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魔獣肉の解体職人、首都の路地裏屋台で棘背蜥蜴《とげせとかげ》の白身を焼く  作者: 蒼月よる


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第11話 開店初日

 目が覚めたのは、空がまだ黒い時間だった。


 寝床から起き上がって、窓の外を見る。星がまだ出ている。夜明けまでは一刻ほどある。体が勝手に起きた。眠れなかったわけじゃない。むしろよく眠れた。深く、短く。今日が何の日か、体が覚えていたのだ。


 開店初日。


 顔を洗って、髪を後ろで一つに束ねた。いつもの黒い前掛けを巻いて、包丁を腰の帯に差す。手の甲の古い傷跡が、薄暗がりの中で白く浮いていた。解体場で五年間働いた証だ。包丁の滑り傷、骨の破片で切った傷、魔獣肉のナノマシンで荒れた指先。この手で今日、最初の一皿を出す。


 店に着いたのは四時前。路地はまだ暗く、遠くで夜番の見回りの足音がかすかに聞こえた。提灯に火を入れて、暖簾はまだ掛けない。開店は昼からだ。それまでに仕込みを全部終わらせる。


 鍵を開けて中に入ると、石造りの壁が冷えていた。昨夜のうちに水瓶を満たしておいたから、水は足りる。焼き台に炭を入れて火を熾す。通気口を一段目だけ開けて、弱く。朝の冷えた空気の中で、赤い光が厨房に静かに広がった。


「おはようございます」


 振り返ると、バイトの少年が入口に立っていた。まだ暗い路地から、息を切らせて走ってきたらしい。


「早いな」

「眠れなくて」

「……あたしもだ」


 嘘だ。あたしはよく眠れた。でも少年の緊張をほぐしてやるには、同じ気持ちだと言っておくほうがいい。こういう嘘は許される。


 少年に前掛けを投げてよこした。少年はそれを受け取って、慣れた手つきで巻いた。もう教えなくても巻ける。雇った日は、前掛けの結び方すら知らなかったのに。あの日は紐を前で結ぼうとして、あたしに「後ろだ、馬鹿」と怒鳴られた。今は黙って後ろで結んでいる。


「段取りを言うぞ。まず装甲猪の血抜き。塩水はもう作ってある。一度目はあたしがやる。二度目と三度目はお前がやれ。次に蒼牙狼の煮込み。昨日のうちに肩肉を塩水に漬けてある。根菜を切って、蒼酒と一緒に鍋に入れる。棘背蜥蜴の尾根元は——」

「下処理は僕がやります。骨と筋を外して、白身を剥がすんですよね」

「そうだ。包丁の先端で丁寧にな。雑にやると身が崩れる」

「わかってます」


 少年は冷蔵箱から装甲猪の腿肉を取り出した。昨日のうちに仕入れておいた肉だ。屋台時代なら朝一番に市場で仕入れて、その日のうちに使い切らなければならなかった。冷蔵箱のおかげで前日に仕入れができる。この差は大きい。朝の時間が全部、仕込みに使える。


 血抜きを始める。一度目。肉の表面に包丁で浅く切れ目を入れ、塩水に浸けて押す。血液が染み出してくる。赤黒い液体が塩水を濁らせた。ナノマシンの含有量が高い魔獣肉は、この工程を手抜きすると毒が残る。食えたもんじゃない——いや、食ったら腹を壊す。最悪、命に関わる。だから血抜きは三度。一度で済ませるやつの肉は、あたしは絶対に食わない。

 二度目は少年に任せた。少年の手つきを見る。力の入れ方、角度、速さ。悪くない。最初の頃は力が入りすぎて肉の繊維を潰していたが、今は加減がわかっている。繊維に沿って、均等に力をかけている。

 三度目。繊維の間に染み込んだナノマシン含有液を、塩水で引き出す。ここが一番時間がかかる。焦ってはいけない。肉を塩水の中でゆっくりと揉む。繊維の隙間から、かすかに色のついた液体が滲み出る。目に見えるかどうかの量だが、これを残すと仕上がりに魔獣臭が出る。少年がゆっくりと丁寧に揉んでいるのを確認して、頷いた。


