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魔獣肉の解体職人、首都の路地裏屋台で棘背蜥蜴《とげせとかげ》の白身を焼く  作者: 蒼月よる


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第1話 血抜きは三度

 大市場の朝は、血の匂いから始まる。

 魔獣肉の解体場。石の床に赤黒い水が流れ、天井の魔石灯が白い光を落とす。装甲猪が六頭、鉤に吊るされて並んでいた。外殻を剥がされた猪の体は、筋肉の赤と脂の白が交互に層を成していて、包丁を入れる角度が一目でわかる。この脂の入り方なら、縁層の若い個体だ。繊維が柔らかくて、すね肉でも煮れば崩れる。

 隣の鉤にぶら下がっているのは中層の個体だ。縁のものと比べると脂身が薄い。その代わり赤身の色が深くて、繊維の一本一本が太い。噛み応えがあるが、旨味も強い。この二頭を並べて見れば、生息域の違いが肉質にどう出るかが一目瞭然だ。こういうことを、五年かけて覚えた。

 五年。毎朝この匂いを嗅いで、この床を踏んで、この光の下で包丁を握ってきた。十二歳で下働きに入り、十七で正式な解体助手になった。水汲みから始めて、骨の処分、内臓の仕分け、皮剥ぎ。全部やった。親方が認めてくれて包丁を持たせてもらえたのが十八のとき。最初に任されたのが装甲猪の前足の解体で、緊張で手が震えた。でも、包丁を入れた瞬間に震えは止まった。刃先が繊維に沿って滑り込む感触が、気持ちよかった。この仕事は自分に向いている、と思った。


 だから、親方が引退を告げたとき、次は自分の番だと思った。

 思っていた。


「ニナ。お前には世話になった」


 親方の声は低くて穏やかだった。いつもと同じ声。でも、その後に続いた言葉は、いつもとは違った。


「後はハインに任せる」


 ハイン。親方の甥だ。去年から解体場に入ってきた男で、体は大きいが手つきが雑だ。血抜きの二度目で手を止める。繊維の間に残った血は無視する。あたしが何度注意しても「このくらいで十分だろう」と笑う。十分じゃない。十分なわけがない。

 あたしは親方の顔を見た。五年間、この人の背中を見て技を盗んできた。血抜きは三度。一度目で表層、二度目で深層、三度目で繊維の間。それがこの解体場の鉄則で、親方が叩き込んでくれた基本だ。


「親方。あたしの腕が足りないってことですか」

「腕の話じゃない」


 親方は目を逸らした。


「女に大市場は任せられない。そういう場所なんだ、ここは」


 五年間の修行が、その一言で片付けられた。

 腕じゃない。腕の話じゃないと言われたら、あたしにはもう何も言えない。包丁の握り方も、血抜きの回数も、繊維を読む目も、全部関係ないということだ。

 あたしは前掛けの紐を解いた。二重に結んでいた紐を、ゆっくりほどく。この前掛けも、親方がくれたものだった。


「荷物、今日中にまとめます」

「……すまんな」


 親方の謝罪を背中で聞いた。振り返らなかった。振り返ったら、たぶん泣く。泣いたら負けだ。

 解体場の出口は狭い。石の柱に肩がぶつかった。何百回も通った出口なのに、今日だけ狭く感じる。出口の脇に、使い古した包丁が二本刺さった木の台がある。あたしの包丁だ。親方が「持って行け」と言わなかったが、言わなくても持って行く。これだけは、あたしのものだ。五年間、毎日研いで、毎日握って、あたしの手に馴染んだ刃だ。

 柄を握ると、掌にぴったり収まった。こっちの包丁は骨を断つ用の厚刃。もう一本は、繊維に沿って薄く切る用の薄刃。この二本があれば、大抵の魔獣肉はさばける。


 解体場を出ると、大市場の喧騒が耳に飛び込んできた。

 首都レフカの大市場。白い石灰岩の柱が並ぶ屋根付きの巨大な空間に、肉・魚・果物・香辛料の区画が迷路のように入り組んでいる。天井の魔石灯が薄暗い通路を照らし、売り子の声と客の怒鳴り声と荷車の車輪の音が混ざり合って、一つの大きなうねりになっている。この空気を五年間、毎日吸ってきた。

 手元に残ったのは、貯金と、包丁が二本。それと、五年分の技術。


 大市場の端に、端材を扱う店がある。すね肉、頬肉、尾の根元、骨周りの半端な切れ落とし。正規の肉屋には並ばない部位ばかりだ。安い。銅貨五枚もあれば、両手に抱えるほど買える。

 あたしは装甲猪のすね肉と頬肉を選んだ。すね肉は筋が多いが、繊維に沿って包丁を入れれば食べやすくなる。頬肉は脂の入りがいい。端材の中では当たりの部位だ。指先で押してみる。弾力がある。血抜きが甘い。表層に血が残っている感触——指先がわずかに熱を持つ。ナノマシン濃度がまだ高い。

