第5話 冒険者の注文
五十人分。
その数字を聞いた瞬間、あたしの頭の中では三つの計算が同時に走った。必要な肉の量、仕込みにかかる時間、そして——手が足りるかどうか。
答えは明白だった。全部、足りない。
「三日後までに、遠征用の携行食を五十人分。できるか」
銀牌の冒険者だった。四人組のパーティで、リーダーらしき長身の男が腕を組んで立っている。革鎧の胸元に銀色の牌が鈍く光っていた。銀牌といえば、ギルドの上から二番目だ。腕が立つだけじゃなれない。実績と信頼の積み重ねがいる。
その銀牌が、路地裏の屋台に携行食を頼みに来ている。普通なら大市場の携行食専門店に行くところだ。
「噂を聞いた。ここの肉は血抜きが違うと」
後ろに立っていた女の冒険者が付け加えた。弓を背負っている。弓使いか。遠征には欠かせない。
「誰から聞いた」
「工房街の鍛冶屋だ。昼飯に通っているらしい」
あの無口な鍛冶職人が、そんな余計なことを喋っているとは思えないが——まあ、職人同士の付き合いの中で出た話なんだろう。噂というのは、こっちの知らないところで勝手に広がる。
五十人分。三日後。一人じゃ、絶対に間に合わない。
断るべきだ。無理な注文を受けて中途半端なものを出すくらいなら、最初から受けないほうがいい。あたしの手が届く範囲でしか仕事はしない。それが——。
「金は先払いする。銀貨で十枚」
銀貨十枚。
あたしの屋台の十日分の売上だ。
口が勝手に動いた。
「……やる」
言ってから後悔した。いや、後悔はしていない。ただ、どうやって間に合わせるかの算段がまるでついていないだけだ。
その夜、屋台を畳んでから大市場に向かった。夜の大市場は昼間の喧噪が嘘のように静かで、迷路のような通路に人影はまばらだ。屋根付きの巨大な建物の中は、昼間は押し合いへし合いの熱気で蒸すが、今は石畳に残った血の匂いだけが鼻につく。明日の仕入れの目星をつけておくためだ。
蒼牙狼の肩肉。ジャーキーにする。繊維が太くて硬い肩肉は、薄切りにして乾燥させると歯応えのある保存食になる。
装甲猪のバラ肉。燻製にする。脂身が多いバラ肉は、燻すと脂が溶けて旨味が凝縮する。遠征には脂肪が必要だ。体力の消耗が激しい樹海で、脂は最高のエネルギー源になる。
棘背蜥蜴の尾根元。干し肉にする。白身で淡白な肉は、干すと旨味が凝縮される。他の二つと味の方向が違うから、食べ飽きない。
三種類の携行食で組み合わせる。栄養、保存性、味のバリエーション。冒険者が片手で食べられるサイズに揃えて、油紙で包む。
問題は量だ。五十人分。一人に三種類を三日分ずつ。単純計算で四百五十個の携行食。仕込みだけで丸二日はかかる。
一人じゃ無理だ。
翌朝、大市場で肉を仕入れている最中に、あいつを見つけた。
肉屋の使い走りをしている少年だ。十四か十五か、そのあたり。痩せていて背が低いが、重い肉の塊を両手で抱えて走る足取りには無駄がない。何度か大市場で見かけていた。肉の運び方を見れば、そいつが肉をどう扱っているかがわかる。この少年は、肉を雑に扱わない。
「おい」
声をかけると、少年は驚いた顔で振り返った。
「三日間、手伝いがいる。日当は銅貨八枚。どうだ」
「……手伝い、ですか」
「肉の仕込みだ。血抜きと切り分けと、漬け込みと乾燥。教えながらやるから未経験でもいい」
少年は肉屋の親方のほうをちらりと見て、それからこっちを見た。目に迷いがあったのは一瞬だけだった。
「やります」
即答。気持ちのいい返事だ。
肉屋の親方がこちらを見ていた。少年を横取りするようで気が引けたが、親方は軽く手を振った。使い走りなら他にもいるということだろう。
屋台の裏に仮設の作業場を作った。木箱を並べてまな板を置き、塩と薬草を量って並べる。少年の名前はトビといった。大市場で三年、使い走りをしているらしい。肉を触るのは好きだが、切ったことはないという。
まずは蒼牙狼のジャーキーからだ。
「最初に血抜きをする。蒼牙狼の肩肉は繊維が太いから、血が残りやすい。ここを手抜きすると、乾燥させたときに臭みが出る」
塩水を張った桶に肩肉を沈める。一度目の血抜き。表層の血液を押し出すように、指で肉の表面をなぞる。赤黒い液が塩水に溶け出していく。
「一度目で表層。大きな血管に残った血を出す。見てろ、水の色が変わるだろう」
トビが桶を覗き込む。塩水が薄赤く染まっていくのを、目を丸くして見ていた。
