第7話 偽物の蒼牙肉
その肉に触れた瞬間、指が止まった。
おかしい。
蒼牙狼の肩肉を五切れ、大市場の卸から仕入れた。いつもの業者だ。いつもの値段で、いつもの包みで渡された。見た目は蒼牙狼の赤身そのものだ。
だが、手触りが違う。
蒼牙狼の肩肉は繊維が太くて方向が揃っている。肩から前脚にかけて走る筋繊維は、一定の方向に平行に並ぶ。だから包丁を入れるとき、繊維に逆らう方向がはっきりわかる。五年間、何千頭分も触ってきた感触だ。体が覚えている。
この肉の繊維は——細い。そして方向が不規則だ。あちこちに曲がって、絡み合っている。蒼牙狼の肉じゃない。
指の腹で断面をなぞる。脂の入り方も違う。蒼牙狼の赤身には、繊維に沿って細い脂の筋が走る。サシと呼ぶほど多くはないが、規則的な脂の線がある。この肉にはそれがない。脂は繊維の間にまばらに散らばっていて、パターンがない。
もう一つ。脂を指で押す。体温でじわりと溶ける——いや、溶け方が早い。蒼牙狼の脂より融点が低い。これはナノマシン濃度が蒼牙狼より高いか、あるいは脂肪酸の組成が違うか、そのどちらかだ。
「トビ」
「はい」
「この肉、触ってみろ」
朝の仕込みを手伝いに来ていたトビに肉を渡す。トビは両手で受け取って、指で表面を押した。
「……柔らかい、ですね。いつもの蒼牙狼より」
「他には」
「えっと……なんか、繊維がごちゃごちゃしてる気がします」
わかるようになってきている。毎日肉を触っていれば、手が覚える。
「これは蒼牙狼じゃない」
トビの目が丸くなった。
「じゃあ、何ですか」
「根蛇だ」
根蛇。危険度D。樹海の地中に潜み、振動を感知して奇襲する魔獣。鱗は根のような外見で、土の中に擬態する。
肉は蒼牙狼に似た赤身だが、繊維が細かく方向が不規則。それは地中を蛇行しながら移動する根蛇の筋肉構造が、蒼牙狼の四足走行とはまるで違うからだ。蒼牙狼は前に走る。だから繊維の方向が揃う。根蛇はあらゆる方向にうねる。だから繊維がばらつく。
脂の融点が低いのは、地中の低温環境に適応しているためだ。体温が低い生物の脂肪は融点が低くなる。これは蒼牙狼とは生態が根本的に違うことを示している。
「根蛇の肉を蒼牙狼として売ってるのか……」
トビが呟いた。
「そういうことだ。根蛇の肉は蒼牙狼の半値以下で仕入れられる。見た目が似ているから、切り身にして包んでしまえば素人には区別がつかない。血抜きが甘い状態で流通させれば、ナノマシンの臭いが肉本来の風味を隠してしまうから、なおさらわかりにくい」
五切れのうち、三切れが根蛇だった。残りの二切れは本物の蒼牙狼だ。混ぜてある。全部偽物にすると気づかれる可能性が上がるから、本物に混ぜて数を水増ししているのだろう。やり方が姑息だ。
根蛇の肉は蒼牙狼の半値以下で仕入れられる。それを蒼牙狼の値段で卸せば、差額が丸ごと利益になる。三切れ分で銅貨にして十枚以上の上乗せ。一日の卸量で考えれば、かなりの額になるはずだ。
しかも血抜きが甘い。蒼牙狼として売るなら蒼牙狼の処理でいいと思ったのだろうが、根蛇には根蛇の血抜き方法がある。繊維の構造が違うのだから、塩水の浸透のさせ方も変えなければならない。そこを手抜きしているせいで、ナノマシンの残留量が本来の根蛇処理より高い。鼻を近づけると、わずかに金属質の臭いがした。素人にはわからないが、あたしの鼻は誤魔化せない。
大市場の卸に掛け合いに行った。
仕入れ元の男は四十がらみの、腹の出た中年だった。あたしが肉を突き返すと、眉をひそめた。
「なんだ、品質に不満か」
「品質の問題じゃない。これは蒼牙狼じゃない。根蛇だ」
「何を言っている。正規ルートで仕入れた蒼牙狼だ。出荷証もある」
「出荷証がどうだろうと、肉が嘘をついている。繊維の方向が不規則で、脂の融点が蒼牙狼より低い。断面を見ればわかる。蒼牙狼の肩肉にこんな繊維パターンはあり得ない」
男の顔色が変わった。だが、すぐに持ち直した。
