第三十九章 均衡の破綻
会った後にやるべきことは、決まっている。
距離の再計算。誤差の確認。余計な線の切断。
鷹宮は車を走らせながら、立ち飲み屋での数秒を反芻していた。女の目は、殴られた人間のそれだ。恐怖より先に、怒りが立つ。逃げない。引かない。質問をする。
――厄介だ。
事務所に戻ると、報告が揃っていた。
女は尾行に気づいていない。連絡先の追加なし。三宅からの再接触なし。だが、動線は明確に変わった。市役所、港運会社、労災関連の窓口。紙ではなく、人に触れ始めている。
「早いな」
鷹宮は呟いた。
泳がせるつもりだった。だが、彼女は泳ぎが上手すぎる。沈まない代わりに、周囲の水を濁す。
桐島から呼び出しが入った。
場所は、市内の古い料亭。表からは見えない奥座敷。音が漏れない造りだ。
「会ったそうだな」
桐島は前置きなく言った。
「偶然を装いました」
「装えていない」
茶を置く音が、やけに大きく響く。
「女は勘がいい。勘のいい人間は、均衡を壊す」
桐島はそう言った。
「壊れるのは、工程ですか」
「名前だ」
鷹宮は、わずかに目を伏せた。
自分の名前。ノートにあった名前。まだ口に出されていない名前。
「消せ」
桐島の声は低い。
「今なら事故で済む」
沈黙が落ちた。
消す。工程としては正しい。遅れれば遅れるほど、血は増える。
だが、鷹宮は答えなかった。
「理由は?」
桐島が聞く。
「彼女は、まだ構造しか見ていない」
「だから危険だ」
「いいえ。危険なのは、名前を見た時です」
桐島は、しばらく鷹宮を見つめた。
「情か」
「判断です」
即答だった。
「消せば、次が来る。同じタイプが」
告発者は個体ではない。役割だ。消せば、別の誰かが座る。
「止めるなら、見せるしかない」
「何を」
「限界を」
桐島は、鼻で笑った。
「お前が壊れるぞ」
「承知しています」
それは覚悟ではなく、計算だ。
会合はそれ以上、進まなかった。許可も、拒否も出ない。桐島は、判断を鷹宮に預けた。
夜、鷹宮は港に戻った。第三埠頭。風が強い。
均衡は、すでに歪んでいる。
あとは、どこで壊すかだ。
彼は携帯を取り出し、一件の番号を表示させた。
女のものだ。
通話ボタンを押す前に、指が止まる。
――次は、偶然ではない。
それだけは、確かだった。




