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魔獣肉の解体職人、首都の路地裏屋台で棘背蜥蜴《とげせとかげ》の白身を焼く  作者: 蒼月よる


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第10話 改装

 鍵は、思ったより軽かった。


 元パン屋の跡地。旧市街の路地を一本入った先の、石灰岩造りの小さな建物だ。赤褐色の瓦屋根、木枠の窓が二つ、入口は間口が狭くて大人が二人並んだらいっぱいになる。両隣は空き家と糸染めの工房。路地には朝の光がまだ斜めに差し込んでいて、白い壁が淡い琥珀色に染まっていた。

 大家は老婆で、前の店主とは親戚だったらしい。「好きに使いな、壁を壊さなければね」とだけ言って帰っていった。手付け金を渡すとき、布袋の中身をちらりと見て「工房街の連中かい」と呟いた。わかるらしい。銅貨と銀貨の混ざり方で、誰が出した金か見えるのだろう。大市場の老婆の目は鋭い。


 鍵穴に鍵を差し込んで、回す。がちゃり、と錠が外れた。木の扉を押し開けると、埃の匂いが鼻を突いた。


 中は暗い。窓の鎧戸を開けると、午前の光が差し込んで、埃が金色に舞い上がった。光の中を無数の粒子が漂い、床の石畳に模様を描いた。

 広さは屋台の十倍。奥の壁に、前の店主が使っていた焼き窯の跡が残っている。煉瓦を積み上げた窯の形は崩れかけていたが、煙突はまだ生きていた。試しに窯の口から上を覗くと、煙突の先に空が丸く見えた。壁の漆喰は剥がれ、床の石畳には小麦粉の染みが残っている。天井の梁は太くて黒い。長い年月の煤が染みついている。建物の骨は丈夫だ。


 足を踏み入れて、中央に立った。ぐるりと見回す。


 ここが、あたしの店になる。


 まず厨房の設計だ。自分で考える。五年間、解体場で肉を捌きながら、料理人の動きを見てきた。大市場に面した飯屋は何十軒もあって、昼休みに覗いては厨房の配置を観察していた。旨い飯を出す店は、厨房の動線がいい。料理人の足が少ない。腕だけが動いている。仕込み台から焼き台まで、振り返るだけで手が届く。火元は壁際に寄せて、煙突を活かす。食材の保管は入口から一番遠い場所に——奥の壁際がいい。客の出入りで外気が入っても、奥なら温度が安定する。

 客席は手前に四卓。多くはないが、路地裏の屋台に比べたら宮殿みたいなもんだ。七輪と折りたたみ台しかなかった場所から、テーブルと椅子のある場所へ。それだけで世界が変わる。


 懐から紙と炭筆を取り出して、床に座り込んだ。間取りを描く。仕込み台の位置、焼き台の位置、鍋を置く場所、水瓶の場所。何度も描き直した。紙の端が黒くなるまで消しては描いた。ここに立って、右手で肉を掴んで、左に振り向いたら焼き台——いや、遠い。もう一歩分、寄せる。実際に立って、腕を伸ばして、距離を確かめる。自分の体の寸法で測る。あたしは小柄だ。背伸びしなくても届く高さ、腕を伸ばせば届く距離。他の誰でもない、あたしの体に合わせた厨房を作る。


 半日かかって、ようやく納得のいく配置が決まった。紙はもう真っ黒で、最終版の線だけが白く残っていた。


 翌日から、工房街の職人たちがやってきた。


 最初に来たのは鍛冶職人だった。朝一番に、弟子を一人連れて現れた。あたしが描いた間取り図を見て、しばらく黙っていた。腕を組んで、図面と実際の壁を交互に見ている。


「焼き台の高さは」

「腰の位置。ここ」


 自分の腰に手を当てて示すと、鍛冶職人は頷いた。


「通気口は三段で切る。火力を変えられるようにする」

「わかってるじゃないか」

「当たり前だ。飯を食う側だって、火加減がわかる」


 鍛冶職人が取りかかったのは、調理台と焼き台の鍛造だった。工房から弟子が鉄板を担いで運び込む。重い鉄板が床の石畳にどん、と置かれるたびに、建物が小さく揺れた。

 焼き台は炭を入れる箱型で、側面に通気口を三段に切ってあった。一段目を開ければ弱火、三段目まで全開にすれば強火。鍛冶職人が実際に炭を入れて火を熾し、通気口の開閉で温度が変わることを確認していた。鉄の箱の中で炭が赤く熾って、顔に熱気が当たった。いい火だ。