「お前、元解体場のニナだろう。路地裏で屋台をやっているという。大市場の卸に因縁をつけて何になる」
「因縁じゃない。事実だ」
あたしは肉を一切れ取り上げて、男の前に置いた。
「ここを見ろ。断面の繊維が不規則に絡み合っている。蒼牙狼の肩肉は前脚の付け根から走行方向に沿って繊維が平行に走る。こんなふうにばらつくのは、地中を蛇行する根蛇の筋肉構造だ。それから脂を触ってみろ。体温で溶ける速度が速い。蒼牙狼の脂は体温では簡単に溶けない。根蛇は地中生物だから体温が低く、脂の融点もそれに合わせて低い」
男の額に汗が浮いていた。あたしは構わず続けた。
「この三切れは根蛇で、残りの二切れが蒼牙狼だ。本物に混ぜて売っているだろう。見た目が似ているから、素人には区別がつかないと思ったか」
男は黙った。周囲の目がこちらに集まり始めていた。大市場の通路は狭い。声が響く。肉屋の区画を通りかかった人間が何人か足を止めている。
「……返金はする。ただし、それ以上は知らん。うちの仕入れ先が出したものを、そのまま卸しているだけだ」
嘘かもしれないし、本当かもしれない。この男が偽装の張本人なのか、それとも上流の業者に騙されているのか、あたしにはわからない。肉の品質を見抜くのはあたしの領分だが、流通の闇を暴くのはあたしの仕事じゃない。
ただ、一つだけ確かなことがある。この偽装肉を買っているのは、あたしだけではない。大市場には何十もの肉屋と食堂がある。気づかずに根蛇を蒼牙狼として客に出している店が、きっとある。
返金を受け取って、偽装の三切れを持ち帰った。
「ニナ、その肉どうするんですか。捨てるんですか」
トビが聞いた。
「捨てるか。馬鹿言え。根蛇の肉だって、ちゃんと処理すれば旨い。蒼牙狼じゃないからって、食えないわけじゃないんだ」
根蛇の肉を正しく処理する。
まず、蒼牙狼として売るために省かれていた工程——毒腺の除去をやり直す。根蛇の肉には毒腺の痕跡が残っている。腹側の膜だ。蒼牙狼にはこの膜がない。偽装する際に雑に剥がしたらしく、膜の一部が肉に張り付いたままだった。
包丁の先端で、膜を丁寧に剥がしていく。
「見てろ、トビ。この薄い膜が根蛇の毒腺だ。完全に除去しないと、加熱しても毒が残る。蒼牙狼にはこの膜がないから、偽装した業者はこの除去を中途半端にしか——いや、そもそもやっていなかった可能性がある」
ぞっとした。もしあたしが気づかず、このまま蒼牙狼として調理していたら——血抜きで多少は毒が薄まるが、毒腺の膜が残ったままでは完全には除去できない。客の腹を壊していたかもしれない。
怒りが湧いた。肉に対してじゃない。この肉を偽って流通させた人間に対してだ。
毒腺を除去したら、改めて血抜きを行う。根蛇は蒼牙狼より繊維が細かいから、血抜きの塩水の濃度を少し上げる。細い繊維の間に浸透させるためだ。
一度目。表層の血液を押し出す。根蛇の血は蒼牙狼より薄い色をしている。地中生活の生物は血液量が少ない傾向がある。
二度目。深層。塩水を替えて半刻漬ける。
三度目。繊維の間。ここが蒼牙狼と一番違う。蒼牙狼は繊維が平行だから、繊維に沿って切れ目を入れれば塩水が浸透する。根蛇は繊維の方向が不規則だから、切れ目の入れ方を工夫しなければならない。格子状に浅く切れ目を入れて、あらゆる方向から塩水を染み込ませる。
「手間が蒼牙狼の倍かかるな」
独り言が出た。根蛇の肉が蒼牙狼より安いのは、この処理の難しさが理由の一つだ。面倒くさがって手を抜くと、臭みが残る。だから市場では安く扱われる。
でも、丁寧にやれば——。
血抜きが終わった根蛇の肉を薄切りにする。繊維の方向が不規則だから、どの角度で切っても繊維を断ち切ることになる。これは蒼牙狼にはない特徴だ。薄切りにすると、どの方向から噛んでも歯切れがいい。
