第4話 蒼酒のつまみ
昼の客は安定してきた。
鍛冶職人、革職人、糸職人。それに最近は木工職人と、ギルド帰りの冒険者が一人二人。七輪の周りに五人も六人も立って飯を食う光景は、屋台を始めた頃には想像もしなかった。
でも、夕方以降がさっぱりだ。
昼の客は昼休みが終われば工房に戻る。午後の仕込みをして、売れ残りを片付けて、日が傾く頃には路地裏はあたし一人になる。夕暮れのレフカは綺麗だが、綺麗さでは腹は膨れない。
路地の先、表通りに出れば酒場がいくつかある。工房街の職人たちが仕事帰りに蒼酒を飲んでいるのが見える。あの連中を取り込めれば、売上は倍になる。倍は言いすぎか。一・五倍くらいか。いや、計算はどうでもいい。問題は、酒を飲む客にはつまみがいるということだ。
蒼酒に合うつまみ。
蒼酒。あたしは飲まない。正確に言うと、飲めなくはないが、好きじゃない。甘い。酒なのに甘い。度数も低くて三から五パーセント。水みたいなもんだ。でもレフカの庶民はこれを当たり前のように飲む。仕事帰りの一杯。飯の供。祭りの酒。全部蒼酒だ。
つまみを作るなら、まず蒼酒のことを知らないといけない。
レフカの旧市街を北に登ると、坂の上に醸造所がある。白い石灰岩の壁に蒼い染みがついた古い建物で、表に「ガルシア醸造所」と看板が出ている。ここがレフカで一番古い蒼酒の醸造所だと、鍛冶職人が教えてくれた。「あそこの蒼酒が一番旨い」と言ったが、あたしにはどれも同じ味に思える。甘くて、蒼くて、水みたいだ。
扉を叩くと、白髭の爺さんが出てきた。ガルシアの三代目だという。
「屋台の飯屋だと? 蒼酒のつまみを研究したいだと?」
爺さんは怪訝な顔をしたが、あたしが持っていった装甲猪の塩焼きを差し出すと、表情が変わった。
「……これは旨い塩焼きだな。血抜きがちゃんとしてる」
「当たり前だ。血抜きは——」
「三度やるんだろう。わかるよ、この味でわかる」
言い当てられて、少し嬉しかった。肉の話がわかる人間は好きだ。
爺さんはあたしを醸造所の中に案内してくれた。石の床に大きな木樽が並んでいて、蒼酒の甘い匂いが充満している。蒼みがかった透明な液体が、樽の覗き窓から見えた。
「蒼酒はな、樹海の蒼実を潰して搾った汁を発酵させる。蒼実の糖分が高いから、発酵しても甘みが残るんだ。度数は低い。だが、その代わりに風味が複雑でな」
爺さんが木の柄杓で蒼酒を掬い、装甲片の杯に注いでくれた。
一口飲む。甘い。やっぱり甘い。でも——舌の奥に、かすかな酸味がある。後味に、草のような青い香り。これは、搾りたての蒼実の匂いだ。発酵しても残っているのか。
「どうだ」
「甘い。でも、奥に酸味と青い香りがある」
「おう、わかるか。大抵の客は甘いとしか言わん」
爺さんが嬉しそうに笑った。
「蒼酒の甘みの正体は蒼実の果糖だ。これは発酵で半分は分解されるが、半分は残る。で、この果糖は塩気と合わせると、互いの味を引き立てるんだ。甘いものに塩をかけると旨くなるだろう。あれと同じだ」
「塩気」
「それと脂だ。脂のコクが甘みの輪郭をはっきりさせる。蒼酒のつまみを作るなら、塩気と脂を軸にしろ。間違いない」
塩気と脂。
あたしの得意分野だ。
帰り道、大市場に寄って装甲猪の脂身を買った。正肉を取った後の切れ端で、脂の塊だ。端材の中でも最も安い部位。銅貨三枚で両手に余るほど買えた。
脂身をどう料理するか。焼くだけでは面白くない。塩焼きなら装甲猪の正肉と変わらない。脂身ならではの調理法が要る。
揚げる。
脂身を親指大に切って、低温の油でじっくり揚げる。装甲猪の脂で装甲猪の脂身を揚げる。脂で脂を料理するなんて馬鹿みたいだが、理屈は通っている。低温でゆっくり火を通すと、脂身の外側がカリカリになり、中の脂がとろけるように柔らかくなる。外カリ、中トロ。食感の対比が生まれる。
ここに塩を振れば、爺さんの言う「塩気と脂」の組み合わせになる。でも、それだけじゃ物足りない。何かもう一つ、味の軸がほしい。
香味油だ。
