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魔獣肉の解体職人、首都の路地裏屋台で棘背蜥蜴《とげせとかげ》の白身を焼く  作者: 蒼月よる


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12/12

第12話 明日の仕込み

 開店から一ヶ月が経った。


 朝の四時に起きて、顔を洗って、髪を束ねる。包丁を腰に差して、まだ暗い路地を歩く。もうこの道は体が覚えている。角を二つ曲がって、石段を三段下りて、左手に暖簾が見える。革の暖簾は一ヶ月で少しだけ色が濃くなった。油煙を吸って、飴色に変わり始めている。「ニナの台所」の焼き印は、くっきりと残ったままだ。


 今日は大市場で仕入れの日だ。


 大市場は朝が早い。夜明け前から卸商が荷を開き、仲買人が品定めをし、飯屋の主人たちが仕入れに走る。白い石灰岩の柱が並ぶ巨大な屋根付き市場。天井から吊るされた無数の提灯が、まだ暗い市場を琥珀色に照らしていた。肉の匂い、魚の匂い、果物の甘い匂い、香辛料の刺激的な匂い。すべてが混ざり合った大市場の朝の空気は、五年間毎日吸ってきた匂いだ。体が覚えている。


 装甲猪の腿肉を選ぶ。卸商の台に並んだ肉を、一つずつ手で触る。繊維の方向、脂の入り具合、弾力。指先でわかる。五年間の解体場で叩き込まれた感覚は、体から消えない。一つ目。脂の入りが偏っている。だめだ。二つ目。繊維が乱れている。ストレスを受けた個体の肉だ。だめだ。三つ目——いい。脂の入りが均一で、繊維がしっかり揃っている。血抜きの痕もきれいだった。解体した人間の腕がわかる。丁寧な仕事だ。


「これと、肩肉を二つ」

「あいよ。相変わらず目が利くな、ニナ」

「手だ。目じゃなくて手で選んでる」

「はいはい」


 蒼牙狼の肩肉も選ぶ。こちらは赤身が多い。硬い肉だが、長時間煮込めば柔らかくなる。煮込み用は脂が少ないほうがいい。煮汁が澄む。二つ触って、二つ目を選んだ。こっちのほうが繊維が均一だ。


 仕入れを終えて、市場の通路を歩く。


 ふと、足が止まった。


 解体場だ。


 大市場の南端にある、魔獣肉の解体場。五年間通った場所。朝一番に入って、日が暮れるまで肉を捌いた場所。親方の怒鳴り声と、血の匂いと、包丁が骨に当たる硬い音。解体台の手触り。塩水の桶の重さ。全部覚えている。体に染みついている。


 入口に人影があった。若い男が立っている。親方の甥だ。背はあの頃より伸びていた。顔つきが少し大人びて、手には解体用の大包丁を持っている。朝の仕込みの準備だろう。親方と同じ位置に立って、親方と同じ包丁を持っている。


 目が合った。


 一瞬、甥の表情がこわばった。それから、小さく会釈をした。ぎこちない動きだった。気まずいのだろう。そりゃそうだ。あたしを追い出した代わりにそこに立っているのだから。