 調理台は一枚板の鉄を叩いて平らにしたもので、端に水切りの溝が刻んであった。溝は微妙に傾斜がついていて、血や水が自然に端に流れ落ちるようになっている。


「ここで肉を捌くんだろう。血が流れるように溝を入れた」

「……ありがとう」

「礼はいい。飯で返せ」


 三日で焼き台と調理台が完成した。鍛冶職人の仕事は正確で、図面通りの位置にぴたりと収まった。


 四日目に革職人がやってきた。大柄な男で、腕が丸太みたいに太い。装甲猪の鞣し革を抱えていた。鞣したばかりの革は薄い茶色で、しなやかな手触りだった。


「暖簾を作る。サイズは」

「入口の幅に合わせて。高さは……頭がぎりぎりくぐれるくらい」

「了解。文字はどうする」

「文字?」

「店の名前だ。決めてないのか」


 店の名前。考えてなかった。屋台のときは名前なんてなかった。「路地裏の肉屋台」とか「蜥蜴屋」とか、常連が勝手にそう呼んでいただけだ。


「……ニナの台所」


 口に出してから、恥ずかしくなった。安直すぎる。もっと気の利いた名前があるだろうに。「首都レフカ魔獣肉専門」とか——いや、それは長い。「路地裏亭」——つまらない。結局、最初に口をついて出た名前が一番しっくり来る。


「いい名前だ」


 革職人はそれだけ言って、革を広げて採寸を始めた。


 同じ日に糸職人が来た。まだ若い女で、染め粉で指が蒼く染まっている。テーブルクロスを四枚、布に包んで持ってきた。白い麻布に、蒼い糸で縁取りが入っている。縁取りの模様は波打つような曲線で、一枚一枚手で刺してあるのがわかった。


「蒼酒の蒼に合わせたの。お店で蒼酒出すんでしょう?」

「ああ、出す」

「じゃあこれでぴったり。蒼酒を注いだ杯をこのクロスの上に置くと、色が揃ってきれいよ」


 テーブルクロスを広げて、まだ何も載っていない木のテーブルに掛けた。白と蒼。路地裏の屋台にはなかった色だ。木の腰掛けと木の皿しかなかった世界に、布の柔らかさが加わった。


 五日目。石工の兄弟が壁の漆喰を塗り直してくれた。兄のほうが壁の下地を整え、弟が漆喰を練って塗る。白い石灰岩造りの壁が、真新しい漆喰で輝いた。塗りたての漆喰は水を含んでいて、光を受けるとかすかに青白く光る。乾けば真っ白になるのだと兄が言った。荷運びの連中は古い焼き窯の煉瓦を運び出してくれた。重い煉瓦を何度も往復して路地の外まで運ぶ。汗だくの背中が路地を行き来した。


 六日目の朝、バイトの少年が走ってきた。


「ニナさん、届きました!」


 少年が抱えていたのは、木箱に入った小型の魔石冷蔵箱だった。アルヴァスの工房から取り寄せたものだ。注文してから十日。海に面した小さな港町アルヴァスには遺物工房があって、こういう生活用の魔石器具を作っている。冷蔵箱の中に埋め込まれた魔石が、箱の内部の温度を一定に保つ仕組みだ。これがあれば、仕入れた肉を二日は新鮮に保てる。屋台時代の「その日のうちに売り切らなければ腐る」という制約から、ようやく解放される。


 木箱を開けて、中を確認した。箱は掌より少し大きい程度の魔石を底に嵌め込んだ、木と鉄で作られた頑丈な造りだった。手を入れると、ひんやりとした冷気が指先を包んだ。外の空気との温度差で、指先にうっすら水滴がつく。


「動いてる。問題なしだ」


 冷蔵箱を厨房の奥——間取り図で「食材保管」と書いた場所に据え付けた。ぴたりと収まった。設計通りだ。測り直してよかった。最初の設計では冷蔵箱の幅が入らなくて、壁の位置を再計算したのだ。


 七日目と八日目は、あたしが一人で厨房の細かい部分を仕上げた。包丁を掛ける壁の釘——三本、高さを変えて打つ。解体用の大包丁、仕込み用の中包丁、仕上げ用の小包丁。それぞれの柄の長さに合わせた間隔。鍋を吊るす天井の鉤は、鍛冶職人の弟子に頼んで作ってもらった。調味料を並べる棚は木の板を壁に打ち付けただけだが、手を伸ばせばすぐ届く高さにした。粗塩、蜂蜜、薬草油、蒼苔の乾燥葉。背伸びしなくても届くように。小柄な体に合わせた厨房。他の誰でもない、あたしのための厨房だ。


 仕込み台の前に立ってみた。右を向けば焼き台。左を向けば鍋の火元。振り返れば冷蔵箱。二歩歩けば客席が見える。手を伸ばせば調味料の棚に届く。何度も体を回して、動線を確認した。


 完璧だ。


 九日目の昼、工房街の職人たちが全員集まった。


 壁の漆喰は乾いて真っ白になり、焼き台は据え付けられ、テーブルクロスは掛けられ、冷蔵箱は動いている。あとは暖簾だけだった。


「改装祝いだ」


 鍛冶職人がそう言って、蒼酒の瓶を三本置いた。革職人が装甲猪の串肉を持ってきた。市場で買ってきたらしい。


「待て、肉はあたしが焼く」


 新しい焼き台に、初めて炭を入れた。通気口を一段目だけ開けて風を送ると、炭がゆっくりと赤く熾った。手をかざして温度を確かめる。いい火だ。安定している。七輪と違って、箱型の焼き台は熱が逃げにくい。炭の量が少なくても十分な火力が出る。