 このまま焼いたら臭くて食えない。でも、ちゃんと処理すれば化ける。


 旧市街の路地裏。白い石灰岩の壁に挟まれた細い道を歩いて、日当たりの悪い角に空いた場所を見つけた。道具屋で七輪を借り、炭を買い、水桶を二つ用意する。これだけで銅貨が八枚飛んだ。残りの貯金を考えると胃が痛くなるが、今はそれどころじゃない。

 石畳の上に七輪を据えて、まず水桶に塩水を張る。ここからが仕事だ。


 血抜きは三度。


 一度目。すね肉を塩水に沈め、手のひらで圧をかけながら表層の血液を押し出す。肉の表面から赤黒い液が滲み出てくる。水が濁る。これが表層の血だ。装甲猪の表層血は粘度が高くて、ただ水に漬けただけでは抜けない。手で圧をかけて、繊維の隙間から絞り出してやる必要がある。指先に伝わる感触を確かめながら、力加減を調整する。強すぎると繊維が潰れる。弱すぎると血が残る。

 五年間、何千回とやった動作だ。


 二度目。新しい塩水に替えて、今度は深層の毛細血管に残った血を抜く。肉を薄く開いて、内側に塩を擦り込む。毛細血管の壁を塩の浸透圧で破って、中の血を引き出す。これをやらないと、焼いたときに鉄臭い嫌な味が残る。指先で肉の内側をなぞると、まだかすかに温かい箇所がある。そこにナノマシンを含んだ血が残っている。丁寧に塩を擦り込んで、二つ目の水桶で洗い流す。


 三度目。ここが一番大事だ。繊維の間に染み込んだナノマシン含有液を塩水で引き出す。肉を繊維に沿って薄く裂き、一本一本の繊維束を塩水に晒す。繊維の間に残った液は、普通の血抜きでは取れない。だから三度目が要る。ここを手抜きするやつの肉は食えたもんじゃない。

 三度の血抜きを終えた肉は、色が変わる。赤黒かった装甲猪の端材が、淡い桃色になる。指先で押すと、さっきまであった不快な熱が消えている。ナノマシン濃度が安全域まで下がった証拠だ。


 七輪に炭を並べ、火を起こす。装甲片の網を載せて、肉を並べた。

 すね肉は繊維に沿って細く切り分ける。頬肉は厚めに。粗塩を指三本でつまんで、ぱらりと振る。それだけでいい。端材でも、血抜きがちゃんとしていれば、素材の味だけで旨い。

 脂が炭に落ちて、じゅう、と音がした。白い煙が立ち上り、路地裏に香ばしい匂いが広がる。装甲猪の脂は融点が低くて、火を入れるとすぐに溶け出す。溶けた脂が肉の表面をコーティングして、外は香ばしく、中はしっとり仕上がる。

 すね肉を一切れ、齧ってみた。

 歯応えがある。噛むと繊維がほどけて、脂の甘みが舌に広がる。臭みはゼロ。端材とは思えない。我ながら悪くない。

 悪くない、じゃない。旨い。ちゃんと旨い。

 頬肉も食べてみる。こっちは脂が多い分、口の中でとろける感触がある。噛むと脂の甘みがじわっと広がって、粗塩の塩気がそれを引き締める。頬肉は大市場では端材扱いだが、実は一番脂の質がいい部位だ。装甲猪の頬は咀嚼に使う筋肉の塊で、よく動く部位には良質な脂が入る。サシが細かくて、加熱すると肉全体に脂が行き渡る。これを知らないで捨てるやつがいるから、安く手に入る。ありがたい話だ。


 匂いだ。匂いに釣られて、人が来た。

 荷運びの人足だった。大市場と港の間を荷車で往復している連中で、日に焼けた腕が太い。三人組のうちの一人が、鼻をひくつかせながら路地裏を覗き込んだ。


「姉ちゃん、何焼いてんだ」

「装甲猪の端材」

「端材? すね肉か。そんなもん旨いのか」


 旨いに決まってる。血抜きを三度やれば、すね肉だって立派な飯になる。すね肉の繊維は確かに硬いが、繊維の方向に沿って切れば歯触りが良くなるし、何より筋の周りに旨味が凝縮している。大市場じゃ端材扱いだが、それは下処理が面倒だからであって、味が劣るからじゃない——。


