第3話 棘背蜥蜴の尾
客は増えてきた。でも、問題がある。
メニューが二つしかない。装甲猪の端材の塩焼きと、蒼牙狼の煮込み。どっちも旨い自信はあるが、毎日同じものを食わされたら飽きる。鍛冶職人は文句を言わないが、革職人が三日前に「そろそろ違うのも食いたいな」と呟いた。糸職人は何も言わなかったが、注文のとき一瞬迷う顔をした。あれは「他にないのか」の顔だ。
新しいメニューが要る。
大市場の肉区画を歩いた。装甲猪は安いが、もう出している。蒼牙狼も出している。他に何があるか。
棘背蜥蜴の尾肉。
ガラスの冷蔵ケースの中に、白い肉が並んでいた。棘背蜥蜴は危険度Cの魔獣で、背中の棘に静電気を帯電させて射出する厄介なやつだ。鱗は断熱性に優れていて屋根材に使われる。そして尾——尾の肉が白身で淡白で、上品な味がする。鶏肉に近いが、もっと繊細だ。繊維が細くて、舌の上でほろりと崩れる。大市場では高級食材として扱われていて、高級料理店がまとめて買っていく。
値札を見た。
尾肉一本、銀貨二枚。
帰ろう。
冗談じゃない。銀貨二枚なんて、屋台の売上一週間分だ。いや、一週間じゃ足りない。十日分くらいか。どっちにしろ手が出ない。棘背蜥蜴の尾肉は、あたしの世界の食材じゃない。高級料理店の白い皿に載るものであって、路地裏の七輪に載せるものじゃない。
でも。
あの白い繊維の並び方。あの脂の薄さ。あの透き通るような色。解体場にいた頃、棘背蜥蜴を何十頭もさばいた。尾肉を切り分けるたびに、この肉はどう焼けば一番旨くなるかを考えていた。親方に「お前は肉のことしか考えてないのか」と呆れられた。そうだ。肉のことしか考えていない。今もだ。
尾肉は買えない。だが——尾の根元はどうだ。
棘背蜥蜴の尾は、先端に向かうほど肉質が良くなる。逆に根元は骨と筋が多くて、白身の量が少ない。だから普通は捨てる。解体場でも、根元は骨と一緒にまとめて端材扱いだった。
端材なら安い。
大市場には出ていなかった。棘背蜥蜴の端材は流通量が少ない。冒険者が持ち込む分の大半は尾肉として高値で買い取られ、残りの根元は捨てられるか、骨ごと出汁素材として安く流れるかだ。
冒険者ギルド本部に行けば、直接買えるかもしれない。
レフカの冒険者ギルド本部は、大市場の北にある大きな石造りの建物だ。白い石灰岩の壁に、ギルドの紋章が浮き彫りになっている。入口は二つあって、冒険者用の正面入口と、素材の買取・販売用の裏口。あたしは裏口から入った。
中は思ったより広かった。素材の取引所になっていて、カウンターの向こうに棚が並び、乾燥した魔獣素材や瓶詰めの薬液が整理されている。魔石灯の白い光が、石の壁を照らしていた。
カウンターの受付に、若い女が座っていた。髪を結い上げて、帳簿を開いている。あたしより少し年上か、同じくらいか。
「棘背蜥蜴の端材を探してるんだが」
「端材ですか。尾の根元でしょうか」
「そう。骨と筋がついたままでいい。安く出ていないか」
受付の女は帳簿をめくって確認してくれた。ギルド本部では、冒険者が持ち込んだ素材のうち、正規の買取対象にならない端材や低品質品を別枠で安く販売している。大市場の端材屋と似た仕組みだが、棘背蜥蜴のような中級魔獣の部位が出ることがある。
「ありますね。昨日持ち込まれた分が三本。尾の根元、骨付きで銅貨八枚です」
銅貨八枚。安い。尾肉一本が銀貨二枚——銅貨二百枚だから、その二十五分の一だ。
もちろん、根元と先端では肉の量が全然違う。根元一本から取れる白身は、両手の掌に乗るくらいしかない。大半が骨と筋と結合組織だ。だが、あたしは知っている。あの骨の隙間に張り付いている白身を、包丁の先端で一つずつ剥がし取る方法を。解体場で何百回とやった作業だ。
「三本全部もらう」
「二十四枚ですね。少々お待ちください」
受付の女がカウンターの奥に引っ込んで、端材を取りに行った。あたしはカウンターに肘をついて待っていた。