「いい手つきだ」

「ありがとうございます」


 蒼牙狼の煮込みは大鍋で仕込む。昨夜から塩水に漬けておいた肩肉を取り出し、一口大に切り分ける。根菜——大根に似た白い根と、人参に似た橙色の根を薄切りにして、肉と一緒に鍋に入れる。蒼酒をたっぷり注いで、弱火にかける。蒼酒のアルコールが飛んで、甘みと旨みだけが残る。三時間。開店までにちょうど仕上がる。鍋の蓋の隙間から、蒼酒の甘い香りが漂い始めた。


 棘背蜥蜴の尾根元は少年が下処理を進めている。骨と筋を外す作業は、地道で忍耐がいる。包丁の先端で、骨に張り付いた筋をひとつずつ切り離していく。小さな音が厨房に響いた。こつ、こつ、こつ。骨に包丁が当たる音。少年の集中した横顔が見えた。


 蒼苔スープの仕込み。乾燥させた蒼苔を水で戻すと、枯れた苔がゆっくりと蒼みを取り戻して膨らむ。これを根菜の薄切りと一緒に別の鍋に入れて、弱火でじっくり煮出す。蒼苔は火が強すぎると苦味が出る。とろ火で、ゆっくりと。一刻ほど煮出して、最後に蜂蜜をひとさじ。体の芯から温まる薬膳スープだ。雨の日限定にするつもりだったが、常連からの要望が多くて定番に昇格した。鍛冶職人は暑い日でもこれを飲む。「汗を出すんだ」と言っていた。鍛冶屋の理屈はよくわからないが、旨いものは旨い。


 装甲猪のステーキ用の腿肉は、血抜きを終えたものを布巾に包んで室温に戻す。冷蔵箱から出したばかりの肉を焼くと、表面だけ焼けて中が冷たいままになる。室温に戻してから焼くのが鉄則だ。焼くのは注文が入ってからだ。


 空が白み始めた。窓から差し込む光が、厨房の白い壁を淡く照らした。蒼牙狼の煮込みの鍋からぐつぐつと音がして、蒼苔スープの鍋からは静かに湯気が立っている。棘背蜥蜴の白身は蒼苔の葉に包まれて、焼き台の端で出番を待っている。仕込みがほぼ終わっていた。厨房に煮込みの匂いと蒼苔の香りが充満している。


「ニナさん」

「なんだ」

「そろそろ……」

「ああ」


 時間だ。


 入口に向かった。通し棒を手に取り、革の暖簾を通す。壁の金具に掛ける。革の重みで、すとん、と落ち着いた。


「ニナの台所」の文字が、路地に向かって揺れた。


 開店だ。


 最初の一刻は、誰も来なかった。


 路地の向こうを人が通る気配はあるが、角を曲がってはこない。新しい店だ。まだ知られていない。少年が不安そうにこちらを見る。


「大丈夫だ。屋台の初日も同じだった」

「でも——」

「そのうち来る。匂いが届けば」


 焼き台で装甲猪の端材を焼いた。客用じゃない。匂いを出すためだ。脂が炭に落ちて煙が立ち、肉の焼ける香ばしい匂いが煙突から路地に流れ出す。これが呼び水だ。腹が減っている人間は、この匂いに逆らえない。


 やがて、足音が聞こえた。


 暖簾をくぐって入ってきたのは、鍛冶職人だった。


 革の前掛けを腰に巻いたまま、汗の匂いをさせて。いつもの無表情で。腰掛けに座る前に、一瞬だけ店内を見回した。自分が作った焼き台、自分が取り付けた金具、自分たちが集めた金で契約した場所。それを確認するように。


「いつもの」


 笑いそうになるのをこらえた。屋台の時と同じだ。何も変わらない。この男は、店が路地裏の七輪だろうが石造りの建物だろうが、同じ顔で同じ言葉を言う。


「蒼牙狼の煮込みと装甲猪の塩焼き。蒼酒もつけるか」

「ああ」


 鍛冶職人の後を追うように、革職人が入ってきた。石工の兄弟。荷運びの親方。糸職人の女。工房街の常連たちが、昼休みを狙って一気に押し寄せた。


「やってるな」

「暖簾、いい感じじゃないか」

「串、三本」

「煮込みと蒼酒」


 注文が重なる。少年が注文を復唱しながら取り、あたしが焼き、盛り付け、出す。仕込み台から焼き台へ、焼き台から皿へ、皿からテーブルへ。設計した動線がそのまま動きになる。振り返るだけで手が届く。二歩で客席が見える。屋台時代の狭い空間とは違う。体が自由に動く。