「次に塩水を替えて二度目。深層の毛細血管に残った血を抜く。ここは時間がかかる。半刻は漬ける」
二度目の塩水に沈めたら、その間に次の肉に取りかかる。五十人分の仕込みだ。時間を無駄にはできない。トビには桶の番を任せて、あたしは次の肩肉を捌きにかかった。包丁が骨に当たるこつんという感触。この感触で、肉の鮮度がわかる。新鮮な肉は骨と筋の間に弾力がある。古くなると、ここが緩む。今日の仕入れは良い。
「三度目は繊維の間だ。ここが一番大事で、一番手間がかかる。繊維に沿って包丁で浅く切れ目を入れて、塩水の浸透を助ける。これをやるかやらないかで、仕上がりが全然違う」
トビに包丁を持たせた。最初はぎこちなかったが、切れ目の入れ方を三回見せたら、四回目からは自分でやれるようになった。手つきが素直だ。変な癖がついていない。教えやすい。
「血抜きが終わったら、塩と薬草で漬け込む。蒼牙狼には苦めの薬草が合う。甘い薬草だと肉の野性味に負ける」
乾燥させた薬草を擂り潰して塩と混ぜる。この配合は解体場時代に親方から教わったものを、あたしなりに調整したものだ。塩六に薬草一。薬草は三種類を混ぜる。苦味のある葉を主体に、少しだけ辛みのある根と、香りの強い茎を加える。
「漬け込みは一晩。明日の朝に引き上げて、薄切りにして燻す」
次は装甲猪の燻製だ。こっちは脂身ごと使う。
「装甲猪のバラ肉は、脂身を落とすな。遠征には脂がいる。燻すと脂が溶けて肉の中に染み込むから、そのまま旨味になる」
バラ肉を掌大に切り分ける。これも血抜きは三度。装甲猪は蒼牙狼より血の量が少ないが、脂の中にナノマシンが溜まりやすい。脂身の端を指で押してみる。体温で脂がじわりと溶ける感覚。この溶け方なら、ナノマシン濃度は許容範囲だ。
「親方、これ、指で何がわかるんですか」
トビが不思議そうに聞いた。親方と呼ばれて、一瞬固まった。
「……親方はよせ。ニナでいい」
「あ、すみません」
「脂の溶け方でナノマシンの濃度がわかる。濃度が高いと脂の融点が下がって、触っただけで溶ける。逆に濃度が低ければ、体温くらいじゃそう簡単には溶けない。この肉は大丈夫だ。ちゃんと処理されてる」
トビは感心したように頷いていたが、たぶん半分も理解していない。いい。今はわからなくても、手を動かしているうちにわかるようになる。あたしもそうだった。
二日目。
朝四時から作業を始めた。トビも時間通りに来た。偉い。
昨夜漬け込んだ蒼牙狼の肩肉を引き上げる。指で押すと、塩と薬草が繊維の奥まで染み込んでいるのがわかる。弾力が変わっている。
「薄切りにする。厚さは小指の爪くらい。均一に切れ。厚さがばらつくと、乾燥の速度が変わって仕上がりにムラが出る」
あたしが手本を見せる。包丁を寝かせて、繊維に逆らう方向に引く。蒼牙狼の肩肉は繊維が太いから、繊維に沿って切ると噛み切れない。逆方向に薄く切ることで、乾燥後も歯で噛み切れるジャーキーになる。
トビの切り方は——悪くない。厚さに少しばらつきがあるが、方向は合っている。
「もう少し薄く。迷うな、一息で引け」
横で声をかけると、次の一枚はきれいに切れた。飲み込みが早い。あたしが解体場で最初に包丁を持たされたときは、もっとぎこちなかった。三回見せて四回目で合わせてくるのは、筋がいいと言っていい。
薄切りにした肉を並べていく。まな板の上に赤い肉が整列していく光景は、何度見ても気分がいい。これが全部ジャーキーになる。五十人分の冒険者の腹を満たす。
燻しの工程に入る。路地裏に簡易の燻製箱を組んだ。木箱の底に魔石コンロを置き、その上に木屑を載せる。蒼牙狼のジャーキーは低温でじっくり燻す。煙が肉の表面を撫でるように、ゆっくりと。
「煙の量を見ろ。多すぎると苦くなる。木屑を足すのは、煙が細くなったときだけだ」
装甲猪の燻製は、もう少し温度を上げる。脂身を溶かしながら燻すから、ある程度の熱が要る。脂がじゅうじゅうと音を立てて、甘い煙が路地裏に立ち込めた。
この匂いは——反則だ。通りがかりの人間が足を止める。
「すまない、今日は屋台は休みだ。仕込み中」
何度そう言ったかわからない。匂いだけで営業できたら楽なのに。
昼飯も立ったまま食った。煮込みの残りを椀に注いで、トビと二人で路地裏にしゃがんで啜る。トビは煮込みを一口飲んで「旨い」と呟いた。旨いだろう。蒼牙狼の肩肉を三時間煮込んだんだ。旨くないはずがない。