薄切りにした肉を、塩と乾燥薬草で漬け込む。根蛇には甘めの薬草が合う。蒼牙狼に使う苦い薬草とは逆だ。根蛇の肉は淡白で、野性味が少ない。甘い薬草で風味を補ってやると、素材の持ち味が生きる。
漬け込みは半日。その後、一枚ずつ竹串に刺して、日向に干す。
「天日干しは二日。風通しのいい場所に置いて、虫がつかないように布をかける」
トビに干し方を教えながら、竹串を並べていく。薄切りの根蛇肉が陽光に透けて、淡い赤色が美しい。蒼牙狼の干し肉より色が薄くて、見た目からして別物だ。
「ニナ、これ、新メニューにするんですか」
「するさ。根蛇の薄切り干し。嘘をつかなくても旨いもんは旨い。安い肉を高い肉と偽る必要なんかない」
二日後、干し上がった根蛇の薄切り干しを試食した。
一枚手に取る。しなやかで、しっかりした歯応え。口に入れて噛む。
淡白だ。蒼牙狼のジャーキーのような力強い肉の旨味はない。だが噛むほどに、じんわりと甘みが出てくる。薬草の風味が鼻に抜けて、後味がすっきりしている。
蒼牙狼とは全然違う。でも、これはこれで旨い。蒼酒のつまみにすると最高だろう。甘い酒に淡白な干し肉。相性がいいはずだ。
「旨い、です」
トビが目を丸くして噛んでいる。
「根蛇って、こんな味だったんですね。大市場では見向きもされない肉ですけど」
「見向きもされないのは、処理が面倒だからだ。丁寧にやれば、ちゃんと旨い。どんな肉でもそうだ。嘘つかなくても、手を抜かなければ、旨くなる」
夕方の営業で、新メニューとして出した。値段は蒼牙狼ジャーキーの半値。看板のところに「根蛇の薄切り干し・新作」と書いた木札を立てた。
「蒼牙狼じゃないのか」
常連の革職人が聞いた。
「根蛇だ。別物だが、こっちはこっちで旨い。試してみろ」
革職人は半信半疑で一枚齧った。噛むと、じわっと甘みが広がるのがわかる。表情が変わった。二枚目に手を伸ばした。
「……なんだ、旨いじゃないか。これ、蒼酒に合うな」
「だろう」
糸職人が続いて注文した。こっちは一枚食べた後、黙って三枚追加した。何も言わないのが、この人の最大の賛辞だ。木工職人は「根蛇って食えるのか」と怪訝な顔をしていたが、一枚食べて「偏見だった」と素直に謝った。
その日のうちに、根蛇の薄切り干しは蒼酒のつまみの定番になった。仕込みは蒼牙狼の倍かかるが、原価は半分以下。手間を惜しまなければ、ちゃんと利益が出る。
夜、屋台を畳んでいると、鍛冶職人が最後まで残っていた。いつものことだ。
「偽装肉の話、聞いたぞ」
噂が早い。大市場は狭い世界だ。
「大事にするつもりはない。返金はされたし、あたしは根蛇として処理し直した。それで終わりだ」
「終わりか」
「あたしの仕事は旨い肉を出すことだ。偽装を暴くのはあたしの仕事じゃない」
鍛冶職人は蒼酒の残りを飲み干した。
「大市場の仲買人から聞いた話だが、港街デルガでも同じような問題が起きているらしいな」
「デルガでも?」
「流通の偽装だ。肉だけじゃない。いろんなものが偽物として出回っている。デルガは港町で物が集まるから、余計にそういう問題が起きやすい」
デルガ。この前、銀牌の冒険者たちが遠征に行った先だ。あの辺りの流通は複雑で、いろんなものが行き交う。肉の偽装だけでなく、もっと大きな偽装の問題があるということか。
あたしには関係のない話だ。あたしは路地裏の屋台で、目の前の肉を正しく処理して、旨く仕上げて出す。それだけだ。
でも、今日のことは忘れない。自分の指先を信じて、肉の声を聞く。偽物は許さない。
「明日も根蛇の干し肉、出すぞ」
鍛冶職人は頷いて立ち上がった。
「楽しみにしている」
提灯の火を消す前に、干し肉の残りを一枚齧った。淡白で、歯切れがよくて、噛むほどに甘い。根蛇の肉がこんなに旨いと、大市場の連中は知らないだろう。
安い肉を高い肉と偽るより、安い肉を安い肉として最高に仕上げるほうが、ずっといい。
それがあたしのやり方だ。明日も根蛇を仕入れよう。今度は自分で選んで、正規の値段で。