そのとき、カウンターの端に積まれた書類の束が目に入った。茶色い封筒に入った紙の束で、封筒の表に「灰枝支部より移送」と書かれている。辺境の支部からの書類だろう。ギルド本部には各地の支部から報告書や帳簿が送られてくるらしい。あたしには関係のない書類だ。ただ、「灰枝」という地名が珍しくて、一瞬目が留まっただけだ。辺境の小さな支部。蒼苔が豊富に採れる地域だと聞いたことがある。
受付の女が端材を持って戻ってきた。麻布に包まれた三本の尾根元。持ち上げてみる。重い。骨が太い。いい個体だ。
「ありがとう」
「またお越しください」
路地裏に戻って、さっそく作業に取りかかった。
棘背蜥蜴の尾根元。骨は太くて硬い。棘背蜥蜴の骨は、他の魔獣と違って中空構造になっていて、内側に細い血管が通っている。だから血抜きの工程が特殊だ。
まず、骨の周りの筋を包丁で切り離す。筋は白くて硬い。煮ても焼いても食えない部分だから、躊躇なく落とす。次に、骨と肉の間に包丁の先端を差し込んで、結合組織を断つ。ここが難しい。力を入れすぎると白身が潰れる。弱すぎると骨から外れない。刃先の角度を三度——包丁の角度の三度だ、血抜きの三度じゃない——ずつ変えながら、骨に沿って滑らせる。
骨が外れた。残ったのは、筋と脂と結合組織に覆われた塊だ。一見すると食べられる部分があるように見えない。でも、この中に白身が隠れている。
結合組織の膜を、包丁の先端でめくる。その下に、薄い白身の層がある。指先で触れる。冷たくて、しっとりしている。ナノマシン濃度は——低い。尾の先端部と同じ水準だ。棘背蜥蜴の白身は、もともとナノマシン濃度が低い。だから血抜きも軽めで済む。塩水に短時間漬けるだけでいい。
包丁の先端で、白身を一枚ずつ剥がし取る。慎重に。繊維を潰さないように。一本の根元から取れる白身は、本当に少ない。親指の先くらいの薄い切れ端が、五枚か六枚。三本で十五枚から十八枚。片手に乗る程度の量だ。
この白身をどう料理するか。
焼くのは惜しい。薄すぎて、焼いたら水分が飛んでパサパサになる。揚げるのも違う。棘背蜥蜴の白身の良さは、あの繊細な繊維のほどけ方だ。強い火を入れたら台無しになる。
蒸す。弱火で、じっくり蒸す。
蒼苔を水で戻した。蒼苔は樹海の縁に生える蒼い苔で、スープや薬膳に使う。煮出すと苦みのある出汁が出るが、蒸し料理に使うと違う顔を見せる。蒼苔の葉——正確には苔だから葉じゃないが——は、蒸気を当てると独特の清涼感のある香りを放つ。この香りが白身に移ると、淡白な肉に奥行きが出る。
戻した蒼苔を広げて、白身を一枚ずつ包む。蒼苔の蒼い色が、白身の白を透かして見える。綺麗だ。いや、綺麗かどうかはどうでもいい。問題は味だ。
七輪の上に水を張った鍋を載せ、中に蒸し台を置く。蒸し台の上に蒼苔で包んだ白身を並べて、蓋をする。火は弱火。蒸気がゆっくり回るくらいの火加減だ。
待つ。
蒸気が蓋の隙間から漏れ始めた。蒼苔の香りが立ち上る。清涼感のある、少し甘い香り。その奥に、白身の上品な匂いが混ざっている。
これは——いい。
鼻でわかる。この香りのバランスは正解だ。蒼苔の清涼感と白身の淡白さが喧嘩していない。互いを引き立てている。蒸し時間は——まだだ。もう少し。白身の繊維が蒸気を含んで膨らむ瞬間がある。そこで止める。膨らみすぎると、繊維がほどけすぎて食感がなくなる。
蓋を開けた。
蒼苔の蒼が鮮やかになっている。その中の白身は、蒸気を含んでわずかに膨らみ、表面に細かい水滴が乗っている。指先で押してみる。ぷるん、と弾力がある。完璧だ。
一枚、口に入れてみた。
蒼苔の香りが鼻に抜ける。噛むと——いや、噛む必要がない。舌の上で、白身がほろりと崩れた。繊維が一本ずつほどけて、口の中に広がる。淡白なのに、旨味がある。尾の先端の肉と同じだ。いや、先端より少し味が濃いかもしれない。根元は骨に近い分、骨から染み出す旨味を吸っている。それが蒼苔の清涼感と合わさって、上品だけどしっかりした味になっている。
これだ。