 あたしも会釈を返した。軽く、短く。


 それだけだった。


 胸がざわつくと思っていた。悔しさが蘇ると思っていた。「女に大市場は任せられない」と言われた日の怒りが、あの親方の背中を見て解体場を去った日の悔しさが。


 何も感じなかった。


 不思議なほど、何も。もうここはあたしの場所じゃない。あたしの場所は路地裏にある。革の暖簾がかかった、小さな石造りの店だ。


 足を動かした。振り返らなかった。


 店に戻ると、少年がもう来ていた。前掛けを巻いて、水瓶の水を換えている。言われなくてもやるようになった。


「おはようございます。仕入れ、終わりましたか」

「ああ。装甲猪の腿肉、見てみろ」


 少年に肉を渡した。少年が両手で受け取り、表面を触る。指先に意識を集中させているのがわかる。眉間にしわを寄せて、肉の感触を読み取ろうとしている。


「脂の入りがいいですね。繊維も揃ってる」

「どこでわかった」

「ここです。指で押したときの弾力が均一で……あと、断面の繊維が平行に走ってます。前に教わった、ストレスを受けてない個体の特徴です」


 悪くない。ちゃんと見ている。いや、ちゃんと触っている。目で見るんじゃない、手で触るんだと何度も言った。少年はそれを覚えていた。


「合格だ。じゃあ次は、蒼牙狼の肩肉を見ろ。二つある。どっちが煮込みに向いてるか、当ててみろ」


 二つの肩肉を並べた。少年が交互に触り、顔を近づけて匂いを嗅いでいる。その間に、あたしはもう一つの仕事に取りかかった。


 新メニューの開発だ。


 先週、冒険者が持ち込んだものがある。樹海鯨の脂だ。深層に生息する超大型魔獣の脂で、滅多に手に入らない。冒険者パーティが樹海の奥で仕留めた個体から取った脂を、小さな陶器の壺に入れて持ってきた。


「これ、使えるか? 売り先がなくて困ってたんだ。遺物商は高く買ってくれるが、量が少なすぎて相手にされなくてな」

「……見せろ」


 壺の蓋を開けた瞬間、鼻に甘い香りが届いた。蜂蜜に似ているが、もっと奥行きがある。森の奥の、苔と木の匂いが混ざったような、深い甘さ。常温では固い、琥珀色の塊。指で触ると、しっとりとした感触だった。体温で少しだけ柔らかくなる。指の腹に薄い油膜が残った。


 樹海鯨の脂は、熱すると液体になる。融点が独特で、常温では蝋のように固く、火にかけると琥珀色の透明な液体に変わる。この性質を使えば——ソースが作れる。


 小さな鍋に脂をひとかけら入れて、弱火にかけた。ゆっくりと溶けていく。固い琥珀色の塊が端から透き通って、液体に変わっていく。甘い香りが厨房に広がった。焼き台で肉を焼く匂いとは全く違う、透明で上品な甘さ。樹海の奥の、人の手が届かない場所の匂いだ。


 溶けた脂に蒼酒を少量加える。じゅう、と音がして蒸気が上がった。蒼酒のアルコールが一瞬で飛んで、甘みだけが残る。液面が泡立って、琥珀色の脂と蒼みがかった酒が混ざり合った。ここに蜂蜜をほんの少し。甘すぎてはいけない。肉の味を殺してしまう。脂のコクと蒼酒の甘み、蜂蜜の柔らかさ。この三つが溶け合うまで、弱火で煮詰める。液体がとろりと粘度を持ち始めるまで。木の匙でかき混ぜながら、色の変化を見る。琥珀色が少し濃くなって、匙の上でゆっくり流れるくらいの粘度。それが仕上がりの合図だ。


 木の匙で掬って、舐めてみた。


 最初に来るのは、樹海鯨の脂の深いコク。舌の上で蕩けるように広がって、口の中全体を包む。次に蒼酒の甘み。果実の発酵から来る、複雑な甘さ。最後に蜂蜜のまろやかさが舌の奥に残って、長い余韻になる。濃厚だが、しつこくない。後味が長く続く。これを肉にかけたら——。


 装甲猪のステーキを焼いた。いつもの手順だ。血抜き三度。室温に戻して、強火で表面を焼き固め、弱火でじっくり。粗塩を振る。ここまではいつもと同じだ。


 焼き上がったステーキの上に、樹海鯨脂のソースをひとさじかけた。


 琥珀色の液体が、焼きたての肉の上で薄く広がった。肉の熱でソースがさらに溶けて、表面を薄い膜のように覆った。脂の甘い香りと、肉の焼けた香ばしさが重なった。二つの匂いが別々のまま鼻に届いて、口の中で一つになる予感がした。