 装甲猪のステーキを焼く。室温に戻しておいた腿肉を焼き台に載せる。通気口を三段全開にして強火。表面を焼き固める。焼き色がついたら通気口を一段だけにして弱火。じっくり中まで火を通す。指先で弾力を確認して、下ろす。粗塩を振る。断面はうっすら桃色。肉汁が皿に広がった。

 棘背蜥蜴の尾根元の蒸し焼きを出す。蒼苔の葉を開くと、白身がほろりと崩れる柔らかさ。薬膳の香りが店内に広がった。この匂いは壁に反射して、路地裏の屋台よりも強く香る。石造りの建物の恩恵だ。

 蒼牙狼の煮込みをよそう。三時間煮込んだ肩肉が、匙で崩れた。蒼酒の甘みが染み込んだ煮汁は、飲み干す客が多い。残った煮汁にパンを浸して食べる客もいた。

 蒼苔スープを添える。薬膳の蒼い色をした透明なスープが、陶器の椀に注がれた。蜂蜜の甘みがほんのり香る。


 テーブル四卓が埋まった。路地裏の屋台なら四人も座れば満席だったが、今は十二人入れる。それでも足りない。立って食べる客が二人出た。


「もっと椅子がいる」

「明日、作る」


 鍛冶職人が即答した。この男は言ったことは必ずやる。明日には本当に椅子を持ってくるだろう。


 午後になると客層が変わった。冒険者が三人連れで入ってきた。体格のいい男二人と、弓を背負った女一人。装備の汚れ具合からして、遠征帰りだろう。革鎧に樹海の泥がこびりついていた。

 弓の女に見覚えがあった。以前、屋台に携行食を注文しに来た銀牌のパーティの一人だ。あのとき、装甲猪の燻製を齧りながら手を振って去っていった女。


「あんた、屋台のときの——」

「おう、覚えてるか。あのときの携行食は旨かったぞ。樹海の中層で三日間食い繋いだが、飽きなかった」


 弓使いの女がにやりと笑った。あの携行食は蒼牙狼のジャーキーと装甲猪の燻製と棘背蜥蜴の干し肉の三種類を組み合わせて作ったやつだ。三日間飽きなかったなら、組み合わせは正解だったということだ。


「店を構えたって聞いてな。路地裏の屋台が固定店舗になったって」

「そうだ。何にする」

「全部」


 全部。装甲猪のステーキ、棘背蜥蜴の蒸し焼き、蒼牙狼の煮込み、蒼苔スープ。冒険者は食べる。量が違う。三人分で通常の六人分は出た。装甲猪のステーキは一人二枚ずつ焼いた。


「このステーキ、血抜きが完璧だな。大市場の上等品よりいい」

「当たり前だ」

「嫌味じゃないぞ、褒めてるんだ」

「……別に、普通にやっただけだ」


 弓の女が笑った。「照れてる」と小声で言ったのが聞こえた。聞こえてない振りをした。照れてない。事実を言っただけだ。普通に血抜きを三度やって、普通に焼いて、普通に塩を振っただけだ。それを「完璧」と呼ぶなら、世の中の大半の肉は不完全だということになる。実際そうなのだが、いちいち言うと嫌味になるから黙っておく。


 夕方になると、蒼酒を目当ての客が増えた。工房街の職人が仕事帰りに寄る。屋台時代の常連もいれば、固定店舗になって初めて来た顔もある。蒼酒の杯を傾けながら、装甲猪の脂身揚げをつまむ。カリカリに揚げた脂身と、蒼酒の甘みが口の中で出会う。塩気と脂と甘み。酒のつまみの三位一体だ。