高級料理店が銀貨を取って出す棘背蜥蜴の尾肉と、同じ系統の味。いや、違う。あっちは尾の中央部の厚い白身を使って、ソースで味をつける。こっちは根元の薄い白身を、蒼苔だけで仕上げる。素材の味が前面に出る分、ごまかしが利かない。でも、ごまかす必要がない。
昼になった。
鍛冶職人が来た。いつもの場所に立って、いつもの無言。
「今日は新しいのがある」
「なんだ」
蒼苔に包まれた白身を、装甲片の小皿に載せて渡した。三枚。鍛冶職人の大きな手には、小さすぎるくらいの量だ。
「棘背蜥蜴の尾根元。蒼苔で包んで蒸した」
「尾根元? 普通は捨てるところだろう」
「捨てるところから取った白身だ。食ってみろ」
鍛冶職人が一枚つまんで、口に入れた。
噛む。
止まった。
口の動きが完全に止まって、目がわずかに見開かれた。鍛冶職人の無表情が、ほんの一瞬だけ崩れた。
「……なんだこれは」
低い声だった。驚いている。この無愛想な鍛冶職人が、声に感情を乗せた。
「さっき言っただろ。棘背蜥蜴の尾根元だ。普通は骨と筋だらけで食えないが、包丁の先端で白身だけ剥がし取れば——この繊維の間に隠れている薄い白身の層を、結合組織ごとめくって、一枚ずつ——」
「説明はいい。もう一枚くれ」
遮られた。まあ、いい。旨いなら説明は要らない。食えばわかる。
革職人にも出した。「なんだこの上品な味は」と言われた。糸職人は黙って二枚食べて、「これ、毎日出るのか」と聞いてきた。
毎日は難しい。根元一本から取れる白身が少なすぎる。三本仕入れても十五枚から十八枚。一人三枚で五人か六人分。常連が四人いるから、残りは二人分しかない。
でも。
「出す。毎日ギルド本部に仕入れに行く」
言ってしまった。毎日ギルド本部まで往復する手間を考えると頭が痛いが、この味を出さないのはもったいない。端材の中から宝石を掘り出すような作業だが、あたしにはそれができる。五年間、解体場で鍛えた包丁の先端がある。
「値段は」
「銅貨三枚」
鍛冶職人が一瞬、眉を動かした。
「安すぎないか」
「根元は銅貨八枚で三本買える。一本あたり三枚弱だ。そこから白身を取って、蒼苔を足して、蒸す手間を入れても——」
「手間の値段が入ってない」
「手間?」
鍛冶職人が腕を組んだ。
「あの白身を骨から剥がす技術は、そこらの肉屋にはできない。それに値段をつけないのか」
黙った。考えたことがなかった。包丁を使うのは当たり前のことで、技術に値段がつくという発想がなかった。大市場では、あたしの技術は親方の名前の下に隠れていた。包丁を振るうのは作業であって、商品じゃなかった。
でも、今は違う。あたしが包丁を握って、あたしが白身を取って、あたしが蒸して出している。全部あたしの仕事だ。
「……銅貨四枚」
「それでいい」
鍛冶職人がうなずいた。銅貨四枚を置いて、三枚目の白身を口に入れた。
この日から、棘背蜥蜴の尾根元の蒸し焼きが屋台の看板メニューになった。
装甲猪の塩焼きは銅貨二枚。蒼牙狼の煮込みは銅貨三枚。棘背蜥蜴の蒸し焼きは銅貨四枚。三つのメニューが揃って、屋台らしくなってきた。
帳簿をつけてみる。今日の売上は——えーと。煮込みが四人で十二枚、塩焼きが二人で四枚、蒸し焼きが四人で十六枚。合計三十二枚。仕入れが端材五枚、肩肉三枚、尾根元八枚、蒼苔二枚、根菜三枚、蒼酒二枚、炭二枚、塩一枚。合計二十六枚。
利益——銅貨六枚。
六枚か。ここから場所代の日割り分を引くと……四枚。自分の飯代を引くと……二枚。
銅貨二枚。一日働いて、銅貨二枚。
まあ、赤字じゃない。初日の赤字から考えれば、進歩だ。たぶん。
七輪の火を落として、片付けを始める。夕暮れの路地裏。白い壁が茜色に染まって、遠くから大市場の終業の鐘が聞こえた。
明日もギルド本部に行かなきゃいけない。尾根元の在庫があるかどうかは日による。なかったら、蒸し焼きは出せない。不安定だ。でも、あの味を知ってしまったら、出さないわけにはいかない。
鍛冶職人の顔を思い出す。あの無表情が崩れた瞬間。「なんだこれは」と声に出した瞬間。
あの一瞬のために、明日も包丁を握る。そういうことだ。