「……あー、長い。で、いくらだ」


 しまった。また語りすぎた。

 値段。値段か。考えてなかった。装甲猪の正肉が大市場で銅貨三枚。端材は五分の一だから、原価で考えると——いや、炭代と塩代と七輪の貸し賃を入れると——。


「銅貨二枚」


 適当に言った。高いのか安いのかもわからない。

 人足は懐から銅貨を出して、すね肉の塩焼きを受け取った。齧る。黙って咀嚼する。二口目。三口目。


「……旨いな、これ」

「別に、普通にやっただけだ」


 顔が熱くなったので、七輪に目を落とした。頬肉をひっくり返す。脂がじゅう、と弾けて、また白い煙が上がった。


「姉ちゃん、頬肉もくれよ」

「ああ」


 頬肉を切り分けて渡す。人足が齧ると、脂がじゅわりと溢れたらしく、目を丸くした。


「おい、こっちの方が旨いぞ」

「頬肉は脂の質がいいからな。装甲猪の頬は咀嚼筋だから、よく動く分だけ繊維の間に良い脂が——」

「またか。仲間にも買ってくわ」


 人足が坂を駆け上がって、仲間を二人連れてきた。二人とも同じような日焼けした顔をしていて、同じように鼻をひくつかせていた。匂いの力は偉大だ。理屈は伝わらなくても、匂いは伝わる。

 三人の人足が、それぞれ二切れずつ買っていった。銅貨十二枚。


 午後になって、客はぱったり途絶えた。旧市街の路地裏は人通りが少ない。当たり前だ。大通りに面していない場所で屋台を出したって、誰も気づかない。匂いが届く範囲にたまたま人がいなければ、それまでだ。

 路地の先に目をやる。白い石灰岩の壁が両側にそびえて、上を見上げると赤褐色の瓦屋根の隙間から空が細く見える。レフカは斜面に広がる街だから、路地裏にも坂がある。この坂を上がれば大市場の方角で、下れば港の方へ続く。上からも下からも、人は来ない。場所が悪すぎるんだ。

 それでも、焼いた。残った肉も全部焼いた。売れ残りは自分で食べる。腹が減っていたし、味の確認もしたかった。冷めた状態で食べてみると、脂が固まって食感が変わる。冷めても旨い焼き方を考えないといけないかもしれない。持ち帰りの客がいたら、冷めた状態で食べることになる。

 こういうことを考え始めると止まらない。あたしの頭は肉のことしか考えられないようにできているらしい。経営のことを考えろ。値段のことを考えろ。場所のことを考えろ。わかっている。わかっているが、頭が勝手に「冷めた装甲猪の脂身の融点は何度だ」とか考え始める。病気かもしれない。

 残った肉を片付けながら、帳尻を合わせてみる。


 仕入れ——装甲猪の端材、銅貨五枚。

 炭、銅貨二枚。

 塩、銅貨一枚。

 七輪の貸し賃、銅貨三枚。

 水、銅貨一枚。

 合計、銅貨十二枚。


 売上——銅貨十二枚。


 とんとん、じゃない。残った肉の分だけ赤字だ。自分で食べた分も入れたら完全にマイナス。経営がどうとか言う以前の問題だった。大市場で五年間、包丁を握ることしか考えてこなかったツケが回ってきた。値段のつけ方すらわからない。

 七輪の火を落として、炭を水に沈める。じゅっ、と音がして蒸気が上がった。


 夕暮れの路地裏。白い石灰岩の壁が茜色に染まって、赤褐色の瓦屋根の影が伸びている。レフカの旧市街は坂が多くて、この路地も緩い傾斜がある。坂の上の方から、大市場の喧騒がかすかに聞こえてくる。もう、あそこに戻る場所はない。

 片付けを終えて、道具を道具屋に返しに行こうとしたとき。


「おい、姉ちゃん」


 さっきの人足だった。三人組のうちの一人が、坂の上から降りてきた。


「明日もやるのか」


 一瞬、答えに詰まった。赤字だ。場所も悪い。道具も借り物。何一つ揃っていない。大市場にいた頃は、親方の下で言われた仕事をすればよかった。仕入れも値付けも客寄せも、全部誰かがやってくれた。今は全部、自分でやらなきゃいけない。できないことの方が多い。

 でも。

 あの人足が、旨いと言った。普通にやっただけの塩焼きを、旨いと言った。端材の、すね肉の、血抜き三度の塩焼き。あたしが大市場で五年かけて覚えた技術の、一番基本のところ。それが旨いと言ってもらえた。

 親方は「腕の話じゃない」と言った。でも、この人足は腕の結果を食べて、旨いと言った。腕の話をしてくれた。

 それだけで十分じゃないか。


「……やる」


 自分でも驚くほど、迷いのない声だった。

 人足がにやりと笑って、「じゃあ明日も寄るわ」と言い残して坂を上がっていった。背中が夕陽に照らされて、赤く光った。

 あたしは路地裏に一人残って、空になった水桶を片付けた。手は赤い。装甲猪の血と塩水で、指先がひりひりする。明日もこの手で肉を触る。明日も血を抜いて、塩を振って、焼く。それだけだ。それだけのことを、明日もやる。


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