午後は棘背蜥蜴の干し肉にかかる。一番手間がかかる工程だ。尾根元の白身は繊維が細くて繊細だから、乱暴に扱うとぼろぼろに崩れる。
「ここは見てろ。まだ触るな」
トビを横に立たせて、あたし一人で作業する。骨と筋を外し、薄い膜を剥がし、白身を薄く伸ばす。塩と少量の薬草で軽く漬けて、竹串に刺して日向に干す。白身が半透明から白く変わっていくのを、風に当てながら待つ。
「棘背蜥蜴の白身は水分が多い。だから乾燥に時間がかかる。でも乾ききると旨味が凝縮されて、そのまま齧っても旨い。蒼牙狼や装甲猪とは全然違う。軽くて、上品で、口の中でほどけるように溶ける」
トビが干し肉の列を見上げた。路地裏の細い空に、竹串に刺さった白い肉が並んでいる。
「きれいですね」
「きれい、ね」
そういう感想は初めてだった。
三日目の朝。納品の日だ。
完成した携行食を並べる。蒼牙狼のジャーキーは飴色に燻し上がり、噛むと口の中に肉の旨味と薬草の苦味がじわりと広がる。装甲猪の燻製は脂の甘さと煙の香りが合わさって、一口で満足感がある。棘背蜥蜴の干し肉は軽くて上品で、口直しにちょうどいい。
三種類をそれぞれ油紙に包み、一人分ずつ麻袋に詰める。五十袋。路地裏の作業場が袋で埋まった。
「数えろ。一袋に三種類が三日分ずつ入っているか確認しろ」
トビと二人で数を確認する。四十八、四十九、五十。ぴったりだ。
昼前に、銀牌の冒険者パーティが取りに来た。リーダーが一袋を開けて、蒼牙狼のジャーキーを一本引き抜いた。
「食ってみていいか」
「好きにしろ」
齧った瞬間、リーダーの眉が上がった。
「旨い。これは旨いぞ。大市場の携行食とは別物だ」
「血抜きが違う。あと、薬草の配合と燻し方。大市場の量産品とは工程が違うんだ。一つずつ繊維の方向を見て切ってるから、噛み切りやすいだろう。遠征中に顎が疲れたら意味がない。あと脂の融点も確認してナノマシン濃度が——」
「わかったわかった、旨いのは食えばわかる」
弓使いの女が笑った。あたしは口を噤んだ。また喋りすぎた。
「遠征先はどこだ」
なんとなく聞いた。携行食を三日分も持っていくなら、そこそこ遠い。
「デルガの先の樹海だ。中層まで入る依頼が出ている」
デルガの先の樹海。中層。棘背蜥蜴の生息域だ。あの辺りの個体は大きいと聞く。もし帰りに素材を持って戻るなら——。
「帰ってきたら寄れ。棘背蜥蜴の新鮮な尾根元があれば、買い取る」
「屋台で仕入れの交渉か。商売っ気があるな」
「商売っ気はない。旨い肉が欲しいだけだ」
冒険者たちは笑いながら五十袋を荷車に積んで去っていった。弓使いの女が最後に振り返って、装甲猪の燻製を齧りながら手を振った。あの食べ方は、樹海を歩きながら片手で食うのに慣れている人間の食べ方だ。
銀貨十枚。屋台を始めてから一番大きな仕事だった。仕入れ代を引いても、利益は銀貨六枚以上残る。六枚あれば、一月分の場所代と仕入れが余裕で回る。経営の算段は苦手だが、この数字が嬉しいのはわかる。
夕方、屋台の片付けをしていると、トビがまだ残っていた。作業場の木箱を片付けながら、まな板を丁寧に洗っている。言われなくても後片付けをやるやつは信用できる。
「三日間の日当だ。銅貨二十四枚」
小袋を渡す。トビは受け取って、少し黙ってから言った。
「あの、ニナさん」
「さんはいらない」
「ニナ。……また手伝っていいですか」
あたしは手を止めた。大市場の使い走りのほうが安定しているだろうに。
「金は毎日は出せないぞ。客が少ない日は日当も少ない」
「いいです。肉のこと、もっと教えてほしいんです。血抜きのやり方とか、繊維の見方とか」
ああ、こいつ。肉の運び方が丁寧だったのは、そういうことか。肉が好きなんだ。触るのが、扱うのが、好きなんだ。あたしと同じだ。
「……明日の朝、四時に来い。遅れたら鍵は閉める」
「はい!」
トビは走って帰っていった。バイト第一号の採用だ。
七輪の灰を掻き出しながら、ふと笑った。人を雇うなんて、あたしには縁のないことだと思っていた。大市場をクビになって、一人で屋台を始めて、一人で回していくつもりだった。
でも、五十人分の携行食は一人じゃ作れなかった。そして、一人じゃないほうが——たぶん、旨いものが作れる。
明日の仕込みは、蒼牙狼の煮込みと棘背蜥蜴の尾根元の蒸し焼き。二人分の段取りを考えながら、提灯の火を吹き消した。