薬草を油に漬け込んで風味を移した香味油。辺境の食堂で使われているのを見たことがある。大市場の香辛料区画で薬草を探した。蒼苔に似た薬草——正確には苔ではなく、樹海の縁に自生する低木の葉だ。苦味と清涼感がある。これを刻んで、装甲猪の脂に漬け込む。
他にも何種類か試してみた。辛味のある細い根、甘い香りのする花弁、渋みのある樹皮。どれも大市場で手に入る。だが、どれも味が単調だ。苦いか辛いか甘いかのどれかで、複雑さがない。
香辛料区画の隅に、小さな薬草専門の店があった。棚に瓶が並んでいて、乾燥した葉や根が詰まっている。店主は老婆で、あたしが棚を見ていると声をかけてきた。
「何を探してるんだい」
「薬草を油に漬けて香味油を作りたい。蒼酒のつまみに合うやつ」
「ほう。香味油ね」
老婆は棚からいくつかの瓶を取り出して、あたしの前に並べた。
「この辺りの薬草じゃ、香味油には向かないよ。火を通すと香りが飛ぶ。本当に良い香味油を作りたいなら、辺境の薬師が作る薬草油を使うことだ。あれは質が違う」
「辺境の薬師?」
「ああ。樹海の奥の方で薬草を育てている薬師がいるそうでね。あの辺りの薬草は魔素を多く含んでいるから、加熱しても香りが残るんだ。この店にも少しだけ入ってくるが、高いよ」
棚の奥から、小さな瓶が出てきた。中身は深い緑色の液体。蓋を開けると、鼻を突くような鮮烈な香りがした。苦味と甘みと清涼感が同時に来る。一つの薬草からこんな複雑な香りが出るのか。
「銅貨十五枚」
「高い」
「辺境から運んでくるからね。でも、ほんの数滴で十分だよ。熱い油に垂らすだけでいい」
迷った。銅貨十五枚は、屋台の利益三日分以上だ。でも、この香り。数滴で料理の格が変わる香りだ。辺境の薬師が作る薬草油。どこの誰が作っているのかは知らないが、腕は確かだ。この香りの複雑さは、単純に薬草を漬け込んだだけじゃ出ない。加工の技術がある。
買った。
路地裏に戻って、実験を始めた。
装甲猪の脂身を親指大に切る。血抜きは一度でいい。脂身は血管が少なくて、ナノマシン濃度も低い。塩水にさっと通すだけで十分だ。
七輪の上に装甲片の深鍋を載せ、装甲猪の脂を溶かして油にする。温度は低め。指を近づけて、じんわり熱いくらい。高温だと脂身が焦げる。低温でゆっくりが正解だ。
脂身を油に沈める。じゅう、という音はしない。温度が低いからだ。静かに、ゆっくりと泡が立つ。脂身の表面から水分が抜けて、少しずつ縮んでいく。十分。二十分。表面が薄い金色に色づいてきた。
火を少し強める。泡が大きくなる。脂身の表面がカリカリと硬くなっていくのが、菜箸を通して伝わってくる。中はまだ柔らかい。ここだ。このタイミングで引き上げる。
網の上に並べて、油を切る。粗塩を振る。指三本で、ぱらり。塩の量は感覚だ。脂の甘みを引き立てるだけの塩気。多すぎたら台無しになる。
一つ、口に入れた。
外がカリカリと音を立てる。歯を入れると、中から脂がじゅわっと溶け出す。舌の上で脂の甘みが広がって、その直後に塩のキレが来る。旨い。これだけでも十分旨い。だが、ここに——。
薬草油の瓶を開ける。あの鮮烈な香り。
小さな皿に数滴垂らす。装甲片の皿の上で、深い緑色の液体が薄く広がった。
揚げたての脂身を、薬草油に少しだけつけて食べる。
口の中で、三つの味が重なった。
最初に脂の甘み。次に塩のキレ。最後に薬草の複雑な香り——苦味と清涼感が鼻に抜けて、口の中をすっきりさせる。脂の重さが、薬草油で一瞬にしてリセットされる。だからもう一つ食べたくなる。止まらなくなる。
これは、酒が進む。蒼酒の甘みに、この塩気と脂と薬草の香りをぶつけたら——完璧だ。
夕方。
路地裏に提灯を一つ吊るした。大市場の雑貨屋で買った安い提灯だ。紙に油を塗っただけの簡素なもので、中に小さな魔石灯を入れてある。オレンジ色の光が路地裏にぽつんと灯って、白い石灰岩の壁をぼんやり照らした。
七輪に火を入れる。脂身を揚げる準備。薬草油の小皿を並べる。蒼酒も一瓶用意した。ガルシア醸造所のやつだ。爺さんが「試しに持っていけ」と一瓶くれた。
最初の客は、予想通り鍛冶職人だった。工房の仕事を終えて、いつもなら表通りの酒場に行くところを、路地裏の提灯が見えたから寄ったという。