「場所がわかりやすくなったな。屋台の頃は路地を三回曲がらないと辿り着けなかった」

「それでも来てたくせに」

「旨い飯の前では路地の三つや四つ」


 笑い声。蒼酒の蒼い液体が杯の中で揺れる。提灯の光を受けて、蒼みがかった透明な色が美しかった。


 そこへ、見慣れない客が入ってきた。若い。四人組。揃いの濃紺の外套を羽織っていて、胸元に銀糸で刺繍された紋章がついていた。開いた書物と杖を組み合わせた意匠——学園の校章だ。学園帰りの生徒たちだろう。


「すみません、入っても大丈夫ですか」

「客なら誰でも入れる。座れ」


 若い客たちはおどおどと席についた。テーブルクロスの蒼い縁取りを珍しそうに触っている。蒼酒を頼もうとして、互いの顔を見合わせている。


「何にする」

「えっと……おすすめは」

「棘背蜥蜴の尾根元蒸し焼き。初めてなら、まずこれだ」


 蒸し焼きを四人分出した。蒼苔の葉を開いた瞬間、若い客の一人が「わ」と声を上げた。白身がほろりと崩れるのを見て、目を丸くしている。薬膳の香りが鼻先をくすぐったのだろう。蒼苔の緑と白身の白が、木の皿の上で鮮やかだった。


「これ、棘背蜥蜴なんですか? こんなに柔らかいんだ」

「尾根元の白身。普通は捨てるところだ」

「捨てる……? もったいない」

「だからあたしが使ってる」


 四人が黙々と食べた。一人が蒼酒を追加で頼んだ。学園帰りの客が蒼酒。度数が低いから問題はないだろう。食べ終わった後、「また来ます」と言って帰っていった。本当に来るかどうかはわからないが、悪い気はしなかった。高級料理店にしか行かなかった若い客が、路地裏の店に来た。それだけで、何かが変わった気がした。


 日が暮れた。提灯に火を入れた。暖簾の「ニナの台所」の文字が、提灯の光に照らされて浮かび上がった。革の暖簾が橙色の光を受けて、温かい色に染まった。


 閉店は夜の九つ鐘の後だ。最後の客は蒼酒を三杯飲んだ石工の弟で、兄に引きずられるようにして帰っていった。少年がテーブルを拭いている。


「お疲れさまでした」

「ああ。お前も、よくやった」

「明日も来ます」

「当たり前だ。来なかったらクビだ」

「……冗談ですよね」

「半分な」


 少年が帰った後、一人で厨房を片付けた。鍋を洗い、焼き台の灰を掃き出し、調理台を布巾で拭く。冷蔵箱の中身を確認する。明日の仕入れは装甲猪の腿肉と蒼牙狼の肩肉、それに蒼苔の追加。棘背蜥蜴の尾根元はギルドに在庫があるか確認しないと。


 すべて片付け終えて、客席に出た。四つのテーブルにテーブルクロスが掛かっている。蒼い縁取りの白い布。一日使っただけで、もう肉の脂の匂いが染みていた。明日、洗おう。


 帳簿を引っ張り出した。


 屋台を始めた初日。銅貨十二枚。赤字。

 二日目。銅貨十八枚。まだ赤字。

 一週間後。銅貨三十枚。ようやく仕入れ値と場所代を回収。

 一ヶ月後。銅貨が銀貨に変わり始めた。

 そして今日——。


 数字を書き込んだ。銀貨を超えた。一日の売上が銀貨を超えた。


 帳簿を閉じて、テーブルに肘をついた。大市場をクビになった日から、ここまで来た。路地裏の七輪と折りたたみ台から、石造りの店と鉄の焼き台へ。銅貨十二枚から、銀貨超えへ。


 別に、大したことじゃない。毎日仕込みをして、肉を焼いて、客に出しただけだ。血抜きを三度やって、粗塩を振って、旨い一皿を出す。それだけの繰り返しだ。


 だけど、この繰り返しが積み重なって、ここに辿り着いた。


 テーブルを最後にもう一度拭いて、提灯を消した。暖簾はそのままにしておく。夜風に揺れる革の暖簾。「ニナの台所」の文字が、暗い路地の中でかすかに見えた。


 明日も、仕込みから始まる。


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