 装甲猪の串肉を焼き台に並べる。じゅう、と肉が焼ける音が、石造りの壁に反響した。屋台のときとは違う。音が返ってくる。屋根がある場所で焼く肉の音は、こんなに違うのか。路地裏では音が散って消えていたが、壁と天井に囲まれた厨房では、じゅうじゅうという音が低く響いて、空間全体が肉の焼ける音で満たされる。


 串肉を回す。脂が炭に落ちて、煙が立つ。焼き台の通気口から風が入り、煙が煙突に吸い込まれていく。換気も完璧だ。鍛冶職人の仕事は、いつだって正確だった。煙突の吸い込みが良くて、厨房に煙がこもらない。屋台では風向き次第で煙を浴びていたから、この差は大きい。

 肉の表面が茶色く色づいて、脂がぷつぷつと泡立っている。もう少し——角の部分が少し焼けすぎているから、位置をずらす。焼き台が広いから、こういう調整ができる。七輪では無理だった。


 焼き上がった串を皿に盛って、テーブルに出す。蒼酒を杯に注ぐ。蒼みがかった透明な液体が、白いテーブルクロスの上で揺れた。糸職人の言った通り、蒼酒の色とテーブルクロスの縁取りが合っていた。


 職人たちが串を手に取り、齧り、蒼酒を流し込んだ。


「旨い」

「当たり前だ」


 石工の兄弟が笑った。糸職人の女が蒼酒を一口飲んで「テーブルクロスに脂を落とさないでよ」と革職人を小突いた。荷運びの親方が串を三本おかわりした。鍛冶職人は黙って食べていた。いつもと同じだ。


 汗を拭きながら串を焼き続けた。焼きたての串から肉汁が滴り、職人たちの指を伝って皿に落ちる。蒼酒の蒼みがかった液体が杯の中で揺れる。夕方の光が窓から差し込んで、白い壁と蒼いテーブルクロスを染めた。


 飾りのない、労働の後の一杯と一串。旨い以外の言葉はいらない。


 日が暮れた頃、革職人が立ち上がった。


「できた」


 革職人が広げたのは、装甲猪の鞣し革で作った暖簾だった。革の表面に、焼き印で文字が刻んである。焼き印の跡が深く、しっかりと革に食い込んでいた。


「ニナの台所」


 四文字。力強い筆跡。革の端は丁寧に縫い合わせてあり、革紐で補強されていた。上部に通し棒を入れる穴が等間隔に開いている。


「……いいのか、こんな上等な革を」

「端材だ。どうせ余りもんだった」

「嘘つけ。この鞣しは一番革だろ。こんな均一な厚みの革は端材じゃ出ない」

「端材だって言ってるだろ。受け取れ」


 革職人が暖簾をあたしに押しつけた。重い。革の暖簾は、布の暖簾より重い。でもその重さが、ちゃんとここにあるという手応えになった。


 入口に立った。通し棒に暖簾を通して、壁の金具に掛ける。鍛冶職人が改装の初日に取り付けてくれた金具だ。


 暖簾が下がった。


 革の重みで、すとん、と落ち着いた。風が吹くと、少しだけ揺れる。「ニナの台所」の文字が、路地に向かって読める。夕暮れの光の中で、焼き印の文字が影を落としていた。


 振り返ると、職人たちが並んでいた。串肉の串を手に持ったまま、みんな暖簾を見ていた。


「いい店だ」


 鍛冶職人が言った。


 言葉が出なかった。また、言葉が出なかった。この前は布袋の銅貨と銀貨に言葉を失い、今度は暖簾に言葉を失った。情けない。店主が泣いてどうする。


「別に。普通の暖簾だ」


 声が震えていたのは、煙のせいにしておく。焼き台の煙が目に沁みたのだ。煙突がちゃんと吸い込んでいるから、本当はこもっていないのだが。


 職人たちが帰った後、一人で店の中を見回した。蒼酒の空瓶を片付け、串の皿を洗い、テーブルクロスを整える。焼き台の炭を落として、灰を掃き出す。


 壁の白い漆喰。鉄の調理台。蒼いテーブルクロス。隅に据えた魔石冷蔵箱。天井の鉤に吊るした鍋。壁の釘に掛けた包丁。そして入口に掛かった革の暖簾。


 ここが、あたしの店だ。


 路地裏の七輪と折りたたみ台から始まった。銅貨十二枚の赤字から始まった。雨に降られて、客が来なくて、金の条件を突きつけられて、それでも——ここまで来た。一人じゃない。職人たちの手が、ここにある。鍛冶職人の焼き台と調理台。革職人の暖簾。糸職人のテーブルクロス。石工の壁。荷運びの腕力。みんなの手が、この店を作った。


 暖簾に手を触れた。革の感触。焼き印の凹凸。「ニナの台所」。


 明後日、ここを開ける。


 仕込みの段取りを頭の中で組み立てながら、提灯を消した。


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