「夜もやるのか」
「今日からな。蒼酒に合うつまみができた」
「ほう」
装甲猪の脂身揚げを出した。薬草香味油を添えて。鍛冶職人が一つつまんで、香味油をつけて口に入れた。噛む。
目が細くなった。この人の感情表現はこれだ。旨いときだけ目が細くなる。
「蒼酒をくれ」
「杯は一つしかないぞ」
「構わん」
装甲片の杯に蒼酒を注いだ。蒼みがかった透明な液体が、提灯の光で薄く光った。鍛冶職人が脂身を齧り、蒼酒を一口飲み、また脂身を齧る。
「合うな」
「だろう」
「この油は何だ」
「薬草の香味油。辺境の薬師が作った薬草油を使ってる。大市場の薬草屋で仕入れた」
「辺境の薬師か」
鍛冶職人がもう一つ脂身をつまみながら、独り言のように言った。
「辺境の薬師の腕は確かだと聞く。樹海の奥で育てた薬草は、こっちのものとは質が違うそうだ」
「ああ。この香り、加熱しても飛ばない。普通の薬草じゃこうはいかない」
また肉——いや、今度は油の話で語りすぎそうになった。薬草油の成分がどうとか、魔素含有量が高い薬草は繊維構造が密で香り成分が安定してるとか、そういう話を始めかけて、やめた。客は理屈を聞きたいんじゃない。旨いかどうかだ。
革職人が来た。表通りの酒場から流れてきたらしい。路地裏の提灯を見て、「お前の店、夜もやるようになったのか」と言った。店じゃない、屋台だ。でも訂正しなかった。
脂身揚げを出すと、革職人は一口で目を丸くした。
「何だこれ、蒼酒のために生まれたみたいな味だ」
「蒼酒の甘みに合うように作った。塩気と脂と薬草の香りで——」
「あーあー、理屈はいいから。もう三つくれ」
遮られた。二回目だ。あたしの説明は長すぎるらしい。自覚はある。でも止められない。肉と油と火の話になると、口が勝手に動く。
気づくと、路地裏に五人いた。鍛冶職人、革職人、それに見知らぬ男が三人。表通りの酒場から流れてきた連中だ。蒼酒の瓶が一本空になり、誰かが二本目を酒場から買ってきた。脂身揚げが皿から消える。追加で揚げる。薬草油を足す。塩を振る。七輪の前であたしがせわしなく手を動かしている間に、路地裏は小さな宴会場になっていた。
「姉ちゃんの揚げ物は酒場のつまみより旨いぞ」
「血抜きが——」
「はいはい、三度な。知ってる知ってる」
常連の革職人が笑いながら遮った。あたしの口癖が、もう常連に覚えられている。少し恥ずかしい。
夜が更けていく。提灯の光が路地裏をオレンジ色に染めて、白い石灰岩の壁に人影が揺れている。蒼酒の蒼と、提灯の橙。脂の弾ける音と、男たちの笑い声。
一人が帰り、二人が帰り、最後に鍛冶職人が立ち上がった。
「明日も夜やるのか」
「……やる」
二度目だ。屋台を始めた日にも、同じ問いに同じ答えを返した。あのときは人足が聞いてきた。今度は鍛冶職人だ。問いは同じでも、意味が違う。あのときは「続けるのか」という確認だった。今は「待ってるぞ」という意味だ。
鍛冶職人が去った後、一人で片付けをした。
七輪の火を落とす。油の鍋を洗う。薬草油の瓶に蓋をする。蒼酒の空き瓶を隅に寄せる。
売上を数えた。夜の分だけで、銅貨四十二枚。昼の分と合わせると七十枚を超えた。場所代の日割り分を引いても、仕入れを引いても、自分の飯代を引いても、銅貨が手元に残る。
初日の銅貨十二枚が赤字だったことを思い出す。あれからまだ二十日も経っていない。
提灯の灯を消す前に、路地裏を見渡した。
白い壁。赤褐色の瓦屋根の影。坂道の向こうに、レフカの街灯がぽつぽつと見える。魔石灯の白い光と、どこかの家の窓から漏れるオレンジの光。
ここがあたしの場所だ。大市場の解体場でもなく、高級料理店の白い厨房でもない。路地裏の、七輪と提灯と粗塩があるこの場所。
明日は朝から仕込みだ。装甲猪の血抜き。蒼牙狼の煮込み。棘背蜥蜴の蒸し焼き。そして夜には脂身揚げ。
昼も夜も、旨いものを出す。それだけだ。
提灯の灯を消した。路地裏が暗くなって、坂の上から夜風が吹き下ろしてきた。蒼酒と脂と薬草の匂いが、風に乗ってどこかへ流れていく。
明日、あの匂いに誘われて、誰かがまた来る。たぶん。