 切って、口に入れた。


 違う。


 いつもの装甲猪ステーキとは、明確に違った。粗塩だけの味は、肉そのものの野性味を前面に出す。装甲猪の肉が持つ力強さ、脂の甘さ、繊維の歯応え。それはそれで完成している。だが、樹海鯨脂のソースをかけると、その野性味に深いコクの層が加わった。噛むたびに脂のまろやかさが溶け出して、肉の旨味と混ざり合う。肉汁とソースが舌の上で出会って、どこまでが肉でどこまでがソースなのかわからなくなる。蒼酒の甘みが後から追いかけてきて、余韻が長い。飲み込んだ後も、口の中にコクが残る。


 一段、上がった。屋台時代の粗塩だけの味から、一段階上がった味。


 でも根本は変わらない。血抜きを三度やって、素材を活かす。それだけだ。ソースは肉を飾るものじゃない。肉が持っている旨さを、もう一歩引き出すためのものだ。


「ニナさん、すごい匂いがします。何作ってるんですか」


 少年が鼻をひくひくさせながら近づいてきた。蒼牙狼の肩肉の選別を終えて、こっちの匂いに釣られたらしい。


「新メニュー。食ってみろ」


 少年に切り分けて渡した。少年が一口食べて、目を見開いた。咀嚼が止まった。それからゆっくりと噛み始めて、飲み込むまで黙っていた。


「なんですかこれ……今までのステーキと全然違います」

「樹海鯨の脂でソースを作った」

「樹海鯨! そんな高級なもの、値段は大丈夫なんですか」

「少量しかないから、限定メニューだ。脂が手に入ったときだけ出す」

「これ食べたら、お客さん絶対また来ますよ」

「そのために作ってるんだ」


「あ、肩肉の答え、右のほうが煮込みに向いてます。脂が少なくて、繊維の方向が揃ってたから」


 正解だった。少年は確実に成長している。


 昼の営業が始まった。常連の鍛冶職人が来た。装甲猪のステーキを出す。いつもの粗塩版。鍛冶職人はいつもの無表情で食べた。


「今日、新しいのがある。食ってみるか」

「出せ」


 樹海鯨脂ソースのステーキを出した。鍛冶職人が一口食べて、咀嚼する速度が変わった。いつもより遅い。味を確かめている。二口目。さらに遅くなった。目が少しだけ細くなった。この男が目を細めるのは、本当に旨いときだけだ。


「……旨い」

「そりゃどうも」

「いや——旨い」


 二回言った。この男が同じ言葉を二回言うのは、初めてだった。一回目は確認で、二回目は感嘆だ。


「限定だ。いつも出せるわけじゃない」

「わかってる。だが、これを食える日は通う」

「いつも通ってるだろ」

「より通う」


 意味がわからなかったが、鍛冶職人は満足そうに蒼酒を飲んでいたので、まあいいか。


 午後、客が引いた時間に、少年に肉の選び方を教え始めた。


 テーブルの上に装甲猪の腿肉を置いて、少年に触らせる。


「いいか。装甲猪の腿肉を選ぶときは、まず断面を見ろ。繊維の方向が揃っているものがいい。バラバラに走っているやつは、ストレスを受けた個体の肉だ。味が硬くなる」

「ストレス……魔獣もストレスを受けるんですか」

「当たり前だ。狭い場所に閉じ込められた個体と、樹海を自由に走り回っていた個体じゃ、肉の質が全然違う。次に脂。指で押してみろ。弾力が均一なら脂の入りが良い。硬いところと柔らかいところがまだらになっていたら、脂の入りがムラになっている。焼いたときに火の通りが不均一になる」

「なるほど……」

「最後に匂い。鼻を近づけろ。新鮮な肉はかすかに鉄の匂いがする。血の匂いじゃない、鉄だ。酸っぱい匂いがしたら、血抜きが甘い証拠だ。そういう肉は買うな。いくら安くても買うな。安い肉を旨く食わせるのがあたしたちの仕事だが、血抜きが甘い肉だけはどうにもならない」

「鉄の匂い、ですか」

「わかるようになる。毎日触ってれば。あたしも最初はわからなかった。親方に何度も嗅がされて、やっと区別がついた」


 親方。その言葉を口にして、一瞬だけ黙った。親方から教わったことを、そのまま渡している。言葉にして初めて気づくこともある。自分が無意識にやっていたことの理由が、少年に説明するうちに明確になっていく。親方はこんな気持ちであたしに教えていたのだろうか。


