まで染みる。雨の音を聞きながら飲む蒼苔スープは、不思議と旨かった。
雨の日限定メニュー。蒼苔スープ。蒼苔を水で戻して、根菜と一緒にじっくり煮出して、蜂蜜をひとさじ。それだけの単純な料理だ。原価は安い。蒼苔は安い素材だから、銅貨二枚で出せる。
雨の日に、濡れながら来てくれる客がいるなら——せめて、体の芯から温まるものを出したい。
椀を置いて、七輪の火を落とした。
今日の売上は銅貨三枚。仕入れと場所代で大赤字。これが雨の日の屋台だ。屋根があれば、こうはならない。火も安定するし、食材も濡れない。客だって、雨でも来やすくなる。
元パン屋の空き物件。銀貨二枚。今の自分には手が届かない数字だ。
でも。
あのかまどの前に立ったとき、指が勝手に動いた。ここに鍋を置いて、ここで肉を焼いて、ここから皿を出す。頭の中で厨房の動線が勝手にできあがっていた。
濡れた七輪を布で拭く。錆びないように、毎回丁寧に拭く。この七輪は屋台を始めたときに借りたものだ。もう自分のもののようになっている。小さくて、火力は不安定で、雨に弱い。でも、あたしの料理はここから始まった。
屋台を畳んで、油紙をかける。明日、晴れるかどうかはわからない。晴れたら仕込みを多めにする。雨なら蒼苔スープを仕込む。
どちらにしても、朝四時には起きる。それだけは変わらない。
帰り道、元パン屋の前を通った。雨に濡れた石壁が、暗い路地の中でぼんやり白く光っている。窓に打ち付けられた板の隙間から、中は見えない。
立ち止まって、しばらく見ていた。
金がない。それは事実だ。でも「金がないから無理だ」で終わらせたら、路地裏の屋台のままだ。雨が降るたびに赤字で、仕込んだ食材を無駄にして、客に申し訳ない顔をして。
あたしは、もっと旨いものを作れる。もっと多くの人間に食わせられる。それは傲慢でもなんでもなく、ただの事実だ。七輪一つと包丁一本で出せる味には限界がある。安定した火力と、広い仕込み場と、食材を保管できる場所があれば——。
雨粒が顔に当たった。冷たい。
首を振って、歩き出した。今は考えても仕方がない。明日の仕込みのことを考えろ。
でも、家に着いて、濡れた服を着替えて、寝台に横になっても——目を閉じると、元パン屋のかまどが浮かんだ。煤で黒くなった天井と、石造りの壁と、広い床。
あそこに、あたしの厨房を作る。
いつか。いつか必ず。あの石造りの壁の中に、あたしの火を入れる。
雨の音を聞きながら、眠りに落ちた。