 夕方の営業を終えて、閉店の準備を始めた。鍋を洗い、焼き台の灰を掃き出す。少年がテーブルを拭いている。手際がよくなった。最初の頃は拭き残しがあったが、今は角まできちんと拭く。


「少年」

「はい」

「明日の仕込みの段取りを言うぞ」

「はい」

「朝は四時に来い。最初に装甲猪の血抜きから始める。血抜きは三度。一度目で表層——」


「——二度目で深層、三度目で繊維の間。知ってますよ、もう」


 少年が笑った。


 あたしが何百回と言ってきた言葉が、少年の口から返ってきた。一度目で表層、二度目で深層、三度目で繊維の間。親方があたしに教えた言葉。あたしが少年に教えた言葉。同じ言葉が、手から手へ渡っていく。包丁の握り方や火加減の見方と一緒に、言葉も受け継がれていく。


「……生意気になったな」

「ニナさんが教えてくれたんじゃないですか」

「まだ半人前だ。偉そうに言うのは一人で仕込みを全部終わらせてからにしろ」

「はい。でも、もうすぐできると思います」

「言ってろ」


 少年は前掛けを外して丁寧に畳み、「お疲れさまでした」と頭を下げて帰っていった。路地の角を曲がるまで、背中が見えた。来たばかりの頃より、少しだけ肩幅が広くなった気がする。


 一人になった厨房で、焼き台の灰を最後まで掃き出した。鍋を洗い、調理台を拭き、冷蔵箱の中身を確認する。明日の仕入れの分量を帳簿に書き込む。樹海鯨の脂はあと三回分残っている。大事に使おう。


 すべて終えて、暖簾を下ろした。


 路地に出ると、レフカの夕空が広がっていた。白い石灰岩の建物が斜面に並び、赤褐色の瓦屋根が夕日を受けて赤く染まっている。坂の下に大市場の巨大な屋根が見える。その先に港の海が光っていた。空が橙から紫へ変わっていく。この時間のレフカが一番好きだ。


 この街が好きだ、と思った。白い壁と赤い屋根と、路地裏の匂いと。この街で料理をしている。それだけで十分だ。


 路地の向こうを、揃いの鎧を着た軍人が三人、足早に通り過ぎた。


 最近、こういう光景を見ることが増えた。工房街の職人たちも「軍が何か忙しそうだ」と言っている。大市場でも、軍の大量発注が入ったとか、兵站の仕入れが増えたとか、そんな話を耳にする。鍛冶職人は「軍から刃物の注文が増えた」と言っていた。何かが動いている。


 この街で何か大きなことが動き始めている気がする。軍の人間を見かけることが増えた。何が起きているのかはわからない。あたしは政治のことなんて何も知らないし、知りたいとも思わない。


 でも、何が起きても飯は食わなきゃならない。人は腹が減る。腹が減ったら、旨いものが食いたくなる。それだけは変わらない。戦があろうが平和だろうが、人は腹が減って、旨いものを食って、また明日を生きる。


 だから今は、明日の仕込みのことだけ考える。


 装甲猪の腿肉の血抜き。蒼牙狼の肩肉の煮込み。棘背蜥蜴の尾根元の下処理。蒼苔スープの仕込み。樹海鯨の脂が少し残っている。明日も限定で出せるだろう。


 路地を歩く。石畳に自分の影が長く伸びた。


 大市場をクビになった日のことを思い出す。もう遠い。路地裏に七輪を置いた日。銅貨十二枚の赤字。荷運び人足が「明日もやるのか」と聞いて、「やる」と答えたこと。


 あの日のあたしに言ってやりたい。大丈夫だ。お前の血抜きは誰にも負けない。路地裏で最高の一皿を出せ。そうすれば人が来る。人が来れば一人じゃなくなる。


 暖簾を下ろした店の前を通り過ぎて、角を曲がった。


 明日も旨い一皿を出す。


 それだけだ。


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